第8話未来の顔

 夜というのは不思議である。光源が太陽から月に代わるだけで、世界が全く異なって見えるのだから。

 昼間は飽くほどに見慣れている家々も、夜の帷の中頼りなくゆらゆらと揺らぐガス灯に照らされてみると、なかなか風情の出るものである。歩き慣れた石畳も、その不揃いさが複雑な影の絵を描き、モザイク画のような優美さを見せる。

 まぁ人通りが少ないのは残念だわと、明るい栗色の巻き毛の少女、ヒーア・ナイエヴァイトは思いながら、それでも上機嫌で夜の街を歩いていた。片手に握ったカンテラが夜の闇を裂き、身に付けた黒のエプロンドレスが朧気な明かりの中で優雅に揺らめく。人気のない夜道を我が物顔で歩く彼女は、まさに夜の化身だった。

 夜空には月と星が控えめに輝いている。昼間の太陽にも学んで欲しい控えめさだとヒーアは思う。昼間の太陽の明かりの図々しいことと言ったら、全く困ったものなのだから。

 その点、夜は良い。話し声も歩く音も景色も、光でさえ遠慮というものを知っている。穏やかな夜の闇に包まれながら歩く度に、人は夜にこそ生きるべきだとさえヒーアは思う。

「………まぁ、人がいないのは、よろしくないけれど」

 人が好きなヒーアにとって、無人の道にはなんの価値もない。物珍しさにかまけて続けていたこの夜の散歩は、そういう意味ではそろそろ飽きがきていた。

 よし、決めた。

 今夜もまた何事もなく終わるようなら、この散歩はここまでだ。明日からはさっさと眠りに就き、面白い夢を見ることをでも期待するとしよう。

 そうと決まれば、あとは全力で楽しみにいかなくては。気合いを入れ直すと、ヒーアはその鋭いつり目を猫のように光らせて、闇夜の探検に戻った。



「………あら?」

 ヒーアがその喧騒に出会ったのは、歩き始めて暫くしてからのことだった。

 幾人分かの人影が灯りも付けずに集まっていたのだ。月が出ているとはいえ、ヒーアの位置からでは黒い固まりにしか見えず、寄り集まっている彼らにしても、いささか以上に不便な暗さであるはずなのに、である。

 人影達は、互いの顔をくっつけんばかりに寄せて、なにやらヒソヒソと話している。当然のように興味を惹かれ、ヒーアは悠然とその集まりに近付いた。

「こんばんは、皆さん。これはいったいぜんたい、なんの集まりかしら?」

 呼び掛けに、彼らは驚いて一斉にヒーアを見た。ヒーアがカンテラを翳すと、人影達は眩しそうに顔を隠した。

 照らし出されたのは、年若い男女が五人ほど。身なりはきちんとしており、闇夜の逢瀬をしていた訳ではなさそうだった。――少なくとも今のところは。

「っ、夜警か?」

 男の一人が、低く抑えた声をあげる。その言葉に残りの若者は息をのみ、怯えたような表情を浮かべた。そして、ヒーアは不満げに眉をひそめた。

「失礼ね、私は夜警なんかじゃないわ」

「ほ、本当か?」

 当たり前ではないか、とヒーアは鼻を鳴らす。見てわかるだろうに。

「そんなの、わかるもんか。口ではそう言っているだけかも知れない」

「わかるわよ。貴方達は余所者かしら?………ねぇ、私に鋭い爪が見えるかしら?」

「まぁ、この前来たばかりだが………、いや?そんなものは見えないが………」

「この口に牙が見える?とがった耳は?毛むくじゃらの肌は?」

 ヒーアの言葉に余所者の若者達は顔を見合わせ、それから揃って首を振った。

「いや、そんな狼男みたいなやつには見えないが………」

「そうでしょう?なら、私は夜警じゃないわ」

 彼らは不審そうな顔でヒーアを見てくるが、何を言っていいのかわからないのだろう、何も言わなかった。ヒーアとしても余所者の為にいちいち講義を開くつもりはなかったし、お預けも限界であった。

「それで?なんの集まりかしら?」

 見たところ、そこは古びた家の前であり、そこの住人に用がある訳ではなさそうだった。そもそも、そこは暫く無人であったはずである。こんな深夜に訪問の用向きがあるとは思えない。

