ある夜のできごと

「見つけた……しばらく見ないと思ったら修行でもしていたようね」

 マユミ、そしてユシトたちが大きな水晶球の中に写っていた。黒い影が球体に差し込む。

「明日にでもここへ繰り出す。あたしの目を奪った恨み、今こそ!」

「サラ」

 片目の、残った片目が黄銅に光る幻影魔法使い、サラの右わきに、彼女が溺愛する精霊が……幻影の精霊、リュート=リラ=リーオードが現れた。

「殺す、気なの?」

「もちろん。ついでに風の精霊シルフからも取り戻すわ」

 その後無言でサラとリュートが抱き合おうとした時、彼女たちのいる部屋に無骨な足音が踏み込んできた。

「おい、サタンが呼んでる」

「で、デイスト! ノックぐらいしなさいよ?!」

 焦るサラたちを横目に、その騎士の姿をした青年は、空いたままのドアを、三度叩いた。


『ガシ、ガシ、ガシ』

「ふっ、後でもできるだろうが。サタンの方がご機嫌斜めだから、早く来いよ」

「わかってるわよ!」

 大きな足音が去っていった。サラは軽くリュートに口づけてから、部屋を出た。



 魔界は「不安定な空間」に存在しているため、地球のような一方向への重力もないし、「空」と呼べうる層も、太陽も、厳密に言えば「ない」。精霊や地霊(自然物にすむもの)が、適当に自らの能力で遊んで--動植物を育てられる環境を創り出して、いるのだ。

 魔界にすむ者のほとんどは、生活上重力が有る方が楽だと考えていて、住み地毎、地霊に一定重力をかけてもらっている。

 だから、この地霊たちのいたずらで、魔界人がいきなり転んだり、天候が変化したり、影の数が増えたりすることも、珍しくないのだ。


 サラがサタン城で一番広い、二階の回廊に出て、進むべきサタンの部屋がある左の方に黄銅の片目を向けた時、はでな音とともに、深緑のかたまり--デイストのマント--が倒れた。

『ドシッ、』

「?!」

いってえ……」

 彼の周りから、くすくすと笑う声が聞こえる。地霊たちが、一度に多方向に重力をかける「いたずら」をやらかしたらしい。恰好の標的にされた『魔王第一使』デイストは、打ちつけた鼻の頭を押さえながら立ち戻した。

「相変わらず、ドジね」

「おまえよりデリケートだからな、身体は」

 サラは、自分が一番気にしていることを刺されて、思い切り鉄底のハイヒールで彼の足を踏みつける。

「ぎゃっ、」

「うだうだ言ってるヒマがあったら、さっさと歩きなさいよ! まったく!!」

「……」

 口元をすぼめながら、デイストはマントを翻した。長い人型の影が揺れる。それに続くサラの影は、で、……人型ではなかった……。


魔王サタン! サラを連れてきたぞ!」

 彼は元々魔王の一族ではなかった。みなしのまま、ある魔法学校に世話になっていた時代に、剣の素質をサタンに見いだされ、引き取られたのだ。

 以来、魔界でも名うて、そして俗に言う魔剣騎士として、剣の腕はもちろん、ある程度の黒魔法、さらに今や「禁句いみじく」として一部しか使用できない『魔術』も少し会得して、サタンの右腕となっている。

 がしかし……幼子の感受性のままに、身体だけが大きくなったというか、今一つ学識がないことを、周りは苦慮していた。

 デイストの声がサタンの部屋(というよりは暗い石造りの大広間)に響ききったころ、周囲の温度がじわりと上がって、オレンジに近い赤の炎が中央でゆらめいた。炎の精霊、ファバーンである。

 彼女は現在、黒魔法の王でもあるサタンから、デイストに魔法力を与える勅命を受けているのだ。

「あら、久しぶり。この前は、どうも」

「お久しぶりぃ、サラさん。リュートは元気? ちゃあんと、相手してやってる?」

「ふふ、まあね」

 ファバーンは真っ赤な身体を揺らしてサラと笑い合う。精霊の方は、動作する度に火の粉を散らす。

「相手? リュートって、友達いないのか?」

「そういう意味じゃなくてぇ」

 デイストが途中で水を差したりして、会話をしばらく続けていたが、やがて、

「来たか」

 誰よりも重い声が響いた。重厚な足音が大きくなり、デイストの一半倍はあるだろうか、巨体を漆黒色のマントに包んだ魔王が登場する。

 本来の姿は若い者は知らない。ただ今は、人型--二本足で立ち回っている。また、右側の腕が二本あることは、魔王の特徴と決定しても間違いない。

 ただし、二本目の『』を実際に見た者はほとんどいない。それには魔界で最強と言われるほどの力が封印されていて、これが動いた瞬間、相手は確実に致命傷を負っているからだ。

