第7話:理想主義の自殺志願者




『次の内、北海道に実際に有る川はどれ?』


 ①ヤッテナイ川

 ②モテナイ川

 ③ヤリキレナイ川

 ④キブンノラナイ川



「2」


 何の躊躇も逡巡も無く、銀柩 詠璃紗はクイズ番組の司会者に向けて即答した。


「……いや2は無いだろう」

「いいや2だな。他のは少し引っ掛けくさい」

「それを言うなら2こそ引っ掛けだ」

「何故そこまで2を否定する。モテないからか。自分がモテないからその名を冠するものの存在全てが許せないのか? なんと不寛容で情けない男だ、お前は」

「……お前に不寛容だと言われるのは凄く心外だ」


 彼女が豊の家に住み着いてから、早くも二週間ばかりの時が過ぎようとしていた。

 前回から目立った襲撃は受けていない。ただ数日に一度の頻度で街に現れる敵の使い魔をエリザがその特性によって感知し、倒す。それを繰り返している。

 敵には恐らくこちらの居場所がバレているが、どうやら詠璃紗を警戒しているらしい。

 敵がこちらの臭いを感知して追跡する術を持っている以上、移動はさした意味を持たない。ならばと開き直って、敵がエリザを警戒している事を逆手にとって、居直ることにしたのだ。


 テレビの司会者が、CMを挟んでたっぷりもったいぶってから正解を提示する。正解は……3のヤリキレナイ川。


「…………」

「……なんだ」

「べつに」

「自分では自分の考えを提示する事もしないくせに、不正解した者を見つければそれ見たことかと罵倒する。そんなことだからお前はモテないんじゃないのか?」

「俺がモテないなどという妄想は心外の極みだし、俺がいつそれ見たことかとお前を罵倒したと言うんだ」

「目がな。目がそう言ってる」

「被害妄想だ」

「いいや、状況判断だ」


 ちなみに、アイヌ語で「魚の住まない川」という意味らしい。


「つくづく狭量な男だ、お前は」

「家に泊めて飯まで食わせてやってる男に対して言う言葉がそれか」

「真に懐の広い男は、ここでそんな話題を引き合いには出さないと思うがな」

「くっ……」


 柳洞 豊は竜滅士である。

 竜人を殺すことを至上の目的とする彼も、竜人の彼女を前にして、この程度の口論の果てに湧いた衝動的な殺意を抑える程度の理性と分別は有していた。

 二週間、彼女との奇妙な共同生活を続けるうち、二人の間には自然と幾つかのルールが生まれていた。

 手負いの詠璃紗は極力出掛けずに家で敵の襲撃に備えること。戦闘は主に豊が単独で行うこと。洗濯は各々が別にすること。風呂はエリザが先に入り、その間豊は家を出ること。

 特にこうしよう、というやり取りがあった訳では無いが、自然とこういう形に(特に最後の一つは豊の意思によって最も厳格に遵守されている)落ち着いた。


「そういう潔癖ぶったところが逆にスケベっぽいとは思わないか」

「唐突に人をスケベ呼ばわりするんじゃない」

「ふん」


 加えて、部屋は中央にカーテンが備えられ、広さ10畳程度のワンルームを二つに分けられるようになっている。縦に分けられた部屋の内、ベッドのある側がエリザの、テレビのある側が豊の領地となった。

 娯楽に強く興味を示したエリザの意向によって、寝るとき以外はカーテンを閉めずに、テレビをかけたままにしてある。

 今も部屋の端と端でテレビを眺めながら、どうでも良さげに感想を呟き、チクチクと嫌味を投げ合っている。

 四六時中会話が弾んでいるわけでは無いが、なにせ暇なのだ。暇潰し以上の意味を持たない適当な会話によって、どうにかその空白を埋めなくてはなんともやりきれない。


「テレビは1日3時間までにしろ。目が悪くなっても知らんからな」

「善処する」

「清々しいほど身の入らない返事だな。まあお前の視力が下がろうが俺には関係無いが。せいぜい物陰に潜んだ竜人を目を細めて探すがいいさ」

「私は夜でも両目とも5.0以上有る。厳密に測ったことは無いが、多分それくらいある。だから大丈夫だ」

「何がだ」

「お前とはハナから貯金が違うという事だ」

「最初から悪くなる前提か。この自堕落女め」


 言いながら、エリザの左右非対称の両目はテレビ画面に釘付けだ。この調子ならば、豊の言う通りにになる未来もそう遠く無いかもしれない。

 

