第9話オニハライ、オニ、ワライ

「………………………」

 いつもの町並みを歩きながら、しかしいつもと違い、ヒーア・ナイエヴァイトは沈黙していた。形のよい眉を寄せ、眉間にはシワ。いつもの踊るような足取りは休暇中で、代わりの足取りはドスンドスン、まるで恐竜のように地面を踏み締めている。

 御自慢の明るい栗色の巻き毛も、トレードマークのエプロンドレスも、心なしか重々しい。

 不機嫌そのもの、という態度で歩く少女に、町の住人たちは皆何事かと顔を見合わせ、理解を諦めるかのように首を振り、そっと距離を取っていく。

 だが。

 現状の理解を諦めつつあるのは、寧ろヒーアの方だった。

「………………………」

 苛立った瞳で見詰める町並み。いつもと変わらないその景色を彩るのは、しかし、いつもと異なる住人たちだった。いや、より正確には、いつもと様子の異なる住人たち、だ。彼らの中身は、恐らくいつもと変わらない。雑貨屋の太っちょな店主も、ペチャクチャ喋るご婦人がたも、彼らを遠巻きに見詰める紳士がたも。

 ただ唯一違うのは、その顔だ。

 彼らは皆一様に、何故か、仮面を着けていた。口は耳まで裂け、ナイフのような牙が覗き、岩のようにゴツゴツとした肌は赤黒く、目を見開き、額には一本の角が生えている。不気味で、危険な悪魔の面だ。

 いったいこれはなんなのかしら、とヒーアは、彼女にしては常識的な事を考えた。会う人会う人皆が皆、妙な仮面を着けているのだから、当然と言えば当然の感想だが、しかし、その後に続いたのは実にヒーアらしい、常識外れの言葉だった。

 何でこんな事を、私に黙ってやっているのだろう。こんな、を。しかも、誰も誘ってくれないし。

 苛々と、ヒーアは歩く。このの主催者を探して。

 そして、言ってやらなければ。

 よくも、私を弾いてくれたわね、と。



「………………あら?」

 ヒーアがその女に出会ったのは、探索を始めて二時間ばかり経った頃だった。港の近くにまで来たとき、何やら騒ぎを聞いたのだ。

 迷わず走り出す。頭の中で父が淑女らしくない、と顔をしかめた。私もそう思うわ、と答え、はしたないわよ、と両足をたしなめる。けれど残念、足は聞く耳持たないみたい。

 駆け寄ると、騒ぎの原因は直ぐにわかった。船員同士の、よくあるいざこざだ。港町ならどこででも目にするような下らないいさかい。船員は誰もが荒っぽく、自信家で臆病だ。まるで男の人そのものだわ、と退屈そうにヒーアは思う。

 まあもっとも、両者が悪魔の面を着けているせいで、いつもの喧嘩はそれなりに緊迫感があった。回りの人はそれでも興味が無いらしく、苦笑しながら離れていったが。

 いや、一人だけ。その騒ぎに近付く人影があった。

 女性だろうか、東洋のものとおぼしきゆったりとした上着を纏い、ベルト三本分はあるような太い布で腰の辺りで縛っている。ワンピースのように全身を覆うその衣服は、表面に幾何学的な模様が刺繍されていて、不思議な神秘さに充ちている。

 夜の暗闇のような真っ黒な髪は長く、腰の辺りにまで届いていたが、前髪は逆に短く切り揃えられていて、顔が見えていれば眉の辺りに一直線に揃っているだろう。

 見えていれば、だが。

 そう、彼女もまた、仮面を被っていたのだ。もっとも、悪魔の面ではなく純白の、狐のような動物のそれであったが。

「あ?」

「ん?」

 軽やかな足取りで近付く狐面に気が付いて、悪魔面二人がそちらを見る。誰だこいつ、と言いたげに二人は揃って首を傾げる。狐面も、その動きを真似るように首を傾げて、

「お前誰だ………ぎゃあ?!」

 突然、悪魔面の一人が顔を押さえて悲鳴を上げた。もう一人は慌てて、うずくまった相方に駆け寄る。

「だ、大丈夫か?!」

「あ、あぁ………」

 弱々しく答えるその男。近くまで駆け寄ったヒーアは、見た。顔を押さえたままの両手の間から、パラパラと何かがこぼれ落ちる様子を。

「お、お前、なにしやがった!!」

 極めて順当な推理の末、狐面が犯人と断じたのだろう、悪魔面が拳を握って立ち上がる。それに対して狐面は、焦った素振りも見せずに素早く右手を打ち振るった。

 緩みのある袖がふわりと膨らみ、そこから何かが打ち出される。小さなそれはまるで弾丸のような速さで飛び、過たず悪魔面の額のど真ん中にぶち当たった。

 ピシッ、という思いの外軽い音と共に跳ね返り、地面を転がったそれを、ヒーアは躊躇わずに手に取る。

「………マメ?」

 それは、乾燥した小さな豆だった。これをぶつけて、どうしてそこまで痛がるのか不思議に思うヒーアの背後で、またしてもパラパラという音がした。振り返り、そして彼女は見た。船員の悪魔の面が、額を中心にひび割れ、崩れ落ちる様を。

 まさかと思いうずくまった方の男を見ると、その顔からも仮面は剥がれ落ちていた。

 こんな、小さな豆の一撃で?

