名前のない関係


 積み上げられた本の山。その中心で一人、本を読んでいる少女がいた。

「何してるの?」

 問いかけると彼女は顔を上げて、僕を見る。

「読んでる」

 それだけ答えて彼女はまた、本へと視線を戻した。僕はどうしようか迷って、彼女に近寄る。僕のことはもう目に入らないのか、彼女はただ、黙々と本を読んでいる。

 紙に並ぶ文字を目で追いかけ続けて、ページをめくる彼女を、僕はその場に座って観察することにした。とは言っても先ほどから彼女は本を読み続けているし、僕のことなんかもう、頭には入っていないだろう。

 どうして、おじいちゃんは僕をここに連れてきたんだろう。別に僕は本なんて読まないのに。

 

 

 僕がここに来たのはおじいちゃんに友達がいないことを見抜かれたことが原因だった。僕は所謂人嫌いで、人と関わるくらいなら部屋でゲームでもした方がマシだ。そんな僕に友達ができるわけもなく、中学生になった。

 でも夏休み。久しぶりに僕の家にやってきたおじいちゃんは僕を見て一言。

「おめぇ、中学生で夏休みなのに、なーんで家で遊んでるんじゃ」

「暑いから外で遊びたくない」

「友達の誘いにも乗らないままでか? 友達なくすぞ」

 遊ぶ友達はいないし、と僕は言葉を飲み込んだけれど、言い返さない僕に何かを察したのか、おじいちゃんは眉を寄せて核心をついてきた。

「まさかぁ、友達がいないわけじゃなかろうな?」

 再び沈黙。仕方ないじゃないか、おじいちゃんに嘘ついてもすぐばれちゃうんだから。黙りこくった僕におじいちゃんはため息をついて僕の頭を撫でた。

「じゃあ、わしと一緒にある場所に行こうか。そこならここよりは動くし、冷房はないが涼しい。何よりお前さんのような奴にはぴったりの場所じゃ」

 そんなことを言われて僕はおじいちゃんに連れられ、歩いて十分くらいの距離。僕の家より大きい家に連れて行かれた。

 そこは大きな洋式の家。白い壁が太陽の光を反射して光って見える。思わず口をあけて見上げていた僕を、おじいちゃんは引きずるように引っ張って中に入った。

「おーい、千代さんやーいるかーい」

 玄関から奥へ届くような声でおじいちゃんが声を掛ける。遠くからはーい、と返事をする声が聞こえた。パタパタと階段を駆け下りる音。そして玄関にやってきたのは一人のおばあちゃんだった。

「あらあら、誰かと思えばゲンちゃん。そっちはお孫さん?」

「おお、千代さん。しばらく見ないうちにあんた随分老けたなぁ」

「失礼ね、ゲンちゃんこそ人のこと言えないじゃない。ところで何か用?ゲンちゃんがここに来るなんて久しぶりよねぇ」

 そのまま世間話にでも入るのかと思えば、千代さんと呼ばれたおばあちゃんはニコニコと笑って用件を問いかけてきた。僕はおじいちゃんを見上げる。少し苦笑いをしたおじいちゃんは僕の背中を叩いた。

「千代さん、あんたにそっくりの孫がいただろう? その子をこいつに会わせてやってくれないか」

「それくらいならいいけど……もしかして、この子も? 血は争えないねぇ」

 何の話だろう、と僕は思ったけれど、おじいちゃんは笑うだけだ。千代さんはやっぱりニコニコ笑いながら

「あの子なら今、書庫にいるわ。ほんとに幼いころの私にそっくりで、びっくりするくらい集中力があるのよ。きっと、仲良くなれるわ」

 と、玄関から離れながら奥の部屋へと姿を消した。

 僕はどうすれば、と思いながらおじいちゃんを見ればすでに靴を脱いで上がりこんでいた。許可もなく上がってもいいのかな。そう考えているとおじいちゃんは僕の心でも読んだのか、早く上がれと急かしてきた。

「ここは顔見知りの家だから、許可なんぞ取らんでもええ」

 なら、いいのかな?

