浸透する

 じわりじわりと、床にこぼれた水のように。それはゆっくりと広がっていく。

 まるで、悪夢のように。



 眠り姫症候群という病気がある。正式名称はクライン・レビン症候群という名前だが、面倒なので眠り姫病と言わせてもらう。

 この眠り姫病は一度眠ってしまうと最大で二ヶ月は眠りから覚めないという病気だ。ただ眠りにつくだけなので、特に健康にも問題はないが、眠りの期間がとにかく長い。

 その間の食事などは夢遊病のような形で取られ、本人の意識がはっきりしていることがない。一般的にも広く知られていないため、奇病扱いである。

 突然ではあるが、私の幼馴染がその病気だ。最初は一日、二日と短い期間だけだったが、病気が進行しているのか、今では一ヶ月ほどに伸びている。

 彼女は自身が病気になったという自覚はなく、ただ寝ると一ヶ月は過ぎているからタイムスリップしたみたいだと笑っていた。

 だがそれが何回も続くと流石に不安になったらしく、最近では何度も「怖い」と口にしていた。

 その理由は両親の死が関わっている。彼女の両親は、彼女が眠っている間に交通事故で亡くなってしまった。

 しかも、彼女の看病をしに行くために家に向かっていた途中に、だ。

 私が彼女にそれを告げた時は酷く混乱し、泣き叫んでいた。その時既に葬式も終えていたために、彼女は両親に会うことすら叶わなかった。

 知らぬ間に亡くなっていた両親のことを聞いた彼女は暫く塞ぎ籠もるように寝ることを繰り返した。

 精神的ショックもあったためか、彼女の眠りは更に深くなっていた。

 彼女の両親に代わって看病をしていた私からすれば、仕方のないことだと思っていた。

 病気のせいなのだから仕方ないのだ。彼女は好きで発症したわけではない。彼女の両親が、彼女の知らぬ間に亡くなったことだって、仕方ないのだ。

 そう、仕方ない。彼女が夢の中でしか両親に会えないように、彼女の眠りを妨げる術などない。

 それに生活に支障はないのだ。彼女が眠っている間だって仕事に行ける。彼女が目を覚ました時に、私はここ数ヶ月にあったことを話すだけだ。

 最初は食事やら何やらで戸惑いはした。

 だが彼女の体が、意識がなくとも自分の体を守るために動くことを知ってからは、ほとんど手出しをしていない。食事を用意して、私は仕事に行っている。

 ただ、彼女の様子を毎日見るために彼女の家に住むようになったことが、変わったことだと言えるだろう。


 いつもありがとう、と目を覚ました彼女に言われた。別に、と不器用に答える私に、彼女は一ヶ月ぶりの笑顔で言った。

「私、あなたがいてよかった。あなたがいなかったら、とっくに衰弱死していたと思うの。だから、感謝してる」

 ありがとう、と無邪気な笑顔でもう一度告げる彼女に、頷くだけで答えた。

 彼女は続けた。

「私ね、眠っている間は夢を見ているの。とても幸せな夢よ」

 彼女の言葉に、私はそう、とだけ答えた。

幸せなのはいいことだ。例えそれが夢であっても、彼女には必要な夢だろう。

 だが彼女はそれだけでは不満のようだった。彼女は気に食わないという顔で私に告げる。

「夢の中にもあなたがいたらもっと幸せだと思うの」

 その言葉の真意を、問うことは出来なかった。



 私と彼女はいわゆる幼馴染という関係で、恋人という関係になったのはいつのころだったか覚えていない。

 私たちは昔から互いに互いを尊重し合う間柄だった。彼女が何かをしたい時に私は手伝うし、私が何かしたい時は彼女が私を手伝っていた。

 だから自然と彼女とそういう関係になったのは、距離を置く必要がなかったこともあり、当然の流れだったのかもしれない。

 大学まで同じ場所で過ごし、同じ時間を同じ分だけ一緒にいた。私たちはいつも一緒にいたのだ。

 彼女が病気になった時も、彼女の家族が忙しい時に限っては私が彼女の看病をしていた。彼女の両親は私たちの関係を知っているうえで、私に彼女を任せてくれた。

 彼女の病気の原因は分かっていないが、この病気自体が謎そのものなので原因の特定などできるはずもない。自然治癒を待つくらいしかできない。

 一ヶ月という、彼女の眠りが覚めるまでの期間。それは普通の人間からすればとても長い時間だろう。

 私は待つことにはもう慣れた。家族を失って一人ぼっちになってしまった彼女のために、私は彼女の傍で目覚めを待つようになった。

 平日は仕事があるので傍にいることはできないが、休日はできるだけ彼女の傍から離れないようにしている。

 最初のころは彼女の目覚めも不定期であったために、いろいろ問題があったが、今は彼女が眠っているのも一ヶ月周期と分かったため、彼女が目を覚ます日を予測できるようになった。

