第9話

5月12日

午後4時30分。大久保駅北口改札口。

階段を降りて来るアリシアを見つけ、手を振る。

「ミッちゃん、久しぶりー。」

「アリちゃん、お帰りー。」

お互い大きく両腕を広げてから、ハグをする。

アリシアと知り合ったばかりの頃は、どうもこのハグには抵抗があったが、今では、全く自然にできる。

特にこの街では何も気にならない。

大げさにハグをする韓国人をよく見かけるから。

駅を出て右に歩く。

「あー、この街懐かしー。早くガリガリくんのビールが飲みたいだよ。」

「楽しかった?スペインの実家はどうだった?」

「お姉さんが、ダンナとケンカして、庭にテント張って生活してただよ。」

「テント?寒くないの?雨とか大丈夫なの?」

アリシアは、人差し指を立てて、手を左右に振る。

「ノープロブレム。ミッちゃんが想像してるようなテントじゃないだよ。なんかね、うーん、モンゴルの遊牧民みたいな感じだよ。中にいると、テントだと思わないだよ。」

「ふーん、いつからテントに住んでるの?」

「半年だって。家の家具とか運んで、すごいよ。ダンナの家より立派だよ。アーッハッハッハッ。」

アリシアは、大きな口をあけて笑った。

アリシアの笑う顔は、まるで西洋の魔女のようだった。

中国人の中年女が、すれ違いざま、いぶかしげな目つきで見て行く。


店は、3組客が入っていた。

あの男の姿は見えず、レジにいたミンソが出迎えた。

「いらっしゃいませ。どうぞー。」

アリシアとは定番の、店の右奥の席に案内される。

「生2つですねー。」ミンソが先に言う。

「グーッ!」アリシアが親指を立てる。

「何食べる?ミッちゃんに任せるだよ。でも、私は向こうで毎日ピザ食べてたから、あれ、あれ、あれは食べたくないだよ。」

「あー、チヂミね。じゃ、とりあえずチョレギサラダとチャプチェ。」生ビールを運んできたミンソに注文をする。

「かんぱーい、久しぶり。」

「おかえりー。」

「アリちゃんホテルとかに泊まってたの?」

「うん、安いホテルにね。でも、トルコで1回どこのホテルもいっぱいで、公園で寝ただよ。」

「えーっ、怖くなかった?寝られた?ベンチ?」

「野良犬がいっぱい寄って来て、犬に守られて寝ただよ。次の日、体中かゆかったよ。」

「アハハ。」

「お礼にエサを買ってあげただよ。そしたらずっと付いてきて、犬使いみたいで、恥ずかしかっただよ。アハハ。」

アリシアの話に引き込まれた。

6時を過ぎて、いつの間にか店は満員になっていた。

ゴールデンウィークあけの、月曜日だというのに。

視界の隅に、白いシャツが何度も通り過ぎるのが、見えた。

「サーカスでも暮らしただよ。」

「トルコで?」

「ポルトガル。タダで泊めてもらう代わりに、動物のエサ切っただよ。バナナやリンゴ、たくさん切っただよ。」

「すごいねー。そこにはどのくらいいたの?」

「2週間。イケメンがいただよ。アラン・ドロン似。38才。毎晩2人で缶ビール飲んだだよ。チョー、おいしかった!」

「そっかー、すごいよ、アリちゃん。」


何杯目かの生ビールを飲み干し、おかわりを頼むことにする。

ビールサーバーの前で、背を向けていたあの男が振り向き、視線が合う。

すでに何杯か飲んでいたことも、手伝ったであろう。とびきりの笑顔で男に手を振る。

男の顔がパッと輝いた。

「あっ、どうも、いらっしゃい。」

「うん、生ビール2つね。」

「はい。」

良い意味での勘違いになった。

男がすぐに生ビールを持ってくる。

「どうじょ。」

「ありがと。白いシャツ似合うね。」

男が答える。「ありがとごじゃいます。」

「ガリガリくん、うれしそうだね。ミッちゃん、今日は私が奢るだよ。ホント、いいからね。」

「いいよ、アリちゃん。私、テイクアウト頼みたいんだ。晩ごはんの支度しないで出て来ちゃって。もう、今日に限って誰からも、晩ごはんいらないメール来ないんだよね。まったく・・・。」

