第9話:月下に這う蠕虫
路地の影。立ち並ぶ高層ビルの隙間。大通りから僅か5分の距離。
人通りの集中する大路から僅かに逸れた、街の死角。眠らない街の喧騒は何処か遠く、感じられるのは忘れ去られ腐ったゴミの饐えた匂い、どろりと粘性を持って濁ったような夜の混沌。ビルとビルに阻まれた狭い視界から覗くテレビ塔の電光時計は、煌々と午前0時を示している。
「…………あ」
年若い女性。あるいは少女。闇故に詳細は判然としない。ただ確かなのは、彼女は獲物であり、彼女の眼の前に在る四足の獣ーー獣毛の隙間から鱗を覗かせる竜の如きこの異形こそが、それを刈り獲る理不尽な捕食者であるということ。
「――――ッ!」
――そして、それを高所落下からの圧壊と刺突によって踏み潰し、殺害せしめたのが、他ならぬ竜滅士、この世の理不尽を除く者であるということ。
「お前が見たのは悪い夢だった」
「……あ……あ……」
「忘れろ。帰って寝るんだ」
女は豊の言葉を聞いてハッと我に返ったように、人通りの多い道を目指して走っていく。
僅か五分先の日常へ。僅か数百メートル先の現実世界へ。
「……やれやれだ」
着地し、周囲を見渡す。目視できるだけで10体以上の雑竜が居る。
更に物陰に隠れているものの気配も含めれば、今ここにいるだけでも20体近くの敵がいる事になる。
「……小物は少し言い過ぎたかな」
刹那、胴まで裂けた口を開き、飛びかかる異形。
暗灰色のコートの裾を翻し、豊は牙から逃れ、すれ違いざまに抜刀。同時に、抜き放った滅竜器【斬尽】の刃で、怪異の首を掻き切る。
「……いや、やはり張り合いが無い」
切り捨てられた怪異は、鈍い振動を伴ってアスファルトに落下し、灰になって消える。
豊は振り返らない。
遥か高き月だけが、その最期を無慈悲に見届ける。
「次からは、最低でも3匹は同時にかかって来るべきだな」
聞く者は無いと知りながら。意味を解す者は居ないと知りながら。豊は強いて不敵に笑い、目の前の異形を睨んだ。
月下に白く照らされる中、豊は飛び交う怪異の牙と、再び切り結んだ。
***
「どうも、お姫様。今夜は月が綺麗ですね」
冗談めかして、芝居の台詞を
少年の声は、廃ビルの屋上に反響した。
「こんなに月の綺麗な夜だ。想い合う男女がここに出会えば、やる事は一つだろう」
「貴様と為す事など何一つもない」
それに、傷だらけの少女が――左右非対称の目を憎悪に燃やす
「ただただ死ね、竜人」
「ああ――」
言いながら、言葉を交わしながら一切の意思疎通を絶った音の応酬の最中。異形と化した二者の爪牙が、火花を散らして激突する。
「――そうだ、僕はただ君に殺され、ただ君を殺し、ただただ死のう」
すれ違い様に漆黒の異形と化した詠璃紗の左手の爪と、まばらな獣毛の狭間から剣呑な光を覗かせる誠二の爪が激突する。
再び火花。身を翻して向き直り、その勢いのまま、溶鉄めいて紅蓮の熱を宿す尾を振り抜く。
「――――ッ」
声を出す余裕も無い。限界まで上体を反らし、なおも足りず、驚異的な柔軟性によるブリッジ姿勢の回避によって、誠二は詠璃紗の攻撃を回避した。
眼前を死が過る。思考は、ただそれを回避する事だけに最適化され、その一点に収束する。
死の際を戯れに行き来するような攻防。ただ風の吹くように頬を撫でる、無尽の殺意。
「――――」
声もなく歓喜に打ち震える誠二の胸中にはしかし、未だ一握の不純物があった。
"竜人に宿る竜魂は一人につき必ず一つ。一人の竜人が扱う能力は、必ず一系統のみだ"
竜滅士の――本質的にはただ単なる人間に過ぎない筈の、あの男の言葉。
しかしどうだ、目の前に居る彼女の姿は。異常の膂力を誇る漆黒の左腕。蟲の翅のような片翼。紅蓮に赤熱する尾――硝子のように澄んだ、薄蒼の右目。
そのすべてに、一つの生物としての整合性は欠片も感じられない。まるで子供の手によって創造された無敵の怪物のように。幼い「最強」を満たす為に産まれ落ちた、ちぐはぐのコラージュのように。
「――なんにせよ、変わり種と言うわけだ」
嗤う。月光に照らされて白々と浮かび上がる笑みは、尋常ならざる感情に形作られた異形の笑み。
「私は――――」
「おっと」
語り出そうとした詠璃紗の言葉を遮るような、鋭い爪の一撃。今度は詠璃紗が極限の回避を見せる番だ。
紙一重に致死の爪を避け、そのまま半回転。漆黒の竜腕に備わった湾曲する刃のような爪を叩きつける。
「――――――――っ、」
