第三話:貴方の名前は





***





 ……時は遡る。眠りに落ちる彼女は、遠い日の夢を見た。




 白煙が、巻き上がる土埃と混ざって視界を塗りつぶしていく。

 午前零時。普段ならとうに眠りについていたはずの時間。彼女がその身を横たえるのは、柔らかなベッドの上では無く、焼け焦げた土の上。


「お父さん……」


 ガタガタと震える歯の奥から、押し殺した悲鳴が隙間風のように漏れる。

 全身をくまなく打擲されるような鈍痛。ジリジリと肌を苛む火傷の痛み。

 逃れるように、彼女は痛む首を巡らせる。右手には火。左手にも火。視界を塗り潰す炎。炎。炎。炎……。

 かつて父と駆け回った草原の青も、母が微笑んで待ってくれた、あの小さくも満ち足りた家も……全ては炎の中。燃え尽きて、無価値な灰に成り果てる。


「お母さん……」


 呼びかけに答えるものは無い。

 ただ轟々と、そこに偏在する酸素と彼女の思い出を食らって高く天へと燃え上り、煙を吐き出す炎だけがある。

 これは悪い夢だと、彼女はそう思おうとした。目を開けば、全ては元どおりになっているはずなのだと。


 ……馬鹿げている。そんな筈が無いだろう?


 嘲るような声は幻聴か、或いは遠い記憶の果てに響く彼女自身の内声か。

 炎が、その熱が、悪魔の嗤うように揺らめくその影が、彼女を苛む。


 ……見てみろ。そこに何が有る?


 横たわる彼女は、不意にその先の出来事を……炎の中でこれから繰り広げられる情景を思い出した。

 思い出して、それを見ることを拒んだ。だが、体はその意思に従わない。

 まるで映画のワンシーンのように鮮明に、何度も何度も、繰り返し思い出される情景。彼女は痛む首を巡らせ、炎の中を凝視する。


 ……ほら、目を逸らすなよ。


 炎の中には、母が居た。

 あれほど探した母の姿を見つけても、少しも嬉しくは無かった。

 母は倒れていた。炎の中で、灰に埋もれて、煤に塗れて、力無く倒れていた

 それを見下ろすのは、一人の男。

 否、人では無い。正しくは半分、それは人の形を逸脱していた。



「……本望だろう。俺の礎となるのならばな」


 は……全身に禍々しく不吉な黒曜石色の鱗を生え揃わせた、見たことを後悔させるほどに悍ましく、醜怪な、この世ならざるものの姿をしていた

 剣呑な牙の生え揃う口を歪めて嗤い、潰れた隻眼で母を見下ろし、それは……その竜人は、母の頭蓋を踏み砕いた。

 冗談よりも素っ気なく。嘘のように呆気なく、母は死んだ。死んでしまった。

 彼女は、それを見るだけだ。


 ……見ろ、お前の無力の結果を。


 嫌だ。

 彼女は叫んだ。吐き出される悲鳴が、彼女の幼い喉を裂く。


「ふふ、ふはは、ははは、はは、ははははははははははは!!」


 瓦礫の山。無価値な灰の……彼女の思い出の死骸の上に立って、隻眼の竜人は哄笑した。

 狂った嗤い声が響く。彼女の絶叫が重なる。喉の破裂音に構わず叫ぶ。何故、と。


 ……何故、殺した?


 嘲るように響いていた内なる彼女自身の声もまた、深い悲嘆に沈む。

 何故殺した。何故奪った。何故燃やした。何故、何故、何故……。


「意味が欲しいか?」


 悍ましい夜と炎を背負って、深い呪いを湛えた隻眼が、闇の中に死にかける彼女を捉える。


「そんなものは、ここには無い」


 嘲笑。侮蔑。呪詛。……隻眼の竜人は人の声で、人ならざる答えを説く。


「愚かなる敗者よ。弱きものよ。死すべき価値すらも無いものよ。お前を取り巻く全てに、意味など無い」


 その身を苛む痛みにも、彼女の生の過程の全てを焼き滅ぼす炎にも、何一つ、意味などは無い。

 それは、ただそういうものとしてそこに在る。この世界の……日常の間隙に潜む悍ましい真実を以って、そういうものなのだと、ただ高圧的に主張するばかりだ。


「怨み、憎むがいい。怒りと呪詛を抱いて生にしがみ付き、この人界の涯に復讐を謳うがいい」


 竜人が嗤う。

 黒曜石色の鱗の隙間から、その隻眼と同じ、無数の光が覗く。それは、一つ一つが呪いを秘めて世界を睥睨する暗紫色の目だった。鼓動のように光を揺らがせ、無数の目と目と目と目が、地を這う敗者を嘲笑う。

