第14話 地の文からにじみ出てくる作風。

 地の文は、ですます調や、だ、だった、である調、体言止め、だったろうか?などの問いかけ口調など、様々なものがあります。

 学生の時には、ですます調で書くことを強制された人も、今ではだ、だった、である調になっている、などということは頻繁に起こりえるでしょう。

 心情描写を抜きに、単に風景描写にしても、そういったことが起きます。


 今日は雨です。

 今日は雨か。

 今日は雨だ。

 今日は雨だった。

 今日は雨である。

 今日は雨であった。

 今日は雨。(体言止め)

 おお、今日という日が雨以外に見えようか?


 などなど、表現手法は非常に多岐に渡ります。もしこれらの中から、その都度にベストなものを選択できるというのなら、おめでとう、あなたは今日から小説家です。

 でも、実際はどの表現にするか迷うことがしばしばあります。そういう選択の繰り返しが、そして句読点のリズム感が、いわゆる作風と呼ばれるものとなってゆくわけです。


 再読してみれば、上の文では「小説家です」と、ですます調を採用していることが分かります。しかし、本人が気付かないうちにこれらが決定されているとすれば、それは少々危険なことでもあります。なぜなら、小説の中で作風が一貫していないと、読者はひどく面食らい、それきり読むのをやめてしまうからです。


 小説を書くにあたっては、自分がどの文体を選択しているのか注意深く振り返り、音読してつかえるようなことが無いようにリズミカルな句読点を心がける必要があるでしょう。自分の作風を客観的にとらえられるようになれば、作風をその一歩先に進めることもできます。


 かのベートーヴェン最後の弦楽四重奏曲の楽譜には「かくあるべきか?」「かくあるべし!」(※)との意味深な言葉が書かれていたそうです。疑問と肯定。文字にしてみればささいなやりとりではありますが、ベートーヴェンの晩年の悟りの境地を示している言葉とも言われています。

 へへえ。自分はどのような作風でも書けますよって、どうぞお好きなようにお申し付けください。というのは小説家として別段褒められるべき姿勢ではありません。自分が得意とする作風で、「かくあるべし!」と強く断言できる作品を作り出すことが、小説家には求められているのではないでしょうか。


 ごくたまにですが、作品ではなく、作風を好きになってくれる読者がいます。このような読者は、作者にとって本当にありがたいものです。自分のどんな作品でも読んでくれて、どれどれが一番好きだ、などと語り合ったりできる読者は、とても貴重な存在です。作者としては、作品を磨くのと並行して、作風というものも磨いていきたいものです。


※「Muss es sein?」「Es muss sein!」

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