反則じみた反射神経によって為される反撃。誠二は、紙一重の呼吸で尾によってそれを受け、一歩距離を置く。
「それは……」
呟いた詠璃紗の言葉が指すのは、誠二の尾の先―― 一枚だけ他の鱗に対して逆向きに生えた鱗。いわゆる竜の逆鱗。そこに、明らかに人為的に刻まれたアルファベットの「V」
「――ふふ、気になるかい? 囚人の名札のようなものさ。この檻の中で、窮屈な思いをしない為の、ね」
芝居掛かった仕草でそれを掲げて見せて、竜人は嗤う。
「どうやら僕らには、互いに秘密が有る。――しかしそれらは、永遠に明かされる事は無い。僕らは互いに同等の謎を抱えて死ぬんだ」
「抜かせ」
嗤う竜人に、青い眼の――左右非対称の、ガラス細工の眼を持つ竜人が答える。
「貴様の秘密になど元より興味も無い。竜人死すべし」
「それは重畳」
言うや否や、誠二は音も無く詠璃紗との間合いを詰め、半呼吸の内にその懐へ踏み込む。
「――――では続けよう。牙で語らう僕らの逢瀬を」
またも激突し火花を散らす異形の爪牙を、ただ月だけが白く見下ろしていた。
***
「飽きないものだな、そんなに人の肉が欲しいか」
竜人の齎す神秘によって存在を歪められた獣に過ぎぬ"雑竜"どもは、人の言葉を介さない。
「俺はとっくに飽きたがな。歯応えの無い怪物モドキを捌くのはうんざりだ」
故に豊の声は、声としての正確なコミュニケーションを果たしはしなかったが、そこに込められた敵意だけは、異形のそれにも正しく伝わったようだった。
(……何をやっている、俺は)
刃を振るう。血肉が舞う。
一匹を相手取る内に、もう一匹が背後から迫る。順手に構えた右手の刃で一匹目を狩り、逆手に構えた左手が背後から来る二匹目の両目を裂く。その半拍後に迫ったもう一匹の顎を蹴り上げ、距離を離す。
同時に捌くのはせいぜい三匹が限界か。その場に居る全てとの距離を測り、刃を構える。
(ここまで真剣に戦う必要は無いだろう。竜人が二人互いに殺しあうと宣言したのだから、適当にいなして、生き残った方を隙を見て殺せば良いだけの話だ)
走り抜けながら、四方から躍りかかる異形の犬を両の刃で払う。
飛びかかる敵手の運動エネルギーを利用して、喉に深々と刃を突き立てる。思い切り刃を引き抜くと同時、派手に散った血飛沫が周囲の雑竜どもの目を潰す。
僅かに怯んだ隙を逃さず、再び疾走。すれ違い様に三匹の喉を裂く。
またも血飛沫。スプリンクラーのように撒き散らされた異形の血が豊に降りかかる。
この場に血を浴びぬ者は無く、ただ彼を見下ろす月だけが、穢れを知らぬ銀の瞳で全てを見下ろしている。
(『竜人は非情を刃と変えて討つべし』――要は最終的に、殺せば良いんだ)
刃を振り抜き、血を浴び、灰となって消える異形の亡骸を踏んで、豊は舌打ちをした。
(――なのに、俺は何にイラついているんだ?)
刃を振るうたび、甦るのは人間の顔だった。
一匹の喉を裂く。今さっき助けた女の顔が浮かび、消える。
一匹の腹を開く。寡黙な学友、十 一の顔が浮かび、消える。
一匹の脊髄を断つ。優しい級友、岸上 響子の顔が浮かび、消える。
一匹の頭蓋を砕く。かつて、二週間前。ありふれた仕事の一環として救った者の顔が浮かび、消える。
「――――――っ!」
命を奪う度、浮かぶのは今ある命。
情は無い。その筈だった。滅士にそんなものは必要無かった。そんなものは、ただ刃を鈍らせるだけだった。
(――お前の、せいか)
―――― 一匹の心臓を貫く。死を振りまいて嗤いながら、硝子のように青い眼で泣いた、あの弱い、馬鹿な女の顔が浮かび、消える。
(――――お前の、せいか!)
人の理などとうに外れて生きているクセに、どうしようもなく人間を捨てきれない弱い怪物。理不尽になると嘯きながら、その実、世の理不尽に翻弄されるだけの、弱い化け物。
(――――お前が……お前が、泣いているから)
だから、苛立っているのだ。
どうしようもなく、腹を立てて居るのだ。
化け物のクセに。理不尽に生きると誓ったクセに、
(――お前が、捨てられずに縋っているから!)
かつて、彼女が竜人を殺して生きる理由を語った時。彼女は、「そうするしかなかった」と言った。「それ以外に無かった」のだと。
(――――自分で選んだクセに)
月下の夜にヒーローは現れず、すべては理不尽に砕かれたのだと。
(――――自分で選んでおいて、いっぱしに悲劇のヒロインを気取るな!)