 僕はおじいちゃんの言うとおりにして靴を脱ぐ。おじいちゃんは奥に向かったおばあちゃんを追わずに、二階の階段を上り始めた。

 いいの? と僕は声を掛けたけれど、おじいちゃんは何も言わないまま階段を上る。僕は奥の部屋と二階に向かうおじいちゃんを交互に見て、結局おじいちゃんの後を追うことにした。

 おじいちゃんは階段を上って一番奥にあった部屋のドアの前に立った。こんこんとドアをノックするけれど中から返事はない。僕は誰もいないのかなと思っておじいちゃんを見たけれど、おじいちゃんは特に気にしていないのか、そのまま部屋のドアを開けた。

 キィ、とドアが音を立てて開く。日差しが少しだけ差し込み、光が反射した床が目に入った。その部屋の北の窓側で、僕と同じくらいの少女が本を読んでいた。

 彼女は部屋に入ってきた僕達をちらりと見て、また本を読み始める。

 そよそよと流れる風が彼女の髪を揺らしていた。

「じゃあお前はここにいなさい」

「え」

「わしは千代さんに話があるから、お前はこの子と時間を潰しているんじゃ」

「ちょ、おじいちゃん!」

 止める間もなくおじいちゃんは部屋を出て行く。部屋に取り残された僕はドアと彼女を交互に見るけれど、彼女は僕を見ようともしない。とりあえず僕は彼女の近くに座る。窓から入ってくる風が涼しくて、ほんの少し息をついた。

 ちらり、と彼女を見る。先ほどまで半分ほどだった本は、もう全体の残り四分の一ほどのページ量になっていた。僕はずっと黙って読み続けている彼女に声を掛けてみる事にした。

「ねぇ」

「何」

「その本、面白いの?」

「……なんでそんな事聞くの?」

 僕の質問が理解できないというように眉を寄せた彼女が聞く。僕は気になっただけと答えた。

「……別に、面白くなかったら、読まないよ。逆に、読まなきゃ面白さなんてわかんない」

「ふうん。よくわかんないなぁ。僕には文字だけの本って、難しい気がして読む気がしないよ」

「それ、ちゃんと読もうとしていないからでしょ。文字を読んで、そのことを空想するのが醍醐味って奴だもん。小説って、そういうものだよ」

 そうなのか、と僕は妙に納得してしまった。僕のことなんか気にもしないで集中して本を読む彼女の言葉にはそう思わせるほどの説得力があった。僕はふと、気になったことを口にした。

「ねぇ、僕の名前は司郎。斉藤司郎。君の名前は?」

「……美弥。篠崎美弥」

 

 それからというもの、僕は毎日おじいちゃんに連れられて篠崎と一緒に過ごすことになった。僕は毎日篠崎を観察するわけにもいかないから、宿題を持っていくことにした。何故だか分からないけれど、篠崎の隣は不思議と落ち着くことができて、家でやるよりもはかどった。

 篠崎はいつも本を読んでいた。僕が知っているような題名の本から、知らない本まで、様々な種類の本を篠崎は読み続けていた。僕がそんな篠崎を観察して知ったことはほとんど本に関することだ。

 一つ目。篠崎はとても早く読むということ。僕が宿題と格闘している間にも、篠崎は二冊、三冊と読んでは自分の隣に本を積み上げている。僕が帰る頃には何冊読んだのか、しっかり数えてみないと分からないくらいだ。

 二つ目。篠崎の本に対する好き嫌いはあまりないようだった。ただ読みにくい、または途中で話が分からなくなったらしいものは、読み終わった本の隣に置いて区別している。僕はそれが篠崎の気に入らなかった本だと分かるようになった。

 三つ目。これは最初からだったけれど、篠崎は本を読みながらでも簡単な受け答えをしてくれる。本から目を離すことはしないけれど、ちゃんと僕の話は聞いているらしい。ある時、僕がどんな本が好きなのか聞いてみると目を輝かせながら篠崎は答えた。

「普通に読むだけなら小説もそうだけど、古典も好きかな。俳句とか、短歌とかの全集を読んだ時は面白かった。ただ、解説の載った本じゃないと読めないのが私の残念なところだけどね。でも、声に出して読むのは凄く好き」

