§3ー4 恋人になってあげよう
燎平の説明は淡々としていた。
「そっか。あたし、奈那さんの力が移ってただけなのか……」
「そうだよ。だからおまえが心配することは何もない。それでご不満でも?」
「あたしも奈那さんや燎平と同じなのかと思った。一瞬そう思ってた。あたしも魔法使いで魔法少女かなって」
「プリキュアに憧れるのは幼稚園までにしておけよ」
「何言ってるのプリキュアは魔法少女じゃなくてプリキュアなんだよ」
「ああそうかいおれちゃんはそういうの知らなくてごめんなちゃいねぇ」
最初は冷たい顔をしていると思ったけれど、それは黙って澄ましているときだけだ。いったん喋りだすと表情がくるくるとよく変わる。
だってあなたはあの奈那さんの息子なんだもん。
「おまえコーヒー飲めるのか」
ようやく気づいたか。
でもあたしはたいしたことない顔してさらりと返してみせる。
「べつにこれぐらい普通に飲めるよ。缶コーヒーは甘すぎて苦手だけど、カップに入れるコーヒーはいつもブラックかな、あの苦みと酸味を楽しめなきゃコーヒーをたしなむ意味ないと思うし。スタバのコーヒーもちゃんと飲めるよ、ショートじゃ風味を味わえないからさあ、グランデで飲んでるしね、注文だってスイスイ言えるよ」
「へーえ、それはすごいねー、わかつきあやめさんはすっごいオトナなんだねー」
「何、その棒読み口調!」
「おれはコーヒーよりも甘いコーラが好きだし、いちばん好きなのはジンジャーエールとふくれんのみかん畑ジュースだし、コーヒー屋の注文は苦手だから全部翔馬にやらせるよ。たいていのことはあのリア充マシーンにやらせときゃ間違いないから」
燎平はそんなことを言い、わざとらしく自分のコーヒーカップにたくさん砂糖を沈めた。
あたしはその様子を眺める。
燎平の長い指先を見つめる。白い爪を観察しながら、このひとは、本当はいくらだってブラックコーヒーが飲めるひとなんだろうなと考えていた。苦いコーヒーも、紅茶も、たぶんお酒も、このひとは飲めちゃうんだろう。
近づいているようでも遠い。
十八歳、六歳年上、途方もない年の差だ。
あたしをからかって、興奮させて、なだめて、いさめて、泣かせて、笑わせる。
「……そうだね。あたしもコーラのほうが好き。実はコーヒーだけのお店には行ったことがないの」
あたしはゆっくりと溜息をついた。
奈那さんは若い頃、燎平と同じ顔だったのだろうか。だとしたらきっと男にも女にもモテたんだろうな。
コーヒーを一口喉に押し込んで、しみじみ苦いと思った。
あたしには似合わない。
コーヒーは不味い。
口の中に牛乳を注いで胃の中でかき混ぜてしまいたい。
唐突に、内臓の奥から悲しみがこみ上げてきた。あたしは唇を噛む。瞼がひくひくする。
あたしが眉毛のあたりを擦ったら、あは、と燎平が笑った。
「つまんない意地は張らなくていいよ、おれはおまえの同級生じゃないんだから。しょうもない嘘は言った後で胃が痛くなるだろ」
そう言って、残り少ないあたしのコーヒーにも、砂糖を入れてかきまぜた。
「甘い物をがつがつ摂取しなさい。元気になれるよ」
「う、うん」
今、あたし、胸がぶわっとした。
燎平の言葉のひとつずつが、奈那さんの言葉と声に重なる。燎平が落ち着いて喋るときの低い声は奈那さんと同じ波長だ。
「他に質問があれば聞くけど?」
「ええと。田端兄弟のお父様は――」
「ん? 太郎ちゃんのこと?」
「その太郎ちゃんさんていう方は、やっぱり、あたしのママのことを恨んでるよね?」
「それはまあ仕方ない。でも大人の男と女が決めたことだしさ、もしかしたら太郎ちゃんのほうが嫁にリボンつけて不倫相手に贈呈したかったかもしれないし。そもそも売れない絵描きで包丁を握る度に家中の貴金属をめちゃくちゃにしてた妻なんて顔以外は最低最悪の物件だよ」
奈那さんのことをそんなふうに言われると猛烈に腹が立つけど、今は反抗しない。
「あたしあなたたちのお父様に会いたい。もう遅いかもしれないけどママが奈那さんと不倫してすみませんでしたって土下座して謝りたい」
「おまえは関係ないし気にすることないよ。太郎ちゃんだって今は若い彼女とイチャイチャするのに忙しくて月に半分も帰宅すればいいほうだし」
十八歳になったらこんなふうに自分の父親のことを言えるようになるのだろうか。
たとえばうちの真南も、離婚して出て行った伯母さんのことをいつかこんなふうに話すようになるのだろうか。
「でも燎平と翔馬はあたしのこと嫌いだよね。ちっちゃい頃に奈那さんが家を出て行って、それからずっとあたしと暮らしてたんだもの。あたしがあなたたちからお母さんを盗んだのと同じ、あたし泥棒と同じだ。あたしとママは泥棒猫だウワァァァァ」
