第10話墓穴の堀り合い
その日、エプロンドレスに明るい栗色の巻き毛の少女、ヒーア・ナイエヴァイトは上機嫌だった。空を覆う鉛色の曇天も、代わり映えしない町並みも、呑気そうな人々の態度も、それに傷をつけるには至らない。
町は、いつも通りの退屈さに包まれている。けれども今日は、それを我慢するという奇跡的な寛容さを少女は発揮していた。
理由は単純だった。
「今日も相変わらず退屈ね、お父様?」
朗らかな声でヒーアは傍らの"理由"に声をかけた。それに"理由"は苦笑混じりの声を出す。
「それが平和ということだよ、ヒーア。昨日と良く似た今日が明日も続くということがね」
「そんなのは、詰まらないわよ。きっと世界のどこかでは、思いも寄らない何かが起きているっていうのに、それが此処でないのは悲劇だわ」
「此処で起きないことは、世界のどこにも見付からないがね。全く、お前は本当に、お母さんに良く似てしまったね」
「あら、お父様に似て欲しかったかしら?」
「………そうだね、"父親"には似て欲しかったかもしれないな」
いつも通りの問答をしつつ、ヒーアは目に見えてご機嫌だった。久しぶりの父親との外出に、少女は浮かれている。
娘の様子に在りし日の誰かを重ねたのか、トイフェル・ナイエヴァイトは笑みを浮かべた。人の良さそうな、柔らかい、まさに老紳士といった風情の笑みである。
いつもいつも、お父様の仕事は遠くへお出掛けになる。朝家を出て、夜帰ってくるまで町のどこでも見かけることはない。嫌ではないけれど、やはり少しは寂しいと言うものだ。
それが、今日は珍しくお休み。それなら、家でのんびりしているなんて天罰が下るというものだわ。ヒーアはあっさりと結論付けて、颯爽と外に出掛けたのである。トイフェルは父親らしく、無駄な反論は一切しなかった。
「ねぇ、お父様。今日は何をするの?」
「そうだな、一先ずは、どこかでランチでも食べようか」
「えぇ、素敵だわね。そしたら、この前出来たお店があるわよ?」
「では、そこに行こうか。………おや?」
町の外れに歩き始めて直ぐ、トイフェルは足を止めた。何事かとヒーアは父親の視線を追うと、その視線の先には、女性が一人座り込んでいた。
女性、だろうか。
立てた膝を畳み、その間に顔を沈めていて顔が見えない。膝の隙間から覗いているのは茶色い長髪だし、体の線も細いから、多分女性だと思うのだが。
座り込んだまま、何やらゆらゆらと揺れている。剥き出しの脚には靴も履いておらず、泥に汚れている。
「………えっと、もしもし?」
声をかけてみるが、反応が無い。ぶつぶつと何事か呟きながら、ただ、静かに揺れている。
「………行くよ、ヒーア」
最初の一瞥以来、トイフェルは興味を無くしていた。娘に声をかけると、さっさと歩き出してしまう。
「あ………………」
ヒーアは少し名残惜しそうな顔をしたが、結局、父親のあとを追い、小走りで駆け出すことにした。
「ねぇ、お父様。さっきのは、なんだったのかしら?」
“狐の尻尾”亭。
窓際の席に座り、前菜のサラダをつつきながら、ヒーアはトイフェルに尋ねる。
ホウレン草を口に運んでいたトイフェルは、小さく首をかしげる。
「なにがだい?」
「さっきの女の人よ。何があったのかしら?お父様、何か知っているんじゃないかしら?」
ふむ、とトイフェルは腕を組んだ。どうしようか、と悩み、直ぐに諦めた。目の前の娘の瞳は、まるで猫のように好奇に輝いていたからだ。
彼女の母親と一緒だ。こうなった以上、彼女を止めることは出来ない。
しかし。実際、トイフェルはあの女性の成り行きを知っているわけではない。まぁ、何も知らないというわけでもないが。
さて、ではどうするか。少し考えると、トイフェルは軽く頷いた。