「そんなに面白いか、たかがテレビが」

「ああ。旅暮らしだったからな。物珍しい」

「そうか……まあ俺も、無愛想で礼儀知らずの女と話すよりはテレビでも見ていたほうが幾分楽しいな」

「そうか、私はお前と話すのも悪くないと思うぞ」

「……は?」


 眉をしかめて、豊の動きが止まる。

 思わず素っ頓狂な声が出て、真正面からエリザと目が合った。


「そういう反応がだ。エロスはほどほどにしておかないとモテないのに拍車がかかるぞ」

「このっ……」


 カッと頭に血が上り、無意識の内に右手が滅竜器【斬尽】の柄を求めて懐の虚空を掻く。

 不意の殺意と行き場のない苛立ちを抑える日々の虚しさに、豊は深くため息を零す。


「……最近ため息をついてばかりだよ」

「よくため息をつくと幸せが逃げると言うが、実際には体が適度にリラックスされて健康的らしいぞ。テレビで言っていた」

「はあ……」



***



「大丈夫?」


 遠目にも青白い顔で席に着き、弱々しくため息を吐く豊に、岸上 響子は心配顔で語りかける。


「まあ、ね」


 虚勢を取り繕うほどの気力も無く、豊は曖昧に笑い返す。


「ひどい顔じゃん。家でなにやってんのさ豊」

「ちょっと、その……あー……近所から犬を預かってて」

「犬? それで疲れてんの?」

「ああ。それもとんでもない駄犬でね。噛むわ吠えるわ偉そうだわで、全く可愛げが無いんだ。四六時中振り回されてるんで、学校に来ると癒されるよ」

「大変だな」


 顔をしかめて、まるで我が事のように、岸上 響子は豊を気遣っている。

 そういう人間なのだ。特に見返りを求めるでもなく、彼女は友人を気遣う事ができる。

 真っ当な人間だ。少なくとも、この学校での仮初めの人間関係すらも竜を殺すための手段と考える豊とは、比ぶべくも無いほど。


「まーけどさ、豊って犬とか好きそうじゃん?」

「そうかな」

「うん。イメージっていうか……豊は優しいからさ」


 信頼を勝ち取る為に、意図してそのように立ち回っているからだ、とは言えるはずも無く。


「……だからかな、ちょっと楽しそうだよ」

「楽しそう?」

「うん。なんてーかこう……イキイキしてるよ。ほんとはちょっと楽しかったりしない?」


 彼女の言葉に、豊は答えを詰まらせた。

 当然、そんなことはあり得ないというのが感情的な面における豊の偽らざる本音なのだが、どうにもそう答えられない。彼女の言葉は、いつもどこか正鵠を射るというか、隠された本質を暴きだすような、そんな所があった。


