第14話

6月30日

午後4時35分。

総武線の高架沿いの小路を急ぐ。

大久保駅南口。

改札を出てすぐの所に、アリシアは立っていた。

「ごめん、アリちゃん、遅れた。」

「おっそーい、ミッちゃん。初め、あそこの通路で待ってただよ。でも、電車が行っちゃうと、誰もいなくなるだよ。私ひとりだよ。暗くて、ホント、ホント、オバケ出そう。危ない外人来たら怖いから、一番明るい所で待ってただよ・・・」

「ホント、ゴメン。」

手を合わせ、ひたすら謝る。

「さあ、アリちゃん、ビール、ビール。」

「ミッちゃん、何杯おごる?」

「わかったよ、アリちゃん、3杯おごる。」

「オッケ!」

駅を出て歩く。

山の手線のガード下に差しかかる。

ガードレール内の中央付近には、ホームレスが段ボールを敷いて、壁際に向かい横たわっている。

傍らには、くたびれたスポーツバッグが置かれている。

ホームレスが歩道を占領する状態になっているので、歩行者は必然的に車道を歩くことになる。

アリシアが眉をひそめ、横目で見ている。

ガード下を抜けるとアリシアは、「あー、やだやだ、人間捨ててるよ。」

「好きであーやってる訳じゃないから・・・。職安通りのガード下にも、3人ぐらいいるけど、冬なんか、うちよりキレイなピンクの花柄の掛け布団かけてるよ。」

「マジー?あーっはっはっは・・・ミッちゃんちビンボー?」

前にチフンが休みだったことを思い出した。

「アリちゃん、電話してみるね。」

「チャーハン?」

「うん。」

店の番号を呼び出す。

「はい、ハヌガです。」

男の声だが、チフンだと確信できるほどには、聞き取れない。

「今日は、店長さん、お店にいらっしゃいますか?」

「私が店長です。ミツコさんですか?」

「うん、よかった・・・。今、歩いて店に向かってるの。」

「はい、待ってましゅね。」

大きな声で、チフンは答えた。

「チャーハンいた?」

「うん、いた。なんか、お店の名前、ハヌガだって。」

「歯抜け?」

「そうそう、ハヌケでいいか。アハハ。」

店の前に立っているチフンの後ろ姿が、遠くから見えた。

チフンは、職安通りに向かって立っている。

「あの子、私達があっちから来ると思ってるだよ。」

「うん、かわいいね。」

店に近づく。アリシアが叫ぶ。

「おーい、こっちだよ。」

チフンが振り向く。

びっくりした表情をしたが、すぐに照れたような笑顔を浮かべる。

「いらっしゃい。ふたりでしゅか?」

店の中へ導く。

今日も店には客が1人もいない。

前回と同じ、入り口付近、壁際の席へ案内する。

「ビールでしゅよね?」

「うん、もう喉カラカラだよ。」

アリシアが、舌を出して首を縦に振り、犬のマネをする。

「はい、どうぞ。お待たしぇしました。」

チフンが、生ビールをテーブルに置く。

「あのね、チフン。差し支えなければ、まず、おしぼりいただける?」

首を傾げながら話しかける。

チフンは、慌てた表情をしたあと、目を閉じて、右手で額を叩いた。


「ねえ、チフン。前に木曜日にランチ来たら、チフンいなかったよ。」

「たぶん、3時からだったと思いましゅ。」

「そっかー。チフン、私の電話番号、登録して。」

「はい。」

チフンは、前掛けのポケットからスマホを取り出す。

「090・・・・」

チフンは入力をする。

バッグの中の、携帯の着信音が鳴った。

バッグに耳をあてる。

「あっ、きたきた。」

チフンはコールを切り、そのまま登録をし終えると、ニッコリして頷いた。

「ダンナさんの仕事は、何でしゅか?」

「えーとね、ヒミツの仕事。」

チフンは首をかしげる。

「私もあんまりよく知らないんだ。」

「そうなんでしゅか?」

「うん・・・ていうか、あまり家にいないの。」

「遠くで仕事でしゅか?」

「ううん、そうじゃなくて・・・女がいる。」