 篠崎が僕と長く続く会話をしたのはこれが初めてだった。篠崎はほとんど自分から話し出すことがない。僕が話題を振っても、本に関することしか反応がない。

 彼女は気分が乗ると僕と会話してくれるようになったが、何か不機嫌になることがあると、自分の世界に籠もる人間だった。そうなると篠崎は僕の言葉にも反応してくれない。そんな篠崎に対して僕は何とも思わなかった。元々騒がしいのは嫌いだし、大勢といるより一人の方がマシだと思っていたほどだから、篠崎といるのはとても安心できる。

 篠崎と僕の関係は友達と言っていいのか、それとも友達以外の何かなのか、よく分からない。ただ、一つだけ言えることは篠崎の隣はとても心地がいいということだけ。

 篠崎はどうだろう。僕と一緒にいて、迷惑じゃないかな。それとも僕の存在をただ気にしていないだけなのか。どちらにせよ、僕は彼女の側の方が、学校の教室にいる時より落ち着くことができた。


 夏休みも中盤に差し掛かった頃、篠崎のおばあちゃんが部屋に入ってきて言った。

「司郎君、美弥ちゃん。今夜花火大会があるそうよ」

「花火大会、ですか」

「ええ、この窓からでも見えるのよ、その花火大会。折角だしみんなで見ようと思ってね。ゲンちゃんが夜までいるつもりらしいから知らせようと思って」

「えぇー……」

 すでに決定事項だったことに驚けばいいのか、呆れればいいのか。おじいちゃん、と僕は頭を抱える。変な時に僕より子供っぽくなるおじいちゃんは、もはやお祭り気分になって楽しんでいるだろう。

 そんな僕の反応を見て仕方ないね、と篠崎は頷く。僕はそれに苦笑いで返した。もうここで花火を見る予定に変更はないようだし、おじいちゃんを一人にするのも何か忍びない気がする。

 結局、夜まで僕たちは部屋の中で本を読んだり宿題をしたりすることになった。


 暗い部屋の中。薄い月明かりだけが差し込む部屋の中で、僕はとても緊張していた。篠崎と夜まで過ごしたのは初めてだということもあると思う。

 それ以上に、僕は他人の家に夜まで居座るという経験がない。それどころか、この家に来て初めて人の家に入ったくらいだ。だから酷く緊張した。何か言おうとしても何も思い浮かばない。

「もうそろそろ時間だから、はい、飲み物」

 部屋に机はないから、床にコップを置いてくれた篠崎のおばあちゃんは暗い部屋の中でも分かるくらい笑っていた。今か今かと花火が上がる瞬間を待っていたおじいちゃんは、ありがとうと言ってコップを受け取る。

「おつまみもあるといいんだがな?」

「あら、酔っ払いに司郎君と帰ってもらうわけにはいかないわ。どうしても飲みたかったら司郎君はお泊りしてもらうから」

「なんじゃあ、誰も酒が飲みたいとは言ってないぞ」

「おつまみを食べたいってことは暗にそう言っていることでしょ」

 ニコニコと、普段見る笑顔とはどこか違う笑顔で篠崎のおばあちゃんが言う。流石に僕も酔っ払いのおじいちゃんと一緒に帰りたくないから二人のやり取りを見守る。

 でも、とおばあちゃんは付け足して

「おつまみというよりおやつがあるほうがいいわよね。何がいいかしら」

 そう言いながら、おばあちゃんは部屋を出て行った。僕はコップを手にして少し口に含む。暗い中では分からなかったが、それは麦茶だった。

「麦茶だけじゃあ、寂しいんだよなぁ……」

 おじいちゃんが気の落ちた声を出す。それにくすくすと笑ったのは篠崎だった。

「斎藤君のおじいちゃんって、面白い人ね。まるで子供みたい」

「大人だって子供みたいになることなんざ、いくらでもあるさ」

 おじいちゃんが篠崎に対して答える。なんとなく僕はおじいちゃんの言葉が気になった。

 大人。僕も篠崎もいつかきっと大人になる。それは変わらない事実だろう。今は子供でいることがたまに辛いけれど、大人は大人で、大人でいることが辛い時があるのかな。そう思った僕の隣で、篠崎は本を取り出していた。

