第7話花の家

 その日、なんとも珍しいことに、ヒーア・ナイエヴァイトは上機嫌だった。

 いつもと変わらぬ石畳の道を、いつものエプロンドレスの裾を翻しながら歩く彼女は、十二歳という年齢にふさわしくスキップなどしている。いつも変わらぬ抜けるような青空には、ヒーアの口ずさむ鼻唄が響いてさえいた。

 そんな少女とすれ違う町の住人は、皆一様に驚き、そして慌てて歩き去っていく。皆知っているのだ。少女の楽しみは、得てしてろくなものではないと。

 とは言え、ヒーアの上機嫌の理由を聞けば、今回ばかりは誰もがホッとするだろう。もちろん誰も聞きはしなかったが、聞かれた場合彼女はこう答えたからだ――今日は、大事な大事な約束があるのだ、と。

 ………………まぁ、問題は。いったい誰と、何の約束をしたか、ではあるのだが。



 事の起こりは、一週間前だった。

 いつものように、ヒーアは町を歩いていた。猫のように鋭いつり目を光らせて、なにやら面白いことはないかと探索の最中であった。

「………あら?」

 ヒーアは、住宅地の一画で足を止めた。彼女の住む地域からはさして遠くもないが、これまで足を踏み入れたことのない地域だった。見慣れない家々を眺めながらの散歩に気分が上がっていたときに、その家を見かけたのだ。

 狭い区画によくある、通りから玄関までの間に庭が作られた一軒家。貴族の家と比べるとさすがに小規模だが、庭は庭だ。家屋自体は多少手狭になるものの、自分好みの庭を手軽に持てるとあって、特に居住に面積を必要としない老人層を中心に人気を博している。

 ヒーアは、このタイプの家が好きだった。特徴の無い四角に屋根をのせただけの家等より、庭にはよほど個性が出る。野菜を育てる者、ペットの小屋を建てる者、或いは草花延び放題荒れるに任せている者。十の家が在れば十の庭があり、正に千差万別の様相を呈している。

 ヒーアが足を止めたのは、その区域でも一番目立つ家――いや、庭だった。

 その庭は、薔薇に埋められていた。

 通りに面した緑の柵には茨が巻き付き、まるで生け垣のようになっている。その隙間からは、狭い庭に敷き詰められるように咲いた、色とりどりの薔薇の花が咲き乱れている様子が垣間見えた。

 これはまるで、花の家ね。ヒーアは心の中で密かに名付ける。

 背伸びをして見上げると、家自体の二階にも緑色の蔦が絡まっているのが見える。それもただ伸びたわけではなく、幾何学的な模様を描くよう計算して伸ばしたらしい。お陰で壁は、しっかり縛られたプレゼント箱のような有り様である。所々咲く花が、元の地味な煉瓦壁を馬鹿馬鹿しいほど賑やかに飾り立て、正にクリスマスのプレゼントだ。

 狂おしいほどの、花への執着。人の理解を超えた域に達する程の執念を感じて、ヒーアの顔が綻んだ。あぁ、なんて、素敵なのかしら。

「誰が住んでいるのかしら?」

 当然内心での感想だけで済ますほどヒーア・ナイエヴァイトという少女は常識的ではない。半ば生け垣と一体化している入り口に周り、表札を探して目を凝らした。

「おや、その家に興味があるのか、お嬢さん」

 途端掛けられた背後からの声に、ヒーアは飛び上がらんばかりに驚いた。実際、多少飛んだくらいである。

 慌てて、振り返る。傍若無人の権化のように言われる少女だが、別段常識を知らない訳ではなく、単にそれを無視しているだけである。少なくとも、他人の庭先でこそこそしているのを見られ、頬を赤らめる程度の常識は有していた。

 しかし、そんなヒーアの常識的な少女らしい表情は、声の主を見た途端にきれいさっぱり消え失せた。

 そこに居たのは、黒い影だった。黒い夜会服を身に纏って山高帽を被った、いかにも紳士らしい服装をした影には、明らかにおかしな点が二つほど合った。その内の一つはまぁ個人の趣味として兎も角見逃すとしても、もう一つは、単なる趣味では済ませづらいものであった。

 影は、服からはみ出ている肌の殆どに、黒い包帯を巻き付けていた。手首から指の先、爪に至るまで。辛うじて目許と唇は出ていたが、その他の肌という肌は覆い隠されている。まるで影を着ているような服装に、ヒーアは目を大きく見開いて口をつぐんだ。

「あぁ、いや、怪しい者ではない。お父様のしゅく………友人でね、君のことも少しは知っている、ヒーア嬢」

 そう言うと、影はその唇を笑みの形に歪めた。言葉の内容に、ヒーアは少し残念そうな顔を浮かべる。

「なんだ、お父様のお知り合いなのね。せっかく面白い人を見たと思ったのに」

「おいおい、なんだとはご挨拶だな」

 怒ったような言葉だが、その口許は緩んだままである。何につけても面白がるような人だわ、とヒーアは分析し、笑う。それは実に素晴らしい生き方だわ、パパの友人とは思えないくらい。

