第11話時計仕掛けの料理店

「あぁ、まったく、退屈だわ」

 いつものように呟きながら、ヒーア・ナイエヴァイトは空を眺めた。

 程よく流れる雲と、その間から注いでくる陽射しに目を細める。………太陽の無遠慮なことと言ったら、まったく信じられないわ。

「あら………ヒーアちゃん、でしたよね?」

 太陽に舌を出していたヒーアに、背後から声が掛かる。怪訝そうな響きを伴っていたのは、その行動が不思議だったからだろう。

 こほん、と咳払い。照れ隠しの作り笑いを浮かべながら、くるりとヒーアは振り返った。

 そして、首を傾げた。

「えっと、ごめんなさい。はじめましてだと思うのだけれど、どちら様かしら?」

 声を掛けてきたのは、妙齢の女性であった。

 この辺りではめったに見かけない、東洋風の衣装に身を包んだ彼女は、その細い眉を困ったように寄せる。

 飾り気のない白い上着はいくつかの筒を組み合わせたような不思議な作り。対となる下半身には足首まである、丈の長い真っ赤なスカートを履いている………いや、良く見るとそれはスカートではなく、裾の広いズボンらしかった。

 確か、ハカマとか言うのだったか。とすると、これが噂の、オリエンタルモンツキハカマスタイルだろうか。

 いずれにしろ、こんな目立つ服装の人間に、ヒーアは心当たりがなかった。

 困惑するヒーアの様子に、寧ろ彼女は得心したように頷いた。

「あぁ、そうですね。あのときは私、顔を隠していましたから………」

「顔を………?」

 不思議そうに聞き返したヒーアに、和服の女性はゆるゆると首を振る。

「いいえ、なんでもありません。………………えぇ、えぇ。はじめましてに相違ありませんよ、こうして会うのははじめてですから」

「ふうん………?」

 ほんの少しヒーアは目を細め、奇妙な出で立ちの女性を上から下まで見詰める。値踏みするようなその視線に彼女が居心地の悪さを感じる寸前に、ヒーアはとびきり上品に微笑んだ。

「そう、それは何よりだわ!はじめまして、異国の方!貴女のように面白そうな方とは、是非ともお友達になりたいわ!!」

「………………それは良かったです、ヒーアちゃん。この町に来てまだ日も浅くて、心細かったところです」

 なにやら複雑そうな笑みを浮かべて、女性は頷いた。

 それは、ヒーア・ナイエヴァイトという存在に初めて出会った者がよくするような驚きや戸惑いという分かりやすい感情ではなく、もっと別種の感情に見えた。

 それは、例えるなら「あぁ噂には聞いていたけどやっぱりそのままなんだなぁ」とでも言うような、多少だけは知っていた信じられない情報が正しいことに直面したような、そんなときに浮かべる感情であった。

 対して、ヒーアの表情はただひたすらに明るい。この出会いが嬉しくて仕方がない、そこから始まる未来が楽しみで楽しみで仕方がないというような、笑顔の中の笑顔を浮かべている。

 新しい出会いに、希望しか見ていない笑みだ。前向き過ぎて後ろを無視してしまう、恐ろしい笑いなのだ。

「………………………………」

「ねぇ、ところで一つ、聞いても良いかしら?」

 押し黙ってしまった相手のことなど気にも留めず、ヒーアは小首を傾げ、それから、返事も待たずに言った。

「貴女は、ゲイシャ?それともクノイチ?」

「どっちでもありません!!」



「改めまして、私はアヤメと申します。本国では、狐の巫女をしておりました」

 そう言って、アヤメは深々と腰を折り、頭を下げた。慌ててヒーアも頭を下げる。

充分と思える間をおいてから、ヒーアは顔を上げた。アヤメはまだ頭を下げていたが、ヒーアの動作に応じるようにゆっくりと姿勢を戻した。

「アヤメさんね。狐の、えっと、ミコって?」

「あぁ、えっと、シャーマンのようなものですかね。神に仕え神託を告げたり、神に祝詞をあげたりします」

 ノリトという単語はよくわからなかったが、シャーマンというからにはきっと、神と対話するということだろうとヒーアは当たりをつけた。白い装束は、きっと司祭様と同じように誠実であるという証なのだわ――中身がそうであるという保証には、けしてならないけれど。

