第7話
2014年
1月6日
午後2時30分。アリシアと大久保駅北口で待ち合わせる。
「アリちゃん、早いね。もう、あさって出発だね。」
「うん。」
「用意は済んだの?」
「荷物なんか何も無いだよ。それよりさ、私がいなくても、カズやアヤと遊ぶだよ。」
「うん。」
店に入ると、あの男は入り口近くの席に、背中を向けて座っていた。
いつもの黒いシャツ姿ではなく、ジーンズの上に青いダウンジャケットを羽織っている。
ノートパソコンを開き、左手で伝票らしき物をめくりながら、右手の人差し指で、たどたどしく電卓をはじいている。
店の奥からミンソが駆け寄ってきた。
「いらっしゃいませ。こちらへどうぞ。」
店の右奥、生ビールサーバーと並んで、何種類ものマッコリやチャミスルが、彩り良くずらりと並んだ、冷蔵ケースの前の席に通される。
「生2つね。」
コートを脱ぎながら、アリシアが注文する。
コートを脱ぎ席に座ると、すぐにミンソが生ビールを持ってきた。
「あっ、かわいい。」
ミンソが左手首にはめた私の腕時計を指さす。
3日前に馬場のディスカウントショップで、一目惚れして買った5万円の腕時計だ。
ベルト部分全体の金属が、三つ編みのように加工されている。
洋服も小物も、ブランド品にはまったく興味がない。
クローゼットは、全て一目惚れして買った、お気に入りの服と小物で埋まっている。
「ガリガリくん、いないだね。」
「いたよ。入り口の所で、なんかデスクワークやってた。」
「ガリガリくん、計算できるかなー。」
男の人差し指が、脳裏をかすめた。
「・・・たぶん、できるよ。」
先程の仕事が終わったのだろう。
男は青いダウンジャケットのまま、店の中を動き回っている。
笑顔でアリシアの話を聞きながら、通るたびにこちらを何度もちらちらと見ている、青いシルエットを横目で追っていた。
30分ほどすると、男は青いダウンの上に、スポーツブランドの白いリュックを背負って、店を出て行った。
1月27日
カズミとアヤコと、3人で店に入る。
店の中程にいたあの男が気付き、足早に近づく。「3名しゃまでしゅね。こちらへどうじょ。」
アヤコに顔を向けたまま、腕を店の奥に向けて伸ばす。
視線が合う。とっさに笑顔で会釈をしてみる。
無表情だった男は、突然光が射し込んだかのように、眩しく、今まで見たこともない、最高の笑顔を見せた。
「さーて、何食べようかな。」
カズミがメニューを開く。
「まず、ビールだってば。ねっ、ミッちゃん?」
「そうそう。」
男が生ビールを運んで来る。
見覚えのある手が、目の前にあった。
「なんか辛い物が食べたいな。」カズミが言う。
「ミッちゃん、韓国料理詳しいでしょ。何がいい?」
「タッカルビかブルダックかな。あれ、この店タッカルビ無いんだ。じゃ、チーズブルダックにしようか。」
「いらっしゃいませ。」
挨拶に来たミンソに、オーダーをする。
店は空いていた。客の入りは4割くらいだ。
男は相変わらず客席に気を配り、オーダーやらレジやら、広い店内を隈無く動き回るが、それ以外の時は、所定の立ち位置なのだろうか、私達のテーブルから、ほんの2mの所に立ち、店内を見回している。
黒いシャツはシワ1つなく、袖にきちんと折り目がついており、きれいに腕まくりされている。
他の店員のシャツの袖には、折り目がない。よく見ると、よれよれだ。
ミンソでさえも同様で、しかも腕まくりが雑だ。
男の前掛けの紐に目が止まった。紐が1本長く垂れている。
男の顔を見た。
目が合った。
首をかしげて、まばたきをしてみる。
男が近づいてきた。
男は、腰をかがめて、首をかしげた。
「ねえ、紐、ほどけてるよ。」
男は自分の腰の脇を見下ろす。
「あー、これはデザインでしゅよ。」
「なんだー、そうなんだ。」
男は声を出して笑った。
つられて、私達3人も笑う。男が続ける。
「チーズブルダック、辛くないでしゅか?」
「うん、辛いよ。だから、とってもビールが進むよ。」
「・・・・」男は、意味がわからないようだった。
何と言ったら良いのか考える。
「えーとね、辛いから、ビールたくさん飲んじゃうよ。」
「あー。」男は理解できたようだ。
「そうでしゅか。あはは、たくしゃん飲んでくだしゃい。」
「ここのお店は、お休みとかあるの?」
定休日のことを聞いたつもりだったのだが。
「私は、火曜日がお休みでしゅ。」
男は勘違いな答えを返した。
レジでお会計をする。
傍らに積んである名刺を、一枚手に取る。
「この、チョン・チフンさんは、あなたですか?」
男は、ガムを3枚渡しながら答える。「はい、そうでしゅよ。」
名刺には、名前、携帯番号、メールアドレスが記されている。
「メールしていいの?」
「はい。」
「じゃ、10時にメニューするね。」
「はい。」
カズミが、もう少し飲みたいと言うので、新大久保駅前の居酒屋チェーン店に入る。
10時ジャストにメールを送ってみる。
『今日は、お話できて、楽しかったよ。』
返信は、ない。
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