「それで、ヒーア嬢。この家に興味があるのかね?」

「えぇ、素敵なお庭だわ。どんな人が住んでいるのかしらと思っていたけれど」

 今の時点でそれより気になるのは、影の全身である。ヒーアは改めてその姿を見て、尋ねる。

「怪我でもなさっているの?その包帯」

「ん?あぁ、これか。変だろう?」

 その直接的な表現にさすがに答えられず、ヒーアは曖昧に微笑んだ。影はすべてを察したというように鷹揚に頷いて言った。

「俺は白が良かったんだが」

「そっち?」

 思わず声をあげると、影はニヤリと笑う。

「あぁ、こいつはまぁ、拘りでね。怪我とかじゃないから安心してくれ。それで、どうなんだ?」

「それは勿論、興味があるわ」

「ふうん、そうかい。………話を聞きたいか?」

 思いもかけない提案に驚きながら、ヒーアは頷いた。この人が庭の主なのかと思っていたのだが、知り合いなのだろうか。

「家に居るのは、じーさんが一人きりさ。俺は庭作りを多少手伝ってやった縁があってね、顔が利くんだ。話したいなら、入れるよう取り計らおう」

「それは是非とも聞きたいわ。お願いできるかしら?」

「構わんよ、ちょっと待っていろ」

 影は答えると、慣れた様子で柵に手をかけた。そのまま軽く門を押し開け、中に入っていく。スムーズな仕草に、ヒーアは眉をひそめて柵に近付いた。そのまま顔を近付け、目を凝らす。

 先程まで柵全体を埋め尽くしていたはずの茨は、いつの間にか左右に割れて、門が露になっていた。

 思わず、首を傾げる。さっきまで、取っ手も見えなかったのに、おかしいわね。

 ならば、中も見られるだろうか。ヒーアは柵の隙間を覗き込み、

「待たせたな」

 戻ってきた影と、危うくぶつかるところだった。慌てて仰け反るように離れると、影は門から出てきた。

「話はつけた。入って好きに聞くがいい」

「あら、一緒には来ないの?」

 ヒーアの言葉に、影は首を振ると歩み去っていく。

 代わりに、門を細い筋張った腕が開いた。次いで、そこから一人の老人が顔を出した。皮と骨しか無いような、痩せ細ったその老人は動作こそ緩慢だったが、落ち窪んだ両眼には見る者を凍てつかせるような鋭い眼光が宿っていた。

 執着の念だ、とヒーアは思った。この老人には、狂ったように思い続ける何かがあるようだ。

 面白い。

「はじめまして、お爺さん。私はヒーア・ナイエヴァイト。貴方の庭を見せていただけないかしら?」

「はじめまして、お嬢さん。………あれから話は聞いている。お入りなさい」



「わしはバオアー。この庭を作るために、全て投げ出した愚かな男じゃ」

 庭に咲き誇る花とは正反対、にこりともしない老人は、淡々とした調子で自らの事情を語り出す。そうしながら、片手で庭を指し示した。

「いかがかな?」

 その口調には、隠しきれない自信が見えていた。自分が全てを捧げた庭園に、絶対の自信を持っているのだろう。

 そして、それは正しかった。

 眼前に広がる薔薇の庭に、ヒーアは言葉もなく見入っていた。咲き誇る花の色鮮やかさは勿論のこと、色の種類に量は花屋のそれより遥かに多く、計算され尽くした配置らしく全ての花がどこに立っても見えている。

