あなたと、手をつないで

 黄色と白の水仙が一面咲き誇る場所に、少年は立っていた。

初めてきた場所のように辺りを見渡して、花畑の中心へと足を踏み入れる。

 その時、頭上に大きな影ができた。それに顔を上げて、少年は笑った。


******


 夢を見るようになったのはいつからだろう。

 随分と幼い頃からのようにも思えるし、つい最近のようにも思える。曖昧になるほど多く、長く、同じ夢を見ている。

 それが何の夢なのか、今でも分かっていない。

 夢の中でスイは森の中を歩いている。その森は奥へ行けばいくほど暗くなる、とても深い森だ。だが、恐ろしいとは思わなかった。

 進むほど暗くなるのに、その足取りは早くなる。それは恐怖のせいなのかは分からないが、とにかく森を進んでいくと目の前は突然明るくなる。

 そこはぽっかりとした空間だった。そこだけ木々がなく、代わりに花が咲き誇っている。

 黄色と白。花の名前は知らない。夢の中のスイの目的の場所はそこだった。

 花畑といっても過言ではないその場所へ、ゆっくりと足を進める。花を踏まないように慎重に足を置いて、その中心に佇んだ。

 暫くすると、頭上を覆うように大きな影が現れる。スイは顔を上げた。そして見たものは――

 そこで夢は終わる。次に目に映るのは見慣れた天井だ。

 布団の中から見上げる天井が、先ほどまで見ていた青い空ではないと判断するには時間がかかる。ぼんやりした頭が覚醒してようやく夢だと分かって、スイの一日は始まる。

 それが毎日繰り返されていることは誰にも言っていない。そもそも誰かに伝えようとも思っていなかった。

 意思の疎通が難しいスイでは、伝えることすらままならない上に、正確に伝わってくれるとも思えない。

 布団から起き上がって近くの窓から青空を見上げた。夢と同じ青。そこから現れるのは何なのだろう。

 夢の中では声がする。それはスイの名前ではない、別の誰かの名前を呼んでいる。

 それなのに、その声の主がスイを呼んでいるのだと、どこかで確信していた。

 誰かを呼ぶその声がひどく懐かしく、とても切なく思うのは何故だろうか。


*******


 子供が森の奥深くにある、お気に入りの昼寝場所までやってくるようになったのはいつの頃からだったか。

 ボロボロの麻布を身にまとった、口がきけないらしい子供はこちらを認識した時は驚き、固まっていたくせに、次の瞬間には何故か笑った。

 人々が化け物と呼ぶ姿を見ても物怖じしない子供は、その柔肌の手を伸ばし、下手をすれば傷を負ってしまう鱗へと触れてきた。

 触れた手は、とても暖かかった。

 それから子供はよくその場所に訪れるようになった。

 花が芽吹く季節も、青葉が茂る季節も、森が彩る季節も、生き物が眠る季節も。飽きることなくやってきては触れてくる。

 それが口のきけない子供なりの接し方だと気付いたのはいつだったか。季節が一つ、二つと巡っていたように思う。

 その頃には子供のことを随分と知った。

 子供の名前はミズキといって、十三歳の少年。口がきけないのは生まれつきで、耳は聞こえている。

 森の近くにある村に住んでいるが、体が弱く働けないため村からは冷遇されている。ここに来たのは村人の目を避けるためだった。

 ミズキは口がきけずとも感情豊かだった。自分の意思を必死に伝えようと身振り手振りで語り、それが伝われば両手を上げて喜び、伝わらなければ蹲って泣くほど。

 それを見て楽しいと思ったのは確かだった。何百年と一人で生きてきた自分にとって、それは初めての経験だった。

 それが、どうしてだろう。彼は突然訪れなくなった。ぱったりと、音も連絡もなくなった。

 森の中で何度も呼んだ。村の様子も気になったが、村の方へ行く気にはなれなかった。

 化け物と呼ばれる自分にとって、ミズキ以外の人間と普通に話したり接したりすることなど不可能に近い。

 そう思うと彼の存在は希少で、いつの間にかこんなにも大切なものになっていた。

 ――ミズキ。ミズキ。なぜ来てくれない。どうしたというのだ。ミズキ。

 ミズキがいないとこんなにも寂しい。


