第二話:そして二人は出会う
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かつてこの惑星に天地の別すら存在しなかった遥かな過去。
万物の霊長は、人間では無かった。
ーーそれは、天を翔ける翼を持っていた。
ーーそれは、鎧の如き甲殻をもっていた。
ーーそれは、息吹を炎と燃え上がらせた。
ーーそれは、幻想という名の神秘だった。
それが飛翔した場所は空となった。その羽ばたきは風を生んだ。
それが羽を休めた場所は地となった。その息吹が地を洗い。生命が生まれた。
それが泳げば濁流はたちまち清流となり、清流もまた濁流となった。
それが争えば地は抉れ、谷が生まれ、山が生まれた。
この世の全ては、それに因って作られた。それに因って作られたもので、それに壊せぬものは無い。
それは天災。それは豊穣。それは支配者。それは争うもの。それは平定するもの。それは……
それは、未知なる幻想にして、原初の神秘。
それが黄昏に消え、その身を白堊の深奥に横たえて幾星霜。世界が形を変え、自然がその在り方を変え、人が記憶からその存在を消し去ってもなお消えない不滅の支配者。
黄昏に微睡む遠き彼岸の涯より舞い戻った、その幻想の怪異の名はーー
**
ーー男は、この世ならざる幻想の怪異に……"竜"に、相対していた。
その姿には一片の怯みも怯えも無い。ただ己はここに立つべき存在であり、ここに居るための存在であるという、確固とした決意が、その姿から滲んでいた。
立ち上がり遠吠えを上げた怪異は、その嘶きによって更に仲間を呼び集め、己を傷つけた反抗的な"獲物"を確実に屠り殺さんと息巻いていた。
「走れ!」
男の背後で、小さな悲鳴をあげて走っていく影。女。一般人。それ以上の情報は、男には必要ない。
普通の人間は、"竜"の存在を記憶しない。或いは、出来ない。その強大に過ぎる幻想生物に対する根源的な恐怖と、その存在と、自らの持つ常識との齟齬。食い違い混乱する精神を正常に保つために、遭遇そのものを夢にして忘れてしまうのだ。
恐らく、今夜の出来事も二度と思い出すことは無いだろう。もしかすると悪夢にうなされる夜が何日か続くかもしれないが、そこまでの事は彼には管轄外だ。
「……来い、化け物」
男は腰を落とし、低く告げる。
獣が"竜"になったかのような奇怪な生き物……正確には"雑竜"と呼ばれる、主たる者の持つ神秘の力によって変異した紛い物の竜もどき達……は、互いに唸り声を交わし、狭い路地で男に狙いを定める
ーー普通の人間は竜に類するものの存在を受け入れられず、記憶しない。
ならば逆説的に、それの存在を知り、立ち向かう彼は、普通の人間では無いという事になるのだろう。
間違いではない。彼は、それを殺すものだ。
「ARGHHHHH!!」
異形の"雑竜"は耳まで裂けた口をほぼ180度にまで開き、獲物へ喰らい付く。
男はその動きを見切って、右斜め前へ跳んで回避。恐ろしき怪異の牙は、夜風に揺れるその暗灰色のコートの裾すら捉える事なく、火花を散らして無様に噛み鳴らされるに止まった。
避けた先には、更に二頭の"雑竜"の姿が。一頭目のようなピンと耳を尖らせた白い体毛の狼じみたフォルムではなく、各々が禍々しく変異した大型犬である事が、その容貌から微かに見て取れた。
「やかましいぞ」
吠え滾り突進する怪異へ向けて独り言のように呟き、ドーベルマンもどきと言った外見の二頭目が繰り出す猛禽じみた前足を躱す。コートの裾を翻し、左斜め前へ。そこへすかさず三頭目。突進してきた頭を踏み台に跳躍。
「GRR……」
悉く獲物を捉え損ない、見失った犬頭の"雑竜"達の背後。夜の宙天へ高く跳躍した男は、そのまま空中でひらりと身を反転させ、コンクリートの壁を踏み台に地面へ向けて再び跳躍。未だ獲物を見失ったままの三頭目の背中に着地、踏み潰す。足元に感じた肉がひしゃげる感触にも、男は顔色一つ変えない。