 美しい。美しく見えるよう作られた美しさ。そこに至るまでの人の、偏執的な執念を感じずにはいられない。

「素敵ね、素敵だわ」

「けっこう、よい感想だ」

「聞いてもよろしいかしら、バオアー老?」

「なにかね?」

 頷く老人は、向き直ったヒーアの目に軽く息を止めた。鋭いつり目に光る好奇心の炎は、老人の執念をして尚驚異を覚えるものだったのだ。

「どうして、これを作ろうと思ったの?いえ………作らなければと、思ったのかしら?」

 ヒーアの問いかけに、バオアーはその瞳に鋭い光を宿した。ヒーアのそれとは違う、暗い輝きだった。

「………長い話だ、明日また来るがよい」

「わかったわ、バオアー老。また明日、お話を聞かせていただくわ」



 次の日。

 老人は自らの半生を語り出した。平凡な家に生まれ、平凡に生きていたこと。身分違いの恋をして、それを拐うように結婚したことを。

 その次の日は、夫婦の日々を。子宝には恵まれず、元の生活に比べれば非常に貧しい暮らしであったが、二人は幸せであったことを。

 次の日は、その後の暮らしを。老いていくにつれ、妻がかつての我が家を懐かしがったことを。

「わしは、妻の思い出を守りたかった。じゃが、わしは娘を拐った男。のこのこ帰れる訳がない」

 四日目の話、老人は妻のために、ささやかな贈り物を考えた。

「それが、庭。かつて妻が暮らしていた家にあったような、きれいな庭を」

 五日目。心なしか痩せてきた老人は、ため息をつきつつ語る。

「妻は喜んでくれた。しかし、足りないと思った。もっとよい庭を作らなければ、妻はまた落ち込んでしまうと」

 六日目。執念で生きていた老人の体は、もはや骸骨に近い。それでも、吐き出すようにして語っていた。

「やがて、妻が死んだ。わしは、妻の思い出を、更なる庭に変えた」

「だから、庭を?」

「うむ。………その手段を持つものに頼み、庭をどこの庭よりも鮮やかに変えることにした。妻の思い出の庭を、誰に対しても誇りたかった」

「………………」

 老人の全身にはもはや生気はなかった。しかし、その瞳には、変わらぬ輝きがあった。

 遠くを見続ける老人の瞳には、過去への憧憬がある。あまりにも強く、歪んでしまったため、憎悪にも似てしまった憧れが燃え盛っていた。

「わしは、悪魔に願ったのだ。かつてない庭のため、わしの全てを捧げる。その代わり、わしらの庭を永遠にとな」

「永遠に?それは………」

「手段はある。とは言え、今日はもう遅いな。明日、結果を見せよう」



 それが、今日だった。ヒーアは、楽しみで仕方がなかった。あの老人の人生をかけた庭の結末。それが何であれ、きっと少女の度肝を抜くだろう。

「失礼、バオアーさん………?」

 門を押し、入ってみると、そこには老人の姿はなかった。代わりに、古びたオーバーオールが脱ぎ捨てられていた。近くにはスコップも転がっている。

 留守かしら、ヒーアが首を傾げたそのときだった。不意にふわりと、オーバーオールが持ち上がった。

 茨が伸び、服に入り込んでいた。その数は数十本を越え、まるで肉体のように膨らみ、やがて持ち上がった。

 人のような形に茨はまとまると、ゆっくりと立ち上がる。手に当たる位置の茨が伸びてスコップに絡まり、握りしめた。やがて茨人形は、緩慢な動作で庭を手入れし始める。

 薔薇が、薔薇を育て続ける。枯れた薔薇が肥料となり、次の薔薇へとその使命が受け継がれていく。

「………そう、これが、永遠なのね」

 ふと見ると、庭の一画に真新しい掘り跡があった。上には薔薇が一輪咲いている。

 あぁ、そうなのね。ヒーアはため息をつく。バオアーは全てを捧げたのだ、文字通り、その全てを。

 ヒーアはそっと庭を出ていく。出ていきながら、考える。全てを捧げた老人である、もしかしたら、彼は、もっとも大切なものを捧げたのかもしれない。思い出の庭。

 それは、誰のための庭?



「きっと、彼は妻も捧げたんだろうな。妻の遺体を」

「くくく、そうだよ。人間は面白いよな」

 コーヒーを片手に、二人が語り合う。一人は、人当たりの良さそうな笑みを浮かべた男性。もう一人は、体のあちこちに黒い包帯を巻いた影。

「草は元々そういうものだ。腐ったものを糧にして育つ。腐っていればいるほど、良い花が咲くのだろうな」

「くくく、最後には、自分も埋めたがね。どうせなら俺に永遠を願えば良いのにな。そうすりゃあ、永遠に自分で庭を弄れる」

 影の言葉に、首を振る。彼はきっと、永遠に庭いじりがしたかったわけではないのだ。埋まっている妻と、一緒になりたかっただけなのだ。二人で一緒に、世界一の庭になりたかっただけなのだろう。男性、トイフェル・ナイエヴァイトはそう思った。

 やれやれ、とトイフェルはため息をつく。間もなくヒーアが帰ってくるだろう。とっと帰れと、影を追い払った。

 影が帰るとき、入れ替わるように娘が帰ってきた。不思議そうに挨拶を交わして、それから、楽しくてたまらないという顔でトイフェルに近付いた。

「ねぇ、お父さん、今の人、友達なんでしょう?何で男の格好をしているの?」

「さてね。まぁ、趣味なんだろう」

 首を傾げるヒーアだったが、それより面白いことに意識がいったようだ。楽しくてたまらないという顔で、トイフェルに近付いてくる。

「それより、お父さん。面白い話があるのよ」

「そうか、それは楽しみだね」

 微笑みながら、トイフェルはコーヒーを手に取った。先程飲み干したはずのカップには、湯気をたてるコーヒーが満杯になっていた。

 興奮した様子で話し出すヒーアを見ながら、トイフェルはコーヒーを口に含む。夜はこれからだ。長くなる話だが、明日には回さないと確信しながら。

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