「それも私が払うだよ。久しぶりだし、奢るだよ。」

「だめだめ。じゃ、テイクアウトの分は、私が払うからね。」

「うん。」

店内を見回す。店の中央に立っていた男と目が合う。コクリと大きく頷いてみる。

すぐに男はやって来た。

「ねえ、料理のテイクアウトできる?」

「はい、できましゅよ。」

「じゃあ、ポッサムと、海鮮チヂミとチャプチェお願い。」

「はい、わかりました。」

男は足早に厨房に向かって歩いて行く。


アリシアがトイレに立つ。

ビールサーバーの前に立つ男と目が合った。

男がゆっくりと近づいてきた。

腰をかがめて、顔を近づけて来る。

「ねえねえ、何て呼べばいいの?」

「店長です。」

「名前で呼びたいの。」

「チョンさん。」

「ううん、下の名前で呼びたいの。」

「チフン。」

頷きながら、「チフンね。」

男も頷く。

アリシアが戻って来て、生ビールのおかわりを頼む。

男・・・チフンが生ビールをテーブルに置きながら、尋ねる。

「大丈夫でしゅか?」

「うん、全然大丈夫だよ。変?」

「いいえ、全然酔っぱらってるように見えないでしゅから。」

「チフンはいくつ?」

チフンは両膝を床につき、目線を同じ高さにしながら答える。

「33才でしゅ。」

びっくりした。25才前だと思っていたから。

とっさに、初めて見た時のチフンの顔が、脳裏に浮かんだ。

えっ?という表情が顔に出ないよう、押し隠し、急いで言葉を探す。

「えー、私も同じ。33才。」

チフンは、苦笑いをする。

「おー、そうでしゅか。ところで名前は何といいましゅか?」

「ミツコ。」

「ミチコ?」

「ミ・ツ・コ」

「ミ・ツ・コ?」

「私は、アリシアだよー。」

チフンがアリシアを見る。

2人の間に手を伸ばし、上下に振りながら遮る。

「あっ、チフン、覚えなくていいから。」

チフンが大笑いをする。

店は相変わらず満員だ。

他の従業員は、あわただしく動き回っている。

この男、チフンは、この状況の中、ずっと私たちのテーブルに張り付いていて、良いのだろうか。

各テーブルに備え付けられた、オーダーボタンの呼び出し音も、ひっきりなしに鳴っている。

回りの女性客は、いぶかしそうに、そしてまた羨望に満ちた目で、ちらちらとこちらを見ている。

「チフン、いいよ。お店混んでるから、他のお客さんのところに、行ってあげて。」

「あ、はいそうしましゅ。」

立ち上がり、再びチフンは店の中を動き回る。

しばらくして、チフンがテイクアウト用に包装された袋を持ってやってきた。

「はい、お待たせしました。・・・家は近くでしゅか?」

「うん、大久保駅から歩いて10分くらい。ここからだと、歩いて20分くらいだね。」

「そうでしゅか。いいでしゅね、近くて。」

「チフンは、結婚してるの?」

「してないでしゅよ。」

「彼女はいるの?」

「今は、いないでしゅ。」

壁に貼ってある写真を見回しながら聞く。」

「どうすれば、写真撮ってもらえるの?」

「常連さんでしゅ。今、撮りましょうか?」

「ううん、恥ずかしいから、いいよ。」

ニッコリしながら、答える。

チフンもニッコリして、「そうでしゅか。」

チフンは、再び両膝を床に着けながら、聞いてくる。

「ダンナさんとか、いましゅか?」

「うん、1人いるね。」

「そうでしゅか。娘さんとか、いましゅか?」

「ううん、男の子が2人。」

「そうでしゅか。仕事は何かしてましゅか?」

「高田馬場の雑貨屋さんで、働いているよ。」

「そうでしゅか。今度、行きましゅ。」

「うん、ありがと。」

アリシアが聞く。

「ねえ、チャーハン、何かスポーツやってる?」

「あ、はい、バシュケやってましゅ。」

「筋肉ある?」

立ち上がりながら、答える。

「ないでしゅねー。」

ニッコリして、チフンは再び仕事に戻った。

「アリちゃん、私、そろそろ・・・」

「うん、行くだね。ミッちゃん、ホント、いいから。」

テーブルで勘定を済ます。約1万2千円。

とりあえず、アリシアが払う。

「アリちゃん、次、テイクアウトの分、払うから。」

レシートをもらう。

席を立つ。

チフンが肉を焼いている後ろを通る。

脇腹に触れながら、「ごちそうさま。」声をかける。

チフンは、ピクッと体をふるわせる。

やはり、筋肉はついてなかった。

外に出て、店から5m程離れた時、後ろからチフンの声が聞こえた。

「ありがとごじゃいましたー。」

振り返ると、チフンが全身を使って、大きく両腕を振っていた。

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