§3-3 麺がいっぱい野菜いっぱい夢いっぱい 



 ふわふわした気分は最初だけだった。

「見て、ここ」

 注文をとりにきたスタッフが厨房に消えると、燎平はいきなりテーブル越しに顔を突き出した。

 眸がきらきらしている。灰色がかった不思議な色の眸だ。まっすぐな鼻筋、右側の頬にほくろがある。

 きれいな顔だと思う。

 やっぱり、奈那さんに似ていると思う。

「目じゃなくて、ここ」

 燎平は自分の唇を指さした。

 そう言われてよく見ると、唇の左端が赤くなっていた。

「昨日、おまえの勇敢なセコムから殴られた」


 あたしは飲みかけのお水を吹き出しそうになった。


「もしかして」

「おれと弟がおまえの顔を見に行ったのが一昨日だろ、それで昨日、おまえのイトコくんがおれたちのところまで駆け込んできて、有無を言わさずガツーンだよ。先におれがぶん殴られたところで翔馬が押さえようとしたんだけど、ここで少年の神キックが炸裂、可哀相な弟は教室の壁まで蹴飛ばされて保健室送り。結局アメフト部の男が三人がかりで取り押さえて落ち着いたけど、連中も鋼の腹筋をボコボコに殴られたって笑ってた。もう学校じゃ中等科も高等科も大騒ぎ、格闘技同好会の会長だけが『ついに我が学園に破壊王の名を継ぐ天才少年格闘家が現れた』って大喜びしてたのはちょっと面白かった。で、あの少年はもしかしてゴッサムシティのブルース・ウェイン? 遺伝子操作された蜘蛛に首筋を噛まれちゃったピーター・パーカー? それとも人食い巨人を駆逐しまくる人類最強兵長さん?」


 うわあああああ真南のクソがあああああああ。

 あたしは両手で顔を覆った。

 あの日だ。

 あの日、学校から帰ってきてあたしは泣いて、真南に八つ当たりて、泣いて、いろいろ話して、肉まんを食べて、それであたしの気分も落ち着いたから真南も安心してくれたのだとばかり思っていた。


「その様子だとやっぱり知らなかったのか。そんなことだろうと思った。親父さんが呼び出されて職員室で父子そろって説教くらって大変だったみたいだけど」

「伯父さんも真南も、そんなことあたしにはまったく言わなかった……」

 ということは、伯父さんは今朝あたしが問い質すよりも前に知っていたのだ。

 奈那さんの遺したかもしれないお金のことで、あたしが田端兄弟、主に田端翔馬に絡まれたことを。

 それで、何の動揺もなく淡々と説明しくれたんだ。

「『よくも妹を泣かしたな』って怒鳴られた。べつに泣かした覚えはないと思うんだけどさ、でも従妹じゃなくて妹って。よほど興奮してたんだろうなあ、真南くんはクレイジー最高お兄ちゃんだ。仲良くしなよ」

 どう答えたらいいのかわからないけれど、燎平は正しいことを言っている。

 真南はあたしには過ぎるくらいのいいお兄ちゃんだ。

「ごめんなさい。そんなつもりで真南に話したつもりじゃなかった。あなたたちを殴ってやりたいって言ってたけど、本気だとは思ってなかった。あのひと、そんなふうには見えないかもしれないけれど『殴るぞ』って口癖なの。家であたしと口喧嘩してるときにもしゅっちゅうそんなこと言うし……ごめんなさい」

 なんだかもう恥ずかしくて消えてしまいたい。

 でも燎平の表情は相変わらず、ちょっと微笑んだような不思議な顔だ。

「おまえが気にすることないよ、お姫様は守られて当然だ。元はといえばうちの翔馬の態度が悪すぎたよな、申し訳ない。あいつはおれとは違って奈那ちゃんからの【授かり物】がないから、事情を把握するのにどうしても遠回りせざるをえないんだよ。とにかく必ずわかりやすい形で謝罪させるから」