 とはいえ、この女性の方が、纏う雰囲気は清らかであった。いささか潔癖に感じられるほどの、不可侵なる清純さの白さである。

 彼女はきっと、悪をけして寄せ付けない。それはつまり、他人を受け入れないのと同じことだ――この世に悪があるのなら、それは己でない誰かなのだから。

 だから、ヒーアはアヤメの神については特に尋ねることをやめ、代わりに別なことを尋ねた。

「それで、アヤメさん。ここで何をしているの?」

「あぁ、いえ、何をしていたわけでもありませんよ。ただちょっと、通り掛かっただけですよ。少し気になることがあったものですから、確かめにいく途中で………」

 言い掛けて、アヤメは言葉を切った。嫌な予感がしたのだ――自分が立っているこの場所がけして確かな足場などではなく、底無し沼の上に浮いた蓮に過ぎないような、不吉な予感が。

 果たして、その予感は正しかった。正しかったが、ただし、手遅れでもあった。

「………………へぇ?」

 ヒーアを前にしてそんな話題をするなど、猛獣に餌をちらつかせるのと同じことである。

 舌なめずりさえしそうなほど、爛々と目を輝かせるヒーアに、アヤメは深々とため息をついた。僅かにでも餌をちらつかせたら、あとはもうそれを与えるしかないのだ。さもなければ、持った手ごと食いちぎられるだけだ。

「………私も、詳しくは知らないのですが、ちょっと興味深い話を耳にしたんです。なんでも………が営む料理店があるとか」

「ヒトでない者?」

 ヒーアは首を傾げる。

 頭に浮かんだのは、夜を見回る夜警だった。彼等のような、毛むくじゃらな連中がシチュー鍋を掻き回す姿を想像して、ヒーアの頬がひきつる。

「それはまた、妙な話ね。………隠し味に、毛でも入っていそうだわ」

「毛?」

 ヒーアの言葉に、今度はアヤメが首を傾げる。どうやら、夜警に出くわしたことはないようである。

「………まぁ、味には多少の興味がありますね。………私も、料理には一家言あるもので」

「あら、そうなの?」

「えぇ。………良い魂は、良い肉体を造るところから始まりますからね。その為には、食材は厳選されてしまいます。それを如何に美味しくするかというのは、修行の一環ですから」