 彼女を取り巻く炎もまた渦を巻いて、彼女を嗤い、嘲った。

 揺らぐ炎の先に、母の亡骸が見えた。炎上する残酷な世界の理が、彼女の悲しみを、凡ゆる感情を、憎悪に塗り替えた。


 ……殺す。


「……殺して……やる……」


 記憶の中の彼女と、それを辿る彼女の声が重なる。

 映画の一場面のように、その決定的な瞬間だけを複写して繋ぎ合わせたフィルムのように、繰り返し再生されながら、眼前の光景は彼女の意識に焼き付けられていく。

 この瞬間の怒りも、悲嘆も、絶望も、後悔も、全ては炎の中で凝り固まって、永遠に消えないまま、呪いの刻印のように刻みつけられる。


「許……さない……」


 理不尽なものが居る。それは、その理不尽こそが世界の本質なのだと言う。

 しかし、認めない。認められない。そんなものは承服できない。そんな理不尽は……完膚なきまでに破壊して、諸共地獄に叩き落としてやる。


「……竜人は、一人も生かさない」


 泡のように、怨嗟の声が一つ。

 そうして彼女は、理不尽に仇なす復讐者となったーー



「一人残さず、殺してやる……」





***




 ……突然目の前で倒れた傷だらけの少女を家に連れ帰るのには、想像以上の体力が必要だった。


「はあ……」


 暗灰色のコートを纏う少年……豊は、ボロの外套に身を覆う傷だらけの少女を自室のベッドの上に横たえ、深く溜息を吐いた。


(何をやってるんだ、俺は……)


 柳洞 豊は竜滅士である。

 竜滅士とは、読んで字の如く竜を滅ぼす者の事である。

 竜……それは、太古の世界を支配した神秘的な絶対存在。

 竜滅士は、それを狩る者、滅ぼす者はである。本来人間と竜との力の差は絶望的であった。槍を持とうが弓を取ろうが、人間が決して津波や台風を破壊出来ないように、人と竜との戦いとは、そういうものだった。

 だが、人類は真底諦めなかった。幾百、幾千の同胞を殺されようと、夥しい敗戦の記録から竜の行動傾向を割り出し、竜が肉体から切り捨てた鱗や牙を用いた武具を持ち、知恵と執念とによって、ついに人類は竜に勝利したのだ。

 そして、今。竜の存在が伝承の中に朽ちた現代。竜たちは再び地上に姿を現し始めていた。過ぎ去った台風が翌年も必ず襲来するように、当然のこととして、自然の一環として、竜達は復活の時を迎えようとしていた。

 それが、竜人。

 彼岸の果てに、自らの魂を保管する異空間"竜の眠る地"を作り出した竜達は、今彼岸の果てを迷い出て、人間に取り憑き、再び人界を侵そうとしていた。

 豊ら現代の竜滅士は、竜人を狩る。

 日常の間隙に潜む異形の爪牙が人界を侵す前に砕く。それが彼らの使命……。

 そのはずだ、が。


「はあ…………」


 家賃4万5千の1Kマンションに、豊の溜息と少女の寝息が重なる。

 柳洞 豊は竜滅士である。竜人を滅ぼす者。竜人を殺す者……そして目の前で眠る少女こそが、他ならぬ、その竜人なのである。


(何を、やっているんだ、俺は……!)


