魔法使いの侵攻 6
魔法修行がはじまって2日目、中原の姿は代官山にあった。
ふわふわパンケーキだかが売りだという、オープンしたばかりのカフェテリアへやってきたのである。
時間帯が悪かったのか、目当てのふわふわパンケーキを得るためには長い行列に並ばなければならなかった。列を成していたのは、彼の前にも後ろにも、若い女性、若い女性、若い女性、たまに若いカップル、若い女性、若い女性、といった陣容だった。カップルという単語はもしかして死語かもしれないな、と考えた彼は、とって代わる言葉を言語野から掘り起こそうとした。
が、できなかった。知っているはずの言葉を思い出せなくなったなんてことではなさそうだった。物忘れが頻発するまでの年齢を重ねてきたわけではない。
もっとも、彼の場合、ここ数年自らが身を置いている境遇を顧みる必要があったかもしれない。恋愛言語なるものに縁遠くなるのも、仕方の無いことだったのだ。ここ数年というもの、男女の縁にまるで関わろうとしてこなかった彼である。浮いた話というやつは、そのような人間に勝手に優しく微笑みかけてきたりはなかなかしないものだ。
自分のことを「もう年だな」とは考えもしない彼ではあるが、自分が世情についていけていないかもしれないこと、また、そのことを不安を感じる時、自分で思っているより「いい年ではあるのだな」ということを自覚せずにはいられないのだった。
そこはかとない居心地の悪さと寒風にさらされながら、かれこれ1時間は並んでいただろうか。ようやく行列の先頭へとたどり着いた彼は、舌をかみそうにややこしい横文字の並んだプレートの貼られた扉をくぐった。
席数の少ない小洒落た店内はこれまた混雑していて、テイクアウト用のカウンターの前で、彼はまたもやじっと待たされる状況に背中を丸めた身を置くことになった。
ふわふわパンケーキをドギーバッグにつめてもらい、紙袋を提げてようやく店を出た中原は、すぼめた肩を不意に叩かれた。
「何をしてるんだい、こんなところで」
声をかけてきたのは、折り目正しくスーツを着込み、柔和な笑みを浮かべた男性だった。中原がなるべくなら会いたくないと考えるごく少数の人々のうち、その筆頭近くに位置する人物であり、その名を松岡良次といった。
年齢は中原の父とそう変わらない。実のところ、それに近しい間柄でもあった人物である。
「私も人のことを言えた立場ではないが、こういう所は似合わないな、中原くん」
「そうですか? こう見えてスイーツ男子というやつかもしれません」
「君は甘いものは苦手だ、と、娘からは聞いていたがね。まあ何年も前の話だ。趣向が変わることもあるか」
中原はお嬢さんは元気にしているんですか、などと応じたりはしなかった。苦い顔を作りそうになったのを寸ででこらえた彼がしたのは、さりげなく話題を転じようと試みることだった。
「うちのわがまま研究施設長が、どうしてもここのパンケーキを食べたいとおっしゃるものでして」
「ふむ、“神たる”ルーチフが、ふわふわパンケーキを食べたがるか」
中原とは対照的にピンと伸びた背筋の先、四角い顎をつまみながら松岡は小さく笑ったようだった。
そういえば、あの魔女、当初はその様に大仰に名乗っていたんだっけ、と中原は思い返した。しばらくした時、彼女はなぜか顔を真っ赤にしてそう呼ぶことを禁じてきたものである。どうにも恥ずかしかったのかもしれない、と彼が結論付ける間に、松岡は手にした紙袋を胸の高さまで掲げて見せた。
「うちも君と似たようなものでね。私もわがままな妻にこのふわふわパンケーキを買ってくるよう頼まれたんだよ」
「部下にでも並ばせればいいでしょうに」
「そういうわけにはいかない。公私混同になるからね。君がまだ新聞記者だったなら、何を書きたてられたやらだ」
「そんな狡い記事は書きませんよ。しがない地方記者で、中央省庁と縁があったわけでもありませんし」
「でも、君は、最終的に私の所にまで取材にやってきた。大した行動力と取材力だ。そうする以外に、君が真実にたどり着く術はなかっただろう。そして今があるわけだ」