「ホウ博士は呼んでないよ」

「構わん、後でワシが行く。--で、お前達を呼んだ理由だが」

 サタンは左腕をマントの隙間から出した。どこからか、黒い小鳥がひらひらと寄って来て、太い腕に留まる。

「最近、魔天王の様子がおかしい、と『密使』の報告が続いている。

これを好機と見て、大戦を仕掛ける」

「!!」

 その場にいた「三人」の表情が一気に緊張した。

「それ、二百二十年前にも言わなかった?」

「デイスト! あんた一言よけいよ!」

 サラは再び、場の緊張感を崩したデイストの足を踏んでから、サタンに向き直った。

「サタン、次の月が満ちる五十年程、待たれてはどうでしょうか? 魔王軍の戦力は、前回敗戦時より、さほど変わってません」

「確かに……強力な新力を仕入れたわけではないが。満月を待てば、魔天王側も同じことだ」


「開始は、百時間後だ……以上」

 数分のち、サタンは最後にそう言って、部屋を出ていった。魔王第三使のホウ=オウル=ヴォルトに、直接会いにゆくためだろう。

「百時間かあ。剣でも磨いてもらおっかな」

 デイストはのん気に構えている。サラは自分の部屋に戻りながら、心の中で、あの『決意』をしっかりと固めた。

 マユミに復讐し、シルフから眼を奪回することを。



 復讐リベンジの標的、魔導師の称号を得たマユミは、こんこんと眠り続けていた。常人のできるものではないで魔法使いの頂点に迫ったせいで、彼女の身体が悲鳴を上げていたのだ。