 苛立ち交じりに同じ自問を続けながら、しかし一向に答えは得られない。もし彼の師がここに居たならば、躊躇なく殺せと言っただろう。当然の結論だ。竜滅士として、これ以上に正しい答えなど無い。

 だが、豊はそれをしなかった。何故かは解らない。そして、恐らくはそれが一番の問題点だった。


「うぅ…………っ、…………っ」


 寝息を立てる少女は、竜人の少女は、時折苦しげにうめき声を上げる。傷が痛むのか。悪い夢でも見ているのか。


「お……母……さん…………」


 咄嗟に「何?」と聞き返そうとして、豊は息を呑んだ。

 泣いていた。その頬が、涙に濡れていた。豊は動きを止めて、その光景をただ見ていた。


「ん……っ、………………っ!」


 そして少女はゆっくりと目を開けて、弾かれるように身を起こした。


「動くな」

「………………!」


 豊は即座に少女の傍らに移動し、その首に滅竜器【斬尽】の刃を突きつける。


「俺は竜滅士だ。これからお前に幾つか質問をする。答えなければ殺す。妙な答えをしても殺す。分かったらゆっくり一度頷け」

「…………」


 少女はゆっくり一度頷く。

 豊は感情を一切表出させない鉄の仮面を纏ったような表情で続ける。


「お前は何処から来た?」

「……ここに来る前は、仙台の辺りに居た。敵を追いかけてここまで来た。船に潜り込んで…………」

「敵だと?」

「竜人だ」


 少女の目に、ゆらりと炎が揺れた。

 それは、黒く燃える、憎悪の火だった。


「竜人は殺す。一人も逃さず地獄に送る」

「竜人を、殺す?」

「そうだ」


 この竜人の少女は、竜人の使い魔たる"雑竜"と交戦する豊の前に現れたその時、人間を憎む竜の魂を宿す竜人にとって、人間の中でも更に憎むべき不倶戴天の敵である筈の竜滅士の豊を無視して"雑竜"を襲った。圧倒的な憎悪と暴力によって、蹂躙し尽くした。

 その理由の一端を、豊は知った。そして、その途方も無いイレギュラーである『同族殺し』の存在に、僅かに戦慄した。


「では、お前に竜人の組織との繋がりは無い。そういうことか?」

「無い。……敵としてという意味ならば別だが、少なくとも今まで所属を名乗るような者を倒した記憶は無い」


 単にそうする前に殺してしまっただけかもしれんが……。

 静かに、小さく呟く少女の声には、暗い喜悦が滲んでいた。澄んだ響きの奥に憎悪の翳りを揺らがせるその声は、恐ろしく、悍ましく、何処か惹きつけられるような、切れすぎる刃にも似た妖しさがあった。


「どうやって竜人を追っていた?」

「カンだ。他に言いようが無い。周りに竜人が居て、そいつが力を使うと、何となく解る。……理屈は解らんが、少なくとも今まで外した事は無い」

「……それがお前の竜人としての能力というわけか」

「……戦っている内に身についた。きっとお前の言う通り、そういう類のものだろう」


 カンの鋭い竜人、というのは、特段珍しい物でもない。寧ろ竜人ならば、誰もが一定以上に持っているものだ。

 竜人の元となった竜にとって、天敵となり得るのは、自身よりも強い竜に他ならない。野生動物が危機を察知するのと同じに、自身にとって天敵たり得るその存在を感じるのは当然のことと言えるだろう。

