第2話 老人と池
ベンチに老人と二人、並んで静かに目の前の池を眺める。
この地に来てから、この公園に来るのは初めてだった。存在も知らなかった。
池はなかなかの大きさで、おそらく周囲の長さは1キロメートルほどはあるのではないかと思う。周りには土色舗装された道が雪の隙間に見える。また、意図的に残されたであろう、木々や水草などは景観を自然的に見せ、池全体が大きめの公園のようになっている。雪は、時間が経つにつれて降り積もっていく。
冬枯れの池の水面には、雪が、少しずつ少しずつ、吸い込まれるように溶け込んでいた。
そういえば、公園の入り口付近には、一つだけ、大きな木がポツンとたっている。この木を中心にして、子どもたちの遊具が、ひとしきり並べられている。そこだけ見ても、一つの公園のようになっている。
ふと、老人が感慨深そうに池を眺めつつ、口を開いた。
「この池…この公園も…立派でしょう?」
「え?」
言われてみて、改めて眺めると、確かにとても立派だなと感じた。
「そうですね、立派ですね。
何がと言われると分かりませんけれどもね」
立派とはなんだろうかなと、内心苦笑いしながら、素直に答えた。老人は池を褒められたことが嬉しかったのか、微笑みを更に柔らかくさせながらこちらを目を向けて、
「そうですか、お世辞でもそう言って貰えますと、とても嬉しいものです。私にとっては、この池は親の様な、子どもの様なものですから」
と、言った。そして、目を細くして、なにか遠いものをみつめながら、
「この池はね、ここらへんに住む人にとってはかけがえのない池なんですよ…」
と、深い思いを込めるようにして、昔話を始めた。
老人の話では、この池は昔は何の装飾もない普通の池だった。池の周りに開けた場所が少しあって、そこで子どもたちが駆け回って遊んでいる。大きな木の下では若い男女が世間に潜んで逢い引きをする。池の縁には降りる岸のようなものがあってそこでは釣りをする人もいる。
そんなごく普通のどこにでもある池だった。
「戦火にも合わないでね。ところが、高度経済成長期に入ると、開発の計画が出てきてしまいましてね。池を埋め立ててマンションを作ろうと…あのときは寂しい気持ちになりました。私は何もできずに、ああ、池無くなってしまうんだと…思ったんですよ。ところが地元の人たちはみんな…この池にお世話になってた。だから、この池を守りたい、と反対運動を始めたのです」
最初は、役所が決めたことだから、それを覆すのは難しいのではないか、と老人も思ったそうだ。その反対運動をただ傍観していた。
そんなある日、老人は妻と子どもを伴って、池に別れを告げるつもりで立ち寄ったらしい。
その頃はちょうど春で、池の周りの桜が咲いていた。花はもう散り始め頃であり、老人には一段と侘しく見えたそうだ。
「桜は出会いと別れを告げる木でしょう?池もみんなにお別れを言ってるのかなという気持ちになりましたよ」
その時、吹いた春の風は花びらを伴って、老人達を温かく包み込んだ。
子どもの顔にひとひら貼り付いて、子どもが嬉しそうにはしゃいでいる。
そして、また来ようね、と子どもは言ったそうだった。
「来年にはもう無くなっているんだよ、とは、言えなかった。来年また見たいねと思ったんですよ」
そして、反対運動に参加したという経緯だったらしい。何分、そんな人がこの近くには何百人といて、一気に反対運動は大きくなっていった。
「何て言って反対したんですか……開発工事…?」
「いやあ、覚えてませんよ。というより、この池は立派な池で、みんなの心の拠り所だと何度も役所に言いに行ったんです。役所内にも反対の声があったそうで。そうするうちに、役所の上層部がね、そんなに大事で立派立派といわれるなら開発工事はやめましょう、と言ってくれましてね。みんなで喜びましたよ。…そして、後日、そのうちの一人が池を見に来てくれましてね。ああ、皆さんが言うのもわかる気がする、良い池ですね、と言われましてね。さらに、池の埋め立てじゃなくて公園を作ろうって言ってくれたんです。みんな大喜びでね」
老人はこどもの浮かべるような笑顔で嬉々として語っていた。
その笑顔に、急に自分の惨めさを思い返して真っ直ぐに顔を見れなくなってしまった。
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