「……どうかな」


 答えに詰まり、またも曖昧な答えを返す。

 時にこうやって、豊は人間社会に溶け込む。己の本質を、胸に秘めた血塗れの刃を見抜かれぬように隠しながら。

 ……そしてここに、もう一人。己の本質を隠匿し、人間社会に溶け込む者が居た。

 楽しげに級友と談笑する豊を遠巻きに眺めながら、奇妙に粘つくような存在感を微かに漂わせ、誰にも見えぬように、薄く笑みを浮かべる。


「楽しみにしておけよ、竜滅士。お前の末路は用意済みだ」


 日常に潜む怪異……豊らの命を狙う竜人、赤城 誠二は、冷酷な薄笑いとともに、日常の喧騒に消えて行った。




***




「ここから北西……距離は3キロだ」


 豊の帰宅そうそう、エリザは食いかかるように言った。

 左右非対称の両目がギラリと剣呑な光を帯びて、その中心に豊を捉える。

 何が起きたかは、問うまでもない。


「了解した。数は?」

「さほど多くはないはずだ」

「本体は?」

「気配だけでそこまでは把握できない」


 竜人の出現。より正しくは、その使いたる"雑竜"の出現。

 奴らは人間を喰らい、殺す。

 その食性故にでは無く、単なる本能、或いは嗜好の一環として。

 「人間を殺せば力が研ぎ澄まされる」とのたまう気狂いじみた竜人も居る。その真偽は定かでは無いが、揺らぐ事が無いのは、奴らの出現は、つまり殺人の為であるという事だ。


「行ってくる」

「私も……」

「来るな。家に居ろ」

「しかし」

「足手纏いだと言った。滅士おれたちには滅士おれたちのやり方がある。それを乱されるのは性に合わん」

「…………っ」


 豊の言う事は、きっと正しいのだろう。だが、容易に承服は出来ない

 エリザもまた闘争と殺戮の場にしか己を見出せない怪異である。或いは焦がれているのかもしれない。肌を焦がす闘争の空気に。弾ける血に、肉に。その快楽に。


「それに、怪我人を抱えて帰るのはもうごめんだ」

「……了解した」


 それでも、それが最善手であるならば従おう。自分はただ血を求め、殺戮に飢える化け物ではないのだから。

 そう強いて己を戒めて、エリザは夜闇に消える豊の背を見送った。




***




 豊が家を出てから30分ばかり。

 家主を欠いた部屋では、残響する

テレビの音声すらも空々しい。


「…………3ばん」


 クイズ番組。ありふれた四択クイズ。

 無意識に口をついた答えに、返事を返す者は無い。

 思えば、時間を持て余すなど久しく無い事だったな、とエリザは何処か遠く思考する。

 旅暮らしで竜人を追って、時に追われて。そうして暮らす日々の時間的猶予、孤独は、己の体を休める為にむしろ喜ぶべき事であった。なのに今、エリザはその愛すべき孤独を持て余している。退屈だと感じている。

 そして、やけに落ち着かなく時計を見ている。


「……まさか、殺されてはいまいな」


 声に出した物騒な言葉は、恐らく心配、とカテゴライズされる類のものだ。

 心配しているのだ。豊を、今も何処かで戦う、あの人間の事を。


「……お前は、弱いじゃないか」


 怪異の魂を身に宿し、異形に変ずるエリザに比べ、竜滅の兵器を持つとはいえ本質的には人間に過ぎない豊では、戦闘における死のリスクは改めて比べるまでもない。

 それでも尚。それでも、何故。


「……なのに、何故戦う? そこにどんな意味があるというのだ」


 エリザの呟きに意味は無い。無意識の思索の果てに溢れたその言葉の意味を拾うものがこの場に存在しない以上、それはただ空気を震わすだけの物音とさした違いは無い。

 ……そう、違いは無い。今この瞬間、窓の外から届いた、ザラついた獣の唸り声と同じに。


「ご機嫌いかがかな、理不尽プリンセス?」


 そこに待つ者の放つ底無しの悪意を、エリザの鋭敏な第六感は冴え冴えと冷えた刃に背筋をなぞられるような感覚と共に、明確に知覚していた。



***




「どうも。面と向かって顔を合わすのはこれが初めてかな、理不尽おひめさま

「ああ、これが初めてだ。そして二度目は無い。貴様はここで死ぬ」


 暗い夜の下に、二つの怪異が対峙する。

 その内の一方、竜人、赤城 誠二は、殺意と妄執とを煮詰めたような、粘つく笑みで彼女を……左右非対称の眼の竜人を、エリザを見る。


「ふふ……やはり思った通りだ、君は素晴らしい。君の目は、底無しの虚のように暗く、深い。吸い込まれそうだよ、身が震えるな」

「生憎だが、詩の類に興味は無い。怪物の口から零れたものなどは尚更にな」

「そう、僕は理不尽かいぶつだ。そして、君はよりおおきなそれだ。そうだろう?」


 互いに己の本質を叩きつけ、相手の

心情を理解する気など欠片も無い。

 ただ己の主張が有り、己だけの世界が在る。ただ一人の中でだけ完結する世界では、化け物の吐く妄言など、意味ある言葉としては響かない。

 