 だが、彼女の話の通りの精度で、となると、それは一種の異能と言っても差し支え無い領域だ。

 特別にカンの鋭い種の竜魂が、彼女には憑いているのだろう、と思われた。


「……何故竜人を殺す?」


 続く問いは、核心に触れる。

 少女は視線を遠くへ逸らし、目を眇めた。悼むような、痛むような、そんな目だった。


「…………仇、だからだ」

「……復讐か」

「そうだ」


 遠くを見たまま素っ気なく答えて、少女は口を噤んだ。その表情は、確かな怒りを秘めていながら、奇妙に凪いでいた。


「……母親の、か」

「ーーーーっ、」


 少女ははっと目を見開いて、豊に向き直った。

 右目だけが硝子のように薄青い左右非対称の瞳が、驚愕に揺らぐ。


「お前……」

「……うなされていた……聞くつもりは無かった」

「……そう、か」


 刃を首筋に突きつけたまま、豊は言い訳するように言った。

 おかしな話だ、と思った。今にも殺すと脅しながら、その相手の顔色を窺っているのだから。滑稽だと思ってはいても、この時、豊は何故かそうせずにはいられなかった。


「……お母さん……母が何故殺されたのかは、解らない。優しい人だった……死ぬ必要が有ったとは思えない」

「だから、竜人を殺すのか?母親を殺した奴だけでなく、全員を?」

「……そうだ。竜人は一人も残さない。あんな理不尽は……二度と、誰にも……、っ」


 突然、少女が息を詰めて、蹲った。豊は咄嗟に彼女の首から刃を引く。


「どうした」

「……なんでもない。……っ!」

「怪我だな。傷を見せろ」

「しかし」

「余計な真似をすれば殺すと言ったな?早くしろ」


 何をやっているんだ、と悲嘆に暮れる内心の恨み言を黙殺して、豊は手早く応急処置用の救急箱を取り出した。

 何をやっているのかは、正直なところ自分自身でも全く理解できなかったが、何故かそうせざるを得なかった。ただ、右目だけが薄青い彼女の左右非対称の瞳を見て、その瞳の薄青い色彩が、まるで涙の色をしているように見えてーー


「……っ!? お前、なんだ?な、何やってる?」

「お前が傷を見せろと言ったんだろう、竜滅士」

「そうだが、服を脱げなんて一言も言ってない!」


 ……己の職務にかける意識の問題だの、師の教えに反する後ろめたさだの、竜人を助けるなどという職務放棄同然の行為に対する自己正当のあれこれだの……。

 諸々面倒に張り巡らされた豊の思考は、唐突に目の前に現れた瑞々しい肌色に塗りつぶされた。


「着ろ!服を着ろ!着たまま怪我を見てやる!早くしろ!」

「どうやって……」

「振り向くなバカ!殺すぞ!」


 わかりやすく取り乱して、鉄面皮の表情も総崩れに、豊は両手をバタつかせた

 幼い頃から、竜滅士達の寄り合い所帯である滅士協会で竜滅士になるための訓練を受けて育った豊は、このような状況に慣れが無かった。

 早い話が、ゴリゴリの男社会で育ったせいで、女性への免疫が無かった。


「わかった、傷の感じはさっきの一瞬で大体解った。重症ではない。傷が多すぎるのが問題なだけだ。あとは自分でやれ」

「どうすればいい?」

「消毒液ぶっかけて綿充てて包帯巻け。早くしろ。早く服を着ろ」

「……っ!…………っ!……っ!!」

「なんだ、どうした」

「かっ……、傷が、焼ける……っ!」

「……消毒液かけすぎたのか?」

「ぶっかけろ……って……」

「本当にぶっかける奴があるか!」


 最悪だ。最悪に最低だ。閉じた瞼の裏にも、肌色の光景が張り付いて離れない

 柳洞 豊は竜滅士である。今まで幾度となく人の世に仇なす竜人をその手で、滅竜器【斬尽】の刃で切り捨て、葬って来た。

 『冷徹であれ』それが師から受けた彼の最初の教えであった。どんなことにも心を動かさず、表情を変えず、冷静に徹するべし、と。

 だが、今の豊の状況は、それとは程遠い。取り乱し、慌て、叫ぶ。そこに彼が竜滅士として生きる上で骨身に染み込ませた死神のような冷徹さは欠片も見られなかった。

 柳洞 豊は煩悶する。内心頭を抱えていた。己の置かれた状況の意味する所について、彼女を助けた理由について。

 思い悩みながら、豊はえもいわれず居た堪れない気持ちに苛まれていた。

 マズイ。これはマズイ。だってこれじゃあ、端から見たらまるでーー


(これではまるでこいつが女だったから助けたみたいじゃないか!)


