第12話悪魔が来たりて去っていく
「お父様、お父様、お父様!!」
父トイフェル・ナイエヴァイトの耳に入り、正確に意味を為したヒーア・ナイエヴァイトの声はその三回だけだった。
アパートメントの階段下から二階に登ってくるまでの間彼女は声を上げ続けていて、楽しくなったのだろう、テンポ良く歌うような言い方だった。
「それは私を呼んでいるのだろうね、ヒーア?」部屋のドアを開け駆け寄ってきた娘に、トイフェルはため息混じりに尋ねた。「流行りの歌だとしたら、すまないが遠慮してくれ」
「もちろん呼んでいるのよ、お父様」
いつも着ているエプロンドレスの裾を揺らし、栗色の巻き毛を弾ませて、ヒーアはテーブルに駆け寄ると、その周りをくるくると踊り始めた。
「お父様、あぁお父様、お父様。うふふ、大好きな大好きなお父様ですもの、何度だって呼びたいのよ」
「遠慮してくれ」
「あら、どうして?淑女に慎みは必要不可欠でしょうけれど、愛には邪魔だわ。家族愛には特にね?」
いつになく饒舌なヒーア。娘の猫のようなつり目に酔いの気配を見てとり、トイフェルはため息をついた。
どうやら、お決まりの時間らしい。少女を酔わせた何かについて、父親には耳を貸す権利があるとヒーアは思っているのだ。
恐ろしいことに、権利である。義務ではない。
聞きたいでしょう?聴きたいでしょう?訊きたいのでしょう?良いわ皆まで言わせるほど私礼儀知らずじゃあないわ、聞かせて聴かせて訊かせてあげる。
ヒーアの瞳はそう語っている。
トイフェルは視線を手元のカップに落とす。
湯気を立てる漆黒の水面に映る瞳は、さて何と語っているだろうか。
どうでも良いことだ。トイフェルの瞳が何を言っても、ヒーアの瞳は聞く耳なんて持っていないのだから。
「………それで?今夜のお前は、家族愛について語りたいのかね?」
「イヤだわお父様。淑女に愛を語らせるなんて。愛は紳士が語るものよ」
「わかったよ、降参だ」トイフェルは両手を上げた。「どんな話なんだい?聞かせておくれ」
ヒーアは嬉しそうに笑うと、跳ねるように椅子についた。細い脚が衝撃に耐えたのを見届けて、トイフェルはコーヒーを口に含んだ。
「それがね、お父様。私今日、悪魔に逢ったのよ!」
トイフェルは盛大に吹き出した。
「お父様、それは最近の流行りかしら?」
「遠慮しよう」どうにか、トイフェルは声を出した。「それより、初めて興味を惹かれる話だった。続きを聞かせてくれないかね?」
首を傾げながら、ヒーアは気を取り直すように一つ深呼吸して、それからゆっくりと話し始めた。
「あぁ、まったく。今日もまた退屈だわ」
程よく雲が流れ、日差しの注ぐ空を見上げて、ヒーアは嘆いた。
退屈、たいくつ、タイクツと繰り返しながら、石畳を蹴っていく。カツンカツンカツンとスタッカートを打ち鳴らし、退屈のフーガをヒーアは歌う。
悪くない出来だわ、とヒーアは頷いた。内容はともかく、リズミカルで覚えやすいもの。
ヒーアは辺りを見回した。芸術というものは周りがどう思うかが大切なのだ。歌だって、聞く人が喜んでくれないと歌う甲斐が無いものね。
「………………あら?」
称賛の拍手か感嘆の吐息を求めて巡らした視線の旅は、不思議な発見を持ち帰った。なにかを見たのではない、その視線は誰ともすれ違わなかったのだ。
石畳の上には誰も立っておらず、周囲の民家の窓にも人影はない。
まるで、世界が人間を忘れてしまったみたい。動く者が一切いなくなった町並みは、一枚の絵画のようだった。無機質で、違和感だらけで、不気味な世界に、ヒーアはしかし瞳を輝かせた。
「うふふ、何かが始まるのかしら。それとも、私は出遅れたの?」
「………楽しそうだな幼子よ」
声は、目の前から聞こえた――さっき誰もいなかったはずの正面、街灯の下に、いつの間にか『そいつ』はうずくまっていたのだ。
ヒーアは目を丸くして、そいつの姿を眺めた。それから、首を傾げた。
「あなたは………何?」
そいつの姿は、真っ黒な塊にしか見えなかったのだ。
人がうずくまっているようにも見える。
犬がお座りをしているようにも見える。
大人にも子供にも男性にも女性にも人にも動物にも、バケツにさえ見えてくるその姿は、はっきりとした輪郭を持っていないのだ。
子供の落書きのようだ。描き損じた部分を黒炭でグリグリと塗り潰した、濃淡のある黒い雲のような不定形の塊。
