第13話

6月12日

午後4時30分。大久保駅南口で、アリシアを待つ。

人影はまばらで、改札付近の灯りも暗い。

北口の賑わいと比べると、ここが同じ駅だとは、とうてい思えない。

電車が着くたびに、10人前後の乗客が階段を降りてきて、改札から左右に散っていく。

何本目かの電車が到着し、階段を降りてくる乗客たちの中に、アリシアの姿があった。

アリシアは、辺りをいぶかしげに見回しながら、ゆっくりと降りてくる。

改札を抜け、まっすぐこちらへ歩いてくる。

「ミッちゃん、何?ここ。オバケ出そうだよ。チョー暗いねー。」

「ホント、びっくり。でも、こっちの出口の方が近道なんだよね。」

2人で歩き始める。

大久保通りと職安通りのちょうど中間に位置するその道は、両方の大通りと並行に伸びており、韓国料理、タイ料理、ネパール料理の店が、まばらに点在している。

日本語学校や、鍼灸の学校などもある。

ちょうど授業が終わったのであろうか、日本語学校付近では、大勢の学生が行き交っている。

そのほとんどが、肌の色が濃い東南アジア人だ。

韓国、中国系の顔は、全くいない。

この通り、前後10mの中で、日本人は私達・・・いや、私1人だ。

「ねーえ、今度のチャーハンの店は、なんていうだよ。」

「そういえば、店の名前知らない。」

突き当たりの公園を右に曲がる。

自転車を押して歩く老人が、すれ違いざま、アリシアの顔をじっと見ている。

「何見てるだよ。」

アリシアが怒鳴ると、老人はあわてて自転車に乗り、去って行った。


店には、1人も客がいなかった。

ヘジンがグラスを拭いている。

「ヘジンちゃん、こんにちは。」

「あ、いらっしゃいませ。」

入り口に近い、壁際の席に座る。

チフンの姿は見えない。

ヘジンが生ビールを持ってくる。

「豚足とチョレギサラダね。」

「はい。」

「アリちゃん、仕事見つかった?」

「月曜日にアヤコと一緒に、ハローワーク行って、登録してきただよ。」

「アヤコと?アヤコ、働かなくても家賃で、左うちわじゃない。」

「帰りにミッちゃん、お昼ごはん何食べたと思う?1800円の焼肉定食だよ。ピアノのある店で。アヤコに付き合って損しただよ。」

チフンが店に入ってきた。

びっくり、そしてうれしそうな表情で、正面に座る私達に、両手を伸ばして駆け寄ってくる。

握手を求めていたのだろう。

行き場を失ったチフンの両手は、テーブルの上で組まれていた私とアリシアの手に、それぞれ覆い被さった。

「今日は仕事でしたか?」

「ううん、お休み。仕事は週3日だけ。」

「私は失業中だよ。」

「そうなんですか?」

「ねえ、この店で雇ってよ。」

「あはは・・・」

「まったく、はぐらかしてるだよ、この子は。」


チフンがトマトサラダをテーブルに置く。

「サービスでしゅ。」

「わー、ありがと。」

「沢山食べてくだしゃいね。」

チフンはニッコリしてから、入り口に向かう。

店の外へ出て、通りに向かって立っている。

5時を過ぎて、人通りが多くなっていた。

チフンは、3人の女性客に向かって、一生懸命喋りかけている。

3人とも20代であろうか。真面目そうな雰囲気だ。

彼女達は、お互いに顔を見合わせている。

チフンは、終始ニッコリと、ため息が出るほどのイケメンオーラを全開にするが、3人の女性客は、戸惑いながらも立ち去って行った。

しばらくすると、職安通りの方から、複数の男の罵声が聞こえ、辺りが騒がしくなった。

大勢の警察官が、3人の男を取り押さえようとして、揉めている。

チフンは、通りから2〜3歩後ずさりし、その様子を見ている。

「あの子、ドキドキしてるだよ、きっと。ケンカ強いかなー。」

「強くないと思う。平和が好きだと思う。」

チフンは店の中へ戻り、生ビールサーバーの調子を確かめ始めた。

しばらくすると、生ビールを2つテーブルに置き、「これも飲んでくだしゃいね。」

「わーほんと?ありがとう。」

「あなた、イイ男だよ。」

「チフンは、火曜日以外は必ずいる?」

「はい、昼は12時か3時に来ましゅ。」

「トンフーのお客さんは、ここへ来てるの?だって、トンフーのお客さんは、ほとんどチフンのお客さんでしょ?」

チフンは、胸の前で手を横に振り、「そんなことないでしゅよー。お客さんをこちらへ呼ぶよりも、トンフーの雰囲気を好きになってもらいたいでしゅよ。」

「またお店かわるときは、絶対教えてよ。」

「はい。」

「私は、チフンのいる店しか、行かないよ。」

「はい。」

うれしそうにチフンは、頷く。


しばらくすると、チフンは突然、白いキャップ、白いTシャツの私服姿になって現れた。

まだ6時を過ぎたばかりだというのに。

「あれ?何で?帰るの?」

「はい。韓国2日間行って、けさ帰って来ました。そのまま店に来て働いて、ちょっと疲れていましゅね。」

「何かあったの?」

「チェサでしゅ。」

「チェサ・・・?」

「おじいさまの亡くなられた日でしゅ。」

「日本の法事だね。」

「・・・はい。ヒマな時は、早めに帰ることもありましゅ。」

「さみしいよ・・・」

「チャーハ・・・ボク、家、どこ?」

「池袋でしゅ。」

「帰って、何するの?」

「部屋の整理しましゅ。」

「この子、掃除得意だよ。」

アリシアが私を指差す。

私は、乗り出すようにして、チフンの顔を見つめる。

「女、いるでしょ?」

「ひとりでしゅ。今度、招待しましゅよ。」

「私、スペイン料理作るだよ。」

「じゃー私は・・・・ゴミ出し。」

チフンは大きな声で笑う。

チフンは、テーブルの上で組まれた私の手を、両手でスッポリと被う。

「じゃ、帰りましゅね。」

「うん、お疲れさま。バイバイ。」

いつもより大きな黒いリュックを背負い、インチョン エアポート デューティーフリーと、英語でプリントされた、大きな紙袋を下げたチフンが、店を出て行く。

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