 なるほど、とヒーアは頷いた。厳しい修行の日々をこなしていくには、せめて食事くらいは楽しみたいというのはよくわかる。

「この大陸の神に仕える者には、それも許さない宗派もあるようですね。私の故郷にもそうした強硬派がいましたが、やはり考え方というものは似るのですね」

「というか、私は貴女みたいな東洋のシャーマンは、山とかにいて雲を食べて生きると聞いたのだけれど?」

「仙人ですね、それは。神に仕えるのとは少し違いまして………簡単に言えば、自然と一体化することを目指しているんです」

「ふうん」

 気のない返事は、ヒーアの正直な気持ちであった。山や森になって何が楽しいのだろうか。動けず、話せず、眠るように生きるのなんて私はごめんだわ。

 ヒーアの内心を察してか、アヤメは苦笑しながら話を変えた。

「まぁ、そんなわけで、私は旅先では食事を楽しみにしているんですよ。素材が独特であることも多いですし、味付けには歴史が感じられますから」

 よほど好きなのだろう、あまり表情の変わらないアヤメの頬は朱色に染まっている。

 食に一家言どころか相当の拘りを感じたヒーアは、心の中でにんまりと笑った。

 ここまで拘る人間が興味を持つ話だなんて、それはもう、期待せざるを得ないわ。

「ねぇ、その話、歩きながら詳しく教えてくださらない?」

「構いませんが………歩きながら?」

 不思議な言い回しに首を傾げるアヤメに、ヒーアは出来る限りの上品さで微笑んだ。

「えぇ。もちろん、私も同行させていただくわ!」



「そこが出来たのは、三日前だということです」

 そんなことより、ヒーアはアヤメの歩き方の方が気になっていた。

 ピン、と空から糸で吊られているかのように真っ直ぐ伸びた背筋が、歩いてもほとんど揺れることがない。わらで編んだスリッパみたいな靴を履いた足がけして地面から離れず、擦るように前進していくのだ。

 故に、足音もしない。スッススッスという僅かな衣擦れの音が、注意してようやく聞こえる程度である。

 盗人の抜き足差し足とはまた違う、気配を感じない足さばき。

「………面白いわね」

「えぇ、まったく。とても興味深いですね」

 思わずこぼれたヒーアの言葉を勘違いしてアヤメは頷く。

 しまった、話、聞いていなかったわ。少し、ほんの少しだけ考えて、ヒーアはうんと一つ頷いた。

 どっちでもいいことだわ。きっと、大した話ではないし。

「しかし、不思議です。美味しそうという評判はいくらでもあるのに、何故「美味しい」という評判はないのでしょうか………」

 やっぱり大した話ではなかったわね、と思いながら、ヒーアも首を傾げる。

「確かに妙だとは思うけれど、よくある話でもあるんじゃないかしら?噂を聞いて行ってみたら、そんなでもなかったとか」

 ヒーアの常識的な意見に、アヤメは首を振る。

「いえ、それならば、「美味しくない」という評判が立つでしょう。それもないということは、噂ばかりで実際には誰も行っていないか、或いは行った者が誰も食べていないか、です」

「行った者が、ね………」

 それならもう一つありそうだわ、とヒーアは心の中で呟く。もう一つ………行った者が、誰も帰ってこなかったか、だ。



「それで、ここがそうなの?」

「その筈ですけどね」

 その建物の前で、二人は揃って首を傾げた。アヤメの長い黒髪が揺れ、白い狐の面を模した髪飾りがチリン、と音を立てて揺れた。

 どこをどう見ても、料理店には見えなかったからだ。

 レンガをきっちり隙間なく積み上げられた壁には、見る限りでは窓一つ無い。高さとしては三階建てくらいはあるのだが、窓が無いため階層が想像できなかった。

 パッと見てわかるもう一つの欠損は、庭だ。

 通常飲食店でなくとも、ある程度人の生活する建築物にはスペースが存在するものである。家ならばそれは庭であり、飲食店ならテラス席となるだろう。そんなお洒落なものでなくとも、騒音や振動のためにも隣とはある程度空間を空けるものである。

 汝の隣人を如何に愛していても、適当な距離感というものは必要なのだ。

 目の前の建物には、それが一切無かった。

 敷地をとにかく使いきりたかったのだろう、両隣の家との隙間はほぼゼロだ。もちろん、道路からの距離もゼロ。普通なら塀があるところにもう玄関らしきドアがあるのである。

 裏口を見たわけではないが、この分では恐らく、表とさして代わり映えはしなさそうだ。

「………………レンガのダイスみたいね」

「というよりも、どちらかというと倉庫では?地理的にも、この裏手には恐らく水路があるようですし」

 港と町、広場の位置関係を思い浮かべて、なるほどとヒーアも賛同する。

「この辺りは、倉庫というよりも工場の集まっている地域なのよ。港から部品を運んでくる水路があるはずね」

「とすると、この建物も、元はそうした工場なのかもしれませんね。建物だけを利用したのかも」

 その可能性は、充分にありそうだった。どんなことでも、何もないところから作るよりも誰かの挑戦の残骸を利用する方が安上がりだ。

 ふと、ヒーアの脳裏に閃く星が生まれた。それは流れながら弾けて、アイディアをまき散らした。

「もしかして、皆見つけられなかったんじゃないかしら?」

 看板の一つも出ていないその建物は、「ここに違いない」という確信を持たなければけして見つけられないくらい、周囲の工場や倉庫に紛れ込んでいる。恐らくは、アヤメ一人では見つけられなかっただろう――間違いないという確信を持つことにかけては、ヒーア・ナイエヴァイトに敵う者などいるわけないのだ。