「そうだ、私は怪物だ。貴様らを殺す為の理不尽ばけものだ。その身を以て試してみるか竜人」

「なるほどそれは素晴らしい。是非そうしよう。僕はそれこそを望んでいたのだから」


 言いながら、両者は互いを目掛けて歩を進める。

 一歩、一歩。踏み出す度、二人が近づく程。周囲の大気が、世界が、その凶気に震え、軋みを上げる。


「さあ、君の理不尽さついを見せてくれ」


 交錯。

 歩み寄るままの速度で、二人はすれ違う。

 すれ違って、互いに敵手の背後に立ったその時には、既に何もかもが決定的に異なっている。

 刹那の交錯。すれ違いざまの攻防。

 そこに、向かい合っていたはずの二人の人間の形は無く。

 ただこの世ならざる二つの異形が、互いに刃そのものの爪を振り抜いている。

 ふたつの内一方。刹那の攻防に敗れ、その頬に死を掠めた一撃の傷を負った怪物。全身に金属質の鱗とまばらな獣毛を備えた竜人が吼える。


「それでいい! それでこそ君は素晴らしい! さあ、君のその銀の爪と銀の牙を、卑小に過ぎるこの胸の最奥へと飾り立てて引き裂いてくれ!」


 自らの理想の死を謳う自殺志願者。全身に鱗と獣毛、刃の爪と牙、狼のそれに良く似た、頭部に生える三角の耳。或いは角。

 ーーこれが、竜人・赤城 誠二の本性にして、"雑竜"どもを操りエリザを翻弄した、妄執の怪物の威容である。


「ーーほざけ、鬱陶しいぞ異常者め」


 振り返る。

 エリザもまた、既にその身を異形のそれに変じている。

 漆黒の鱗を纏った左半身。人外の膂力を獲得した左腕。禍々しく湾曲する刃の爪を備えた左掌。

 圧し潰すように、引き裂くように、眼前の怪異へと叩きつける。


「ーーーーーーーッ!!」


 咆哮は無い。

 暴力に震える快哉を上げ、吼えるのは、人ならざるものの所業に他ならない。自分は怪物ではない。そんな事はしない。

 エリザは未だ、理性を手放しては居なかった。


「寂しいな。声を聞かせておくれよ。地獄の弾けるような、愛しい君の声を」

「貴様に聞かせるものなど何もない。貴様が聞くのは、苦悶に震える貴様自身の断末魔のみだ」


 刃の爪が鋭い擦過音を響かせながら夜を裂き、激突して火花を散らす。

 爪と爪。鱗。異形を構成するその全てが肉薄し、ぶつかり合う。


「はははっ! そら、こっちだ!」


 誠二の左掌の爪が、異形化せずに人間の形を保ったままのエリザの右半身を急襲する。

 堅牢な鱗に守られた側ではなく、脆い人間のままの右半身。彼女を殺すための最適の攻撃。彼女に殺される事を望みながら、誠二は彼女を殺す事を止めない。その殺意が本物であればあるほど、エリザもまた真剣にそれに対応せざるを得ない。互いに互いを殺す事だけを考えて、爪と牙の限りを応酬するーーこれが愛でなくてなんだと言う。これこそ愛の究極。素晴らしき逢瀬の一幕に相違あるまいーーそう盲信して止まぬ故、誠二は攻めの手を緩めない。