*******


 役立たず。口のきけない、体も弱い使えない子供。母親も可哀想に。こんな荷物をしょい込んで。生まれたときに殺しておけば生活も楽だったろうに。

 耳は聞こえていると知っていての言葉の雨は、とても心が痛い。

 いつからその言葉の意味を理解できるようになったかは覚えていなかった。ただ、良い言われ方ではないことだけは最初から知っていた。

 大人たちはよく使えない子供だと罵った。母親が哀れだとも言った。父親は生まれる前に事故で亡くなったらしい。そんなことを知ってもどうしようもない。

 体が弱いから働けないし、口がきけないから意思の疎通もできない。もっとも、する気も起きなかった。どうせ彼等にはミズキの言葉など届きはしないのだから。

 母はよく泣いた。どうしてと言っては首に手をかけようとする。しかし途中でハッとしたように目を見開いては、ごめんねと繰り返す。

 父にそっくりな顔のせいで未だに死ねない。そのまま首を絞めてくれれば楽になれるのだと、何度も思った。

 逃げるように森に入るようになったのは十歳にもなっていなかった時だ。

 とにかく奥へ行きたかった。ついでに神隠しか何かに合えば万々歳だ。生きるか死ぬかはどっちでもいい。ただ、逃げられる場所が欲しかった。

 そんな時に、出会った。この世で一番美しい存在に。

 最初は大きな蛇かと思った。

 ミズキよりも大きな体を持つ蛇のようなその生き物は、青く鋭い鱗を持っていた。それは空に溶け込んでしまいそうな青だった。

 それを見て、何を考えたのか。気が付けば手を伸ばし、触れていた。彼の鱗はひんやりと冷たいものだが、その下にある温もりを確かに感じられた。

 彼との交流は数年も及んだ。一年、二年と経つ頃には言葉がなくとも通じ合うことができた。

 幸せだった。村ではミズキを冷遇するばかりで、誰かと触れ合うことなど一切ない。だからこうやって触れ合えるのは本当に幸せだった。

 ただ、その幸せは長く続かなかった

 彼との交流を誰かに見られていたらしい。

 森から帰ると村の大人たちがミズキを引き摺って村の奥へと閉じ込められた。彼等は口々に責めてきた。

 ――あんな化け物と手を組んで村に復讐しようというのか。お前が働けないから悪いんだろう。母親に申し訳ないと思わないのか。お前はもう森へ入らせない。ここで一生を終えるといい。

 そう言って去っていく彼等の背中にミズキは手を伸ばした。

 何故こんな場所に閉じ込められなければいけない。復讐など考えたこともない。彼と友人になることの何が悪いのだろう。

 そう訴えかけたくて、けれど声のない体では通じるはずもなく。この時ばかりは声の出ない自分を呪った。

 何故自分には声がないのだろうか。今まで考えなかったことを考えて、その部屋で時を過ごした。

 誰も来ない部屋の中で思うことはただ一つだった。

 彼に会いたい。空の青を持つ彼に。ずっとあの場所でひとりだった彼に。会って話がしたい。

 くだらない話に笑って、空を飛んで別の場所へ。どこか遠いところへ行きたい。

 いつかこの部屋を出て、彼に会いに行こう。そして彼に連れて行ってもらおう。村の外へ。きっと彼は待ってくれる。

 春の花が咲き誇るあの場所で。

 あの――黄色と白の水仙が咲き誇る美しい場所で。

 いつか、きっと。


*******


 水仙の花弁が宙を舞っていた。花を散らすほどの強い風は、花の真上から吹いている。風に舞い上げられて、花弁は雪のように降ってくる。

 その中心で二つの影があった。片方は人の姿をしていたが、もう片方は蛇のような姿をしていた。

 暫く見つめ合っていた二つの影は会話をするように頷きあって人の影が手を伸ばす。蛇の影はそれに頭を近づけて、影は重なり合う。

 そして次の瞬間にはその場から消え去り――舞い散る水仙の花弁だけがその行方を知っていた。

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短編集 やなぎ @yanagi-0804

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