 そして、確信を持つ者は躊躇いを持たない。

「ごめんくださーい!」

 大きな声で言いながら、ヒーアはドアを開けて中に入っていく。その、躊躇のない様子に、アヤメは理由を問わなかった――誰がいるかもわからないところに入って行くのは怖くないのか、などとは聞かなかった。

 答えは、わかりきっている。



 ヒーアに続いて室内に入ると、直ぐにその背中に追い付いた。

 待っていてくれた、というわけではなく、単純に立ち止まっていたのだ。

 入った先には、ドアがあった。入口のものとは違い、分厚くて重そうな、金属の板が立ち塞がっていた。

 玄関ホールらしいその小部屋は、天井がずいぶん高かった。どうやら二階は存在しないか、在っても屋根裏部屋程度らしい。

「ここからは、どうやって入るのかしら」

 鼻が擦れるくらいに顔を近づけ、嘗め回すようにドアを観察していたヒーアが不機嫌そうに呟いた。

 アヤメが近付くと、ヒーアは踊るような足取りで場所を譲る。

「なるほど、ドアノブも、鍵穴もありませんね」

「継ぎ目もよ、アヤメさん。このドアは、どう動くかが外見からまったくわからないのよ。まるで壁みたい」

 どうしようか、と言うように、ヒーアは腕を組み、その金属板を睨みつける。ドアにしろ、壁にしろ、閉じていればそれは「入るな」という家主からのメッセージだ。どうしようもなにも、帰る以外に選択肢は本来ない。

