硝子の竜滅士

アスノウズキ

第一話:世界の本当のこと

1



 ……神は、七日をかけて世界を創り給うたのだと言う。



 吹き抜ける風に揺れ、遠い潮騒のように静かに騒めく草原の景色も。

 何処までも高く突き抜ける天穹の蒼も。

 月下に果てない、あの遠い日の情景も。

 永遠と信じた全ては、どこかの誰かの片手間に作られた、七日ばかりの幻影だと言う。


「貴方は幸せな子よ」


 私の髪を梳いて、微笑みながら囁いた母の声もまた、同様に。

 七日ばかりの内に作られ、ただ同じだけの時間に崩壊する、無価値で不完全な嘘のような何かに過ぎないのだと言う。


「幸せな子、誰よりも祝福された子」


 世界とは残酷だ。

 世界とは不完全だ。

 世界とは欺瞞だ。

 世界とは不寛容だ。

 世界とは絶望だ。

 世界とは苦難だ。

 世界とは無価値で無意味で無常で無駄で無力で無価値でーー理不尽である。


 この世界が不完全であるならば、それはそれを創ったものが不完全であるからに他ならない。

 ならば、世界を創ったのは真に全能の神などでは無く。無価値と無意味を振りまき、弱者の死とそこに至る生の過程を嘲笑って蹂躙せしめ、ただ無謬の恐怖であれかしとその存在を謳う理不尽かいぶつに他ならない。


「きっと、何も怖いことは起こらないわ」


 ーーそう、今でも絶えず悔いている。

 母の言葉を信じた事。ただ無邪気に生きたこと、ただ無知に幸せを享受したことーー

 信じていたのだ。月下に微笑み、私を見守る父母の姿が、いつまでもそこにあるのだと。


 ただ変わらずそこに在り、変わることは無いのだと、根拠も無く確信していた。

 あの瞳が、月の光と共に私を照らし続けるだろうと。

 けれど、そんな幻想は、確信は、壊れてしまった。

 あの何処までも続く草原も、青く照らされる月下の道も。


 ーー埒外の牙によって。

 ーー異形の爪によって。


 私の世界を、永遠に続くと信じた幻想を砕いた理不尽それは、日常から僅か5分の陰に潜み、全てを

 七日ばかりの全てを砕くその時を、待っていた。





***





 路地の影。立ち並ぶ高層ビルの隙間。大通りから僅か5分の距離。

 人通りの集中する大路から僅かに逸れた、街の死角。眠らない街の喧騒は何処か遠く、感じられるのは忘れ去られ腐ったゴミの饐えた匂い、どろりと粘性を持って濁ったような夜の混沌。ビルとビルに阻まれた狭い視界から覗くテレビ塔の電光時計は、煌々と午前0時を示している。


「…………あ」


 通い慣れた大通りから、僅か5分。

 慣れ親しんだ日常から、僅か5分。

 距離にして数百メートル。日常の繰り返しから僅かに半歩逸れた先で、彼女を待ち受けていたのは。


「GRRR…………」


 大きな、犬と呼ぶには余りに巨大な四足の獣だった。

 獣は喉の奥からくぐもった唸り声を絞り出し、闇の中でもぞもぞと蠢いていた。

 湿った音と、乾いた木の折れるような硬い音が、間隔の狭いコンクリートの壁を反響する。

 湿った音。時折何か硬いものが折れる音。ピチャピチャと言う水音。荒い獣の吐息。

 その音の正体を、彼女は知り得ない。否、知りたく無かった。彼女は、それを正しく認識することを既に自ら放棄していた。


 湿った音ーー肉を食い千切るような。

 折れる音ーー骨髄を噛み砕くような。


 そう認識しようとする正常な意識を忘我の彼方へ追いやって、そうすることで、ようやく彼女は正気の沙汰を保っていた。

 やがて音が止み、闇の中でもぞもぞと蠢いていた獣が、少女を見た。

 闇の中で光る獣の目が、その中心に、怯え竦む少女の姿を捉える。

ビルのあわいから降り注ぐ朧げな月光に照らされ、露わになったの姿は、まるで恐怖の典型を肉の形に押し込めたようで、彼女の目にはいっそ滑稽にすら映った。


「あ……あ……」


 恐怖が思考の全てを支配する。

 頭は真っ白に弾けて、何も考えられない……その筈なのに。


(なに……こいつ……?)