 花火が始まるまで暇だからと、わざわざ用意したのか、懐中電灯を付けて本を読み始めた。だけど片手に懐中電灯を持って本を読むのは、とても辛そうに見える。僕は篠崎の手から懐中電灯を奪うようにして持った。

「僕が持って照らすよ。立っているほうがいい?」

 僕の突然の行動に少し驚いたような篠崎の顔が懐中電灯で照らされたが、篠崎はすぐに笑って

「じゃあ一緒に読もう。そのほうが、楽しいし」

 本を片手に篠崎がぽんぽん、と手で自分の隣の床を叩く。僕は篠崎の言葉に驚いて、座るかどうか迷ったけれど、彼女の邪魔をするわけにはいかないから隣に座ることにした。

「この本、知ってる?」

 篠崎が聞く。懐中電灯で照らされた本のタイトルに、僕は聞いたことも見たこともないから首を横に振った。そんな僕に篠崎は苦笑して、本の内容について説明をした。

「この本はね、結構有名な人が書いた物語。設定とか、主人公たちの関係が細かくて、私は好きなの。内容としては和風ファンタジーかな? 種族を超えた愛ってやつよ」

「へぇ。篠崎は恋愛系とかほのぼのしたものとか、苦手そうなイメージだったんだけど、そういうのも読むんだね」

「苦手よ? でも、この本だけは好き。何度だって読める。ベタベタな恋愛じゃなくて、純粋で、とても優しい気持ちになれるの」

 優しげな声。好きと素直に言える彼女が少しだけ、羨ましく感じた。僕はそうやって何かに熱中することも、執着を持てるものもないから、だからきっと、羨ましく感じているんだ。

 じゃあ読むねと、本を開く篠崎の横で僕は懐中電灯で彼女の手元を照らす。

 ペラリ、ペラリとページを捲る彼女のスピードについていけなかったけれど、楽しそうだからいいかな、と僕は思った。それから何分経ったかよくわからないが、遠くから聞こえ始めた花火の音に、僕は窓枠まで近寄って外を見た。

 綺麗な花火が上がり始めている。

「わぁ……!」

 いつの間にか僕の隣で顔を覗かせていた篠崎が感嘆の声を上げる。僕は懐中電灯の明かりを消して、再び空を見上げる。立て続けに上がる花火の音。空に光る花。なんだか、どこかの小説の一節のような。

「綺麗……」

「うん」

 感嘆の声を上げる篠崎に頷く。確かに、綺麗だ。燃え尽きた花は空に煙だけを残して静かに消える。その上に重なるように、また、花が咲く。

 そうしてすべての花火が打ち上げ終わったのか、一番大きな花火を最後に大会は終わった。僕は後片づけをするおばあちゃんを篠崎と一緒に手伝いながら、ふと思う。あと半月もすれば夏休みも終わる。ここに来るようになって、夏休みの宿題はほとんど終わっていた。あとは夏を楽しむだけかもしれない。

「今度はみんなで、お祭りでも行きましょうねぇ」

 篠崎のおばあちゃんはやけに楽しげに次の予定を決めていた。



 人ごみは嫌いなんだけどなぁ。

 がやがやと煩い人が溢れ返っている道の中で、僕は一人立ち往生。この年になって迷子とか恥ずかしい。更に浴衣を着ているため、動きにくいことこの上ない。それに暑い。汗で背中が湿っているのがわかる。密封された部屋の中より、人が溢れ返っている祭りの方が暑くなることを僕は初めて知った。

 はぁと、耐え切れずため息をつく。こんなことになるなら来なきゃよかったな。でも、せっかくのお誘いを断るわけにはいかなかった。篠崎のおばあちゃんが誘ってくれたんだから。

 僕の性格を知っても優しく接してくれる篠崎のおばあちゃんに、自分で言うのもあれだけど僕は懐いていた。祭りに行くと言われても僕は頷いたし、なんだかんだ言って夏らしいことをしたくなったのも事実ではある。

 だけどまさか迷子になるなんて。我ながら何歳だ。このままずっと立ち往生するわけにはいかないから僕は歩き出す。祭りの出入り口付近にいればきっとおじいちゃんが探しに来てくれるだろう。そう思うその反対で、僕はぼんやりとだから来たくなかった、と一人心の中で愚痴る。