 ユシトとジンは彼女に気づかれないように、体力を回復させる魔法や魔術をほどこし、自然に瞳を開く時を待った。

 そして二日半後。爽やかな風が、木の窓枠をきしませて頬に触れている--ことに気づいて、……少女は澄んだ瞳に朝の明かりを、ともした。


「おはよう、ユシトさん、ジンさん」

「ああ、マユミおはよう」

「顔を洗っておいで。今日のサラダは格別にうまくできたよ」



 昼過ぎにはパンドラが小屋に訪れた。戸口でしばらくユシトと会話してから、中に招かれる。

「身体は大丈夫?」

「もちろん」

 笑顔を返すマユミに、ユシトは同じく目を細めながら話を続けた。

「パンドラからは今さっき、魔天王の許可が下りたと聴いたから……」

「?」

「魔界と他の世界の接点、『移動広場』の使用許可ですよ」

 他の世界……つまり、もしかして、とマユミが思いをめぐらせた通りに、言葉はユシトの口から生み出された。

「地球に戻るんだ、マユミ」

「えっ……」

 ジンが横から、埃の付いた厚い本を三人の輪の中に押し込んで開いた。そのページには、よく知っている「月」らしい絵が描かれていた。丸い、満月。

「魔界では『月』が満ちる日に洗礼を行い、能力ちからをひき伸ばす。地球では二十八日程度で満ちるが、ここは百年単位で待たないとならないんだ」

 懐から鎖付きの眼鏡を出しながら、ユシトが説明する。

「つまり……地球でその『洗礼』を行うんですね」

「そうだ」

 これにはジンが答えた。

「おまえは魔導師といってもまだ『生まれたて』。能力を伸ばし、最高級の呪文を使いこなせてこそ、真の魔導師だからな」

 マユミは喜びと期待を持って、しっかりうなづいた。


「よくお聞き、あんたが目指す最高の呪文とは……」

 ユシトは記憶を思い出すように言葉を紡いだ。


「はるか昔--魔界の王さえも子供だったころ--、病で没した美しい女の精霊『クイーン』がいた。彼女は『奇跡』を司っていた」

「……」

 マユミは真剣に耳を傾ける。きっと、自分が魔導師になっていなければ聴くことはなかっただろう。

「精霊の世界では特別に、彼女の後継者がいなくとも、奇跡の呪文を成立できる計らいをしてくれた。その代わり、多大なる力が唱える側に要求されるがね」

「はい……」

 改めて、自分があの時、『三人を救うために魔導師になりたい』と言ったことが、どれほど大それていたのかと気づいた。けれども、

「みんな--ありがとう。夢が叶いそうなチャンスをくれて、本当に、ありがとう」

 挑戦しなければ何も始まらないということを、この修行の間に、かけがえのないものとして得られたことを誇りに思った。



 その日の夕方、マユミはパンドラと小屋を出た。


 白っぽい空気がとりまく、他の世界との接点、移動広場。空の色も、土の色も、いつもいた場所より、淡く全体が輝いていた。ずっと前に、ここを通ってきた時を思い出す。


「がんばってね。それと、魔天王様には僕らがうまく言うし、心配しないで」

「ナーシャさんにも、よろしく伝えておいてね」

 二人は固く握手してから、それぞれの方向へ向かった。

 移動広場の中央に立ち、マユミが目を閉じて、身体が浮かぶ感覚を感じてから、再びそっと開けると--、

 そこは、『自分の部屋』だった。

 しばらくは驚きで動けなかった。やがて、部屋の目覚まし時計の音と、カーテンが夜なのに開いていることに気づき、それを閉めて電気を点けた。

 普段着に着替えてから、キッチンに向かった。父と食事をとるテーブルの上には、マユミによく似た筆跡で『プールに行って来ます。』と書かれたメモが載っていた。

 それは魔界に行く直前に、ナーシャがすると言った調だった。つまり、マユミが魔導師になるまで、地球ではわずか半日も経っていなかったことになる……。

 椅子に座って、しばらく彼女は、リビングの時計の音を聴いていた。



 よく……一日がいつまでも終わらなければいいのに、と思ったことがある。そんなささやかな願いが叶ったようで、嬉しかった。

 できることなら、三人に--この夏に出会った三人に言ったりして、その喜びを分かち合いたかった。

 マユミは跳ねるように立ち上がり、に向かった。


 この部屋も、(半日しか経っていないのだから、)全くあの時のままだった。よく皆で食事や会話をした居間に座る。とても、なつかしい。

 ほんの少しだけ、近くて遠くなったようなをかみしめてから、ユシトに言われた行動に移ることにした。ポストに突っ込まれたままだった夕刊を見ると、次の満月は明後日だと記されていた。

(今日は、お父さんのために、とびっきりおいしいものを作ろう。びっくりするかな?)

 マユミのが、再び、わずかの間ではあるが、動き出した。




「ここで足跡がとぎれてる」

 移動広場に、人影が現れた。ハイヒールの女性……サラだ。

 手には灰色の粉がついた革袋を持っていた。どうやらこれで、マユミの足取りを追っていたらしい。

「使いが魔天王に告げるまで、入り口は開いている……別世界なんて、今まで行ったことなんかないけど……、あたしの身体なら多少悪環境でも耐えられるはずね」

「サラ、本当に行くの?」

 いつしか真横にリュートが実体化していた。

「大丈夫よ、元々あいつは地球とかいう世界の無力な少女、ひねり潰して来るわ」

 サラは決意を口にして、リュートと軽くキスしてから広場の中央に飛び込んだ。

 マユミに復讐すること、それだけを思って目を閉じて、身体が動くのを感じてから目を開けると……、日光が遮られた壁と壁の間に立っていた。

「?」

 ビルの谷間だった。といっても、サラには簡単には理解できなかったが。猫が足もとを通りすぎて行った。

「ここがあいつのふるさと--、か?」

 明るい方、通りを覗くと、幾人か人が渡り歩いている。そのうち一人の、髪の長い女の姿を覚えて、呪文でそれと同じ格好に化けた。

(これで行動すれば、あやしまれないだろう)

 自分も通りに出て、人の流れに乗った。



『カンカンカンカン……』



 初めて聴く、鉄を打つような音が気になって、そこへ足を向けた。

『ゴトン、ゴトン……』

 駅前の踏切だった。向こう側には商店街が続いている。店が建ち並ぶ状態は、魔界でも見かけるからなんとなくわかったが、目の前を長い棒で遮られ、人や鉄の箱がその前で待ち、間を大きな鉄の塊がゴトゴトといって動く光景は、しばらく目的を忘れて、見入ってしまった。

(あれで移動するのか……?)

