第17話

どのくらい、その場所に立っていたのだろう。陽はすでに傾き、私のまわりは、すっかり日陰になっている。

職安通りの向こう側、歌舞伎町全体が夕日に照らされ、通りに面したビルが、炎のように真っ赤に染まっている。

いったいチフンに何が起こったのか?

たしかに、ハヌガには馴染んでいなかった気がする。

トンフーにいた時のように、イキイキしていなかった。

どうしたらいいのか。

もう、頭の中がぐちゃぐちゃ。

だけど、心が空っぽ。

心臓の存在が感じられない。

でも、とりあえず帰らなくちゃ・・・。

ハヌガの前は、もう通りたくない。

イケメン通りを回って、新大久保方面に向かう。

心臓が復活してきたか・・・。

でも、止まっている。

息ってどうやってするんだっけ。

ゆっくり呼吸をする。

大久保通りへ出る。

ネパール人の女が、私を 見ている。

首をかしげ、いぶかしげな目付きですれ違う。

よっぽど悲惨な顔をしていたのだろう。

ほんの10日前には、最高の時間を過ごしたのに。

指で作ったハートを思い浮かべる。

4日後に辞めちゃうなんて、どうして?

「また来てくだしゃいね。」って、ウソだったの?

そんなことないよね。

チフンの事が心配でたまらなくなってきた。

涙が出てきた。

バッグからハンカチを取り出し、拭う。

涙出しちゃ、だめ。泣いちゃだめ。

4時間濡らしちゃいけないって、さっき言われたじゃない。

後から後から、とめどもなく涙が溢れる。

陽はすっかり沈んでしまったが、日傘を広げ、顔を隠すように歩いた。


午後7時。

マキの家に向かうために、自宅を出る。

歩きながら、チフンに電話をしてみる。

相変わらずの、留守番電話サービスの曲が流れる。

メッセージを入れようか・・・。

「チフン?ミツコ。どうした?何があったの?韓国帰っちゃうの?すごく心配しています。連絡下さい。」

苦しい。息ができない。呼吸の仕方を忘れてる。

マキの家の前の公園で、もう一度チフンに電話をし、メッセージを入れる。

「チフン、元気なのかな?今度チフンに会ったら、言おうと思ってた。お友達になってって。返事ください。」


「マキ、このパン食べて。さっき買ったばかりだから。」

「ねえ、ミッちゃん・・・あのさ・・・・・・

少なくない?まつ毛。スカスカじゃん。」

「泣いたから。」

「何で?」

「チフンが店辞めた。」

「そりゃ、いつか辞めるでしょうよ。大の男が一生やるような仕事とは思えない。経営者だったら別だけど。」

「でも、突然いなくなっちゃって。ビックリして、ドキドキして、どうしたらいいのか。苦しくて、息ってどうやってするんだっけ?って・・・。」

「潮時じゃないの?これ以上、どうしたいの?まったく、わからないよ、中高生じゃあるまいし。大人になって、アイドルの追っかけとか、イケメン店長だかなんだか、のめり込む気持ちが。どうしてもっとまともに、大人の恋愛できないかな。」

マキは、バゲットに小エビのセビーチェをたっぷりと乗せ、大きな口で頬張ってから、赤ワインを流し込んだ。

「それに、なんだか、自分大好きな民族って気がする。自分の事しか考えてないよ、きっと。」

そう言うと、マキはグラスのワインを一気に空けた。

マキの言葉が、ほんの少しだけ、気持ちを軽くさせた。

ヘタに同情されるより、ずっといい。

「うな重、29日の火曜日ね。12時に店に届けさせるから。」

「うん、ありがと。」

「ねえ、ミッちゃん、大島行かない?」

「大島?ああ、8月の?」

「うん、8月1、2、3日。久々にダイビングしようよ。ヨットの大会もあるから、おもしろいよ。」

このまま、こんな気持ちじゃ、何も出来ない。

この際、頭のてっぺんまで海に浸かって、別世界に身を置くのもいいかもしれない。

「行く。」

「はい、決定。ミッちゃん、Sプロの器材だったよね。」

「練馬から越して来るとき捨てた。」

「捨てたー?」

「うん、何年もオーバーホールしてなかったから。」

「もったいない。自分の命を守ってくれる器材は、大事にしなきゃダメだよ。じゃ、レンタルね。頼んどく。」


7月22日

ひととおりの家事を終え、午後1時過ぎに家を出る。

もう家でやることが何も思い付かない。

気がつくと、息をしていない。

新大久保、いつもの通り慣れた道を歩く。

何を期待しているんだろう。

山の手線に乗る。

ドアが閉まると苦しい。

早く駅に着いて。

池袋で降りる。

何かに取り憑かれたように、東口、西口を歩く。

歩くというより、徘徊している。

駅のショッピングセンターに入る。

何か、おかずを買わなくちゃ。

新しくテナントに入った韓国料理の店で、買い物をする。


午後8時。

めずらしい。

夕食後、いつもはダラダラとテレビを見たり、ゲームをしている家族が、今、誰もいない。

ダンナはお風呂。長男はコンビニへ。

次男は、自分の部屋にこもって、電話中。

今、リビングにいるのは、私1人だ。

テレビのリモコンを取り、チャンネルを変えてみる。

特に見たい番組はない。

BSにしてみる。

韓国ドラマをやっている。食事のシーンだ。

うなぎを鉄板で焼いている。

韓国人もうなぎ、食べるんだ。

チフン・・・。

勇気を出して、チフンに電話をしてみる。

コールの代わりに声が聞こえた。

「はい。」

すぐには状況が理解出来なかった。

「えっ、あの、チフン?」

「はい。」

「心配してたよ。大丈夫なの?どうしたの?」

「辞めました。」

「韓国帰っちゃうの?」

「8月19日に帰りましゅ。」

「もう日本に来ないの?」

「観光で来ると思いましゅ。」

熱い涙が溢れてきた。

チフンの声が聞けた嬉しさが少しと、直接チフンから帰国を告げられた悲しみと。

「ダメだ。涙出ちゃって。」

「ありがとごじゃいましゅ。僕のことで、泣かないでくだしゃい。」

「毎日何してるの?」

「家にいましゅ。」

「会える?」

「予定が合えば。」

涙が止まらなかった。

「良かった、声が聞けて。また電話するね。」

「はい、おやしゅみなしゃい。」

電話を切る。

とりあえずは良かった、チフンと連絡がとれて。

8月19日。あと、1ヶ月・・・。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る