 何処か冷静に、自分の置かれ、直面する状況が致命的に歪んでいるという薄ら寒い予感の正体を必死に探る自分を見出していた。

 こんな大きな獣がここに居るのが、そもそもおかしい。

 それは解る。だが、今彼女の胸に去来したのは、それとはもっと違う、悍ましい不快感ーー即ち、という、世界からズレたものに対して感じる根源的な違和感だ。


「GRRR…………」


 低く這うように唸るのは、獣毛を備えた大きな犬頭。狼のようにも見えるピンと尖った耳、首から尾へと続く肉体のラインや筋肉の隆起など、目の前に居るのは確かに、全長2メートル近く余りにも大きすぎる事を除けば、確かに見知った生き物のそれなのだ。

 けれど、しかしーー


(なに……なんなの……?)


 違和感の正体は、先ず一つにその足だ。木の枝のように節くれ立つそれは猛禽の獰猛な足を想起させ、肉球の代わりとばかりに鎌の如く湾曲した鋭い爪が、獲物を握り殺す瞬間を待ちわびて地へ食い込んでいる。

 一本一本が禍々しい刃の光沢を帯びた牙は、耳まで裂けた口にずらりと整列して嗤っている。

 そして極めつけは、その獣毛の隙間から突き出す棘のような……金属じみて冷たく硬い質感の……甲殻、或いは鱗だった。

 馬鹿げている。鱗と言えば、それは蛇や蜥蜴が備えるもので、哺乳類がそれを持つなど、少なくとも彼女の狭い常識の範疇ではあり得ないことだった。

 獣毛の隙間からまばらに鱗を覗かせ、猛禽のような四足を持ち、己を捉えて離さぬ目は、黄色い虹彩を黒い爪跡のような瞳孔が縦に両断している……その姿は、恐怖に蕩けた彼女に、ある幻想の名を口走らせた。


ドラゴン……?」


 阿呆のように呟く。喜悦を滲ませた唸り声を上げて、それは呼びかけを肯定するようにナイフのような牙を噛み鳴らす。月明かりを浴びて、血塗られた牙がぬらりと輝いた。


「うそ……」


 否、嘘ではない。他でもない彼女が、誰よりもそれを理解していた。

何故こんな事になったのか、混濁する意識の中では、僅か数時間前の記憶を遡る事さえ覚束ない。

 ……彼女はごく普通の学生だ。年は20になったかどうかという頃で、「学生の本分はなにより遊ぶこと」と言ってはばからぬような、そんなどこにでもいるありふれた学生の一人

その日も、彼女は学校帰りに数人の仲間と街に繰り出し、遊び歩いていた。

 ……男の子に声をかけられて、軽いノリでそれに付き合って、少しだけお酒を呑んで、いい雰囲気になった男の子の一人と、みんなと別れて二人で歩いて、そうする内に人通りの少ない所に連れて行かれているのには気づいてはいたけれど、まあいいか、なんて考えて……。

 だった。そして、そこからだった。彼女がどこにでもいる普通の学生から、哀れなに変わったのは。


「いや、いや……!」


 『最近、この辺で行方不明になる若者が多いんだって。喰われちゃうらしいよ、バケモノに』

つい数分前、夜道で女をおどかそうと、おどけたようにそう言った男は、今彼女の目前で、その言葉の通りの末路を辿った。

 ……一体、誰が想像できたと言うのか、こんな結末を、こんな最期を。


「助けて……」


 ……誰にも想像できはしなかったろう、存在する場所を間違えたような、趣味の悪い漫画やアニメの中から湧いて出たようなバケモノに自分が出くわして、あろうことか喰い殺されるなど。