 踏切が鳴って、電車が通るのを、そこで興味深く見ていた。


 幾度目か、遮断機が下りようとする時、車輪が付いた、赤い鉄の骨のようなものに乗ってこちらへ向かってくる少女に気づいた。彼女は、警報が鳴っているので、そこで『自転車』から降りて、電車を待つ。

「--あれは、」

 買い物帰りだろう、カゴいっぱいに食材などを詰めた自転車と立つ『マユミ』を、視界にとらえた。一気に緊張感が高まる。

『カンカンカンカン……』

『ガタン、ガタン、ガタン……』


 再び遮断棒が上昇し、双方で待っていた人や車が動き出した。そのままサラも歩き出す。


 ふたりが、すれ違う。


 サラは振り返り、マユミの後を追った。背の方で、また踏切が鳴り出す。

『カンカンカンカン……』



 マユミが地球に戻ってきた次の日の夕方である。買い物を終えて、アパートに帰ってきた彼女は、すぐに夕食の支度を始めた。

 数分後に、サラが(わずかに呪文で浮き上がって)足音を消しながら、ドアの前に立った。左右に注意を配り、誰もいないことを確かめてから、ドアに手を置いて、移動の呪文を唱えた。

 自分の姿は再びドアの向こう、マユミの家の中で実体化した。

 戸棚らしきものの上に飾られていた、大きな黄色い花には、目をひかれた。靴が置いてある所より一段上に足を乗せると、自分の体重もあってか、みしりと床が鳴ったので、もうしばらく浮遊の呪文の効果を持続させることにした。

 壁の向こうではマユミが歩き回っているのだろう、かすかに足音が聞こえる。その部屋を覗くと、彼女は後ろ向きになにか作業をしているようだった。後ろのテーブルにはさっき見た食材があったので、食事を作っているのだろう、と解釈した。

 一度静かに深呼吸してから、小さな黄銅色の懐中時計を宙に浮かせた。

『ジャッ、』

 この鎖は特別製で、人間で言えば、大人の足の太さまでの木なら、絞め折ることもできるほど強力であった。憎しみを込めて後ろから襲えば、彼女とて年端の行かない少女、簡単に締め上げることができる。

 マユミは鼻歌を口ずさみながら、トントンと刃物を操り、食材を刻んでいる。念のために、懐から短刀を出しておいた。首も絞めるが、……目も狙うつもりで。

 ゆっくり近づき……、短刀を持ち上げる。その刃先に、片目をなくした自分の本当の姿が映った。

(今までの苦しみ……その命を持って代えさせてもらう!)

 鋭い刃が音もなくマユミに落ちる……!


 一瞬、マユミの方が早く動きを止めたので、

(気づかれた?!)

サラは手を止めた。

 沈黙が流れる。夕暮れ時の蝉の声だけが、二人の間を通る。

「……」

「……、」

 マユミは少しも動かない。まるで死んだように動かない。石のように動かない。

(気づいているのなら、なぜ振り向かない? なぜ……?!)

 サラはもう一度振りかぶったが、手は下ろせなかった。マユミは背を向けたままだ。右、左……どちらを向いても、遮る仕掛けも呪文の効果も見あたらない。

 サラの方は困惑していた。いつしか手が震え、短刀も揺れ始めた。冷や汗が一つ、二つ、浮き出て流れていった。

『トン』


「!!」

『トン、トン、トン……』

 なんとマユミは、再び包丁をリズミカルに叩き始めた!


「な……」

 何とも言えぬ思いがサラの身体の中を突き抜けた。それは押さえきれずに、口からこぼれる。

「おまえ……あたしがここにいること、知っててどうして何もしない!

 背中に、眼に、これを突き立てようとしてるのよ?!」

「……」

『トントン、トントン』

「マユミっ!!」


「サラ」

 包丁の音が止まった。後ろは向かず--『サラ』と確かに名前を言った。

「あなたに、私は、殺せない」

「-------!」

 サラは突然そんなことを告げられて、自分が何をすればよいのか迷った。今までの憎しみよりも、マユミへの不思議さ、そしてが半ば失敗したという恥ずかしさが大きくのしかかる。

「くっ、どうしてこんな娘にっ! 悔しいっ!!」

 マユミは初めて振り向いた。それは、サラが刃先を自分に向けようとしていたからだ。サラの手をつかんで短刀を落とそうとしたが、はずみで何度かマユミの腕にそれは当たり、血が流れた。