「泥棒猫なんて昭和言葉をいったい何処で習ったんだよ。いまどきこんなこと言う小学生はおまえだけだぞ、実は十二歳じゃなくて四十二歳なんじゃないのか」
燎平は話題を逸らせて笑う。
あたしは甘いコーヒーで唇を濡らした。
「それじゃ次の質問。『お城の舞踏会』ってなあに? 真南が言ってた。最初にあなたたちから話しかけられたとき、真南は舞踏会に招待されたのかと思ったって」
「それは翔馬たちがやってるリア充バカサークルのことだろ? 親が金持ちをやっている生徒が集まって、バンドやったり旅行したり放課後にメシ食ったりして遊んでる。で、そのお遊びの空いた時間に生徒会活動をやってる」
「なんだ、生徒会執行部のことだったのかあ」
疑問の正解は簡単だった。
「うちの学校は中高一貫だから部活やら生徒会活動も六学年が一緒に動くことが多くて、特に生徒会は代々ちょっとアレな連中が揃う。まあ恥ずかしながらその生徒のトップが愚弟なわけだがね、こんな田舎の地方都市で何やってるんだかって思うよ」
「あたしもう思う。古い少女漫画みたいだよね」
「な! それな! おれもそう思う!」
小さく笑い合ったところで、話の種も食後のコーヒーも尽きた。
あたしがトイレに行って戻ってきたときにはすでに燎平は席を立っていて、会計も済ませた後だった。
ヒィィィカッコイィィィィィィ! 大人の男だ! 彼氏っぽい!
「あの、ごちそうさまでした。おいしかった。すっごく楽しかった。また連れてきて欲しい」
「最後の一言が小悪魔すぎる。いいよ、また一緒に来よう。実はおれも女の子とデートって生まれて初めてだった。女の子っていうか幼女だけど」
「そうなの? 燎平ってデートしてくれる彼女いないの? モテないの?」
「ぶっちゃけモテる。でも彼女が出来ない。納得いかない。世界は残酷」
「真面目に訊くけど恋人いないの?」
「真面目に答えるけどガチでいない」
「それはよかった! あたしが恋人になったげるよ、だからまた一緒にごはん食べよう。毎週食べよう、来週は回らないお寿司食べよう」
「まさかとは思いますがそのキラッキラの笑顔、おれをオートマチックに美味いメシを奢ってくれる便利マシーンだと認識しましたね?」
並んで立つと、燎平の横顔はうんと高い。
だからあたしも思わず背筋が伸びる。次にここに来るときには勝負ワンピを着て踵の高い靴を履きたい。
*
あたしと燎平の関係は複雑だ。
兄妹でもなく、友達でもなく、敵同士というわけでもない。そして恋人でもなかった(今は)。つまり遠回りやドライブをする仲ではなかった。
「家まで送る」
食事が終わればあとは別れるだけだ。
車のエアコンから暖かい風が噴き出てくる。心地良い温度で眠くなるのは、満腹のせいだけではないような気がした。
もうすこし、この車に乗っていたい。
でもそんなこと言わない。
「本乗北町のデイバイデイっていうスーパーで降ろして。夕飯の買い物するから」
「なあ、あの坊主頭のことだけど」
「長崎くん?」
「あんまりふらふらしてたらおまえのイトコが爆発しちゃうから気をつけろよ」
「何よそれ。つまんないこと言わないでくれる? あーっわかった! 嫉妬してるでしょ!」
「調子こいてんじゃねえよ。あともう一回そういうこと言って年上の男をからかったらスリーストライクアウト方式でお兄さん怒るから」
「……ごめん」
「それで、さ、――あー、そういう気分じゃなくなった。まあいいや」
燎平は何かを言いかけてやめた。真意は判らない。
カーステレオからは相変わらずマイケル・ジャクソンの曲が流れている。
「この曲、何ていうの」
「ユーアーノットアローン」
歌詞を口ずさみながら答えてくれた。
「あ……この曲のタイトルだったのか」
あたしは俯いた。
「燎平は奈那さんがいなくなって辛い?」
あたしは彼の歌声に被せて訊いた。
訊いておきたかったのだ。
あたしだけが辛いような気がして。あたしだけが寂しがっているような気がして。
「辛いよ。だから今おまえの横にいる。おまえから奈那ちゃんの思い出話を聞くと、悔しいのと、切ないのと、でも少し楽しい。おまえと話せてよかった、びっくりするくらい楽しい。おまえ奈那ちゃんに似てるしな」
「あたしは、燎平は奈那さんに似てると思ったよ。特に声がそっくりなの。低い声でゆっくり喋った声と雰囲気がそっくりなんだもん」
「でもあいつは女だしさすがにおれのほうがかっこいいだろ」
「奈那さんのほうが断然かっこよかったよ」
「クソが」
「あはは、その〝クソが〟って、奈那さんの口癖だったよね。あたしもときどき言っちゃう。――奈那さんのことばかり思い出しちゃうのダメだよね。前を向いて進まなきゃって思うんだけど難しい」
