第6話:昼間の稲光り
少年は、名を
数年前のある夜、彼は竜人となった。
それは、夜を裂く落雷に打たれるような、至福の体験だった。
赤城 誠二は、比較的ありふれた18歳の少年だった。
三年生に進学し、教室内が受験の気運に重々しく沈む中、彼は常に何でもないことのような顔でそこに居た。
誠二は優秀な生徒だった。教室内に彼と学業で並ぶ者は無かった。だが、同時に教室内では決して目立つ事も無かった。どれだけ優秀な成績を修めようとも、彼が周りのクラスメートから尊敬されるだとか、反対に嫉妬されるだとかいう事は決して無かった。教室の中の彼は、常にその場に居るのか居ないのかも解らないような生徒だった。
それが、自分自身が他人に興味が無いせいだと、彼は理解していた。人よりも多少優秀だったが為に、彼は周囲の物事に対して非常に不感症になっていた。何事も自分を感動させる事は無い、と考えていた。
受験勉強にも、積極的に取り組むほどの興味は湧かなかった。親や教師の言う『良い大学に入って良い企業に就職する』という事が、自分を感動させるほど価値の有る事だとは思えなかった。
感動とは、『感じ』、『動く』事である。この点において、赤城 誠二は極めて『無感動』な人間だったと言えるだろう。
ーーこの時、赤城誠二は根拠もなく確信していた。この生活が、無感動故の退屈な地獄が、永久に続くのだろう、と。
ーーだが、確信は砕かれた。天から降り注いだ、埒外の理不尽によって。
それは、落雷だった。
或いは、天から降り注ぐ光の雨だった。
圧倒的な光量が視界を灼き、彼の世界は一瞬で燃え尽きた。
降り注いだそれは、思念。
それは誠二の意識と深く絡み合い、合一した。
それは人を憎んでいた。世界を悲観し、人類の全てを呪い殺す事だけを願う怨念の塊だった。
誠二はその強すぎる思念に苛まれ、三日三晩を吐き通した。そしてその時初めて、自分の心が動くのを感じた。
誠二を動かしたのは、自らの意識に溶け込んだ何者かの怨念。
ーー殺意。人間を殺し、喰らい、蹂躙し、弱者の死と生の過程を嘲笑って踏みにじりたいという、たまらない欲求。
それを自分に与えたのは"竜"と呼ばれるものだと、太古に滅びたその存在の魂が彼岸から舞い戻り、人を殺す為に人に憑いたのだと、誠二は混ざり合うその思念と記憶によって理解した。そして、その欲求の赴くまま、初めて人を殺した。
甘美な体験だった。倫理観も、道徳も常識も、跡形もなく弾け飛んで消えた。自分がいかにつまらない軛に囚われて生きていたのかを痛切に理解した。
精神に巣食う『自分以外』の意思が溶けて『自分自身』となるにつれて、肉体にも変調が訪れた。殺人を重ねる誠二の意思に沿うように、その肉体はよりやりやすい形に変じていった。
彼は異形だった。全ての生を踏み躙る理不尽の怪物だった。己はこの夜に無敵の魔物へ新生したのだと、誠二は確信して疑わなかった。
しかし、その根拠も無い確信は再び砕かれる。
より
それは暗く凝固するように黒く、されど夜のように形無く己を取り囲む、無尽の殺意。
"彼女"の、その存在によって、誠二の世界はまたも崩れ落ちた。
或いは、燃え上がった。
***
「…………二日連続で運ばれるとはな」
豊の家に横たえられて目を覚まし、エリザは苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「前のは日付が変わった後だったから、正確には1日に2度だな」
「……そうだった」
深いため息。
吐いた息は僅かに震え、どことなく顔色も悪い。
「失態だ」
「そうだな」
特に心配するでもからかうでもなく、豊は答える。
ボロボロになった学生服をハンガーに掛け、低く唸る。
このような事態に備えて予備は用意してあるものの、いざ駄目になってしまうとなかなかに落ち込むものが有った。
「
「ギルド?」
「滅士協会、元は竜が生きていた時代の組織だ。いろいろ形が変わって、今は対竜人の為に滅士を各地に派遣したり、育てたりしている」
「お前もその協会に?」
「子供の頃からな」
「両親は?」
「死んだよ。竜人に殺された」
押入れから真新しい予備の学生服を引きずり出しながら、豊は淡々と答える。そこには、何者にも己の本質を悟らせまいという、冷たい精神の断絶があった。