「自分で死ぬなんて、愚かなことを考えないで!」

「おまえに何がわかる?! この眼を取られた悔しさ、それに今味わっている屈辱!」

 サラは右目だけから涙をこぼしていた。

「私を殺せば、勝手にその左目が戻ってくるの?! あなたの眼は、シルフのウインド・スピアで失われた! シルフに頼まなければいけないのよ」

 マユミは痛いとももらさずに、声を上げた。

「私だって、あなたを傷つけてしまったことは悪いと思っているわ! いつかシルフに頼んで、瞳を返してもらおうと思ってた! でも、

 やられたからやり返す、殺されたから殺すって、そんなやり方、ただ繰り返してるだけで、いつまでも、何も得られないじゃない!」

「だったらどうすればいい?!」

 サラの声は半分泣き叫びにも聞こえた。

「取り戻すのよ、自分の手で! 自信を持って!」

 肩をつかんで、自分がそう行動してきたんだと、マユミはサラに言った。

「自分の大切なものは、人を傷つけたって手に入らないよ!

 あなたの瞳だって、何にも汚されず、あなたの手に戻ることを待ってるはずよ!」


「……わからない……」

 短刀が手からやっと離れた。サラは床に座りこむ。

 すぐマユミは刃物を片づけて、自分とサラの傷の手当をした。

「いますぐ左目の結晶が手に入ったとしても……、復活させるためには満月を待たなくてはならない……。魔界ではあと五十年かかる……。自暴自棄になるのも仕方のないこと……」

「満月?!」

 救急箱を片手に、マユミは驚く。

「それなら心配ないわ! 明日、ここは満月なの! 魔導師の洗礼の後、シルフを呼んで、あなたの瞳を返してもらいましょう!」

「……ほんと、に?」

 サラはまだ迷っていた。仮にも、ユシトが魔天王の側につく魔導師である限り、その弟子のマユミも自分たち、つまり魔王側にとって敵であったからだ。敵からのほどこしを受けることに、魔界で噂されたりしないかと、想像してもいた。

「……」

「心配しないで。私は手伝うだけだから。『自分の手』で、取り戻そう」

 マユミに手を握られて、顔を上げた。サラはこの時初めて、まっすぐに彼女の瞳を見つめることができた。恥ずかしさや後ろめたさも、何も考えずに、自然に。

 笑顔を見せる少女の澄んだ瞳が、少し羨ましく感じられた。



『満月』。

 百年単位でしか魔界に訪れないその日は、特別な呪術(魔法、妖術、魔術すべて)がとくに叶いやすいと言い伝えられ続けている。魔法使い達は自分の力を高めるためにこの日を待っているし、異形の魔物達はこの日の光に傷ついた身体をてらしいやそうとするのだ。

 地球の『満月』は二十八日に一度訪れる。もしかしたら、あの魔神すら、それを理由に理想の地としていたのではないだろうか。--マユミはもう一度夕刊を確認した。買っておいた三メートル四方の布を、ハヤテたちがいたあの部屋に広げた。さすがに床にそのまま聖水をまいてはいけないので。

 もうすぐ、サラが再びここへ戻ってくる。今度は、自分自身で、自分の失った目を取り戻すために。--たそがれ時の空には、生まれたばかりの月が街の中から大きなりんかくをあらわしていた。


 サラは魔界で使っている月の地図を持って戻ってきた。ここでも通用するかどうか、とつぶやいていたが、二度三度マユミが組み立てた祭壇の位置を確認すると、月が見える窓の側にそれを置いた。声は緊張していたが、動作はうれしそうにも見えた。

「あなたも魔導師たちに詳しく聞いていると思うけれど」

「はい。月が一番高く上るまでが魔術系の力、それ以降が魔法系の力に影響を与えるって」

「じゃあ、お先に」

 マユミが(ユシトの指示通りに)描いた魔法陣の中央にサラが裸足で立つ。いくつかの魔法石と聖水を数粒、手順をおっておいてゆく。布にそれらがふれる時、ポップコーンをまぜたような、パチンとはじける音がした。

「永劫の力を持ちし、月の神よ。私の願いを、叶えたまえ」

 ぶぅん、とうなるような音がきこえた。サラのまわりに、白い光がとりまき、それはサラの願う左目に集中する。サラはぴくりとも動かずに、その力にしたがおうとした。

「お願いします、私の願いを--左目、を--」

 マユミのそばを、風がすりぬけた。このさわやかなにおいは、シルフだ。

(シルフ!)

