第10話
5月23日
午後5時過ぎ。
金曜日のわりには、人通りが少なかった。
店の前にいるチフンの様子が、遠くからでも良く伺えた。
チフンは、店の前を行ったり来たりしている。
いつもと違って、辺りをキョロキョロ見回し、落ち着きがなく、誰かを捜しているようにも見えた。
チフンが気付く。
うれしそうな笑顔で、店の前を離れ、こちらに向かって歩いて来る。
アリシアが、わざと声のトーンを上げる。
「あなたに逢いに来たよー。」
「はい。」
チフンは、アリシアに頷いてから、こちらを見る。
3人で並んで歩く。
「来週から、店変わります。」
「えっ?そうなの?どこに行っちゃうの?」
「近くでしゅ。同じ会社の店でしゅ。」
「あ、良かった。遠くに行っちゃうのかと思った。」
チフンは、あわてて首を振る。
「だいじょぶ、だいじょぶでしゅよ。ひとちゅ、向こうの通りにある店でしゅ。」
3人は、店の前まで来ていた。
店の中に入り、いつものテーブルに案内される。
「後でまた、場所詳しく教えてよ。チフン、生ビール2つね。」
「はい、わかりました。」
チフンは、笑顔で答える。
気のせいだったのであろうか。
チフンは、いたって落ち着いていた。
「そうだ、アリちゃん、こないだの払うよ。はい。」
1万円を差し出す。
「えっ?多いだよ。」
「だって、本当は私がアリちゃんに、お帰りの歓迎会してあげなくちゃいけないよ。アリちゃん、あちこち廻って、お金使っちゃったでしょ?だから、いいよ。」
「ホント?ミッちゃん、ありがと。これから仕事も捜さなくちゃならないだよ。」
アリシアは、申し訳なさそうな顔で1万円札を受け取り、肩から掛けていた小さなポシェットの中に、直接押し込むようにしてファスナーを閉める。
「アリちゃん、ごめんね。今日も晩ごはん作ってなくて、またテイクアウトして早めに帰るね。」
「うん、いいだよ。ここでたくさん飲むと、お金かかるよ。」
「アハハ、そうだね。ダンナは飲み会なんだけど、息子2人は帰って来るんだ。」
チフンを呼び、3杯目のビールを頼む。
「生ビール2つね。あと、またテイクアウトお願い。」
「はい、何にしましゅか?」
「ビビンバ2つと、ヤンニョムチキンハーフと白菜キムチ。」
「はい、わかりました。」
チフンが生ビールを持ってくる。
「チフンは、お休みいつ?」
「火曜日でしゅよ。」
「誕生日はいつ?」
「11月。」
「何日?」
「12日。」
「えーっホント?私、2日だよ。11月2日。」
「ホントでしゅかー?パーティー一緒にやりましょ!」
チフンが顔を輝かせる。
「うん!」
ミンソが、テイクアウトの紙袋を持ってくる。
「あっ、ミンソちゃん、お会計もお願い。」
「はい。」
今日も約1万2千円だった。
「アリちゃん、2千円でいいよ。仕事決まったら奢ってもらうから。」
「ホントー?いいの?悪いだね、ミッちゃん。」
申し訳なさそうな顔をする。
「それに、今日アリちゃんと一緒に来なかったら、チフンが店変わるの知らないでいたし。」
「そうだね。そうだよね。」
アリシアは、ポシェットのファスナーを開ける。
クシャクシャになった、先程の1万円札を左手で握り、その下に入っていた小銭入れを取り出す。
折りたたまれた千円札2枚をテーブルに置き、1万円札を小銭入れに詰め込む。
席でお会計を済ませ、レジにいたチフンと一緒に外へ出る。
チフンが一生懸命に説明する。
「この道をまっしゅぐ行ってでしゅね、左に曲がって、ひとちゅめを左に入って、右の・・・・」
だいたいの位置は、すぐにわかったが、頷きながら、ほんの20センチ離れた所にある、チフンの顔をずっと見ていた。
「うん、わかった。そっちの店行くからねー。バイバイ。」
「ありがとごじゃいましたー。」
チフンが笑顔で、両手を振って見送る。
店から2m程歩いた時、振り向きたい衝動にかられたが、我慢した。
振り向いたら、笑顔を消し、無表情で店の中に戻って行く、チフンの横顔がありそうで、怖かったから。
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