エリザの目に、僅かな動揺が見え隠れする
「……復讐か?」
「俺が竜滅士をする理由がか? ……お前と一緒にするな。俺は俺で事情がある」
「……そうか」
「それよりも質問したいのは俺の方だ。お前、連日倒れてるが、戦った後はいつもこうなのか?」
「いや、これは……たまたまだ」
エリザは戦闘に際して常に精神を摩耗させている。
豊の見立てによれば、恐らくは彼女に取り憑いた竜の魂が齎す殺人衝動が、彼女自身の竜人に対する復讐心に依る殺竜衝動と混ざり合って混線し、鬩ぎ合っているためだ。
いつもこうならば、彼女がここまで生き残ったのは奇跡に近い。そうでないならば、別の理由が有る筈だ。
「恐らく傷か、さもなくば疲労だな?」
「……」
「お前、この街に来てどれ位だ?」
「……一週間程だ」
「その間ずっとこの調子で休まず戦い続けていたな?」
「…………」
沈黙するエリザに、豊はぶっきらぼうに続ける。
「別に責めてる訳じゃあない。そうする義理も権利も無いからな。ただ俺は俺の仕事の為に話をしているだけだ。お前、この街に来てから竜人と交戦したか?」
「……していない。"雑竜"ばかりだ」
「そいつらが毎晩襲って来たのか?」
「ああ。私から探しに行く事も有ったが、ほぼ毎晩襲われた。ねぐらは毎日変えていたが、その度にだ」
「なるほどな……」
淡々と、表情の読めない仮面じみた表情のまま、豊は低く唸る
「……大体解ってきたな」
「何がだ?」
「敵の正体が、だ」
柳洞 豊は竜滅士だ。何よりも竜人を討滅する事に精通するプロフェッショナルである。
竜人を討ち滅ぼす上で重要なのは、力よりもまず知識である。
そも竜人とは人間とは隔絶した力を持つ存在であり、ただの人間に過ぎない者が力だけで打ち破れるものではない。真正面からの力比べなど、滅士の世界では愚策以外のなにものでもない。
故に、豊はーー太古より脈々とその技を受け継いできた滅士達はーー竜人とそれに類する者の知識を膨大に溜め込んでいる。それが彼等が竜人と戦う上で最も信頼すべき命綱であり、最大の武器であるからだ。
その知識から、豊は敵の正体に、おおまかな目星をつけていた。
「竜人というのは、つまりは竜の魂に取り憑かれて異形化した人間だ。竜に憑かれて力を得る以上、その能力は元となった竜のそれに依存するという大原則が存在する」
エリザは手につく辺りの傷を簡単に処置しながら、豊の話に耳を傾ける。
「"雑竜"……つまり動物を異形化させた使い魔を扱うのは、
「違う?」
「襲って来た雑竜は皆犬を変異させたものだった。犬どもと戦っている間、他に竜らしき気配は無かったな?」
「ああ。あの場で竜の気配を放っていたのは実際に私達が戦った雑竜だけだった。この街に来てから何度か交戦したが、その時も同様だった」
エリザは竜の気配を察知する鋭敏な第六感を持っている。飽くまでも感覚的なものではあるが、この能力のもととなったのが彼女に宿る竜魂が生前に持っていた天敵への恐れ、より強い竜の存在から逃れるために獲得した特性である以上、信憑性は高い。
「ならば、少なくとも動物を全般的に使役するタイプではないと考えられるというわけだ」
「ふむ」
「これを踏まえて考えられる敵の種別だが、今回の襲撃の状況を加味することで更に絞り込みが可能だ」
「ほう」
気づけばエリザは正面から豊に向き直り、かぶりつくように豊の次なる言葉を待っていた。
豊は僅かに面喰らいながら、続ける。
「……注目すべきは、俺が襲撃を受けた事だ。本来ならば、これは起こりえない異常事態だ」
一見すれば傲慢なその言葉は、しかしまぎれも無い事実だ。
柳洞 豊は竜滅士として、自分自身の正体に繋がる痕跡を執拗なまでに隠蔽している。それは滅士として守らねばならない最低限の習性であり、故に生育過程で徹底して叩き込まれている。
「俺は戦闘をした現場に、極力俺自身の痕跡を残さないようにしている。血痕や毛髪の類は情報の塊だ、その場に残せば容易に足跡を辿られてしまう。だから、俺はそれらを現場に残さない事を常に徹底している。これは習慣というより、そういう病気だと言ってもいい、そうしなきゃ眠れないほどだからな。それは今回も変わり無い、違ったのは、」
