第8話:決着へ至る夜
銀柩 詠璃紗が姿を消して、三日が経過した。
豊が最後に目撃したのは、彼の家の近辺にまざまざと残された惨憺たる死闘の痕跡。爪痕、血痕。
何によって破壊されたかも解らぬ徹底的な破滅の様相。しかしなればこそ、その真実は滑稽なほどに解りきっている。
彼女は竜人と交戦したのだ。交戦して、姿を消したのだ。
その結果が如何なるものなのかは解らない。異形の竜人は死してその骸を残さない。ただ灰となって朽ちるのみだ。
故に、彼女の行方は依然不明のまま。
「……考え事か…………」
豊の思考に割り込むように、横合いから空気に溶けるような少年の声がする。
手元の本からその涼しげな目を些かも逸らす事なく、
「ああ、いや、別に大したことじゃないんだ」
「……そうか」
「うん。いや、近所の犬が。ちょっとね」
十 一との会話は、いつも何処かおぼつかない。
独特の間を置いて話す彼との会話には、常に奇妙な沈黙が付きまとう。
「……一年と少しか」
「え?」
「……入学して、お前と親しくするようになってからだ」
「ああ、そうだね」
「……お前はいつも、何かを隠しているな」
一は、この時でさえ片時も顔を上げていない。
そうでありながら、自らの僅かな感情の機微すらも余さず掌握されているような、そんな錯覚を、豊は確かに感じていた。
「……お前は解りやすい男だ」
「そうかな」
「……気弱で、常に自分が優位に立つことなく、周囲に溶け込もうとする」
それは、彼が周囲に与えたかった自分自身の印象そのものだ。職務の妨げたりえぬよう、常に静かに、穏便に。竜滅士としてでなく、人間 柳洞 豊として浮世を渡る為の仮の姿。
「……だが、どこか……どこかに『ここより先には何者も踏み入らせまい』という領域が有る」
豊の背筋を冷たい汗が這う。豊は表情を変えず、十 一はそれを見ない。
「……お前のことで、俺は何かを見落としている……それが何なのか……俺は……何か、思い違いを……」
「ジュウイチ」
敢えて、馴れ馴れしいアダ名を口にする。
十 一は、ここで僅かに顔を上げて豊を見た。
「思い違いなら一つ有る」
「……なに?」
努めておどけたように、平静を装って、豊は言う。
「俺は入学してから三ヶ月位は全然人と話してなかったから、君と親しくするようになってからは厳密に言うと一年も経ってないんじゃないかな」
暫し無言で豊を見つめてから、十 一は僅かに肩を竦めた。感情の起伏に乏しい鉄面皮の彼には珍しい、人間臭いリアクションだった。
「……俺の、気にしすぎだな」
そう言って、十 一は再び本に視線を戻した。
豊は少しの間そのままそこに佇んでから、やがて別れの挨拶を口にして、教室を後にした。
時刻は17時近い。放課後の校舎から踏み出た時には、豊の表情は既にこの世にありえてならぬものを見る、竜滅士のそれに変わっていた。
「気付いてくれて嬉しいな。君と話がしたかったんだ」
「俺は貴様に用など無い」
校門の脇に背をもたれて、男が一人。目を合わせずに、豊は答える。
「
男……赤城 誠二が笑う。その声は、ただ人を喰らい殺すのみの怪物がその声帯から放つ、単に死を告げるだけの音に過ぎなかった。
***
「……僕が君たちを見ているのに気づいてくれて良かったよ。仲睦まじく話している所に割って入るのは……そのなんだ、気がひけるからね」
そのまま、二人は何処へともなく歩き始めた。
一見すれば、二人は談笑しながら下校するただの学生以外には見えはしないだろう。
しかし、実際は違う。一体誰が想像し得るだろうか。一見温和に笑うこの少年が人を喰らい殺す異形の怪異であり、それに並ぶもう一人の少年は、それを殺す異形殺しであるという事を。この世の裏側、人界の理を半歩踏み出た先に在る、異形共の暗闘の存在を。
「あれだけ薄気味悪い殺気を向けておいて気付くなという方が無理な話だ」
「気味が悪いかい? ……仕方ないさ、人間というのは、自分の手に余る存在には往々にしてそんな印象を抱くものだろう。恥じることは無い」
そう嘯いて、赤城 誠二は笑う。