 ヒーアの問いに、若者達は決まりの悪そうに身をよじらせた。迷うような素振りの後、彼らは賢明な判断をした。諦めたのだ。

「………誰にも言うなよ、お嬢ちゃん。実は、ここにヤバいものがあるって噂だったんだよ。それを確かめに来たんだ」

「ヤバいもの?」

 不思議な言葉だ、とヒーアは思う。この街ではあまり聞かない表現である。ヒーアは自らの経験に基づいてその“ヤバいもの”を想像し、そして直ぐに諦めた。

 ヒーアの諦めに気が付いたのか、若者は短く「鏡だよ」と答えた。

「鏡?」

「あぁ、もちろんただの鏡じゃない。なんでも、真夜中にそいつを見ると、幽霊が映るんだそうだ」

「………幽霊が、ね………」

 口にしたことで気分が盛り上がったのか、若者達は口々にその真偽について憶測を語り合っている。

 冷ややかなヒーアの眼差しに気が付いたのか、若者はごほんと咳払いをした。

「まあ、俺達も眉唾物だとは思ってるけどな。どうせなら、そいつを見て話の種にでもしてやろうと思ってさ」

 今のところ、彼ら自身が物笑いの種でしかないのだが、しかしヒーアとしても、多少興味はあった。何が起こるかわからないが、わからないというだけで面白い。

「面白そうだわ、それなら、早速見てみましょうよ?」

「あー、待て待てお嬢ちゃん。それはそうなんだが、全員でガヤガヤ行くのは俺達の流儀じゃないんだ」

 代表格らしき男のもったいぶったような言葉に、彼らは頷いた。

「そうなの、それで?どういうのが、貴方達の流儀なのかしら?」

「簡単さ。………一人ずつ行くんだ」



「ずいぶん、効率が悪いわね」

 先客は彼らだし、とヒーアは先陣を譲ることを了承した。その間の手持ちぶさたを紛らすように、若者のリーダーに声をかける。

 リーダーはちょうど、懐から取り出した煙草に火を着けたところだった。ヒーアはしかめ面でそれを注意したが、彼は答えの代わりに紫煙を虚空に放った。

「どうして一人ずつ行かなくてはならないの?早く見たいのに」

「あぁ、そりゃ皆そうさ。けど、皆でノコノコ行ったら騒がしくって、雰囲気を楽しむどころじゃあない。見ろよ」

 リーダーは、目の前の家を指し示した。人気のないその家は、夜の闇に彩られ無機質な存在感を以て予期せぬ来訪者達を見下ろしている。

「夜の闇、無人の家、曰く付きの家具。その不気味さを味わうのが、俺達の旅の醍醐味なんだ。それに、まぁちょっとした度胸試しでもある。ビビって動けない奴って、結構多いんだ」

 キヒヒ、と笑う彼の理論は、ヒーアにはいまいちわからなかった。不気味さを味わうなんて考えは、少女の中にはまるで無かった。………そもそも、不気味さを感じてもいないのだから当たり前であるが。