総じて言えば何だか、良くわからないもの。
喋ったのはこれなのか。ヒーアの疑問に、塊はため息で答えた。
「あら、やっぱり話せるのね?」
ヒーアは頷くと、踊るようなステップで塊に近付いた。しゃがみこみ、覗き込む。そこまで近づいても何の正体もわからず、ヒーアは再び首を傾げた。
もぞり、と塊は蠢いた。
「………なぜ笑っているのだ、幼子よ」
問われて初めて、ヒーアは自分が笑っていることに気が付いた。
「楽しいことでもあったのか?」
「あら貴方、人間のことをよく知らないようね?人は、楽しいことがありそうだと思うだけで笑えるのよ?」
「………成る程、一理在る。我は、人間のことを知らなすぎたのだ」
塊がため息をついた。ヒーアは、三日月のように唇を裂いて笑う。
「うふふ、事情がありそうね?話を聞かせてくださらない?塊さん」
「塊さん、とは?」
「貴方の名前、私はまだ知らないわ………そうだわ」ヒーアはパンと手を叩いた。「私の名前も貴方は知らないわね?」
「そうだな」
ヒーアは立ち上がると、スカートの裾をつまみ上げて腰を折った。父親に見せても恥ずかしくないくらいだわ、とヒーアは採点する。
「はじめまして、私はヒーア・ナイエヴァイトよ」
「そうか」
簡単に頷いた塊に、ヒーアは顔を上げると微笑んだ。
「貴方の名前は?」
「ない」塊は短く答えた。
ヒーアは目を丸くした。「ないの?」
「あぁ」
「どこから来たのかわかる?」
「あぁ」
「………自分が何なのかはわかる?」
「あぁ」
「何なの?」
「悪魔だ」
「そう。………ねぇ、悪魔さん」ヒーアは腰に手を当てて、不愉快そうに唇を尖らせた。「貴方さっきから、『はい』か『いいえ』しか言ってないわ。もっと聞き手を楽しませる努力が必要じゃないかしら?」
塊は、もごもごと震えた。笑っているようにも、泣いているようにも見える。お腹が空いただったら少し危ないわ――ほんの少しね――と思いつつ、ヒーアは一歩下がった。
幸い、それは笑いだったようだ。塊はのそりと身体を起こすと、ヒーアに顔らしき部分を向ける。
黒塗りの、それが顔だとするならば口に当たる部分だけが三日月模様に拭き取られ、歪ではあったが、笑顔に見えなくもない表情を描いた。
「なるほどな。口下手なのは確かに。我がもっと語り上手であれば、我もまだ名前を名乗り、悪魔として振る舞えたものをな」
「………悪魔なのではないの?」
「悪魔『だった』のだ」ふらふらと輪郭が揺れ、塊は下手くそな笑いの演技をしている。もしも芝居小屋でこれを見たら、観客は怒り出すだろう。「しかし、最早違う。我は、何者でも無くなったのだ」
「………我はかつて、願いを叶えるものだった」
塊とヒーアは並んで歩いていた。
そうしていると確かに、二本の足で散歩する人間の姿を想像できる――気配というか、雰囲気というか、漠然とヒトの形をした何かが歩いている感覚があるのだ。
だが見てみると、その姿は判然としない。見ようとすればするほどぼやけてしまう。
ピントが合わない。
「ありとあらゆる願いを叶えた」塊が五本突起を生やし、それを折り曲げる。「地位、名誉、財産、愛、そして長寿。我に持ち込まれる人間の欲は、全く辟易するものだった」
「辟易?」
ヒーアは驚き、それからくすりと笑った。
「そうだ、なぜ驚く?」
「あらだって、貴方は悪魔だったのでしょう?なら、人の欲望というやつは、主食みたいなものでしょう?」
「………確かに」塊は、悩むようなそぶりを見せた。「だが、何故だろうか。我はそう思ったのだ。こんなどろどろとした感情など触れたくもないと」
「まぁ、大したことじゃあないはずよ、塊さん。好き嫌いは誰にでもあるわ」
「空気を嫌う者はおるまい」
「濃すぎる空気は良くないそうよ?きっとそう、何事も程ほどが一番だってお父様もよく言っているもの」
「よく覚えていたね。きちんと実行もしているかい?」
「程ほどにはね」
「………………」
「けれど、塊さん。貴方は今のところ、特に悪魔らしいことをしていないように思えるわ。お伽噺のランプの精霊みたい」
塊は、大きく笑った。気を付けて見てみると、案外にも感情豊かね、とヒーアは思った。
勝手にそう思っているだけかもしれないけど、周りからどう見えるかというのは大切だわ。
「何かおかしいのかしら?それともその予感でもしたの?」
「いや、いや。おかしいのさ。我は予感で笑わない」
そうだと思った。ヒーアは微笑んだ。