どこか超然と高みから俯瞰するようでありながら、その実粘性を伴って絡みつくような爬虫類じみた笑み。
「さて、僕から君に話したい事が有るんだが……実の所、本当に話したいのは君の方なんじゃ無いかな、と思うんだが、どうかな」
「お前と話す事など無い」
「そうかい?」
悍ましく冷えていながら、どこか奇妙な色香を放つ笑み。それはさながら、斬り殺した獲物の血を帯びて輝きを増す、妖刀の刃のそれに似ていた。
赤城 誠二は、元々は周囲に強い印象を与える事の無い少年だった。しかし今、弱者を殺し、その血肉を糧に得た自信と力への自負が、彼に力を与えていた。血の匂いで獲物を誘惑する、竜人としての魔性の魅力を。
「彼女の事だよ。君も聞きたかっただろ?」
断定。
会話の体を取っていながら、その実豊の意思を全く尊重しない雰囲気。単なる独り言。無意味で渇いた、音の羅列。
「彼女が君の前から消えてどれだけ経った? 寂しいかい?」
「せいせいしているさ。タダ飯喰らいの無愛想な同居人なんて、居たところで得は何も無い」
「彼女は今も、僕と遊びの真っ最中だ」
豊の言葉は無視する。
ただ自分の言葉を伝えるだけの、枯れた音の応酬。伝わるのは「うらやましいだろう」という、玩具を見せびらかす子供のような感情。ただそれだけ。
「君は釣れない事を言うが……彼女は君を案じていたよ? くく……見せてやりたかったよ、あの時の顔を」
天を仰いで、情感を込めて。
吐き気のするほど芝居がかって、言う。
「『
慮った。
そう言った。そのような事を言った。
あの女が、あの訳の分からない竜人の女が、豊の身を案じたのだと。
「……まあそんなワケで、彼女の意識には、少なからず君の存在が在るわけだ。君の身を案じるようでは、彼女は真に無慈悲な怪物とはなり得ない。真に理想の、僕だけの死とはなり得ない。故に、君には消えて貰う。僕の言いたい事はそれだけだ。君は邪魔だ。故に、死ね。僕が理想の死で以って死ぬために、彼女の前に死骸を晒せ」
誠二の声に、しかし豊は反応を示さない。
彼女が自分を慮ったのだと言う。そのために自分は死なねばならぬのだと言う。あの女、あの竜人、半分化け物のくせに人間である事に囚われた、弱い竜人。馬鹿な女。
そこまで思考を巡らせて、豊は、もはやたまらず笑い出した。
「ーーーーふ、はははは!」
気でも狂ったのか、と。誠二はそんな目で豊を見た。
それは、誠二が初めて豊に意識を払った瞬間だった。
「何が可笑しい、自分の死に様を思い浮かべて笑えたかい?」
「お前、自分がどんなものか解ってるのか?」
豊の笑みが、誠二に向く。
それは、明らかな嘲りと、侮蔑のニュアンスを含んでいた。
「竜人の力の根源……この世ならざる場所に在る竜の魂。それが宿る事によって、人は化け物に成り果てる。その現象が起こる対象は無作為だ。歩いていて雷に打たれるような、そんな理不尽な確率によって、人は怪物に堕ちる」
語り出した内容は、脈絡も無い。
彼女の事も、自分自身の事も、何も関係しない。ただ唇の端を僅かに吊り上げて、続ける。
「堕ちる人間が無作為なら、堕とす側も無作為だ。……お前に憑いたのは、俺の見立てでは"犬竜"と呼ばれる種だな。鋭い嗅覚を持ち、獣を率いる。人間に憑く竜魂は常に一つ。扱う能力の系統は、必ず一つだ。お前の手の内は既に割れている」
彼我の間に存在する絶望的な戦力差を埋める為に滅竜士達がたどり着いた結論が、情報戦である。敵の性質を敵以上に理解し、その弱点を突き、殺す。
その知識こそが竜滅士が最も信頼する武器である。
故に豊のこの言葉は、自身の刃が既に獲物の首にかかっているという宣言に他ならない。
「ーーちなみにこれは余談だが、獣に近い竜ってやつは
「……何が言いたい?」
喉を鳴らして、豊が笑う。露骨なまでの侮蔑を込めた嘲笑。
「いやなに、小物の割に随分口が達者だな、と」
瞬間、誠二の手が豊の首を掴む。獣毛と鱗を備えた、異形の手が。
そして同時に、豊もまた短剣型滅竜兵装、【斬尽】の刃を誠二の脇腹に突きつけている。