 まぁそれでも、この話を持ち込んだのは彼らである。そのやり方に倣うのも、やぶさかではなかった。

「それよりさ、君、この街に住んでるの?良かったらこのあと、俺達の部屋で」

 言い掛けたリーダーの言葉は、突如響いた悲鳴に遮られた。見ると、家から若者の一人が飛び出して来たところだった。

「なんだ、どうした?」

 リーダーが呼び掛け、近付くと、彼はぎょっとしてリーダーを見返した。それから、不意に怒り出した。

「おい、どういうつもりだよ、悪ふざけしやがって!」

「あ?おいおい、なんのことだよ」

 立ち上がり掴みかかる若者を、残りの仲間達は慌てて押さえつけた。その後も何かを喚く彼のことを、若者達は不気味そうに眺めている。

「仕方ない、おい、次は誰だ?」

「あ、私だ」

 二人いる女性の内の一人が手を上げた。騒いだ男を軽蔑するように眺めると、さっさとした足取りで家の中へと入っていく。

 その後ろ姿を見ながら、ヒーアはある予感がしていた。恐らく、他の誰もが、同じように感じていただろうが。

 それから十数分後、予感は的中していた。

 彼女を含めて二人、若者は家に入り、同じように戻ってきた。叫び声、騒音、そして脱出だ。

「おいおい、どうなってるんだこれは」

 リーダーの言葉に、若者達は顔を見合わせるばかりだ。最早入ろうとする者は居らず、中でも入り、そして戻った者は皆一様に、不気味そうにリーダーを眺めているだけだ。

 これはもう、順番は意味がないだろう。ヒーアはワクワクしながら家に行こうとして、そしてリーダーに止められた。

「待て、次は俺がいく。臆病者の集団と思われちゃたまらんからな」

 あらん限りの侮蔑を込めたリーダーの言葉にも、彼らは何も答えなかった。それを見捨てるように、リーダーは堂々とした足取りで家の中へと入っていく。

「………貴方達は、何を見たの?」

 その後ろ姿を見送ると、ヒーアは入った三人に声を掛けた。彼らはお互いに顔を見合わせ、何も答えず首を振った。

 まぁ、いいわ。あとは誰もいない、自分だけだ。自分で見れば良いだけだわ。

 果たして、その時は直ぐに訪れた。

 意外にも静かに、リーダーが戻ってきたのだ。悲鳴も逃げ腰も無し、行ったときと同じく堂々とした足取りで、彼は帰ってきた。その顔には、勝者の愉悦が浮かんでいる。

「あら、何事も無かったのかしら?」

「あぁ、当たり前だよ。鏡を見て帰ってくるだけだぜ、騒ぐことないさ。それより、髪が乱れてたのが残念だったぜ、整えるのに便利なものがあったから良かったけどさ」

 そう言う彼の髪はしっかり整っていた。それだけ余裕があったというわけだろう。

「次は私ね」

「あぁ。どっかの臆病者が椅子を蹴飛ばしたらしくてごちゃごちゃだ、気を付けろよ」

 リーダーの言葉に若者達はいきり立つかと思われたが、その元気もないらしかった。そんな仲間達を見下しながら、リーダーは再び煙草を口に挟んだ。

「この街では、夜は禁煙よ」

「あぁ、気を付けるよ」

 そう言うリーダーに背を向け、ヒーアは家へと入っていった。



 鏡は、直ぐに見つかった。埃を被った廊下の上に、先客達の足跡がくっきりと残っていたからだ。廊下をまっすぐ、扉をひとつ。それだけで、ヒーアは鏡の前へとたどり着いた。

 ワクワクしながら、鏡に顔を近づける。表面にも埃がずっしり積もっていたが、真ん中だけは拭われていた。

 そこに、映っていたのは。



「………あら?」

 戻ったヒーアの目の前で、若者達は地面に座り込んでいた。彼らの顔は皆青ざめており、どうやら腰が抜けているらしい。

 その輪の中にリーダーの姿がなく、近くの地面に赤い水滴を見つけ、ヒーアは頷いた。

「あら、どうやら、夜警に見つかったのね?」

「あ、あれは、なんだよ、なんなんだ?」

「夜警よ、言ったじゃない?」

 事も無げに言うヒーアに、若者達は口を開けたまま呆然としている。それでも、彼らの中には夜警そのものへの恐怖しかないことを少女は見抜いた。リーダーの消失は、彼らにとっては予想外ではなかったのだ。勿論、ヒーアにとっても。

「ねぇ、貴方達は、何を見たのかしら?多分、私と同じものだと思うのだけれど」

 確信を持ったヒーアの問いかけに、若者達は俯きながら言葉少なに答えた。

「………あいつの、顔だよ。青ざめたあいつの顔が、じっとこっちを見てたんだ」

 やっぱり、とヒーアは頷いた。ヒーアが見たのも、同じくリーダーの顔だったからだ。

 鏡の噂は、本当だったらしい。そこには幽霊が映っていた。ただし………。

 未来の、幽霊が。

 満足と共に、ヒーアは歩き出した。若者達は俯いたままだったが、そこにはもう興味はなかった。

 不意に、夜の闇に声が響いた。長く伸ばされたその声は、叫び声にも、狼の遠吠えにも似ていた。それを聞きながら、ヒーアは肩を竦めた。

「だから、夜は禁煙だって言ったのに」

 若者達は答えなかった。ただ何人かが、なにかを捨てるような動作をしただけだった。それに背を向けながら、ヒーアは上機嫌に歩く。

 やっぱり、夜はいい。私好みだわ。

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