「………では、こうしようか、ヒーア。私が考えてみる。お前好みの話になるか、試してみようじゃあないか」
苦肉の策とも言えるが、予想通り、娘はその瞳を更に輝かせた。
「それは素敵だわ、お父様。じゃあ、聞かせてちょうだい、何が、あの人にあったのかしら?」
「そうだね、多分………」
始まりは、実は女性ではなかった。
一人の男が、同じところで同じように膝を抱えていたのだ。違うところは、一つ。その手には、拳銃が握られていた。
男は、実に分かりやすく絶望していた。今時、こんな風に分かりやすく絶望している人間なんているのかと、感心さえした。
だから。“悪魔”は気紛れを起こすことにした。
「………どうした、人間。何を嘆いているんだ?」
「………………………?」
唐突な悪魔の言葉に、男は驚くというより怪訝そうな顔をした。それには、まぁ悪魔の姿も関係しているだろうが。
「………俺は、とうとう頭がおかしくなったのか?犬に、話し掛けられるなんて」
「………まぁ、大差はないだろうさ。正気と狂気との間には、お前たちが思うほどの隔たりはないんだ。それで?どうかしたのか、人間?」
少し迷うような素振りをしてから、男は悪魔にとっていつもの反応をした………即ち、もうどうでもいいと自嘲気味に笑いながら口を開いたのだ。
「………俺はな、犬、全てを奪い取られたのさ」
分厚く切られた牛肉のステーキを切り分けながら、ヒーアは首を傾げた。
「………なんで犬なのかしら?」
「………犬は、賢いし、まぁ、凄いんだ。ヒーアは、犬は好きかな?」
「えぇ、好きよ。キーホルダーにしたいくらい」
「………………………」
「奪われた、とな?」
理不尽な言い方だ。人間は、特に敗北者は、得てしてそういう言い方をする。己に非はなく、相手に不義理があったのだと。
悪魔の微妙な表情に気が付いたのだろう、男は慌てて首を振った。
「いや、本当に、そうなんだよ。俺は、いきなり恋人や家、全部奪われちまったんだ!」
「それはまた、残念な話だな。………本当ならば、だが」
「本当だって!」
男は必死に弁解していた。何をそんなに焦っているのか不思議だったが、まぁ、彼のなけなしのプライドだろうか。
「………それで、結局、何があったんだ?」
「これだよ」
「………トランプ?」
そう言って男が差し出したのは、一組のトランプだった。
「………ギャンブルか」
「違う違う。………違う、つもりだったんだよ。でも、あいつは違った」
「………彼等は、三人でゲームを始めたんだよ。彼と、友人、そして彼の恋人」
目の前の白身魚のフライにソースをかけるか迷いながら、トイフェルは言う。ソースは卵とトマトを交ぜたような味で、塩にするか非常に迷うところだ。
「ゲームだと思ってたのは、彼と恋人だけだったのね」
躊躇いもなくフライをソースにぶちこみながら、ヒーアは頷いた。その無作法に眉を寄せると、トイフェルは続ける。
「まぁ、そうだね。彼等はゲームをし、そして、彼は負けた」
「それで、全部取られたんだよ。そんなこと、思いもしてなかったんだ!」
「………なんにせよ。契約内容は良く確認すべきだったな、始める前に」
カードを使ったゲームとは、古くは神への誓いの儀式でもあった。その意味が忘れ去られた今でさえ、意味は消えていない。
「本当に、こんなことになるなんて………あいつ、俺のこと、何も覚えてなかったんだぞ?!」
「それはまた、今時珍しい、“力”のあるやつだな」
遊びのつもりの相手に本気で契約を守らせるとは。本当に、ろくでもない相手とゲームをしたものだ。
「もう、どうすればいいのかわからないんだ………」