 満月の力で呼び込まれたらしいシルフは魔法陣の中に移動し、サラの前にすっと入った。サラは少しだけ右目を開く。

「私の、目を、かえして、ほしい」

 声色から、その白い光はかなりの圧力をもってサラにのしかかっていることがわかった。

「満月の儀式か……」

 今頃気づいたかのように、そして自分が呼び出された理由を確認するように、シルフは息をもらした。

「君は今まで、リュートと手を組んで、ユシト様のおっしゃるように、魔法使いの修行を怠りながら人々を出し抜いてきたよね」

「……」

「その人たちの傷に比べれば君の目ひとつ--」

 シルフの言葉ももっともだった。ウインド・スピアが--風の精霊シルフが関与しているため、サラの目は、シルフ自身がはっきり「返す」と宣言しなければ取り戻せない。しかし精霊は、当然とはいえ、これまでのサラの罪について言及する。

「シルフ、お願い! サラは、これから、これからなの! シルフにかえしてもらって見えるようになった新しい世界で、こんどこそ自分の夢を叶えたいって」

「マユミこれだけはいくら君が可愛くても、だめなんだ。本人に確かめたい」

 マユミはきらめく両目を見開いた。そう、これは、シルフとサラの問題で--(マユミが放った『風の矢』ではあるが)、これ以上口を出してはいけないと、もう一度姿勢を正して魔法陣のそばに座った。

「……」

 しばらくサラはシルフの髪の毛の頭から先までを二往復くらい見つめていたが、--やっと、汗ばんだ唇を開いた。

「あたし、リュートだけに頼るのをやめます。他の精霊ともまじめに契約し、魔法の勉強をやりなおす。そして、マユミにとっては残念かもしれないけど、あたしは魔界一番の魔導師をめざす--こんなあたしでも魔法使いになれたんですもの、こんなあたしでも!」

 部屋に置かれている物ものが、白い明かりにぼんやりと浮かび上がっていた。

「よろしい」

 シルフはまるで親か先生みたいに--うなづいて胸元から小袋を出した。つるつるした素材の布紐をほどき、ゆっくりとサラに、手を伸ばした。

 そして、シルフは魔法陣を退き、マユミの左後ろに立った。

 サラが渡されたものをそっと指開くと--、そこにはなつかしい黄銅色の石が結晶となって転がった。

「ありがとう……」

 瞬間、白い光が一面にはじけ、マユミもシルフも目をつぶるほどで--再び目をひらくと、もうそのせん光は無かった。祭壇のロウソクの明かりの方が目立った。黄銅色の光の線が見えた。サラは、ゆっくり、「両目」をひらいた。

「ああ……両目が、ある……」

「よかった、サラさん……」

 マユミはサラの影が異様に大きいことに気づいてはっとした。シルフはマユミが驚くのをサラに見られないように、すぐにマユミの手をつかんでささやいた。

(サラは、幻獣族の生まれなんだ。あの影がほんとうの姿。でも彼女は、本来の目的を忘れる前、幻獣族のなかではじめて、魔法使いになったという噂もあるんだ。その頃の夢を思い出してほしかったんだ)

(そう、だったの……)


 数分の沈黙が続いたが、時刻は次にマユミが魔法陣に入る時間にさしかかっていた。場所をサラと交替し、今度はマユミが静かに月の力を得るためにまじないをとなえはじめた。

「永劫の力を持ちし、月の神よ。私の願いを、叶えたまえ」

 サラと同様に、白いうずが帯となって、すぐにマユミを取り囲む。

「わたしに、ちからをください。魔導師になれるための--希望をください」

 りん、と鈴が鳴った--ような感覚がした。いや、鳴るものはこの部屋に置かなかったはずだから、これは自分の記憶を月の光がのだとわかった。それは次第に大きくなった。

 瞬間、身体が鉄のように重さをました。しっかり裸足の指で、ローブをまとった自分を支えた。背中で汗が流れた。これに比べれば、あの、「三人」の苦しみなんて--マユミはいつか潜った海を思った。隠者ハーミットが歩き、そして「三人」が閉じこめられている、鏡の精霊エヴィル=ミラの心の海を。


「わたしは、ぜったいに、あきらめないから」


 めまぐるしくこれまで見てきたものがなだれこんできた。あの時だと感じた次にはもう場面が変わって、それがぱたぱたと繰り返された。最後に見えたのは、はっきり「体験した」記憶ではない、金色の河が流れるシーンだった。これは、少し先の、未来--?




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