今宵は満月。
あらゆる全ては、月の女神に見下ろされて、つまみびらかに照らし出される。
――豊の刃が、迫る異形の骨肉を断ち切る。月下の夜にヒーローは現れない。そう言って笑った馬鹿な女の顔が浮かび、消える。
豊は、微かに笑った。
「――現れないだと?」
聴く者の無い言葉は、ただの音だ。
故にこの声はただの無意味な音であり、そうである故にそこに込められた笑みの真意もまた、無価値な謎となって、永久に失われ行くのだ。
「つくづく馬鹿だよ、お前は」
――今に見ていろ馬鹿な女め。お前のような半端者に都合よく悲劇のヒロインを演じさせて置くほど、世界は甘くは無いのだ。
豊は笑い、刃を振るう。鮮血がその身を染め、月に照らされる世界に、血の道を刻む。
「――見せてやる、理不尽とはこういうものだ」
獣の後を追い、目的の場所を目指す。
その足取りは不確かに、月下に這う
***
「どうしたのかな、元気が無いぞ」
廃ビルの屋上。月に照らされる影は二つ。
一方は跪き、一方はそれを見下ろす。
見下ろす一方――誠二は心底残念そうにため息をつき、続けた。
「連戦の疲労、心身の磨耗、怪我――君の体は、もはやその力に耐えられない」
それを見上げる詠璃紗の左右非対称の瞳には、隠しきれない疲労と衰弱――明確な憎悪と絶望が渦巻いていた。
「君ならば或いは、と思ったんだがね」
誠二が、ゆっくりと詠璃紗に歩み寄る。
一歩、一歩。確実に間を詰めるその足取りは、狡猾な捕食者のそれ。近づきながら、誠二は言う。
「僕は殺されたいんだ。自分の全力を出し切って、その上でそれらを全て踏みにじられて死にたいんだ」
詠璃紗は、自分を見下ろす竜人の眼を見た。底なしに乾いた、黒い虚の淵を。
「君が駄目ならば、僕はまた次を探すとしよう。それが駄目ならばまた次を。更にその次を。次の次を。次の次の次の次の次の次の次の次の次の次の次の次の次の、次を」
――――より素晴らしく、死ぬ為に。
「ああ……」
届かなかった。
この爪も、牙も。復讐を誓って、自分の命を異形に堕として手に入れた全てが、遂に届かずに潰える。
全てを殺すと誓った。自分の全てを奪った竜人を、その関係性の有無に関わらず、全て殺すと誓った。これは、人生をかけた壮大な八つ当たりだった。
その左右非対称の目を閉ざすこと無く、詠璃紗の思考は加速していく。
(……お前は、どうしているかな)
死を目前に控えたその一瞬、脳裏に浮かんだのは男の顔。怜悧な刃のようでありながら、その峰と鋒のように、表裏で表情を変える男。自分と同じ、「こうならざるを得なかった」と語った男。私を助けたばかりに危機に瀕した、お人好しの、馬鹿な男の顔。
それらがとりとめもなく浮かんでは消え、その片隅で、死を振り上げる竜人の腕は朧にしか知覚されなかった。
それは、或いは逃避だったのだろうか。死の恐怖を紛らすために脳が起こした防衛反応だったのか。その為の慰みになる程度には……空虚な生の末期に思い出すには、あの束の間の休息は、悪く無かった。
「――さよなら、僕の愛しい
――――――――刹那。
銀柩 詠璃紗が自らの死を現実として受け入れる、正にその瞬間。
飛来した物体が、その無謬の死を――竜人の爪を、弾いた。
「招かれてやったぞ、竜人」
飛来したのは、奇妙に湾曲した短刀。
この世に蔓延る埒外の異形の肉を裂き、骨を断ち、その存在を抹消せしめる怪異殺しの刃。
人界の理に背く全てに死を刻む――滅竜の剣。
「いつか、お前は言ったな」
世界とは残酷だ。
世界とは不完全だ。
世界とは欺瞞だ。
世界とは不寛容だ。
世界とは絶望だ。
世界とは苦難だ。
世界とは無価値で無意味で無常で無駄で無力で無価値でーー理不尽である。
そうである故、そう在らざるを得ず。
竜を追う者は、自らもまた竜とならざるを得ず――――
「――来たぞ、俺は」
月下の夜に、ヒーローは現れなかった。
そう思い込んでいた。根拠も無く確信していた。
しかし、その確信は――銀柩 詠璃紗の持つ世界は、今再び打ち砕かれようとしていた。
「お前の思う通りになど、してやるものか」
廃ビルの屋上。異形の闘争に穢された闇の闘技場。喰らい合う二者の間に割り込んで、それは高く声を上げた。満月の光がサーチライトとなって男を……その暗灰色の姿を照らす。
――――月下の夜に、
少女の抱く不確実な幻想と絶望のその全てを、怪異殺しの刃で引き裂く為に。
「
――喰い合う怪異と、それを滅ぼす刃。
満月の下に、遂に彼らは揃う。
互いに自らの求める理不尽を満たすためだけにそこに立つ彼らの意思も、闘争も、その決着も、また。
ただ闇の中に消える、蠕虫の歩みの如く――――――
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