「私か」
得心したようにエリザは呟き、豊はそれを静かに肯定した。
特段感情を込める事なく、豊は続ける。
「……敵は、お前の残した痕跡を辿った可能性が高い。恐らくは、臭いだ。」
「臭い」
「犬を変異させた"雑竜"を使役する点と高い追跡能力から、敵は【獣竜系】、種としては"狗竜種"に属する竜の魂を宿していると見てまず間違い無い。やつらは、嗅覚で獲物を追跡し、群れで狩りをする」
「なら、お前が襲われたのは……」
「恐らくは、お前の臭いが俺にも僅かに付着していたのだろう。迂闊だった」
仮面じみて平静な豊の表情に、僅かな感情が揺らぐ。それは怒り、或いは苛立ちとでも言えるようなものだった。
「僅かに付着した匂いを辿って俺を特定したこと。加えて、下校のタイミングをピンポイントで狙った事から見て、恐らく敵は、」
「同じ学校の生徒か」
「……教員、という可能性も有る。何にせよ接近を許しすぎている。失態だ」
そこまで話を聞いて、エリザは深く息を吐いて、豊を見た。左右非対称の瞳は、その中心に豊をじっと捉えている。
豊は咄嗟に軽く身を引く。
「すまなかった」
言って、エリザは豊に深く頭を下げた。
予想外の行動。再び顔を上げて、やはり真剣な目で、豊を見る
「……何がだ。俺が襲われたことなら、別になんのことも無い。お前に謝られた所で、何が解決するわけでも無いしな」
「それだけじゃない。……正直なところ、私はお前を侮っていた。その事についてもだ」
「侮っていた?」
「ああ。所詮はただの人間だと思って甘く見ていた。多少鍛えていて、多少立派な武器を持っていた所で、竜人には敵うまいと。だが、違った。お前は……
そう言って豊を見る左右非対称の瞳には嘘や偽りの気配は微塵も無く、ただその視線が、彼女の言葉が真実であゆことを何よりも雄弁に物語っていた。
「……人間のままでも、戦えるのだな。驚いた」
痛むように、左腕を……異形の爪を振るう腕を……抑える。
戦時は堅牢な竜の鱗に覆われるその肌に、傷が付く事は無い。その腕は、異形と化す左半身はまったくの無傷である。
エリザの顔に、僅かに自嘲するような笑みが浮かぶ。
「お前は……」
「背中の傷を見せてくれ、手当てしよう」
何事か問おうとした豊を遮って、エリザが言う。
豊は言われるがままに傷を見せて、憮然として座り込んだ
「……出来るのか」
「まかせろ」
言いながら、エリザは豊の家に常備された医療セットを手繰り寄せる。
背中の傷は、どうやら大した事は無い。この程度ならここにある道具だけで処置できるだろう。
「傷だらけだな」
生々しく血をにじませる背中の傷の周りにも、同じような古傷の跡が無数に有った。
引きつって、もはや二度と消えることのない傷は、恐らく全身に有るのだろう。その傷は、彼の尋常ならざる半生の省庁のようだった。
「職業柄な」
「……心配されたりしないのか?」
「同僚は皆似たようなものだ。学校の人間には、見られないようにしている」
「何故学校に通っているんだ?」
「……街に、社会に溶け込んで、職務を果たす。竜滅士の本懐だ。それだけのことだ」
「……寂しくはないか」
「馬鹿な」
背を向けたままそう答える豊の表情を、エリザが知る事は無い。
寂しいのかと問うエリザの真意もまた、豊には解らないままだ。
互いに己の本質を悟らせまいとしたまま。その理由は、頑なに押し隠したまま。
「よし、いいぞ。終わった」
「ああ。……っ!?」
包帯を巻き終えて振り返った豊が、びくっと肩を跳ねさせる。
「何故脱いでいる」
「私も手当てしようと思って」
「着ろ!」
「着たままじゃ手当てできないだろう」
「俺の、前で、脱ぐな!」
無表情を貼り付けた顔が歪み、豊は顔を青くさせたり赤くさせたりしながらわあわあと腕を振って喚いた。
目を瞑ったまま、怪我の手当てをするエリザにあれこれと指示を送って、傷よ開けとばかりに取り乱す。
15分後、エリザが自身の傷にあらかたの処置を終えた頃には、豊は戦闘後以上に疲弊しきって、重い溜息を吐いた。
「……やはり妙な奴だな」
「なに?」
目をつむってあれこれ喚いていただけでこの世の終わりのような顔で疲れ果てた豊をしげしげと見て、エリザは呟く