 そういえば篠崎もちょっと行きたくなさげだったような気がする。顔をしかめながらも頷いていたのを僕はしっかりと見た。僕も人のことは言えないけれど、一緒にいるせいか篠崎のことも分かってきた。篠崎はどうだろう。僕と同じように僕のことを分かってきただろうか。

「あ、いた」

 ぼんやりと考えていると後ろからの声。振り返ると篠崎がいた。が、なぜか一人。篠崎のおばあちゃんと一緒に待ち合わせのはずだったけれど。

「斉藤君、おばあちゃん見なかった? というか、もしかして斉藤君も迷子?」

「恥ずかしながら、迷子」

「そっか、よかったぁ。私もさっきまでおばあちゃんといたはずなのに、いつの間にかいないんだもん。どこではぐれたのかも分かんないし」

「僕も同じ」

 二人で行きかう人ごみを見る。二人同時に顔を見合わせ、ぷっと噴き出した。

「二人そろって迷子って、何歳だろうね」

「僕、来年で一五歳になるんだけどなぁ」

「私もだよ。来年は受験だから多分中学時代最後のお祭りになるんだよね。まあ、あんまり人が多いところなんて行く気はしなかったけど」

「やっぱり? 僕も祭りとか、人が多いところ好きじゃないんだよね」

 篠崎が本以外で話をするのは珍しかった。内容も僕としては話しやすかったし、いろいろと共感が持てた。そんな僕に篠崎は軽く笑う。

「私達、どこか似てるよね。なんていうか、性格的な意味で。だからかなぁ?斉藤君と一緒にいる時間は結構好きだよ」

「……うん、僕も」

 二人で出入り口まで向かう。はぐれないようにと篠崎は手を握ってきて、僕はそれに応えるように強く握り返した。

 篠崎と僕は似ている。騒がしいことが嫌いで、静かなことが好きということ。似ている僕等は傍にいると落ち着くことができる。だから僕は篠崎と一緒にいる時間が好きだ。篠崎も僕と一緒にいる時間は好きだと言う。でもそんな僕等でも似ていないところはある。

 篠崎は本に熱中することができるけれど、僕は何にも熱中することができない。興味を持ってもそれが長続きしたことはなかった。だからなのだろうか、僕は彼女の本が好きと言い切れる姿が、なんだかとても眩しかった。

「きっとさぁ、大人になるってことは子供の時にできたことができなくなるってことなんだよね。こうやって手を繋ぐことも、一緒に歩くことも、大人になったらできなくなる」

 篠崎は僕の後ろをついてくるように歩きながら話し出した。僕は黙って彼女の言葉に耳を傾ける。

「たくさん本を読んで考えたことがあるの。大人になったら、私もこういうことをするのかなとか、ああいうことができるようになるのかとか、他にもいろいろ。でもその反対で思うの」

 成長することはいいことだ。新しい自分を見ることができる。でもその反面で見られなくなる姿がある。

「今はさ、私達は友達だからこうやって何の迷いもなく手を繋げる。でも大人が書く小説の登場人物は誰も素直に手を繋げない。どうしてなんだろうね。私にはそれがとても不思議でしかたなかった」

 今、篠崎はどんな顔をしているんだろう。

 そう思ったけれど振り返ることは出来なかった。僕にとって篠崎は友達とは言い切れない、何か別の関係だと思う。だから彼女の語る大人の世界は理解できない。

「私達もいつかきっと手を繋げなくなる。一緒に歩けなくなる。そう思うとなんだか少し寂しいね」

 寂しい。そうだろうか。大人になるということは、寂しいことなのだろうか。僕がこの手を繋げなくなる日はきっと来るだろう。それは一体どんな日だろう。その日の僕は、一体どんな気持ちなんだろう。

 僕には分からない。大人になっていない子供の僕には何も。大人の僕なら分かるのだろうか。



 夏の終わり。セミはまだ鳴いている。

 僕は篠崎のおばあちゃんの家にいた。今日で篠崎は家に帰るようだ。その時になって知ったのだが、篠崎はおばあちゃんの家に泊まりに来ていたらしい。目的はおばあちゃんの家にある書庫の本。篠崎らしい理由だ。