「ーーーーーーーー」
気勢を伴って吠える事もなく、男は静かに懐から抜き放った刃渡り15cm前後の禍々しく湾曲した短剣の切っ先を怪異の首へ突き立てる。
肉を裂き、骨を貫き、頚椎を破壊して、怪異の脳と肉体との繋がりを文字どおりに両断する。
断末魔の絶叫も上げずに、三頭の"雑竜"のうち一体……異常巨体のゴールデンレトリバーもどき……は、不気味な鱗をまばらに生やした巨躯をアスファルトの上にドッと横たえた。
「どうした」
倒れた屍を踏み越えて、残る二頭を挑発する。
ドーベルマンじみたものと、狼じみた……ハスキー犬か何かだろうか?……二頭が、仇を討つような必死さで再び男に躍りかかる。
「来いよ」
竜化し、そのサイズと鋭さを大幅に増した狂犬の牙が閃く。僅かに身を逸らし、首に蹴り。同時に、背後から襲い掛かるもう一方を蹴りの勢いに任せて身体を廻し、逆手に持ったナイフで切りつける。すれ違い様に牙の一本を両断。
暗灰色のコートの裾が翻る。"雑竜"達は躍る布にじゃれつくように飛びかかっては躱され、傷を増やしていく。
「ーーーーーーーー」
異形の怪物を相手に、当然の如く立ち向かう男……少年、と言っても良いだろう。返り血を浴びて、骨を蹴り砕いて、そうしながらも全く表情を変えないその横顔は何処か硬質な、金属製の仮面を思わせる冷たく青褪めるような色を浮かべる。
人知れず異形と戦い、それを排除する者、
だが、敢えて正確な物を一つ選ぶのならばーー
「ARGHHHHHHッ!!」
……悲鳴のような咆哮を上げて突進する怪異の口に自ら飛び込むように接近し、口内から脳へ向けて刃を突き込む。怪異は狂熱に歪む目から濁った血涙を溢れさせ、バタバタともがき、やがてその活動を完全に停止させる。
引き抜いた腕に付着した大量の返り血にも、男は一切頓着しない。
その様はまるで、彼の振るうナイフと同じように、ただ静かに威力を秘めた意思を持たぬ兵器で在るかのようにーー
(……まだか)
男は……暗灰色のコートを翻す少年は……"竜滅士"
「GRRッ!」
飛びかかる"雑竜"の牙を回避して、路地の奥へ。
牙を閃かせる狂犬じみた怪異と共に、僅かに開けた空き地へ降り立つ。
其処には更に三頭、いずれも大型犬が変質した"雑竜"が待ち構えていた。
「ーーーーーーーー」
誰に想像できよう。日常の間隙、路地の奥、見知った街並から僅かに半歩逸れた場所で繰り広げられる、この異形の暗闘を。
しかし彼は……豊はその
「ーーーーッ」
眼前を致死の牙が過る。
巻き込まれた前髪が僅かに切れる。
鼻先を掠める死から、彼は目を逸らさない。それが、彼にとっての
故に、彼は待ち続ける。
当然の行為として。
当たり前の過程として。
本来ならば断固として回避すべき破滅的事象を、淡々と待ち続ける。
「ARGHHHHHHッ!」
咆哮。
後に、断末魔。
怪異が殺意を以って吠え滾った刹那、その突進に合わせた刺突の一撃が喉笛を抉り、恐怖の咆哮をくぐもった断末魔へと変質させる。
「ーーーーーー」
声は無い。
掛け声も、勝ち誇る鬨の声も。
ただその手の得物を……神代より伝わる竜を殺す為の武器を……滅竜器【斬尽】の刃を、つき立てるのみだ。
滅竜器。対竜兵装。竜を討ち、滅ぼす為の兵器……
豊が待つのは、それを突き立てるべき、本来の敵手。
それは、今彼が相対するような、動物を変異させた程度の"雑竜"などでは無い。
「……来い」
……では、それは正しく"竜"と、そう呼ばれるものだろうか?
否。正しくそう呼ばれるべき存在は、既に地上から失せて久しい。
世界に僅かな面影を残して、それらはすでに消えてしまった。
ならば、それとは何か?