それはまぁ、そうだろう。そんな常識はずれの相手に、ただの人間が何をできるというのか。
そんなもの、まさに災難、降って湧いた天災だ。それに抗うには、人知を越える何かがいる。
「………どうにか、したいか?」
「………え?」
「俺は、悪魔だ。お前の寿命の幾つかで、お前の願いを叶えてやろう」
男は、その言葉に悩んだ。そして。
いつもの反応をした。
「………彼は、ゲームを願った。もう一度。そして、今度は勝つことを」
食後のワインを揺らしつつ、トイフェルは微笑む。赤い液体を通したからだろう、その瞳が赤く輝いているように、ヒーアには思えた。
「そうして、彼は取り返したのね?」
「そう、そして。取り返したということは、取られたということでもある」
「………おやまあ」
その悪魔は、呆れたように呟いた。その声はくぐもり、しかし不思議と聞き取り辛くはない。
今度の悪魔の全身は、真っ黒な包帯に包まれていた。露出している部分は一割にも満たず、まるで影を着込んだかのようだ。
悪魔の目線の先には、一人の人間。
まさに昨日、あの犬っころが男に出会ったのと同じ場所だ。よもや、と思っていたが、まさか本当にいるとは。
「しかし。………女とはね」
そこだけは、意外だった。てっきり男だと思っていたのだが。奪い、そして奪われた側の男。
しかしそこにいたのは、長髪の女だった。それなりにいい服装をした、上品そうな淑女。
不思議に思いつつ、影のような悪魔は女に近付いた。
「よう、お嬢さん。だいたい予想はつくんだが、何があったんだい?」
「………何よ、あんた」
「見てわかるだろ、悪魔だよ。んで?そっちは?」
「………私は、“札の魔女”よ」
女の言葉に、悪魔は口笛を吹いた。
「ここに魔女がいるとはね。面白すぎるわ、あんた。んで?なんであんたの方が泣いてんのさ?」
あの犬っころが、男を勝たせた筈だが。
すると、女は憎々しげに顔を歪めた。
「誰かが、あの男に入れ知恵したんだ。せっかく手に入れたのに、奪われたのよ」
「………んん?」
「あの男………男なら男らしく、女と付き合ってりゃあいいのよ!よりにもよって、あの貴族の子と付き合うなんて!」
「………んー、それはまぁ、好きにすりゃあいいんじゃねえの?誰が誰を好きでも、別にいいじゃん」
本当に欲しけりゃあ奪えばいいんだし。そう口に仕掛け、悪魔は黙った。こいつは、実際そうしたんだった。
「………あんた。悪魔なんでしょ?」
「そうだけど?」
「頼みが………“願い”、あるんだけど」
「不毛な気配がするわね」
「全くだ」
デザートのアイスを頬張ると、ヒーアはため息をついた。
「けど、悪魔さんにとっては、いいお客様よね」
「全くだ」
それから。彼らは幾度もそのゲームを繰り返した。
そのたびに、彼等は何かを支払い続けた。愚かなことに。
やがて。彼等は同時に、己の質ぐさを無くした。
残っていたのは、己の命とそして、それより価値があると思えるもの。………愛する者の魂。
彼等は、同じ願いを違う悪魔にそれぞれ願った。そして、同じように要求をされ、そして。
「どうやら二人は、違うものを差し出したのね」
そうして、一人が死んだ。
その結果、賭けは不戦勝となった。それと共に、もう一人が死んだ。
そして、残ったのは。
「………彼女は、これからどうするのかしら」
「決まっているさ。私達と同じだよ」
そう言うとトイフェルは立ち上がると、キョトンとした顔をするヒーアを見下ろし、微笑んだ。
「支払いだよ」
帰り道。
女の人は、もういなくなっていた。
そして、その場には、真っ赤な染みが一塊、無言のままに残されていた。
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