 見送りに来た僕に篠崎は何も言わなかった。大きな荷物を抱えて篠崎はおばあちゃんと別れの挨拶をしている。おじいちゃんは、黙って篠崎を見ている僕の肩を叩いた。

「何も言わんでええんか」

「うん」

「仲良くしてたろ。なら、再会の約束でもしてこい」

「ううん。約束は、しない」

 きっと篠崎もしないだろう。似ている僕と篠崎なら、曖昧な約束はしたくない。できるなら、来年。また会って話がしたい。自分がどう変わったのか。どう成長しているのか。大人というものを少しだけ理解できたかどうかとか、そんな話を。

「斉藤君」

 篠崎が僕の腕を引っ張る。おじいちゃんとおばあちゃんから少しだけ距離を置いて内緒話をするように彼女は言った。

「また、来年。きっと来るよ。まだ書庫の本、読み切ってないから。それとね、お祭りの日のことは内緒。私と、斉藤君だけの秘密」

「うん」

 二人だけの小さな秘密。

 大人になれば消えてしまうような秘密を抱える。それはいつか、それさえもなかったことになってしまうような秘密だった。

「あとさ、私達の関係って、友達ってことでいいのかな」

「いいんじゃない? 他に表現しようがないと思うけど」

「それはそうなんだけどさ。でも、私が感じる友達とは何か違うなって、思って」

「うん。僕も思ってた」

 友達とはいえない。だけど僕等の関係を他に名づけようもない。僕等は寄り添うことで関係を作った。似た者同士の僕等にとってそれは友達とはいい辛いものだ。じゃあ何だろうと頭を捻っても答えは出ない。答えなんてない。

「友達じゃないんだよ。でも隣にいても大丈夫。嫌いじゃないけど、好きっていうにはちょっと微妙に感じるんだ」

「そうだね。私達は傍にいるだけで落ち着くけど、それだけだし」

 篠崎はまぁいいかと、笑う。気にしたってしょうがない。分からないものは分からないんだからと言ってくれた。そんな篠崎に僕も笑って、じゃあ、と一言。

 また、来年。

僕はその言葉を言わないまま僕から離れていく彼女を見送る。迎えの車に乗り込んでガラス越しに手を振った彼女に手を振り返す。動き出した車はすぐに小さくなって視界から消えた。

 僕は振った手を降ろして彼女と握った方の自分の手を見る。篠崎の、僕からすれば小さな手の、あの感触も、温度も、もう記憶には残っていない。ただ残っているのは大人になればできなくなることが寂しいと語った彼女の声だけだった。

 あれだけ本を読み漁った篠崎でも、今は子供だからという理由で分からないことがあるのだ。それが大人になって分かったとき、僕もそのことを理解しているのだろうか。僕と彼女は似ていて、それでいて似ていないから、きっと結論は同じようで違う。

 好きという言葉でも、嫌いという言葉でも括れない僕等の関係はここで一時的に終了する。また来年の夏に再会して、そして終了する。そう繰り返し、僕等は大人になっていくのだろう。

「結局、血は争えんな」

「ええ、本当に」

「そうやってずるずると腐れ縁になるんだから不思議だよなぁ」

 おじいちゃんが呆れたように笑っている。その隣で篠崎のおばあちゃんも笑っていた。どういう意味と、問いかければ二人は笑ったまま僕に答えた。

「私達も、あなた達と一緒ですよ」

「小さい頃に出会って、話をして、それだけだ。そしてそれがずるずると今も続いているんだよ」

 多分相性がいいんだろうなぁと、言ったおじいちゃんはとても懐かしそうに目を細めていた。

 僕には意味がよく分からなかったけれどなんとなく言いたいことは分かった気がした。きっとまた、来年。篠崎と会ってそうして僕たちの関係は続いていく。



 夏の日差しはまだ強く、僕を溶かすような暑さだった。

 何もかも溶けてしまっても、僕が篠崎に出会った記憶は決して溶けないだろう。

 

 ひと夏の、出会いの話だった。

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