「……試してみるかい、僕の爪と、君のそのチンケなナイフ。どちらが早いかな」
「チンケなナイフ、結構だな。お前ごとき小物のトカゲもどきを殺すには十分すぎる得物だとは思わないか?」
じり、と空気が焦げる。濃密な殺気が周囲に満ち、圧迫し、塗り潰す。日常の光景は、この世ならざる死闘に舞うその血肉によって陵辱される。その前兆、確信にも似た予感が世界を埋め尽くしーー
「……豊?」
寸前、声によって遮られる。
声の主は少女。気配によって、或いはその生物としての本能によって、埒外のものの存在を察した者。岸上 響子。
ふと視線を上げれば、いつの間にか人通りの多い大路に出ている。会話はこの為か。必然、異形である誠二が手を出しづらい往来に出るまでの時間潰しに、わざと長々話していたのか。
小賢しくも周到な
「……友達?」
僅かに警戒した様子で背後から近づく響子に聞こえない声で、誠二はそっと耳打ちする。
「……君を殺すのは容易だが、君の友人を殺すのはもっと簡単だ。……感謝すべきだな、どうにでもできるんだ。少なくともこの街の人間で、僕の牙の届かない者は居ない」
「やってみろ。その隙に俺がお前を殺すだけだ。俺はただそこに在る全てを利用して、竜人を殺す」
誠二が、纏わりつくようなその笑みを深める。明らかな嘲りと侮蔑のニュアンスを孕んだ、異形の笑み。
「本当に?」
誠二は軽く豊と距離を取り、そのまま歩き出す。
何事も無いように、人間そのものの仕草で。
「では御機嫌よう。今夜お迎えに参上するよ、身支度を整えておきたまえ」
芝居がかってそう言い残し、赤城誠二は大路の雑踏に紛れ、遠ざかって、やがて見えなくなった。
「……初めて見る人だったけど、友達?」
「いいや」
岸上 響子は、隣に立つ豊の顔をそっと覗き込む。
別人のように険しい横顔。刃のように鋭く、硬い。干渉を拒む断絶の色が、そこには有った。
「俺も初めて会ったよ」
蒼白く、冷たく澄んだその横顔に、ちらと炎のような獰猛な気配が揺らぐのを、岸上響子は見逃さなかった。
「もう、会う事も無いと思う」
彼には、秘密が有る。
彼は何か大事な事を隠していて、何か、とてつもなく大きな事の為に動いている。
馬鹿げた妄想ではある。しかし、そう思わせるような何かが有る。
彼は何かを隠していて、自分たちは、この柳洞 豊という男に対して、何かとんでもない思い違いをしている。
「…………そっか」
漠然と浮かんだその予感を口にすることなく、岸上響子は帰路についた。
その間柳洞 豊は、いつもと同じ、人の良さそうな笑みを浮かべていた。
***
誰の上にも、等しく夜は訪れる。
異形のものどもにも、夜だけは等しく降りかかる。
その中央に、美しくも無慈悲な夜の女王を戴いて。
今宵は満月。白々しいほどに銀色の月は、これから起こる惨劇の気配に蒼褪めるように。醜い獣の喰い合いに興を削がれて閉口するように。
巻き上がる血飛沫も、千切れ飛ぶ肉も、汗も。この世の凡ゆる醜怪なる悪徳の全てをつまびらかに照らし出し、尚も汚れぬ
今宵、死闘は決着する。
僅か七日ばかりに作られた世界の片隅。僅か七日と少しの因縁。僅か七日の区切りを幾度か跨いだばかりの親交……
全ては審判の秤の上で、その世界に在る意味を量られる時を待つ。
彼らの演じるこの夜の一幕は、単に同じだけの時間の内に砕け散る無価値な幻想なのか、或いはーー
結末を見届けるのは、怠惰に微睡む
「……行こう」
一人呟く彼女の声は、満月の宵闇に溶けて。
月光を避けるように、少女は軒下の闇を行く。
全身に走る傷。疲労。限界は既に間近であり、この肉体が自身の力に耐え得るかすらも解らない。
それでも、彼女は決着への歩みを止めない。銀柩 詠璃紗に、闘争から逃げるという選択肢は存在しない。
彼女を駆り立てるのが復讐心である限り。彼女のその非対称の眼に、その時の、その瞬間の光景が焼き付いている限り。
「……終わりに、しよう」
傷を労わり、体を引きずって。蠕虫の如く不確かな足取りで死地へ赴く彼女の背を、サーチライトのような月の光が照らし出し、闇の中のその姿を銀色に切り取った。