何故?決まっている。
「それもまあ仕方がないが。我は、意図的にその情報を隠匿した」
「情報?」
「あぁ」塊は頷いた。「代償だよ」
ある若い女は、財産を願った。汲めども尽きない、一生かかっても使いきれないほど大量の財産を。
彼は叶えた。
だが、女はそれを使う健康を願い損ねた。女は事故に遭い、財産はその延命に使われることとなった。身動きもとれず、言葉も出せないまま、女は毎日毎日、生きるためだけに死ぬまで金を使い続けた。
ある若い男は、愛を願った。愛した女に振り向かれたい、永遠に愛されたいと願った。
彼は叶えた。
だが、男は愛の形を願い損ねた。男が愛した女は男を愛するあまり、そのすべてを支配したくなった。脚を切り落とされた男は逃げることもできず、永遠に愛され続けた。
老神父は、地位を願った。だが、それを敬う人間を願い損ねた。
国王は、長寿を願った。だが、自由を願い損ねた。
「我は願いを叶える。どんな願いでも。だが、願われなかったことまでは知らぬ。それが、代償。我が願いを叶えても、けして幸せには成れぬ呪い」
くつくつと笑う塊。それを見ながら、ヒーアは笑う。嬉しそうに、楽しそうに。
「それは残念なお話ね、塊さん。それで?それからどうなったのかしら?」
「まだ聞きたいのか?」塊が、驚いたように跳ねた。「不幸になる話だぞ、ろくな話ではない。なぜ聞きたがる?」
「終わってないからよ、決まっているわ。終わりまで聞かないなんて、楽しいかも知れないし、詰まらないかもしれないし、わからないなんて気持ち悪いじゃない」
それに、とヒーアは意地悪そうに笑った。唇が三日月のようにつり上がる。「貴方が、聞かせたいと願っている気がしてね」
塊が、ぶるぶると震えた。笑ったのだと、ヒーアは思うことにした。
「我は、あくまでも願いを叶える。だから、その時も、願いを叶えたのだ」
彼は、少女に声をかけた。
貧しい娘だった。畑の手伝いをし、家事をし、毎日を働いて過ごしていた。
金を願うだろうか、と彼は予想していた。だから軽い気持ちで、少女に声をかけたのだ。
糸を紡いでいる時だったと、思う。
「娘よ」背後から、彼は姿を表した。「願いを言え、なんでも一つだけ叶えよう」
「なによ、うるさいね!」
忙しそうにしていた、真実忙しかった少女は、突然の声に苛立ちしか感じなかったらしい。不機嫌に怒鳴り声をあげた拍子に糸がよれ、思わず汚い言葉を叫んだ。
「辛いか?そんな毎日から解放してやるぞ?」
彼の言葉に、少女は大きく叫んだ。
「うるさいってば、今忙しいんだ!なんでもないやつ、さっさとどっかへいっちまいな!!」
………………、彼は、叶えた。
「我は、その願いを叶えなければならないのだ。どこでもないどこかへいって、何でもない何かにならなくてはならない」
塊は、心なしか小さくなっている。
「だから、もうここにもいられないのね。何にもなれないのね」
「然り」
塊は頷いた。
すっかり小さくなった塊を見下ろして、ヒーアは微笑んだ。
「何がおかしいか、幼子よ」
「やっぱり駄目ね、塊さん。人間はね、別れの時には笑うものよ」
そうか、と塊は頷いた。
そうよ、とヒーアは頷いた。
「さようなら、またいつか、どこかで」
ヒーアは願った。
叶うかどうかは、わからなかった。
「成る程ね。悪魔だったもの、か」
トイフェルは安心したような息を吐いた。「悪魔がいたのかと思ったよ」
「悪魔がいたら、どうだったの?」
「私の仕事がひとつ増えた」トイフェルはコーヒーを口に運んだ。「管理者は一人でいいからね」
「よくわからないわ。ねぇ、それに、悪魔って願いを叶えないと生きていけないのかしら?」
「そうだね。ヒトに必要とされなければ、悪魔は消えてしまう」
「まるで人間みたいね」ヒーアは行儀悪くテーブルに肘をついた。「必要とされたくて甲斐甲斐しく働くなんて。けれど、必要なだけが価値ではないのに」
「仕方がないのさ」トイフェルは肘を叩いた。「必要のないものを置いておくほど、世界は広くない」
「そうかしら」
「そうなのさ。それより、ヒーア。彼は消えてしまったが………悲しかったかい?」
トイフェルの問い掛けに、ヒーアは首を捻りながら、さして悩まずに頷いた。
「えぇ。………程ほどにはね」
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