 そんな筈が無い、断じて違うあり得ないーー

 殺すべき者を助けたという、生まれて初めての職務放棄の理由が導き出せない事が、生来の真面目さと相まって豊を追い詰める。追い詰められた思考は、『こいつが女だったから、やましい気持ちが有って助けたのではないか?』という彼自身が絶対にあり得ないと否定したい結論を掠める。

 閉じた豊の視界に、彼女の容姿が、肌色の光景がフラッシュバックする。淡い色の髪は神秘的を通り越して現実離れした、右の瞳と同じく、ガラス細工のように薄青く、その下に覗く顔もまた、精緻な造りの人形めいた美しさの影に少女特有の幼さを秘めた、この上なく流麗にして美麗である、としか表現出来ない完璧さ。

 傷だらけでボロッカスの格好をしていることを除けば、あらまあまるでプリンセス。豊の生活する味もそっけもない1kマンションも、一瞬にしてお城に早変わり。

 

「……違う……断じて。断じて違うぞ、俺は」


 ヨタヨタと奇妙なステップを踏んで、豊は二、三歩後ろによろけた。

 飲み込めない状況に目眩がしていた。自分自身の行動の不透明さに、吐き気さえ催していた。


「……お前は、妙な奴なんだな」

「……何?」


 少女が唐突に口を開いた。

 その声から、表情から、先ほどまでの憎悪に塗れて敵意を振りまくとげとげしさが消えているのが、目をつぶっていてもわかった。

 毒気が抜かれた、という感じだった。


「お前は竜滅士なんだろう?……竜滅士という奴に会ったのはこれが初めてだが、どうもお前は妙だよ」

「貴様の言えた義理か」


 目を閉じたまま、豊は吐きすてるように言う。

 微妙に情けない自分のその格好に、豊はまたなんとも言えない気分になった。


「そうじゃない……そうじゃないが、そのなんだ」

「なんだ」

「いや……やっぱりいい。世話になった。この恩は、いずれ必ず返す」


 そう言って立ち上がる少女の気配を察して、豊はぎょっとして目を開けた。

 既に服は着られていて、露出した肌に、若干乱雑に包帯が巻かれているのが見えた。


「……行くのか?」

「ああ、十分だ。世話になった」

「その傷でか」

「何てことは無い。私は竜人だからな、治る」

「……そう、か」


 もう一度、世話になったと言い残して少女が立ち去ろうとするのを、豊は咄嗟に引き止めた。瞬間的な閃きが、彼に行動を起こさせたのだ。


「……待て」

「なんだ」

「お前は、竜人の気配が読めると言ったな?」

「そうだが」

「ならば、だ」


 そう言って、豊は少女の左右非対称の瞳を見返す。

 少女を見るその目は、既に冷徹な竜滅士のそれだった。


「その能力で、この街に潜んでいる竜人を見つけ出せ」

「なに?」

「否は許さん。俺はその為にお前を助けたんだからな」

「そうなのか?」

「……そうなのだ」


 半ば自分に言い聞かせるように言う。

 竜人を利用して竜人を狩る。あまり褒められた策では無いが、あの"雑竜"を放った竜人とは、いたちごっこが続いていた。均衡を破る為には、致し方無し。これで竜滅士の領分からはギリギリ外れずに済む。


「良いか、これは命令だ。拒否はさせない。逆らえば、貴様もろとも殺すまでだ」

「……それで恩を返せるならば、そうしよう。竜滅士」


 ふと窓の外に目をやる、窓の外が白んでいる。豊の意識を、焦燥が駆け巡る。


「では私は、この事件が解決するまでは……竜滅士、お前の助手という事になるな?」

「ああ、働いてもらう」


 少女は、左右非対称の目で豊を見返した。薄青い右目には、様々な感情が涙とともに溶け出しているようで、豊にその内情を伺い知る事は出来なかった。


「お前、名前は?」

「名前?」


 少女はキョトンとして、阿呆のように鸚鵡返しに答えた。質問の意図が解らない、というリアクションだった。


「……いつまでもお前お前と呼び合っては面倒だ。非効率だろう。その、何かと」

「……なるほどな」


 ふむ、と感心したように、少女は頷く。意外と抜けているのか、と豊は思った。


「……俺は柳洞 豊。竜滅士だ」

「私は……」


 少女は、ゆっくりと記憶を探っているようだった。

 どこか感慨深げに、自分の名前を遠い記憶の深淵から呼び出すように。

 その様子は、どこか神秘的で美しく、超然としていた。

 やがて少女は、ゆっくりと口を開きーー



銀柩しろひつぎ 詠璃紗えりざ、竜人だ。よろしく頼む、柳洞 豊」



 ……え、偽名?

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