「どっちが本当なんだ?」
「なにがだ」
「竜滅士としてのお前か、それとも今の……エロスなお前か、どっちがお前の本性なんだ?」
「なんだエロスって! 断じて違うわ!」
「怒るな。ほんの冗談だ」
言って、エリザは微笑む。
その横顔は、やはりお世辞ではなく綺麗としか言いようが無く、豊はなんとなくいたたまれず目をそらす。
テレビを付けることも無い部屋には、ほとんど音が無い。聞こえるのは、隣室から届く僅かな生活音と、窓の外から聞こえる忙しい車の走行音だけだ。
会話の合間で時折沈黙が生まれるが、不思議なことに、豊にとってそれは不快なものでは無かった。ゆっくりとした、どこか気の抜けたような、穏やかな時間が流れていた。
「妙だなと思うんだよ。全然本性の見えないような顔をしてるのに、かと思えば今みたいに分かりやすく取り乱したりもする。お前はどっちなんだ? 竜滅士の顔の上にその愉快な仮面を被ってるのか? それとも、竜滅士として生きるのが愉快なお前の仮面なのか?」
「…………愉快とか言うな」
「愉快じゃないか、ギャップがすごい」
「うるさい! ……仮面だ、こっちが、愉快なのが」
「認めたじゃないか、愉快なの」
「ぬう……」
ソファすら無い家賃5万の1Kマンション。パイプベッドを背もたれがわりに並んで座って、ぼんやり天井の辺りを眺めながら、二人は言葉を交わす。
どうにも面倒な事を聞かれている。どっちが本性なのかなど、考えた事は無かった。否、考えるまでも無く自分は竜滅士なのだと信じて疑わなかった。
違うのだろうか、と豊は思索する。クラスメイトにも考えが見抜かれていた。表層的な部分をたまたま看破されただけか? それとも本性がそちらの方で、見抜かれたのはーー
「ふあ……」
間の抜けた声が、豊の思考を遮った。
あくびだった。自分のものでは無い。隣に座る女のものだ。
蕾のように可憐な唇を開いて大きく息を吐く姿は、どうにも無防備で……可愛らしい、と言わざるを得ないのだった。腹立たしいことに。
「……なんだ、自分から話し出しておいて随分でかい欠伸だな」
「……ああ……いや、」
「寝るんならベッドで寝ろ。流石にもう運んではやれんぞ。疲れたんでな」
「ああ……」
眠気によって思考力が低下しているのか、エリザは空返事を返して、また大きく欠伸をした。
それは、明らかに自分自身の不倶戴天の敵を前にしての振る舞いでは無い。もっと気安い、弛緩した態度だった。
「……聞いてもいいか」
「今度は何だ」
背もたれがわりにされたパイプベッドが、二人分の体重を受けて、僅かに軋むような音を立てた。
豊の、或いはエリザの人生においても、かつて感じたことのなかったような、殺伐とした世界を生きる二人が想像する事も無かったような、穏やかな瞬間だった。
「お前が……竜滅士を……する理由」
「またそれか」
先は話さなかった。正しくは、話せなかったのだ。話すことのほどでもないと、豊はそれを重く考えていなかったから。
ややの間をおいてから、豊は口を開いた。つまらない話だから、寝物語には悪くないだろう、と思っていた。
「……両親を竜人に殺されて、俺はまだ物心もつく前だったから、それで協会に引き取られた。……協会は、俺のような孤児を引き取って面倒を見るんだ。それで、素質のあるやつは竜滅士になる教育が受けられる。俺は、他の子よりも少しだけ素質が有った。……それだけだ。別に理由なんてない。ただ、そうだったから、そうするより他に無かったから、そうしただけだ」
「……そう、か」
「あとは、そうだな……」
「?」
「……いや、それだけだ。他には何も無い。」
呟くような返事。
くだらない理由だと幻滅したのか、半分眠っていて聞いていなかったのか、判然としない。
「……似ているな、私たちは」
「なに」
「私も、ただそうだったからそうしただけだ。それしか無かったんだ」
浮かぶ笑みはやはり自嘲めいて、左右非対称の目は、どこか遠くをじっと見つめ続けている。或いはその目には、決して消えることの無い過去の一幕が焼き付いているのかもしれない。
「あの日……世界は理不尽だと、私は知ってしまった。理不尽な世界に対するには私自身も
「……」
エリザの独白に、豊は言葉を返さない。
