第19話
7月25日
午前11時。
郵便受けに入っていた、薄っぺらのタウン情報誌を開き、携帯の番号を押していく。
「はい、さくら美容クリニックでございます。」
「あの・・・手のひらのデトックスお願いしたいのですが・・・。本日、大丈夫でしょうか?」
「はい、ご予約お取りいたしますが、何時がよろしいでしょうか?」
「午後2時は、どうでしょうか?」
「はい、かしこまりました。お名前とお電話番号を・・・。では、午後2時にお待ちしております。」
通話を切り、そのままチフンに電話をする。
留守番電話サービスに、メッセージを入れる。
「おはよー。また後で電話する。」
午後1時40分。
新宿駅南改札口を出て、西に向かう。
日傘を持つ手が、汗ばんでいる。
両側を飲食店に挟まれたビルに入り、エレベーターで6階に向かう。
受付には、白衣を着た若い女性が1人座っている。
クリニックは静かで、BGMも流れておらず、異常なくらいに人の気配が、まったく感じられなかった。
3畳ほどの狭い個室に通されると、すぐに女医が入ってきた。
30才前後であろう。
髪をかなり明るめに染めた、派手めの美人だ。
「手あせですね。見せてもらえますか?」
差し出した手のひらに、女医は自身の手のひらを合わせる。
「そうですね。けっこう出てますね。施術は、左右あわせて10分ほどです。効果が表れるのに、4〜5日かかります。」
「痛いですか?」
「はい、若干痛みを伴います。オプションで、麻酔クリームつけますか?」
「はい、お願いします。」
「では、総額で8万1千円になります。」
施術室で横たわる。
アイマスクをかけられ、布にくるまれた冷たい塊を握らされる。
「では、右から始めていきます。」
先ほどの女医の声がする。
手のひらの端に、細い針が刺さる。
チクリと痛みが走る。
薬が注入される。
さらに痛みが増す。
針は、2センチほどの間隔で、手のひらを刺していく。
痛い、耐えられない。
指に異動する。
手のひらの痛さどころではない。
地獄だ。
白いシャツを思い浮かべる。
傍らに白いシャツの男が立って、私を見下ろしている。
午後3時30分。
デパートが立ち並ぶ、新宿西口の人混みを歩く。
このまま家まで歩いて帰ろうか・・・。
しばらく人混みの中に身をゆだねたかった。
人であふれかえった西口交差点を渡り、西武新宿駅に沿って歩く。
マナーモードを解除しようと、バッグの中から携帯を取り出す。
チフンから着信が入っていた。
7分前。
西口交差点を渡っていた頃。
チフンの方から電話をかけてくるのは初めて。
折り返しかける。
コールなしで、チフンが出た。
「はい。」
「チフン?今、歯医者行ってたよ。」
何故かとっさに嘘をついた。
「そうでしゅか。」
「あのね、チフンの部屋に行きたいの。」
「僕の部屋でしゅか?」
「うん。」
「いつ?」
「えーと、来週の月曜日か火曜日。」
「月曜日は約束ありましゅ。」
「じゃ、火曜日。」
「今日は?今日来ればいいのに。今から。6時とか7時に。」
突然すぎる。嬉しい。
でも、今から買い物して、夕食作って出かけるには、時間が足りない。
かといって、家族の夕食も作らずに出かけるのも、後ろめたい。
「今日はね、これからちょっと用事あるんだ。」
「そうでしゅか・・・。
「でもさ、今日誘ってくれて、チョー嬉しいよ。あのさ、今までは店長とお客さんだけど、もう店関係なくこうやって電話してるんだから、私達、友達だよ。」
「そうでしゅね。」
「他のお客さんから、電話とかないの?」
「全然ないでしゅ。電話番号教えてないでしゅ。」
「名刺見てかけてくる人いないの?」
「いないでしゅよ。」
「そうなんだ。チフン、カッコ良すぎて、かえって引かれちゃうんだよ。私はね、今までの人生で・・・ド・ストライクってわかる?ど真ん中、いちばん好みの顔だよ。」
「ありがとごじゃいましゅ。照れましゅね。」
「友達とかに会わないの?」
「・・・クビになったの、友達には言えないでしゅ。ミツコさんは年上だから。年上だから、何でも話せましゅ。」
「チフン、年上年上って言わないでよ。」
チフンはあわてる。
「あー、ごめんなしゃい。」
「で、火曜日、大丈夫ね?」
「大丈夫でしゅよ。」
「チフン、安心して。襲ったりしないから。」
チフンは、勘違いをして、あわてる。
「いえいえ、大丈夫でしゅよー。そんなことしましぇんよー。」
「駅はどこなの?池袋?」
「次の要町でしゅ。」
「有楽町線ね、私詳しいよ。3年前まで、西武池袋線の練馬に住んでいたから。」
「そしたら、池袋線の椎名町がいちばん近いでしゅ。」
「じゃ、火曜日の昼過ぎ、1時に椎名町ね。」
「はい、わかりました。」
「お昼ごはん持ってくよ。」
「ありがとごじゃいましゅ。」
「ちゃんとメモしといてよ。」
「はい。」
「じゃーね。」
すごい展開。
でも、よけいに別れがつらくなる。
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