 だがあいにく、ヒーアにはその選択肢こそ存在しないようだ。可愛らしい顔の奥で、どうすればこれを乗り越えられるかを考え続けている。

 その根気が、通じたのか。

 壁の内側で蒸気が噴き出るような音が響いたかと思うと、次の瞬間、驚くほど静かに金属板が真横にスライドした。

 いきなり開いた入口。その前で立ち竦んだ二人に、静かな声が投げかけられる。

「………何者かね?」



 その声は、まるでラジオや蓄音機のようにがさがさとひび割れていた。声とともに現れた人影がなければ、そうに違いないと思っただろう。

 そして、人そのものを見ても、ヒーアはもしかしてと思う心を捨てられなかった。

 男性、だろうか。

 人影は、大柄だった。ヒーアはもちろん、女性にしては背の高いアヤメと比べても頭一つと半分くらいは大きいし、船員さんみたいに、いや、それ以上にがっしりとしている。

 そんな熊みたいな全身を、足首から襟元まで茶色いトレンチコートが覆っている。首にはマフラー、目元にはサングラス、そして頭にはつばの広い帽子。

 両手も皮手袋を填めて、全身の肌という肌を布で覆い隠した謎の人物。部屋の中でそんなことをする人間は、ヒーアの知る限り泥棒くらいだ。

「………そういう貴方はどちら様?そんな服装、これからどこか、雪山にピクニックにでも行くのかしら?」

「質問に質問で返すなと、学校とかいう施設では教わらないのかね、お嬢さん」

 声に合わせてマフラーが揺れる。その声はやはり、最初と同じようにひび割れたノイズのようだった。

「ここは私の家で、入ってきたのは君たちである。故に、私には君らの名を尋ねる理由があるのだが」

 妙な人物から正論を言われてしまった。そして残念ながら、ヒーアは正論では止まらない。

「あら、人に名前を尋ねるときは、まず自分から名乗るのが礼儀ではなくて?」

「………ふむ」

 猫のような瞳を輝かせるヒーアの言葉に、男は意外にもしばし悩み、それから頷いた。

「それもまた、道理である。………人の社会というものは、斯くも複雑に理が絡みついたものであることよな。………吾輩は、ツァーンラート。この家の主である」

 大仰な自己紹介に、ヒーアもスカートの裾を軽く持ち上げると上品に膝を曲げた。

「私はヒーア。そちらはアヤメよ。はじめまして、ツァーンラートさん」

「ふむ、ヒーア嬢にアヤメ嬢。来訪の目的は何かね?もしやとは思うが、ここに盗難にでも来たのかね?もしそうならば、撃退も止むなしと考えるが」

 低いノイズ混じりの声でぼそりと呟くと、ツァーンラートは軽く右手首を擦る。その不気味に威圧感のある動作に、ヒーアは微笑みながら首を振った。

「あら、物騒ね、ツァーンラートさん。安心して、私たちは客人よ」

「ふむ、それは何よりだ。招いた覚えはないが」

「招かれた覚えもないわ。ねぇ、ツァーンラートさん。ここはレストランではないのかしら?」

「レストラン?」

 不思議そうに首を傾げて、ツァーンラートは記憶を探る。それから、静かに頷いた。

「………あぁ、食品を加工して提供する施設のことであるな。ふむ、あまりにも誰も来ないので放棄しようかと思っていたところである」

「あら、それは良かったわ。私たち、念願のお客様なのよ?」

「ふむ、それは幸運であるな。では、入るがいい。案内しよう」

 その言葉に、アヤメが眉を寄せる。それまでの彼の物腰に、料理人としての気配をまったく見つけられなかったからである。

 だが、残念なことに、疑惑と懸念はアヤメ一人のものでしかなかった――同じ光景を見聞きしながら、それどころか同じような結論に至っても、アヤメとヒーアとでは受け取り方がまるで違うのだ。

 この人は、料理人ではなさそうだ。

 だが、この家はレストランである。

 尚且つ、この人の家でもある。

 そこに嘘の気配を感じるのではなく、ヒーアはただ、楽しそうに笑いながら、その後をついていく。

 楽しそうという予感だけを、感じ取って。



「あら………」

「これは………」

 ドアを潜ったその先は、思った以上に綺麗な空間だった。

 敷地の半分ほどを使っているらしいその部屋は広く、玄関よりもさらに天井が高い。

 建物本来の高さを丸々吹き抜けにしているようだ。本来三階の床に当たる高さの壁には、手摺の付いた細い通路がベランダのようにぐるりと一周分、突き出している。

 視線を、下に戻す。

 埃一つ落ちていない床には、テーブルが並べられている。数は、十六。人と人とがすれ違っても余裕があるくらいの間隔を空けて、整然と並んでいた。そのどれもが、まるで新品みたいに綺麗だ。

 いや、ツァーンラートの言葉を信じれば、それは正しく新品なのだ。今まで、きっと誰も使っていない。

「どうであるか?」

 淡々と、感情の籠らない声でツァーンラートは尋ねてきた。

「諸君らが言うところの、レストランに見えるよう作ったつもりであるが」

「えぇ、そうね。そう見えるわ」

 素直に、ヒーアは頷いた。それから、くるりとその場で一回りする。スカートの裾が空気をはらんで膨らみ、直ぐにしぼんだ。

「それは良かった。では、好きな席に座るといい」

「そうさせていただくわ。さぁ、アヤメさん?」

「え、えぇ………」

 ヒーアは楽しそうに、アヤメはどこか不安げに頷いて、手近な座席に座る。

 そして、なぜかその対面に、ツァーンラートも腰を下ろした。

「あら、貴方はキッチンに行くんじゃないの?」

「ふむ、その必要はないのである。吾輩は、料理人ではない」

 まぁ、そうでしょうねとヒーアもアヤメも頷いた。事ここに至ってもなお帽子さえ取らないような人間は、料理人にはなり得ないだろう。

 彼は総支配人オーナーというわけだ。では、コックは?ウェイターは?