チフンは、びっくりした表情をして、私を見た。

そして私から視線を外し、顔を天井に向け、ボー然としている。

アリシアは、驚いた表情を隠そうとするように、唇を固く閉じ、まばたきをしている。

「チフン、そんな顔しないで。私が大事にしなかったから。こどもばかり見てて・・・」

「いつからでしゅか?」

「もう、2〜3年になるかな。ゴメンね。こんな話になっちゃって。」

店内は、半分ほど客で埋まり、チフンは、仕事に戻る。

イ・ミンが、挨拶に来る。

「いらっしゃいませ。」

「あっ、ミンくん、頑張ってるね。えっと、生2つね。」

「はい。」

アリシアが口を開く。

「ミッちゃん、あんた、恐い女だねー。女つくるようなダンナじゃないだよねー。」

「まあね。なんか、こういう流れになっちゃったよ・・・。」

アリシアは、目を閉じて、首を横に振った。

店は、満席になっていた。


ピークを過ぎ、チフンが私達のテーブルに来る。

「チフン、忙しかったね。」

「はい、忙しいの終わりましたね。」

「チフンは、お酒飲むの?」

「飲めません。」

「全然飲めないの?」

「はい、お父さんが全然飲めないでしゅ。」

「じゃ、私達飲み過ぎ?」

「いいえ、変わらないから、大丈夫でしゅ。」

チフンの左ひじの内側が目についた。

「どうしたの、それ?」

白いシャツを腕捲りした肌が、赤くなって、少し腫れている。

「さっき、鉄板に触って、火傷しました。」

「水で冷やした?」

「そんな時間ありましぇん。」

「まったく・・・チフンは、真面目過ぎるよ。」

チフンは、優しく微笑んだ。

「チフンは日本に来て、どのくらい経つの?」

「えー、4年半になりましゅね。2年間、日本語学校行きました。」

「そうなんだ。この会社は、他に何の店があるの?」

「食堂が4件と、ホットクの店と、化粧品店でしゅ。」

「へー、大きな会社なんだね。」

「はい、そうでしゅね。」


「ミッちゃん、お酒飲めないって、楽しくないだよ。つまらない男だね。」

「まあね、でも、あの子がお酒飲めたら、とっくに歌舞伎町行っちゃってるよ。今頃、ナンバーワンになってるよ。こっちは、手も足も出ないよ。」

「あの子、お金儲けできないだね。」

窓際にある8人掛けの席に、韓国人が続々と集まって来ている。

そこへ私服のヘジンが現れた。

胸があいた、黒いミニのワンピースを着ている。肌の白さが、いっそう際立ち美しい。

「あ、ヘジンちゃん。」

「あ、どうも・・・。」

「そうか、ヘジンちゃんの送別会なんだね。」

「はい、そうです。」

「うん、元気でね。」

「ありがとうございます。」

しばらく姿が見えなかった、チフンがやって来た。

「どこ行ってたの?」

「呼び込みでしゅ。お客さんいないでしゅ。」

チフンは、眉をひそめる。

「チフン、眉毛、いじってないんだね。」

「韓国人は、細くしない。細くしゅるのは、芸能人でしゅ。日本人、みんな細くしゅる。」

「うん、そのままが、カッコいいよ!」

チフンと目を合わせ、お互いニッコリする。

「あ、チフン。お会計の伝票ちょうだい。」「はい。」

伝票を渡し、チフンは再び外へ出て行った。

金額は、1万1千円だった。

「アリちゃん、3千円でいいよ。」

「ホント?ミッちゃん、ありがと。仕事決まったら、おごるだよ。」

「うん、楽しみにしてる。」

レジには、ミンがいた。

会計を済ませてから、お財布の中の5千円札をミンに両替してもらう。

千円札3枚を折り畳み、ヘジンに渡す。

「ヘジンちゃん、空港でなんか食べて。」

「ありがとうございます。」

ヘジンは、頬を赤らめた。

外へ出ると、チフンが立っていた。

「食事休憩でしたよ。」

「そっか。またね。バイバイ。」

お互い手を振り、別れた。

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