 私は彼女の目覚めを待つ間のことを苦痛に思ったことはない。彼女にはもう、私しかいないのだから。

 家族を失った彼女の悲しみを考えれば、私の待つ時間の長さなどなんてことはない。彼女はもうすでに代えられないものを失ってしまっている。

 だからこそ、私だけは彼女の傍にいなければいけない。

 だけど、今はどうだろう。彼女の目覚めを待つだけで、家に誰もいないわけではない。だが、返事はない。寝ているのだから当たり前だが、誰かがいるのに、まるでいないかのような感覚。それはどういう感情で表せばいいのだろうか。

 頭では分かっているのに、どうしてだか、彼女のことがまるで人形のように思えてくる。

 返事がない、寝ている姿から変わらない、そこにいるだけの人形。意志すらも、そこにはないのだ。

 私は彼女のことをどう思っているのか、最近ではよく分からなくなってきた。

 彼女のことは大切だ。だけど、誰もいないように感じる部屋の中で、一人で彼女の目覚めを待つ自分は、惨めにも思えてくる。

 彼女は笑っていた。いつもと変わらぬ笑顔で。それはそうだ。彼女にとって眠っている間は一瞬のこと。起きた時は一ヶ月後でも、彼女からすれば軽いタイムスリップ。

 彼女は変わらない。だから私のことも変わらないと思っている。一ヶ月という期間を短い、一瞬の出来事として捉えている。

 私からすればそうではないのに。

 彼女は私と違う。そう、起きている時間の長さが違うから、彼女と私の中で誤差が生じている。私はそれを必死に隠していた。

 彼女だけは心配させるわけにはいかない、彼女にだけは変わらぬ私を演じて見せなければいけないのだ。

 彼女はどうだろう。私が感じていることを、彼女も感じているのだろうか。

 彼女にとってもはやこの世界はタイムスリップする世界。眠っている間にすべてが変わっていく世界なのだ。

 何も知らない人間からすれば楽しいことなのかもしれない。眠っている間にすべてが変わる。なんて素敵なことだろうと、思うかもしれない。

 自分はとある物語の主人公気取りで世界を歩いていく。満足したら寝ればいい。そうして世界は変わるのだから。

 だが、それは気楽な人間でしか楽しめない世界だろう。私からすればそんな世界こそ、恐ろしい世界だ。

 眠っている間にすべてが変わる。右も左も、正面も後ろも、すべてが違うものに変わっていく。

 それはどんなに恐ろしいことなのだろうか。

 彼女は笑っていた。だが、その笑顔は、不安を隠すための笑顔だったのではないか。笑うことで、その不安を悟らせまいとしていたのではないのか。

 私がもし、彼女の立場であるのなら、恐らくパニックになっているだろう。世界が恐ろしくなって、ずっと夢の世界に閉じこもりたくなるに違いない。

 だけど彼女はそうしなかった。世界を見ようと目を開いている。私はそれを見間違えてはいないはずだ。

 だが、何故だろう。それだけではないような気がしてならない。私が不安を感じているからだろうか。

 彼女の考えは分からない。彼女が眠っている間に私もずいぶん変わってしまった。彼女は私をどう見ているのかも、もう分からない。

 彼女も、私と同じなのだろうか。

 私が彼女を分からなくなったように、彼女も私を分からなくなったのではないか。

 私は彼女にとって、ただ傍にいるだけの存在になっている。目を覚ませばそこにいるだけの存在に。

 私にとってもまた、彼女はただそこに眠るだけの存在。一ヶ月に一回だけ目を覚ます人形のようなもの。

 それは決して、かつての関係とは言い切れない。私たちの関係はそれほどまでに変わっていったのだ。

 例えば、私が彼女と同じ世界にいることができるとすれば。

 例えば、彼女の病気が治ったとして、また同じ時間を、同じ分だけ一緒にいられるとしたら。

 この不安な思いも、彼女に対する思いも、すべてが元通りになるのだろうか。かつてのように、私と彼女の関係が元通りになるのだろうか。

 一緒にいられればそれだけでよかった。それはきっと彼女も同じのはずだ。

 だけど、一緒にいるはずなのに、同じ場所にいるはずなのに、すれ違う。何もかもがすれ違ってしまう。

 望んでいなかったはずなのに、こうして互いに分からなくなってしまうことがあるとは思いもしなかった。

 私はベッドに寝転びながら考える。彼女はどうしたいのだろうか。

 どうすればいいのだろうか。私にできることは本当に、何もないのだろうか。