 こんなことになるとは思わなかった筈だ。昨日までと同じ日常が、これから先も変わりなく永久に続くのだと。そう根拠もなく確信していた筈だ。

 だがその確信は、変わりなく滞りなく続いた彼女の世界は、日常から僅かに5分、距離にしてたった数100メートルの闇の中で、引き裂かれようとしていた。

 ーー埒外の牙によって。

 ーー異形の爪によって。

 がーー鱗を備えた巨大な犬がーー『竜』と呼ぶべき幻想の脅威が、彼女に向き直り、無機質な殺意を放ちながら歩み寄る。


「誰か……」


 猛禽のような四足がコンクリートの地面を踏みしめる。

 が歩を進める度、饐えたゴミの匂いが漂う路地の闇に、嗅覚を塗りつぶす血腥い獣臭が満ちる。

彼女は、もはや動けない。

 が目の前まで近づいても、

 が彼女の鼻先で、弄ぶようにゆっくりと口を開いても、

 の獣臭い息が肌を撫でても、

 の爪牙にかかって屠られ、肉塊と成り果てた、つい数分前まで一緒に歩いていた男だった『もの』と、目が合っても。

 もはや動けない。動ける筈など、ない。


「誰か……」


 遠くで悲鳴が聞こえた。ひどく掠れたそれが自分のものであるということにすら、今の彼女は朧にしか理解が働かない。

 鋭い牙を整列させた口が目の前で開かれ、恐怖に麻痺する意識の中で、彼女は奇妙にも納得していた。

 こんな牙なら、自分の頭蓋など、飴玉よりも容易く噛み砕けてしまうのだろうな、とーーーー


「誰か……!」




ーーーーーー刹那




 聞こえたのは、グシャっという湿った音。肉が潰れ、骨がひしゃげる音。

 己の頭蓋が砕かれた音だと、彼女は咄嗟にそう思いかけ、永遠のような一瞬の後、自分がまだ生きている事に気が付いた。

 恐怖に閉ざされていた目を開く。その時、視界に飛び込んだ光景はーー


「あ…………」


 ーー人間、だった。

 怪物の頭部、尖った耳と耳の丁度中心、その一点に自重の全てを乗せて、着地する男の影。重い衝撃を伴ったそれは、高所落下からの着地と圧壊を兼ねた攻撃だった。

 ひしゃげた音を上げたのは、この怪物だったのだ。攻撃したのだ、この、不意の乱入者は。

 あろう事に怪物を踏みつけ、怯まずに立ち向かっている。

 その男の存在は、ともすれば目の前の怪異以上に異質なものに、彼女の目には映った。


「動けるか」

「え?」

「走って、逃げられるな?」


 男は有無を言わさず、倒れる彼女を無理矢理に助け起こした。

 軍用品じみた暗灰色のコートを着たその男は、どうやら彼女よりも幾分か年下らしい。少年と言っても問題ないだろう。


「あなた、は……?」

「今日のことは忘れろ。これは悪い夢だった」


 問いには答えず一方的にそう言うと、その背後で潰れていた怪物が立ち上がり、遠吠えを上げた。


「走れ!」


 彼女は弾かれたように走り出す。

未だ遠く喧騒の中にある街へ。僅か5分の先に有る日常の光の中へ。


「はっ……はっ……!」


 走り抜ける背後から、音が聞こえた。

男の登場と同じ、肉のひしゃげる音。硬質な、刃を打ちあうような音。獣の咆哮、或いは悲鳴、絶叫。

 彼女は走り続ける。息を切らして、時に歩きながら、しかし決して立ち止まらずに。

 恐怖に蕩けた思考が、徐々に正常な稼働を取り戻していく。これは夢だったのだ。怪物も、それを倒す男も、何もかもは一時の夢、幻覚。強いてそう思い込もうとした。

 5分の疾走の後、街の灯りが彼女の目に突き刺さった。

 恐ろしい夢を見た。街の中で、彼女はそこから半歩逸れた先で見た悪夢を思い返そうとした。

 しかし、記憶は靄がかったように曖昧で、ここ数時間の記憶は朧だった。空寒い忘却の虚無を感じて、しかし彼女は、何事も無かったかのように人ごみに紛れていくーー






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