単に興味が無いのかも知れない。返す言葉が見つからないのかも知れない。それは、豊自身にもよくわからなかった。
「…………あの日、月の見える夜だった……ヒーローは現れなかった。そんなものは居ないんだと知ってしまった……世界には理不尽だけが有って……私には……これで……精一杯で……」
エリザの声はどんどん怪しくなっていって、次第に小さくなっていく。
もはや起きているのかどうかも、傍目にはよくわからなかった。
「……寝るならベッドで寝ろよ」
「ああ……」
「俺は運ばないからな」
「うん……」
「聞いてるのか」
「おー……」
……駄目だ。完全に寝ている。
豊はため息を吐いて、立ち上がった。
「……そうするしかなかった、か」
聞くものの無い言葉は、ただの音だ。この場には、豊の発する音を、意味ある言葉に昇華するものは無い。
漏れ出た音を弄んで、豊は思考する。
(……大抵の理由なんてものはそんなものなのだろうか。なら……)
豊は、改めて自分の置かれた状況を分析する。
その顔は、いつの間にか冷徹な竜滅士のそれに変わっている。
(……俺の居場所を特定した筈の敵が、今この瞬間襲って来ないのもそんなもので、さした理由も無いのか……? 俺が一人の時に危険を冒してまで襲撃を掛けたということは、
と、そこで、寝息を立てるエリザが、そのままごとっと床に倒れこんだ。大分強く頭から落ちたろうに、それでも目覚める様子は無い。
豊は何度目かも分からぬため息を吐き、本日三度目、完全に意識の飛んだ人間の重さを再確認した。
「……一体なんなんだ、お前は」
無防備に寝息を立てるエリザを前に何事か葛藤するような素振りを見せた後、彼女に毛布を掛けて、ベッドから離れた部屋の反対側に座布団と毛布で寝床をこさえて、豊も横になった。
(……なんにせよ、その何らかの理由は……明日にしよう……)
エリザの眠気が
***
……敢えて理由を挙げるならば、それは恋、とでも言えただろう。
「……竜滅士め、殺し損ねたか」
誠二は、己がこの夜に無敵の魔物へ新生したのだと、信じて疑わなかった。だがその幼稚な思い込みは、根拠も無い確信は、唐突に目の前に現れた彼女のーーあの美しい左右非対称の目をした理不尽なる牙によって砕かれた。
彼女の殺意に触れて、自分の繰り返していた行為が単なる遊びに過ぎなかったのだと、彼は悟った。
その日から、それを心から悔い、恥じるのと同時に、己が信じて疑わなかった自分自身の無敵を砕いた彼女に強く執着する事になった。
感動とは、感じ動くことである。
彼女の存在は、誠二の心を何よりも強く揺さぶった。初めての殺しを上回る、圧倒的な欲求。
真に無敵の
……そして今、誠二は愛しの彼女がその理不尽を振るった現場に居る。
「痕跡は徹底して消すというわけか、忌々しい」
忌々しげに吐き捨て、誠二は鼻をひくつかせながら死闘の現場を物色する。
誠二は、彼女の爪牙によって引き裂かれる瞬間を夢見ている。ただ殺すという意思によってのみ駆動する理不尽に焦がれている。
その殺意を一身に受ける為に、本気で殺しにかかるのだ。自分の持ち得る全力の殺意をぶつければ、彼女はきっとあの夜のように無慈悲な爪でそれを引き裂き、殺すだろう。
それだけが彼の望みだ。故に、彼女の周りを這い、二人の逢瀬を邪魔するあの
「……そうだ、お前は邪魔だ竜滅士。彼女の殺意を曇らすな。それは僕の物だ、僕だけが味わうべきものだ……」
うわ言めいて呟きながら、誠二が不意に足を止めた。電柱の影、コンクリートの地面の上に、僅かな染みが有る。赤い染みが。
それが彼女のものだと、その飛沫のほんの一滴であると、誠二は即座に理解した。
痕跡と呼ぶには余りに僅かで、残り香というには余りに薄い。
だが、十分だ。彼女がそこにあった事の実感としては。
「……本気になって貰わなきゃな。僕の為に。僕の為の君の為に」
跪き、飛散した血痕を、その舌で舐めとる。
歓喜と恍惚と殺意と恐怖と死への衝動に引きつった声で、誠二は笑った。
その声は、日常の影を這う怪物の上げる、暗く湿った情欲の咆哮だった。
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