 彼女の笑顔を思い出す。もうあまり見なくなった笑顔を。

 私はゆっくりと訪れた睡魔に誘われるように目を閉じた。



 不思議な夢を見た。私は眠っているはずの彼女と一緒に白い空間を歩いていた。私の手を取り歩く彼女はとても楽しそうに、強く私を引っ張る。

 私は引っ張られるがまま、彼女に手を引かれて歩いていき、そして。

 私はそこで目が覚めた。


 酷い既視感を覚える夢だった。前にも同じようなことを経験したかのような、そんな夢を見た私は、何故か彼女の顔を見なければ、と思った。

 どうしてそう思ったのか、何故あの夢に既視感を覚えたのか。私は彼女の眠る部屋の前で考える。けれどその理由は思い浮かばなかった。

 彼女が起きているわけがない。まだ眠り始めて数日。早くてあと二週間は目が覚めないはずだ。

 だけどどうしてだろう。この扉の向こうで彼女が目を覚ましていると、妙な確信があった。

 恐る恐る、扉を開ける。キィ、と音を立てて開いた扉を盾に、覗くような形で部屋を見る。

 カーテンの閉じた窓。まだ夜のためか暗い。廊下を照らす電灯が私の影を作っている。

 ベッドのほうを見る。窓から少し離れた場所にある彼女のベッドには、誰かが座っていた。

 思わず息を呑む。起きるはずのない彼女が起きていた。いや、もしかしたら眠っているのかもしれない。

 夢遊病のように、トイレか何かのために体が動いたのだろう。そう思いながらも部屋に足を踏み入れる。

 床が軋む音。その音に彼女が振り返った。

「あ、よかった。いてくれた」

 その言葉は、確かに彼女の意識がはっきりしていることを示した。私は驚いてその場に立ち止まる。

 起きるはずがない、と思っていた彼女は本当に起きていた。

「さっきはあと少しで逃げられちゃったから、焦ったんだよ」

 まるでなんてことないような口調で、彼女が言う。私は何のことだか分からず、彼女の言葉に首を傾げる。

 彼女は暗闇でも表情が分かるような、明るい声で私を呼んだ。

「ねぇ、今度は一緒に寝ようよ。大丈夫、私が連れて行ってあげるから」

 彼女が手を差し伸べる。私は首を振った。明らかに彼女の様子がおかしい。それに、彼女の言葉の意味も分からない。どこに連れて行くというのだ。

 扉の前から動かない私に、彼女がベッドから降りてこちらに歩いてくる。私は何故か恐ろしくなって、後ずさったが、すぐに廊下の壁に背中が当たる。気づいた時には彼女が目の前にいた。

「大丈夫。お父さんもお母さんも、いいよって言ってくれたんだから」

 彼女の手が、私の頬に触れて。途端に私の頭は白い靄がかかったかのように何も考えられなくなる。

 ……眠い。とても、眠くなる。

 優しく微笑む彼女が、私の手を引いてベッドへと倒れこむ。

 私も同じように彼女の隣に倒れこんだ。意識が完全に落ちる前に、彼女は私に言った。

「同じ夢を見たら、ずっと幸せなんだよ」

 だから、一緒に私と同じ夢を見よう。

 彼女の言葉は、私の脳内で強く響く。とても、強く、強く。

「もう、私を一人にしないで」

 それは、強い願いを含んだ、小さな言葉だった。


 夢の中で彼女は笑っていた。とても幸せそうに、父親と母親に抱きしめられて。私という存在と笑いあう。

 それは確かに幸せな夢だった。大切な人たちに囲まれて、笑いあって。私も嬉しくなって笑う。

 それはじわじわと、浸透していく夢。幸せという夢は誰かのために作られた夢を見せる。

 まるで、悪夢のようだ。

 幸せなのに悪夢とは酷い言いようだが、私が見ているこの夢はまさに悪夢と言える。

 ずっと見ていたいと思うだろう。ずっとこの世界にいられたらいいと願うだろう。彼女も願ったに違いない。

 彼女にとって現実は酷く残酷なものなのだから。

 遠くで彼女が手を振っている。両親に挟まれて笑っている彼女の笑顔は、現実では見ることがなくなった笑顔だ。

 私は彼女に手を振り返した。幸せならそれでいい。彼女が望むなら、私もこの夢に付き合おう。

 

 それは確かに夢だった。ひどく幸せで、すがりたくなるような夢。彼女は一人、夢を見続けて、寂しくなったのだろう。ずっと傍にいた私を呼んだ。

 私を包み込むような夢は、ゆっくりと、まるで世界を覆い始める雲のように、私に夢を見せ続ける。

 

 私は、二度と戻れない世界を夢に見た。

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