 燎平がさらりと使った授かり物という言葉、それが彼の持っている奇妙な能力の総称なのだろうと思った。

「……うん」

 燎平の、あたしへの心遣いが少し嬉しかった。


 長い髪を束ねたギャルソンエプロンの女性が、「失礼いたします」と告げてテーブルにサラダを並べた。

 あたしはフォークで食べる。燎平は割り箸で食べてる。

「キャベツの千切りおいしい」

「コールスローだろ」

「何それ」

「だからコールスローだって」

「キャベツの千切りじゃないの? これ千切りキャベツのサラダっていわないの?」

「キャベツの千切りていったらおまえ、トンカツ定食でおかわり自由のアレだろ? 違うだろ?」

「そんなことないもん、奈那さんも言ってたもん。いつも作ってくれてたもん、通販で買った野菜スライサーで、キャベツもにんじんもシュシュシュッて細かく」

 あたしがフォークを置いて、スライサーでキャベツを千切りにする様子をリアルに再現してみせたら、燎平が淡々と笑った。

「あの奈那ちゃんが料理なんてやってたの? ぜんぜんそんな雰囲気のババアじゃなかったのに。そもそも包丁なんか持てたわけ?」

 あたしは手を止めた。

 自分が何を喋って何をしているのか一瞬では理解できなくて、顔が熱くなる。

「……だって、おいしかったもん……」

 ちょうど良い頃合いに、ランチのプレートが届いた。

 麺がいっぱい野菜いっぱい夢いっぱい。

 大人の女というのはみんなデートのたびに彼氏から美味しいご飯を奢ってもらってるのかなあと思い描きながら、トマトソースたっぷりのパスタを啜る。パスタ最高。デート最高。二十代や三十代の大人女子が彼氏欲しい結婚したいって必死こいて女子力あげて頑張るのもわかる気がするよ。

 燎平はやっぱりフォークではなく割り箸で食べてる。

「おれのおかあさんはちゃんと子育てしてたんだなあ」

「奈那さんと会ってたの?」

「うん」

「それじゃずっと前からあたしのことも知ってたの?」

「知ってた。こっちの父親と翔馬には内緒だったけどね」

 さっきの冷たい笑顔とは違う、もっと丸っこくてにっこりした顔だ。奈那さんと同じ笑顔。あたしを安心させる笑顔だ。

 あたしは燎平のことを知らなかったのに、燎平はずっとずっと前からあたしを知っていた。

 燎平はどんなあたしを見ていたのだろう。

 あたしのことを知っていたからこそ、奈那さんのお葬式の時には何のためらいもなくあたしを抱きしめたのだろうか。

 思い出したら、胸がちょっと熱い。

「そういえば最初に会ったとき、あたしを殺すつもりだったって言ったよね」

「ああ、奈那ちゃんが煙になった日か――うん。言った、ハイ、言いました」

「どうして?」

「そのうち話すよ。今はそんなこと微塵も思ってない」

「それにすごい怪我してたよね」

「もう治った」

「息子なのにどうして葬儀に参列しなかったの?」

「それは主に田端家サイドの大人の事情だわ」

「そっか。あのときあたしにちゃんと話してくれてたらこっそり中に入れてあげたのに」

「気持ちだけありがとう。おまえ可愛いこと言うね」

「フヒヒッ、どういたしまして」

「遠慮しないで存分にガツガツ食べなよ」

 燎平に促されてあたしは食事に集中する。

 燎平はにやにやしながらあたしが食べるのを見てる。あんまり見ないでよ。あたしブサイクだから。顔が熱くなる。プレートが空っぽになって、その様子に気づいてくれたスタッフが皿を運んでいって、今度はチーズケーキとコーヒーを置いていった。