「う、うぅーん………」

 呆けていた船員たちが、瞬きしながら意識を取り戻し始める。それを見て、狐面は踵を返すと、素早く、そして音もなく走り出した。

「………………………あら。あらあらあら」

 その背を見て、迷わずヒーアはそのあとを追った。その顔には、ようやくいつものヒーアらしさが戻っていた。つまり。

 彼女は、笑っていた。嬉しそうに楽しそうに。



 狐面の足は速く、その姿はあっという間に見失った。けれど、その足取りは簡単に追える。

 行く先々で、仮面を被っていない人々がぼんやりとしていたのだ。その足元には、豆が一粒。月夜に輝く白い石ころより何倍も分かりやすい道標だ。

 暫く走った頃、ようやく、ヒーアは狐面に追い付いた。

 町外れの、古い教会の跡地。荒れ果てて庭も墓地もわからなくなってしまったその地に、狐面は悠然と立っていた。ヒーアを見詰めるその表情こそ見えないものの、何となく、彼女は自分を待っていたのではないかと感じていた。

 それを裏付けるかのように、狐面は静かに口を開いた。

「待っていましたよ、幼き者」

「ならもっとゆっくり歩いてほしかったわ、キツネさん」

 走らされた文句を言いつつ、ヒーアは狐面に近付いていく。武器を構える仕草はないが、彼女はこの姿勢からでもマメを放てる。それを理解しつつ、ヒーアの歩みは止まらなかった。

「町の人の仮面は、一体なんなの?」

「あれは、鬼です」

「オニ?」

 始めて聞いた単語だった。不思議そうに首を傾げるヒーアを見て、狐面も首を傾げる。

「オニ、オニ、オニ………不思議な響き。悪魔か、或いは竜だと思ったわ」

「………何故、気にするのです?」

 心底不思議そうな狐面の問い掛けに、ヒーアの方が不思議だった。大きく目を見開き、パチパチと瞬きをすると、当たり前のように答える。

「気になるじゃない?面白そうだし」

「………前向きですね」

 驚いたように呟いてから、狐面は軽く首を振り、口を開いた。

「鬼というのは、私の国の妖怪………この国で言えば、妖精等の類いです。人の欲や憎しみなど、暗い心に宿ります。それを糧に育ち、人を鬼と化してしまうのです」

「心に?面白いわ。貴女の国では、人も妖精も同じなの?」

「似てはいますね」

 苦笑するような素振りをしつつ、狐面は頷く。

「あの仮面は、そのオニなの?」

「そうです。そして、私はそれを祓いに来たのです」

「あの豆は?」

「あれはただの豆です」

 狐面が手を開くと、そこには数粒の豆が握られていた。白い、たおやかな掌で転がる豆は、どう見てもただの食べ物だ。

「不思議ね。どうしてこれで、オニが祓えるの?」

「私も詳しくは知りません。大陸の方から入ってきた、異国の祭りが元だと聞いていますが」

「へぇ………、ねぇ、良かったら、一粒貰えないかしら?」

 ヒーアの言葉に、また狐面は肩を震わせた。図々しいかしら、と思うヒーアに、しかし狐面は頷いた。

「構いませんよ、別に。もとよりそのつもりでした」

「え?」

 首を傾げるヒーア。その額にパシッという音と共に、何かが当たった。

 途端に、視界がくらくらと揺れる。何が、と思うよりも早く何かが顔から剥がれ落ちる。

「どこの国でも同じですよ。人はどこの誰でも、鬼になり得るのです」

 よろめき、俯く。その視界に、仮面が映った。裂ける程に笑った唇、こめかみから生えた二本の角、そして、溢れそうな程に見開かれた大きな瞳。

 自分の顔と見詰めあうヒーアに、狐面は、穏やかな口調で語りかけた。

「鬼は外へ。なにしろ、既に、貴女の内に居るのですから」

 その言葉に、ヒーアの口が、ニヤリと歪んだ。



 その晩、町では何故か、ひたすら豆がばらまかれた。楽しそうにはしゃぐ一人の少女と、慌ててそのあとを追う狐面の人物が目撃されていたが、誰も、その正体はわからなかった。

「フクハウチ!フクハウチ!」

「違います、そんな、ところ構わず撒くものではないんです!!」

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