「ARGHHHHHHッ!」
「……遅い」
今目の前に在る"雑竜"ーー元は野に生きる野犬か、或いは謎の失踪を遂げたペット達の成れの果てーーを、生み出し、使役する存在。
正しく"竜"ではないそれは、同様に正しく人ではあり得ない
「GRRRッ!!」
……飛び交う怪異の爪牙。僅かに掠めたそれが、豊の暗灰色のコートを浅く切り裂き、血を滲ませる。
元から人間など容易に噛み殺せるであろう大型犬の力を、更に異形の術理によって増大した存在。
その爪牙の秘めたる威力は、一撃で人間を屑肉に変え、頭蓋を破壊せしめる理外の暴力ーー
「喚くな」
ーーそれを、生み出すもの。
ーーそれを、操るもの。
それは日常から僅か五分の距離に潜み、その埒外の牙と異形の爪を以って一切の平穏を打ち砕くものーー
「ーーーーーーーッ」
ーー刹那。
幾度目の死線の果て、致死の爪牙を潜り抜けた先。
1秒にも満たぬ反射の内に、豊はそれの存在を見出した。
夜が凝固し、闇そのものが蠕動して己を取り囲むような、悍ましいまでの存在感を。身の毛もよだつ、殺意を。
(ーー来た)
ーー僅かに半歩、人から遠ざかる。
ーー僅かに半歩、異形へと近づく。
そうして人界の理を逸脱したもの。
かつてこの世界に存在した幻想の怪異達。天を駆け、地を覆い、地平の果てまでもを自らの世界と謳った太古の支配者達。
"竜"と、正しくそう呼ばれた存在は、しかし確かに滅んだのだ。人の手によって、歴史の果てに淘汰されたのだ。
ーーしかし、今。その存在が忘れられた現代、人間の時代の最盛期に、それは再び地上に現れた。
それは、日常から僅か五分の影に潜むもの。
それは、日常の間隙に隠れ、平穏を砕くもの。
「来いーーーー」
……背後から迫る尋常ならざる殺気に、竜滅士 柳洞豊は振り返る。
距離を詰める毎にその禍々しい存在感を増幅させるそれの姿が、闇に浮かび上がる。
豊の鉄仮面じみた横顔に、なんらかの僅かな感情が揺らぐ。
それは己が使命に燃える気概か、或いは、より単純で根源的な……眼前の異形に対する恐怖か。
「ーーーー来い、"竜人"……!」
"竜人"
およそそう表現する他に、言葉が見つからない。
漆黒の鱗に半身を覆うそれは、確かに人間の形だった。
だが、違う。僅かに半歩、完璧にではなく、しかし完全に人間とはその存在を異にする構造。
異形の巨腕に変異した左腕。
腕と同様の漆黒の鱗を備えた尾。
鱗は顔面の半分までもを蝕むように黒く塗りつぶし、その中央に在る眼球は、血のように紅く人間離れして、闇を睨む。
ーー半分人間。
ーー半分"竜"。
そう呼ぶのが相応しく、同時にそれ以外の呼び方が見つからない異形の存在。
これこそが、現代の竜滅士である豊が相対し、討ち滅ぼすべき敵手。太古に滅びた竜の魂をその身に宿した怪異ーー"竜人"に他ならない。
「ーーーーーーーー」
"竜人"と滅竜士。
狩るものと狩られるものは互いに飛ぶように接近し、彼我の間に存在する空間を瞬く間に殺しながら、必殺の間合いへと近づく。
度胸試しのチキンレースめいて、二者は距離を詰めていく。
10m……5m……3m……声は無い。
息を殺して致死の瞬間を待ちわびるように、豊は更に一歩を踏み出しーー
「な……に……?」
ーー互いの必殺の間合いへ踏み込み合った敵手と、飛び来る速度のままにすれ違う。
その有り得ない顛末に驚愕した。
(……なんだ……?)