 子どもだからコーヒーが飲めないなんて思われたくない。

 あたしはブラックのまま余裕の表情で飲んでみせた。でも燎平は何のリアクションもない。

 ふと彼の手元を見ると、ケーキまでお箸で食べようとしてる。

「それもお箸で食べちゃうの? フォーク使わないの?」

 あたしは彼が手に取ろうとしないデザートフォークを掴んで、彼に差し向けた。


 燎平は、一瞬、小さな男の子のように唇をちょこんと曲げた。それから灰色の眸をくるりと動かして、うん、と呟く。


「上手に使えないんだ」

「へんなの。お箸は使えてフォークは使えないなんて江戸時代のひとみたい」

「おまえは江戸時代の人間を見たことあるのか」

「テレビで見た」

「おこちゃまか」

「使い方を教えてあげる。さくっと突き刺せばいいんだよ」

「ご親切にどうも。でもそういう問題ではなくて、上手く使えないだけなんだ」

「練習すればいいじゃない」

「たしかにそれは正論だけど、ああもう」

 燎平は小さく呻き、あたしの手からデザートフォークを取り上げた。


 その瞬間。

 細くて小さなフォークが、彼の指先で融けた。

 へにょっと柔らかく曲がった。

 あたしは息を飲んだ。

 鉄のフォークがふにゃふにゃになって折れ曲がっている。


「ちっちゃい金属製品は苦手なんだ」

「どういうこと?」

「話すと長くなるから面倒くさい。とにかく日常生活には困らないけど、ナイフとフォークだけはどうしてもうまくコントロールできない。スプーンは最近ようやく触れるようになったレベル」

 あたしは彼が置いた箸を取り上げて、差し戻した。

「そっか。あたし変なこと言っちゃってごめんね」

「これよかったらデートの記念に持って帰る?」

 燎平はあたしに曲がりくねったフォークを差し出した。

 あたしはいったん受け取る、けれど、テーブルの上に置く。

「お店のものを持って帰るのは泥棒だから駄目だよ。これ自分で元に戻せないの?」

「物質の場所と時間を元に戻すんだ。時間と空間を逆流させて【減衰】させる」

 燎平がそう呟きながら指先で撫でると、フォークがしゃきんと伸びて元の姿に戻った。

「あたしも似たようなこと、あるよ」

 チーズケーキがあまりも美味しいから、先に全部食べてしまった。あたしはコーヒーに口をつけて、燎平にだけ聞こえるように小さく言う。


 燎平は顔を上げて、あたしの目玉を覗いた。


「いや、あの、だから、あたしにも、たいしたことじゃないけど、少々ばかり生活に不便なことがあって」

 彼がもう一度、ばちくりと、瞬目した。

 どういう意味なのかと表情で尋ねている。あたしはテーブルの下で足先がキュッとなるのを感じた。

「ゲームとか、時計とか、触っただけですぐ壊れちゃう……気持ちがわっとなったときには手を触れなくても壊しちゃう。奈那さんのお葬式の日も斎場のひとの腕時計を壊しちゃった。奈那さんと暮らしてたときにもときどきそういうことがあったんだけど、ここ最近はめちゃくちゃ酷いの。真南のスマホも壊しちゃった。よくわかんないけど思春期の少女特有の精神的なアレかな」

 どんなふうに説明すれば、きちんと伝わるだろう。

 あたしは奈那さんと血は繋がっていない。だから目の前にいる男のような魔法を使えるわけじゃない。でも、魔法ってわけじゃないけど微妙な……。


 微妙な沈黙が流れた。

 あたしは緊張して息を飲む。


「――ああ、そんなことか。あるある、よくある」

 でも返答をもったいぶったわりにはあっけない反応だった。燎平はお箸で刻んだチーズケーキをひとくち食べる。

「えーっとね。うん、そうだな。低学年のときにやっただろ? 磁石で鉄の細い棒をコシュコシュって擦ったら、その鉄も磁石になっちゃう実験。やった?」

「クリップで磁石をつくった」

「あれと同じ。奈那ちゃんの傍にベッタリくっついてたからヘンな力が移っちゃったんだと思うよ。大丈夫、おれが【吸って】治してやるから。ケータイ持てなくて困ってるだろう? 塾通いがはじまったら帰る時間も遅くなるし」

「え、吸うって何を」

「今は食事中だから後でね」

「まさかあたしを騙してえっちなことを」

「しません」

 ほんの短い時間のなかで、どんどん、燎平との距離が近づいてく。

 燎平は、不思議なひとだ。超能力者だってことだけじゃなくて、何となく、あたしをぐっと引き寄せる力がある。

 無条件で惹かれてく。


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