「舐めるな。三下が」



 しかしエリザもまた歴戦の怪物。悍ましい闘争の果てに、山と積み重なる竜人かたきの屍を踏んで立つ修羅である。

 守りの薄い右半身を狙う。正しく定石と言えるその攻撃は、故にエリザに動揺を与える事は無い。

 踊るように身を捻り爪の一撃を避け、軽やかな回転の勢いを乗せた尻尾の一撃を見舞う。


「ガッーー……はッ……!」


 寸分違わず誠二のこめかみを狙う鞭めいた尾の一撃。鱗に覆われた腕を頭部としなる大木のような威力を孕む尾との間に挟み込む。

 いかな竜人の鱗と言えど、その衝撃の全ては防ぎきれまい。

 力の質。存在の格。勝負を決定づける最大の要因が、そもそもからして異なっているのだ。

 竜人の……或いは、その力の根源たる太古の竜の闘争とは、単に力と力の衝突である。そこに小細工の入り込む余地は無く、ただどちらの爪牙がおおきく、強靭つよいか。

 この場において力で上回るのは、確実にエリザである。


「……違うな」


 僅か数合。1分にも満たない攻防の中で、力関係は明確に決した。

 動かしようは無い。勝負は有った。その筈だ。


?」


 この男が。この異形が。赤城 誠二が。理想を謳う自殺志願者という、度外れた異常者でなければ。


「君は、枷を嵌めているんだ。自分の爪に、牙に」

「黙れ」


 圧搾機のように頭上から圧し潰さんと降りかかるエリザの異形の手を全身の力で支える事で辛うじて拮抗しながら、誠二は嗤う。


「何故力を振るわない? その理不尽なまでの力を。君が全力を出せば、目につく全てはゴミだろう。社会なぞは脆弱な人間ムシケラ共の遊戯だろう。何故壊さない。何故戯れに引き裂かない」