黒い風のように光背へと吹き抜けた敵を振り返り、豊は更なる困惑に陥った。
喰らっているーー否、殺しているのだ。この竜人は、この空間に蔓延る狂犬じみた"雑竜"達を。
「ARGHHHHHHッ!」
己がその爪と牙にかけて引き裂き、押し潰し四散せしめた肉塊と同じ、怪物そのものの咆哮を上げて、それは人間である豊を無視して、"雑竜"どもを襲う。
それを見る豊の驚愕は二重だ。
一つに、"雑竜"を攻撃しているということ。
この状況、豊は民間人を襲いに現れた"雑竜"を撃退し、それらを使役する本体である"竜人"が現場に現れるのを待っていた。
しかし、待ち続けて、そうして現場に現れた"竜人"が、"雑竜"を殺している。即ち、この"竜人"は"
そして二つに、この"竜人"が己を全く無視したという事。
"滅竜士"という存在、豊のようなものが存在するということは、即ち"竜人"という存在が人間に仇なす存在であることを意味する。
事実"竜人"は、彼岸から迷い出た"竜"の魂をその身に宿した事で、肉体の異形化に留まらず、精神までもを人を喰らう怪異のそれに変質させる。
しかしこの"竜人"は、
無視して、本来同族であるはずのものを襲った。
(何故……)
豊の脳内を様々な思考が煩雑に流れる
或いはこの"竜人"は、最初からこの辺りを縄張りにしていて、後から現れた縄張り荒らしの"雑竜"達を蹴散らしに来たのだろうか。だとか、それとも反対にこの"竜人"は最近ここらに来たばかりの新参者で、なりふり構わずに先客の餌場を荒らしに来たのだろうか。だとか。
そのどれもがあり得るようで、まったく的はずれなような気もした。何より、思考が纏まらない。受け入れられていないのだ。目の前の"竜人"を中心に巻き起こされる、理不尽なまでに唐突で圧倒的な、暴力の進撃をーー
「ARGHHHHHHHHHッ!!」
ーー吠えたのは襲われる狂犬じみた"雑竜"か、蹂躙する半分人間の"竜人"か。
解らない。そのどちらの発する声も、同様にこの世ならざる狂気と殺意に満ちていたから。
「殺す……殺してやる……貴様らは許さない……何処までも追い詰めて、地獄に送ってやる……」
漆黒の鱗を備えたそれはーー竜滅士である少年、豊が滅ぼすべき"竜人"はーー漆黒の鱗を雑多な街灯に禍々しく照らし出させ、獣じみて闇を駆ける
食いしばった口からはうわ言めいた呪詛が隙間風のように冷たく漏れ出していた。ひどく掠れた、殺伐と乾ききった声だった。
彼女は駆ける。吹き抜ける疾風のように、巻き上げる颶風のように、加速する血と暴虐の予感によって、掠れた声は塗り潰されていく。
「誰一人、生かしてなるものか……!」
それは爆発するかのように襲いかかり、凡ゆる全てを粉砕する。
ーー獰猛。ただその一語、それだけが疾走するそれの……彼女の全てであった。
「ーーーーーーーーッ!」
漆黒の鱗の奥、人間離れした鋭い牙を食い縛り、それは……彼女は押し殺した咆哮を吐き出した。
吼える事を拒むように。
欲望に従って吼え滾る事を、そうしてしまう事を、自ら恐れるかのようにーー
彼女が、異形に変質した左腕を振り抜く。
理を超えた膂力によって無慈悲に振り抜かれた爪の一撃は、嵐の如く渦を巻く暴力の奔流となって、群がる狂犬じみた"雑竜"を薙ぎ払う。
一度に3匹。その場に在った全てが、無造作に地面に倒れ、一瞬の内に胴体と別離を遂げた首を冗談のように軽く、足元に転がした。
一瞬の、鋭く悲痛な断末魔が夜に溶け、静寂が訪れる。
「…………!」
竜滅士 柳洞 豊は驚愕する
目の前の、意図の全く読めない竜人の存在そのものに。
目の前で繰り広げられた圧倒的なまでに凄惨な暴力に。
驚愕し、同時に、身体の奥底から湧き上がる恐怖とは別種の震えを感じていた。
刃に惹かれるような。
闇に魅せられるような。
それは、深い夜の闇の中に在って尚、完璧な暴力の色彩を孕んだ悍ましいまでの美を纏っていた。それは、ただ斬殺するという一点にその機能を突き詰めた一振りの刀が、如何なる至宝ですら及ばぬ妖しい輝きを帯びるのと同じようにーー
ーー美しい、と。その時確かに、豊は目の前の滅ぼすべき敵手に対して、そう思ったのだ。
そして同時に、それを決して認められなかった。
(ーーーー殺す)
反射じみた、思考と呼ぶには余りに短絡的で無駄のない、黒く凝り固まった強固な意思。
そうすべきと教えられた。自分はそうする者だと、絶えず己を定義してきた
故に豊は引き下がらない。確実に殺すべく、"竜人"を滅ぼすべく、その一点に自らの『機能』を純化させていく。
ーー蹴散らされ、四散し、バラバラの肉片に成り果てた"雑竜"達の亡骸が、急速に灰になって散る。
この世ならざる異形の存在は、亡骸を残さない。死せば一握の灰が、無価値な砂のように風に溶けゆくだけだ。