「駄目元で色々飛び越して過去の知り合いに頼って、それがたまたまうまくいっただけです。それに、たどり着いてしまったことをいくらか後悔しています」
時々起こる事件を察知しては追ううちに、どうやら文部科学省の窓際第三セクターが関わっているらしいということは分かったものの、それ以上の取材を進めることが中原には出来なかった。なにせ、この世界のほんの一握りにしか『物語』の『登場人物』たちによる世界への侵攻なんていう事態は知らされてはしなかったのだから。
中原にしてみれば、本来なら松岡家の人物たちには関わりたくなかったのである。しかし、行き詰った彼は松岡に取材の名目で面会を申し込む事を選んだ。文部科学省の参事官であるという松岡は、中原にとって事態を打開できるかもしれない唯一のコネだったのだ。その松岡にしてみたところで、恐らくは中原以外が訪ねてきたのであれば、真実を話したりはしなかっただろう。
松岡が中原に真実を話して聞かせたのは、両者が知り合いというには縁が深く、それなりに複雑な間柄であったからだ……と、中原は思っている。
「どうだい、ここで会ったのもまた何かの縁だ。体を温めにそこらの喫茶店にでも行かないかね」
「カフェなら目の前にありますが……」
「また長時間並ぶというのかい? 私は店から出てきたところで行列の中に君を見つけて、君が出てくるのをずーっと待ってもいたんだよ?」
眉をひそめてみせた松岡に、中原はそのまま別れましょうとは言い出せなかった。彼のことは苦手であったし、いろいろ思うところもあるにはある。だがかつての義父である彼のことを、本質的には嫌いになれないのだった。
松岡良次は、かつて中原の義父であった。
義父というのはこの場合養子先の親という意味ではなく、配偶者の父親である。
いろいろあった結果、中原と配偶者との婚姻関係はとうに解消されており、中原としては松岡家とは距離を置いていた。そうもいかなくなったのは、というか、中原が自分から再び飛び込んでいったのは前述の通りである。
「やはりね、こういうピーナッツの出てくるようなのんびりできる店がね」
松岡が中原を誘ったのは、少しばかり歩いたところにある大型全国チェーンの喫茶店だった。中原としてもこうした店の方が落ち着くというのはよくわかる。問題は、置かれた状況がリラックスを許さないことだった。
松岡はこの国における『文芸作品による侵攻』問題を統括する立場にある。もちろん緊張してしまう理由はそれ以外の、個人的な間柄によるものが大きいのではあるが。
「で、最近はどうしているんだい?」
手に取った湯気を立てるカップに目を注ぎつつ、松岡が尋ねてきた。
松岡は近況について――とりわけ人間関係について――聞きたがっているのだろうと思われた。あえて目を合わせないのは、きっとそれが正面切って聞きやすい事柄ではないからだ。
「まあ、魔法の修行なんてことをしています」
中原は職務についての話だとわざと取り違えることにした。彼自身の近況については、期待に沿えるよう答えられるような内容はなかったのだ。
「『夜会』事案だっけ? それで今は魔法使いの弟子というわけかい」
「見ての通り、実際は魔法使いの丁稚ですがね」
松岡は中原の誤魔化しを追求はしてはこず、どこかほっとしたような様子で笑った。
「修行というと、どんなことをしているんだい?」
「俺は部屋の片づけだとか、小間使いのようなことをしています。同僚は精神修養だとかで山に滝に打たれに行ったようですが」
「修行っぽいね」
「そんな気はしますが……それらしいことをさせて遊んでいるんじゃないですかね」
あの魔女にはありそうなことだった。
「青春っぽくていいんじゃないか」
「そんな歳でもありません」
若者はそう好まないであろう苦味の強いマンデリンを啜りつつ、中原は苦笑した。
「いやいや、君はまだ若いさ」
だから新しい人を、なんて風に言葉は続きはしなかった。そのことは中原を深く安堵させた。
独立行政法人 日本文芸振興対策センターのお仕事 和寂清敬 @wasabi
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