「………ふむ、来たであるか」

 ツァーンラートの言葉に、ヒーアとアヤメは振り返った。

 そして、見た。その、”ウェイター”の姿を。

「………………」

 彼は、無言だった。

 その平べったい頭の上に水の入ったグラスを二つとメニューを載せている。黙ったまま待機している彼の頭上から、ツァーンラートはそれらを受け取り、テーブルに置いた。

「ふむ、何にするかね?折角だ、コースなどは如何であろうか?代金は、今日のところは無料にしておくが」

 無言で頷くと、ツァーンラートも頷き、メニューに挟んでいた紙に何かを書き付けた。それをメニューと共に彼の上に置く。

 それが合図だったのだろう、彼は無言で動き出した。

 、彼はキッチンの方へと消えていった。

 その、金属でできた樽に車輪が付いたような姿を見送って、ヒーアとアヤメは無言で顔を見合わせると、同時に瞬きをした。

「………今の、えっと、何?」

「ふむ」

 言葉少なに尋ねたヒーアに、ツァーンラートは軽く顎を引くと、何でもないことのように口を開いた。

「何、ということもない。ここは、吾輩が作り上げたレストラン。機械によって製造される、完全”無”手作業の自動厨房オートマチック・クックシステムを採用した、世界唯一のレストランである」



「そもそも、現在において、人類は手作りという言葉にいささか期待を寄せすぎである」

 樽人形が運んできたサラダは、二皿とも鏡に映したように同じ分量を同じように盛り付けてあった。

「手作りに、何のメリットがあるのである?出来栄えや量に誤差は生まれるし、調理方法の間違いや失敗さえ起こり得る」

 スープの温度は熱くも冷たくもなく、実に適切な温度であった。一緒に出てきたウィンナーは、表面がパリッと香ばしく仕上がっている。

「加えて言えば、清潔という点でも問題がある。生物である以上、その肌から雑菌を完全に除去することは困難である。大気からそうした成分を取り除くことも、人の生存には不向きである」

 ヒーアは仔羊のロースト、アヤメはウナギの燻製を選んでいた。焼き加減もハーブの利かせ方も完璧で、肉自体もかなり良い素材を使っているらしい。アヤメの方は、難しい顔をして唸っていたから、きっと美味しいのだろう。

「その点、機械にはそうした心配はない。雑菌を消毒しようと思えば、その構成するパーツ全てから菌を完全に取り除くことができる。空気から余分な成分を消すことも、室温の調整さえ必要ないのである」

「まぁ、言いたいことはわかるのだけれど。やっぱり、心情的なものがあるわ、ツァーンラートさん」

 デザートのアップルシュトルーデルを微笑みながら頬張って、ヒーアはもごもごと言った。薄い生地は測ったように均一で、とてもおいしい。

 唯一何も口にしていないツァーンラートは、ヒーアの言葉に肩を落とした。

「心情であるか、それが、やはり問題なのであるな。合理的に考えて、職人が手で作ったものと機械が作ったものとでは、優劣などないのであるが………そのためにこそ、機械はあるはずなのであるが」