"竜人"も例外ではない。亡骸は残さず、死後は灰になって消え去るのみだ
……ならばお前も消してやる。首を落として臓腑を抉り、無価値な砂に変えて、跡形も無く蹴散らして踏み砕いてやるーー
豊の視界が血の色に染まり、狭まっていく。もはや獲物の存在、その息遣い以外には、何も見えない、聞こえない。
瞬く間に、獲物との距離が詰まる。殺す。声には出さず、再び呟く。
黒い"竜人"は、背後から音もなく迫る豊に気付かない。
彼がその鉄面皮の奥に隠した、冷たく凝り固まった殺意と敵意に気付かない。
……豊は、その右手に握る滅竜器、竜を殺すための兵器たる短剣、【斬尽】を、くるりと掌で一転させる。
夜気に冴える銀の刃が、一瞬だけ、獰猛な閃きを闇に走らせた。
「……っ!?」
黒い"竜人"は、遂に豊の存在に気づく
しかし、もはや遅い。
"竜人"の眼前、刃渡り20cmの【斬尽】の刃が喉笛を食いちぎるのに十分な距離には、既に暗灰色のコートを翻す暗殺者の影が迫っている。
"竜人"は……彼女は驚愕する。今この瞬間に至るまで、彼女は目の前の人間の存在を完全に意識の外に追いやっていた。彼女は彼女自身の目的の為に、自分が怨むもの以外を、その視界と思考から消し去っていた。
「ーーーーーーーーっ!」
彼女が振り返る。眼前には暗灰色のコートを翻す暗殺者。
抜かった、と思考する事は無かった。そう思うより早く、彼女の思考はドス黒い喜悦に塗り潰された。自分よりも弱い
そう思考して、しかし彼女の表情に浮かんだのはーー
「違う、私は……!」
自制。或いは、悲嘆。
目の前に迫る暗殺者にーー刃そのものの如く死を振りまく存在にーー息がかかるほどに距離を詰められて。
自らの命に触れる程に接近を許して
逃れ得ぬ致死の闘争の只中に立って
彼女が選択したのは、自らの挙動の制止という、自殺行為以外の何物でもあり得ない行動。
食いしばった牙の奥から、隙間風のように押し殺した咆哮が漏れる。
まるで自らが吼えることを、自ら恐れるように。
「ーーーーーー」
暗殺者は……豊は声を漏らさない。
気勢を伴って吼える事も、勝利を確信して笑う事もない。
ただ一片の喜悦も油断も無く、目の前の敵手を滅ぼす為に、刃を振り下ろす。
ーーその、刹那。
不意に、唐突に、敵を見失う。
目の前から、"竜人"が消えた。
振り下ろす刃の終着点には、ただ一人、少女が立ち尽くすのみ。
刃を止める。殆ど無意識に。つい一瞬前まで其処に居た"竜人"が、何の前触れも無く異形化を解いたのだと、そう理解するほどの間も無く。
「私は……違う、あいつとは……私は……母さん……っ」
異形化を解く"竜人"。
その行動には僅かばかりの合理性も、戦術的価値も無い。全くの無駄。自傷や自棄の類いの物以外ではあり得ない。
咄嗟に刃を逸らした豊の目の前には、少女が居た。自分と同じ年頃の
"竜人"。女。敵。殺すべき者……それ以外の情報は必要ない。直ちに排除すべき敵……その筈なのに、豊には、それができなかった。どうしても、それを選択できなかった。
何故かは分からない。ただその少女の右目ーー異形に堕ちてはいないもう一方の目ーーから、吸い寄せられるように目を逸らせなかった。
涙の色の目……薄青く澄んだ……硝子のような目だった。
「……私……は……」
糸の切れた人形のように、倒れこんだ彼女を、豊は咄嗟に抱き留めた。
倒れぬように両腕で支えて、その予期せぬ軽さに……あまりにも人間的な重みに困惑した。
少女は傷を負っていた。先の"雑竜"との戦闘で負ったものではない。もっと古く、血をにじませる傷が、目に見えるだけで幾つもあった。
死にかけている。豊は、咄嗟に血を流すその傷の一つを手で押さえた。
「……許……して……」
とめどなく漏れ続けるうわ言の意味は、豊には解らない。自分が取った行動の意味も。
ただ彼女の硝子のような瞳を見て、死神の如き殺意に凝り固まった豊の思考は、人間のそれに戻ったのだ。
殺してはならないと、その涙の色の目に滲む何らかの切迫した感情によって、そう思わされたのだ。
「……、…………」
腕の中で寝息を立て始める殺すべき者を見下ろして、豊は立ち尽くした。
周囲には、風に散る灰になった"雑竜"の亡骸が雪のように舞っている。
「……何だ、これは」
それは、誰にも解らない。
ただ解るのは、これが始まりであるという事。ここから何かが歪み、何かが変わるのだという、漠然とした予感のみ。
ーー竜人を滅ぼす少年。
ーー傷つき倒れた竜人の少女。
日常から、僅か五分。
滞り無く進む日常の間隙。
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