「べつに問題ないだろ。死んでも誰かが覚えててくれたら存在は消えない、そういうもんなんだよきっと。おれもよくわかんないけどさ、十八歳のおれがわかんねぇって言ってるんだから幼女のおまえが理解できるわけない」
あたしはちょっと泣きそうになる。
こんな瞬間に笑いながらこんなことを言うなんて、燎平はひどい。
また胸がどきどきしてきた。あたしの中はずっと奈那さんでいっぱいだったのに、あたしをどきどきさせていいのは奈那さんだけだったのに。
そうだね。あたしは独りではないね。
燎平と奈那さんの話が出来る。
だけどもう泣かないから大丈夫だよと頷いてしまったら、これが最後になりそうな気がした。燎平が任務完了だと笑って、またふわりと消えてしまいそうな気がした。
「ねえ、あのね、オートマチックにご飯を奢ってくれなくていいから、もう少しあたしのことを見守ってほしい。ごらんのとおりあたしはまだ落ち着いてないよ、ぜんぜん落ち着いてない。だからね、もうちょっとだけでいいから奈那さんの代わりにあたしの近くであたしを見てて」
せつないバラードの後にはまたノリノリのポップスが流れてきて、あたしはそれだけで少し心が救われた気がした。この曲はあたしでも知ってる、スリラーだ。
辿り着いたスーパーは学校と家の中間地点で、これなら毎日でも通えると思った。
「今日は、ありがと」
「そういえば、おれ、【吸って】やるって言ったよな。忘れてた」
右手であたしの手を掴んだまま、左手であたしの額を撫でる。
ふわふわとした感触があたしの額から脳味噌に染み込んだ。あたしはそれを心地よく思っていた。もうすこしこのままでいて欲しい。すごく、気持ちいい。
「ほい終了」
「痛っ」
燎平はあたしにデコピンした。こういうしぐさ、ちょっと嬉しいかも。
「あやめ、ペン出せ。持ってるだろう?」
「何に使うの」
「いいから」
あたしがバッグの中のペンケースからボールペンを出して燎平に渡すと、彼はいきなりそのペンであたしの手の甲に落書きをはじめた。
十一桁の数字と、メールアドレス。
「これはおれの番号とメアド。もう何を触っても壊れやしないから思う存分青春を満喫するといいよ」
「ありがたいとは思うけど、もうちょっとやり方を」
嬉しいようなそうでもないような、いっそ悲しいような、でも熱い感情が躰の底から湧いてくる。
長崎くんに可愛いって言われたときと似ている、でも、たぶん微妙に違う。
「電話してもいいの? メールしてもいいの? あたし燎平に」
「したいんだろ? おまえの好きにしていいよ」
あたしは、息を止めた。
どん、と視界が揺らいだ。
あたしやっぱり泣くかもしれない。
伯父さんはあたしを可愛がってくれる、真南もあたしのことを受け入れてくれた。あたしは恵まれていると思う、あたしは不幸中の幸いのなかでたどたどしく生きている。
でも足りないって心の中で思ってた。
決して口にしちゃいけない罰当たりなことだけど、やっぱり、どれだけ優しくされても奈那さんじゃなきゃいやだって思ってた。
眠ると彼女の夢を見る。
それが辛いから、夜、寝るのが楽しみでいて、それでいて怖い。誰にも打ち明けられないから自分で頑張って立ち直らなくちゃって思ってた。
燎平は、奈那さんじゃない。
でも、とても、とてもよく似ている。
あたしを取り巻く世界はとても優しい。それは今のあたしが可哀相だからだ。
今のあたしが、哀れだからだ。
「それはあたしが可哀相で、哀れで、」
「ああごめん、ちょっと待って」
燎平が人差し指であたしの唇を塞いだ。その直後に彼の腕時計がピイピイとアラーム音を鳴らす。
『HLNSよりIDクリュサオル27、現場RTE68457237Ωγに急行せよ』
うわ、腕時計が喋ってる……。特撮ヒーローみたいだ……。
「仕事が入ったから今日はお別れだ」
「それ何? ゲーム?」
「ノンノンノン、オ仕事デース」
「高校生のくせに!」
すると燎平は、ずいふんと久しぶりに、にやりと笑ってくれた。
「うん。実は就職も校則違反なんだよね。あそうだ、ちょっとおまえの指先に小細工しておいたから、家に帰ったらクレイジー最高お兄ちゃんの壊れたデンワを修理してやるといい。おまえが触ってやるだけでいいから。チャンスは一回だけだからしくじるなよ」
そう言ってあたしを車から放り出すと、燎平は車ごと消えた。
あたしは立ちすくんだまま、そのとき突然、ひとつの単語が頭にがつんと響いた。
「仕事」
奈那さんがやっていたという副業。ママもやっていたという仕事。特殊な才能。燎平が高校生のくせにやっている仕事。
HLNSって少し前に別のところで聞いたことがある気がするけど、何だっけ、思い出せない。
§3孤独ではない/了
§4に続く
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