「それはそうでしょうね。職人の手作業の成果を設定していれば、機械はそれを超えることはないけれど、劣ることもないはずですから」

 甘さに眉を寄せていたアヤメが、気を取り直したように頷いた。彼女のお皿には、クリームが半分以上残されている。

「でもやっぱり、人間が作ったのと機械が作ったのでは、違うように感じてしまうわ。清潔というけれど、機械の方がなんとなく、油とか煤塗れなイメージがあるもの」

 そのクリームを掬い取って舐めながら、ヒーアは言った。彼女の父親がどこかで嘆いた気もしたが、その場の誰にも聞こえなかった。

「ふむ………」

 短く呟いて、スッとツァーンラートは立ち上がった。そのままスタスタと、音もなくキッチンへと消えていく。

「………気を悪くしたかしら?」

「どうでしょう、そうも見えませんでしたが」

 後姿を見送って、ヒーアとアヤメは小声で話し合う。

「もし、気分を害して、「やっぱり金を払ってもらう」とか言われたらどうする?ここでは、多分人間の下働きは求めてないわよ?」

「怖いことを言わないでください………。あ、人の体から、油が搾り取れるって知っていますか?資源になるかもしれません」

「そっちの方が怖いと思うけれど………あ、戻ってきたわ」

 頬を引きつらせるヒーアたちのテーブルに、ツァーンラートは静かに戻ってくる。表情が読めない以上怒っているのかどうかは、顔色ではなく手元に持っているもので判断するしかない。

 その手には、湯気を立てるコーヒーカップが二つ握られていた。どうやら、怒ってはいないようだ。

「ふむ、では、これを飲んでもらいたい。吾輩が入れた、コーヒーである」

「あら、そうなの?それじゃあいただくわ」

「ありがとうございます。………む、これは………」

 口に運んだ瞬間、アヤメの表情が変わった。

「なんと………味、酸味、完璧です」

「そうなんだ………」

 正直、コーヒーのことを苦い水としか感じられないヒーアにとっては、味もなにもあったものではないのだが、アヤメの反応を見るに相当のものであるらしい。

「どうであろうか?喫茶店のレベルには、到達しているものと思っているのであるが」

「えぇ、それどころか、もっとすごい。今まで飲んだどのコーヒーよりもおいしいですよ、ツァーンラートさん」

 それは良かった、と頷くツァーンラートを見ながら、ヒーアは複雑な気持ちで「でも」と呟いた。

「それならやっぱり、手作りの方がいいってことじゃあないかしら?このコーヒーだって、機械が淹れたのではなく、ツァーンラートさん、貴方が淹れたからおいしいんだわ」

 率直だが意地の悪い質問に、しかしツァーンラートは首を振った。

「いや、その心配は無用なのである。何しろ、吾輩の研究が正しかったということは、これで証明されたのである」

 それから、マフラーと帽子、サングラスを次々に外す。コートの襟を折り、手袋を外し、肌を露わにしていく。

 その姿を見て、あっとヒーアたちは声を上げた。

 そこにあったのは、人の肌ではなかった。

 血管の代わりにフォークよりも細い金属製のパイプが縦横に走り、血液と酸素ではなく油と蒸気を運んでいる。口にはスピーカー、目にはレンズが嵌め込まれ、駆動音と共に細かくピントを調整しているようだった。

 そのスピーカーが震え、ノイズ混じりの音声を吐き出した。

「吾輩もまた、機械なのであるから」



「………大陸の蒸気機関はすごいとは聞かされていましたが、まさかここまでとは思ってもみませんでしたよ」

「いや、ここは例外だとは思うけれど………」

 帰り道。

 呆然と呟いたアヤメに苦笑して、ヒーアは空を見上げる。

 あれほど口喧しかった太陽は、騒ぎ疲れたのだろう、ベッドに向かって這いずっている。間もなく頭まで毛布を被って眠りに就いて、月が目覚める。

「………あれは、どっちなのかしらね、アヤメさん」

「どっち、とは?」

「人が機械になったのか、機械が人になろうとしているのか、よ」

 その問いかけに、アヤメは目を閉じた。そのまま少しの間立ち尽くして、それから、ゆっくりと口を開いた。

「本当に、知りたいのですか?」

 その言葉に、ヒーアは一瞬、豆鉄砲を食らったように目を大きく見開いた。そして、にやりと唇を横に裂いた。

「いいえ。考えてみたら、どうでもいいことだったわね。でも、一つだけいいかしら?」

「えぇ」

 頷いたアヤメに、ヒーアは悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。

「質問に質問で返すのは、失礼な行為でしてよ?まるで………」

 まるで、人間みたいに。

 ………或いは。

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