***
そして月光は、彼を照らす
***
テレビの音が聞こえた。
"それ"の聴覚を以ってすれば、壁一枚隔てた向こうの物音を聞くことなど造作もないことだった。
嗅覚はさらに鋭敏に、僅かな空気の流れとなって漂う標的の体臭から、それは凡ゆる情報を察知する。
……年齢、十代。男性。健康状態に異常なし……人間。
そう、人間。懐かしい匂いだと、"それ"は感じた。自分もかつて其処に、共に在ったのだと。記憶と言うのにすら覚束ない実感として、ただ肉体に染み付いた学習行動の残滓として感じるのみだ。
学習……投げられたボールを拾ってくるように、部屋の中の人間を咬み殺す。そう教えられた。故に、実行する。"それ"に、その倫理を問うだけの知能は無い。ただ思う。そうするのは何故だったか、と。投げられたボールを拾って、それを渡すのは何故だったか。そうした自分の頭を撫でてくれたのは、一体誰だったかーー
「GRRR……」
喉を漏れ出た自身の声が、かつての自分のそれとは決定的に異なった獣の唸り声である事にすら、"それ"は気付かない。気付く者も居ない。ただそれは、血に飢えた獣が獲物を前にあげる、ただそれだけの、単なる音だった。
「AAAAAAAAAAAAAAAARGHッ!」
窓を打ち破る。
室内に侵入。息を吸い、鼻腔に空気を取り込む。獲物の姿を探す。
ーーこれが終われば、褒めてくれるだろうか。"それ"の混濁した意識に有るのは、それだけだった。
褒めてくれるだろうか。しかし誰に。あの悍ましい姿をした、人間では無い者にだったろうか。それとももっと別の、自分を愛したーー
"それ"が意識を巡らす事を許されたのは、そこまでだった。漂う大気の中に、嗅ぎ慣れぬ匂いをーー否、或いは自らが走り抜けたその後で、嫌というほどに嗅ぎ慣れた匂いを感じ取った為にーー
「……やれやれだ」
血の匂い。致命の刃は既に"それ"の頸部を貫き、肉体と脳の連携を絶っている。
体内に溢れた自らの血の匂いを察知したその時には既に、"それ"の生命は終わっている。"それ"はただ最後に、「かえりたい」とだけ、人間の言葉で言語化されることの無い動物の知性で、そう思考した。
「……窓の修理費も、協会に申請しないとな」
少年は"それ"の……部屋に侵入した異形の"雑竜"の頸から滅竜の短剣、【斬尽】の刃を引き抜き、ため息を吐く。
少年……柳洞 豊は竜滅士である。竜人とそれに連なる者を悉く滅殺すべく育てられ、鍛えられた彼に、付け焼き刃の異形化された"雑竜"を狩る事など、造作も無い事だった。
亡骸を遺す事なく同質量の灰になって朽ちる"雑竜"の残骸の山の中に、首輪を見つける。元は飼い犬か、と、豊は無意味な思考を走らせる。
「迎えに参上するだと? どこまでも悪趣味な奴だ」
迎えに来るのだと、あの竜人、赤城 誠二は言った。自分をあの女の前で殺して、自らの死を彩るのだと。
狂っている。当然では有る。竜人とは、そも竜の魂を宿す人間であり、埒外のものによって常に人間性を蝕まれる者であるが故に、根底からして狂っているのが当然なのだ。
慣れた事だ。狂った竜人が、狂った竜人の女を殺そうとしている。それだけの事だ。
「……竜人の分際で、俺を気遣っただと?」
今この瞬間も、空々しく音声を流すテレビを一瞥する。
豊にテレビを見る習慣は無い。にも関わらず、帰宅した豊は見るわけでも無いテレビを点けた。このたった数日で、それが半ば習慣になっていた。戻った部屋が、少し広く感じた。
その全てが、腹立たしかった。
「……良いさ。俺はただ、仕事を果たすだけだ」
灰の山。遺された首輪。竜人。ただ竜滅士である自分……
割れた窓から差し込む月光は、不出来なスポットライトのように、暗灰色の竜滅士を照らす。
「……終わりに、しよう」
暗灰色のコートの裾を翻し、竜滅士は一人夜の闇へーー決着へ至るその先へと消えていった。
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