第16話
7月20日
午後6時。
「はい、わかりました。では、明日午後2時に伺わせていただきます。失礼いたします。」
マキが受話器を置く。
「もー、サイアク・・・ミッちゃん。契約、明日の午後しか空いてないって。」
「えーっ、そうなの・・・。」
「明日、マツエクの予約入れてんだよねー。無理言って入れてもらったから、キャンセルするの申し訳ないなー。あ、ミッちゃん、代わりに行く?銀座の、場所知ってるよね。」
「うん、いいの?」
「いいよ。あ、そうだ。かわりにと言っては何だけど、お願いが・・・ある。」
「何?」
「友達が、スーパーの衣料品部門のマネージャーやってんだけど、うな重のノルマがあるみたいで。」
マキがパンフレットを取り出す。
有名な大型スーパーの名が、印刷されている。
「衣料品で、何でうなぎ?」
社員は全員買うみたい。暗黙の了解。この子は、うな重10個だって。」
「10個?」
「そう、これから、ボジョレー、クリスマスケーキ、おせち・・・とにかく大変みたい。まったくボジョレーなんて、若いだけじゃん。旨みもコクもありゃしない。」
「マキは、いくつ頼んだの?」
「四万十川と霧島、1つずつ。」
「わかった。じゃ、これ、1番高いのいっちゃおか。霧島産、税抜き2700円、2個。」
「ありがと、ミッちゃん。受け取りはいつにする?ここに届けさせるよ。」
「いつでもいいよ。マキと一緒で。」
「それからさ、明日の夜、うちに来ない?パパちゃん、撮影で遠出だからいないんだ。何か作るよ。ワイン飲もうよ。」
「うん、いいよ。」
マキの家の立派なワインセラーが、脳裏に浮かんだ。
それにしても、スーパーのうな重2個で、6000円か・・・。
「じゃ、マキお先に。」
「おつかれー。」
7月21日
午後3時。
「お疲れさまでございます。すべて終わりましたので、そーっと目を開けてください。しみたりしていませんか?」
「はい、大丈夫です。」
「では、これから4時間は、濡らさないことと、あと、オイルタイプのクレンジングは、ご使用なさらないように、お願いいたします。」
「はい。」
スタッフが手鏡を渡す。
「左右で120本、装着させていただきました。」
鏡には、まるでマスカラを5度塗りくらいしたような、濃く長いまつ毛の私がうつっている。
外に出る。日傘を広げる。
陽はまだ高く、暑い。
このまま、真っ直ぐ家に帰るのも、もったいない。
今日は、3連休の最終日だ。
この3日間、チフンの店も忙しかったに違いない。
思い立って、差し入れをする事にした。
男性スタッフが多いから、甘い物は喜ばれないかもしれない。
4丁目角のデパートに入り、地下に降りる。
フロアを1周して、パンを差し入れる事にした。
トレイとトングを持ち、小ぶりの惣菜パンを、1種類につき、2個ずつのせていく。
ミンソや厨房の女性のために、フルーツがのった、甘いデニッシュ類もチョイスする。
全部で8種類、16個のパンをトレイにのせ、レジに向かう。
「いらっしゃいませ。」
レジは4ヵ所あり、1つのレジに、2人の店員がいる。
1人がレジを打ち、1人が袋詰めをする体制らしい。
袋詰め担当の店員が、同じ種類のパンを、1つの袋に入れようとする。
「あ、すみませんけど、全部1つずつ袋に入れてもらえますか?」
一瞬、店員の顔に不快の表情が見えた。
「かしこまりました。」
店員は、そのまま無表情で袋詰めをする。
「3240円でございます。」
レジ担当の店員が告げる。
料金を支払う。
袋詰め担当の店員は、大きな紙袋に、雑な手つきでパンを放り込んでいる。
どうやって行こうか・・・。
職安通りに出たほうがいいから、東新宿で降りよう。
とりあえず、銀座線に乗り、上野広小路で大江戸線に乗り替えた。
4時20分頃、東新宿に着く。
日射しはまだ強いのだが、街全体がなんとなく、どんよりとしている。
再び日傘を広げ、歩き始める。
チフンの店がある曲がり角まで来た。
ガラス張りの大きな窓の向こうに、レジに立つ黒いシャツの男が見えた。
チフンではない。
見たことのない男だ。
この時間だから、休憩中か・・・。
店に近づき、中をちらっと覗く。
やはり、白いシャツは見当たらない。
職安通りに戻り、チフンに電話をしてみる。
音楽が流れ、留守番電話サービスのメッセージが流れた。
やっぱり休憩中かな。
電話に出られない情況にいるのかな。
思いきって店に行ってみる。
さっきは姿が見えなかったミンが、入り口に一番近いテーブルの片付けをしている。
ミンの姿を見て、少しホッとした。
「ミンくん。」
ミンが私を見る。
なぜか、ものすごくビックリしている。
ミンは、店の奥をチラッと見てから、こちらへ来る。
「こんにちは。店長はいる?」
ミンは、一瞬目を伏せた。
ミンの表情が変わっていく。
緊張と怯えと、そして何かに耐えている表情・・・。
「店長は、辞めました。」
「えっ?」
すぐには、ミンが何を言っているのか、理解出来なかった。
心臓がバクバク音をたて始めた。
「辞めた?」
「はい。」
声が震えそうになる。
「いつ、辞めたの?」
ミンは、思い出そうと、首をかしげる。
「先週の水曜日です。」
動揺をミンに悟られたくなかった。
「会社を辞めたの?」
「はい。」
「店を変わったんじゃなくて?」
「はい。」
平静を装おうと、必死になる。
「韓国、帰るの?」
「はい、帰ると思います。」
心臓は、バクバクどころか、ガンガン音をたて、今にも飛び出しそうになっている。
必死で言葉をふりしぼった。
「うん、じゃ、また来るね。」
「はい。」
ミンは、店の奥から声をかけられ、仕事に戻る。
たぶん、さっきの黒いシャツの男だろう。
何か聞かれている。
ミンは、チラッとこちらを見て、返答をしている。
すでに心臓は、ガンガンを通り越して、穴があいてしまった。
職安通りから、すべての音が消えた。
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