「貴様と同じ目線で語るな、異常者め。貴様のような者を殺すのが私の目的だ。死ね、竜人」


 誠二の表情に浮かぶ笑みが、一層深みを増す。

 異形の笑み。粘着質で冷え切った……吐き気のするほど人間的な感情に満ちた笑み。


「可哀想な君。なら教えてあげるよ、その快感を」


 瞬間、物陰から複数の影が躍り出で、路地を掛けてゆく。人の多い大路を目掛けて。


「今出たのは僕の"雑竜"だ。追わなくていいのかい?」

「貴様を殺せばあの忌まわしい犬も消えるだろう。何の問題も無い」

「……僕は鼻が良いんだ」


 脈絡の無い言葉。底無しの不穏を孕んだ嘲笑。


「僕の鼻によると、あの道の先には人間が二人……年が離れているようだから、まあ親子だろう。が居るだけだ。そう、実に都合が良い」

「…………ッ!」

「もう一度言うよ。?」


 悪態を吐く暇も、何も無い。

 目の前の仇にトドメを刺す事も忘れ、エリザは先を行く雑竜を追って駆ける。全てをかなぐり捨てて。獣のように。

 だけはさせない。させられない。を許してしまってはーー


「待て…………っ!」


 エリザが角を曲がる。情景が飛び込む。突如目の前に躍り出た異形の存在を前に、そこに居合わせた母子が叫ぶ。


「まっーーーー」


 制止は届かない。

 "雑竜"の牙が月光を帯びてぬらりと光る。異形の前に母が躍り出る。子を庇う。エリザの手は届かない。左右非対称の眼が見開かれる。


「ーーーーーーーーっ」


 聞こえるのは、肉を裂く湿った音。骨の砕ける鈍い音。子供の悲鳴、絶叫。

 子供の前で、母が死んだ。何時までも続くはずだった平穏。奪われた日常。

 いつかの光景が蘇る。消し去りたい、決して消えない過去の再現。


かな。嬉しいな」


 失意に項垂れる彼女を、誠二は嗤いながら見ていた。


「ああ……」


 余りに遅すぎたのだ。母を殺した犬が子を標的に移し、その身体を容易く嚙み砕くのにも、エリザは間に合わない。その手は届かない。

 救えなかった。あの日の自分と同じ、理不尽を除けなかった。


「どうかな。本気になってくれるかな」

「殺す」


 ひび割れる。彼女の顔が。その左右非対称の眼が、体が。


「お前は、■す」


 エリザの口を溢れた音は。無数の獣の咆哮のような雑音に遮られ、正しく発音されない。

 意味をなさない。その言葉は、既に理解不能の、理不尽かいぶつの唸りそのものでしかない故に。


「ーーーー最高だな。やはり君は素晴らしいよ」


 誠二の背筋を冷たい汗が伝う。

 死の恐怖に、全身の筋肉が萎縮し、呼吸は固まりとなって荒々しく吐き出される。

 彼が愛し、望んだ理不尽しゅうまつが、そこに在る。

 それは、形ある死そのものだった。


「■AAA■A■AA■A■■AAR■GH■ッ!!!!!」


 無数の咆哮が爆発する。

 その全ては、彼女一人から発されたもの。

 変化していく。ひび割れたその尾の内側から、漆黒の鱗を食い破って這い出すように真紅の尾がまろび出る。

 ひび割れた背中からは、昆虫の翅そのものの、三枚の片翼が、肉を裂いて突き出される。


「死■! ■ね! ■ね死■■ねしねしねし■ッ! 殺■! わた■が! 貴様をこ■す!」


 不明瞭な彼女の言葉をかき消すように、その背の翅が微細な振動を開始する。

 金属を擦り合せる硬質な不協和音を撒き散らし、大気を震わせ、砕く。


「素晴らしい! こんなことまで出来るのか! 君は!」


 背中の翅は、物質を分子の単位に崩壊せしめる理不尽なる超振動刃トランジューサー。接触は、即ち死を意味する。


「ーーーーーーーー死■」


 神速。

 不協和音を纏って高速で迫る彼女自身を、誠二は飛び退って回避する。

 命を砕く、その臨界の際の際の回避。ただ通り過ぎただけの振動の残滓が、分子ごと分解させる破壊の波となって、誠二を襲う。

 死が眼前を掠め。視界は血に染まり、夜が凝固する。

 ーー素晴らしい。これぞ理想の死そのものだ。

 己よりも強大なものの手によって、ゴミのように殺されたい。かつて自分が力無きものにそうされたように。自分もそうやって死にたい。

 その理想が、叶おうとしている。しかし誠二は、熱く込み上げる笑みを堪え、


「だがまだだ。君の全てを引きずり出すまでは、まだ……」


 パチン、と指を弾く。

 同時に、何処からともなく誠二の忠実なる使い魔である"雑竜"が、異形の犬どもが集い、先の親子の亡骸へ群がる。


「ーーーーーーーーっ!」


 完全に理性を失ったかに見えたエリザはしかし、驚くほど俊敏にそれに反応した。死してなお蹂躙し、辱めようとするものを怒りという本能のままに叩き潰す。

 その思いが、心的外傷が強烈すぎる為に、理性を失ってなお反射じみてその行動に及ぶのだ。

 全てが推測どおりに運ぶ心地よさに、誠二は一層笑みを深める。


「今夜は挨拶程度だ。この辺にしておこう」


 雑竜どもを蹴散らしたエリザが周囲を見渡したころには、既に誠二の姿は何処にもない。

 ただどろりと粘ついた声だけが、夜に残響していた。


「また会おう。二人きりで、ね」


 エリザの聴覚が、ここに近づく足音を感知する。豊だ。戦い終えて戻って来たのか。

 その足音に、エリザの理性が朧に取り戻される。


「あの男の所へ帰るのもいいが……無事の保証は出来ないだろう? 君も、僕も。あの人間は、竜人ぼくらの戦いに巻き込むには脆すぎる」


 周囲を見渡す。破壊し尽くされた光景。埒外の怪物が暴れた、理不尽な崩壊だけが在る光景。

 人間の住まう世界では無い。


「考えておくべきだよ。君の生きる場所が何処なのかを」


 声が遠ざかる。

 足音が近づく。

 エリザの左右非対称の眼が、虚空を彷徨って、揺れた。





***




 帰宅した柳洞 豊が目撃したのは、周囲を破壊し尽くす戦闘の痕跡。異形なる者どもの、血と肉の残り香。

 そして、最も熱心な視聴者を失って、空々しく無意味な音を残響させる、テレビの音声。


「…………なんだ、お前」


 溢れたのは単に吐息か。ため息か。

 その音を意味あるものに昇華する存在は、この場には居ない。

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