第6話夢の旅人

 ヒーア・ナイエヴァイトが彼女の暮らす町について語るとき、その最初の一言には大抵『退屈な』という評価が着いて回る。退屈だけど良い町よ、退屈だけど住みやすいわ、退屈だけど、退屈だけど、退屈だけど………。

 田舎に住む者の、常套句とも言うべき台詞ではある。それにしてもしつこいくらい、少女は自らの住まう町を『退屈』の一言で切って捨てる癖がある。

 そんなヒーアが、唯一彼女自身が嫌悪するその単語を使わずに語る、町の特色がある。

 そのときばかりは町は退屈から解き放たれ、ヒーアが望んで止まない非日常を内包するのである。



「はあ、はぁ、はぁ………」

 暗い道を、一人の少女が走る。

 辺りに街灯はなく、月明かりが照らし出すのはうっそうと茂る木々。高く高く伸びたその枝葉は月の明かりを遮り、そこかしこに暗闇の穴を作り出している。

 深い、深い森だ。

 恐らく昼間でも、枝や葉にさえぎられ、日差しはわずかしか届くまい。晴天でも薄暗く陰鬱とした森は、夜はなお暗く、その深さを増す。

 走る少女は、脇目も振らない。これだけ暗くては自分が何処にいるかも、何処に向かっているかもわからないだろうに、それに対する不安などまるで無いように、ひたすらに前へ前へと走る。

 兎に角此処から離れられれば良い、とでも言いたげな、無計画な逃亡。何から逃げているのか、少女の背後はその行く手と同じく闇に包まれているばかり。

 やがて、少女の懸命な逃亡は実を結んだ。

 目前に、月明かりとは違う人工的な明かりが見えたのだ。

 森の出口、それを確信して、少女の走りに更なる力が篭る。

「ようやく………出られる………」

 ぼそりとこぼした、呟き声。吹けば飛ぶようなか細い声ではあったが、そこには、隠しようのない歓喜が滲み出ていた。

 勢いそのままに、少女の体は森の出口にまでたどり着き。

 開けた視界の向こうに、町の明かりを見て。

「………………あ」

 その口から、落胆の声が漏れた。



「兄さん方」

 夜の城。

 玄関ホールの中央に一人立って、マハトは声を上げた。何事かあったのか、見る者に儚げな印象を与えるその顔には苦悩の色が浮かんでいる。もっとも、その感情は微々たるもので、全体としてはいつものように無表情且つ無感情である。

「兄さん方、ここにはいませんか?」

 淡々とした、感情の篭らぬ声でマハトは虚空に呼びかける。平坦な調子のままで焦った雰囲気を出すという器用な真似をする少年の呼びかけに、誰もいないはずのホールに返答が響く。

「「「いるよ、我が弟」」」

 その返答に、マハトは周囲に首をめぐらす。子供くらいなら隠れられそうな柱時計、手入れの行き届いた甲冑、鹿の頭の剥製、絵画………調度品ばかりが立ち並ぶホールには、人の姿は愚か気配さえない。

「「「どこを見ているのか知らないが、何処を見ても同じだ。僕らはいる」」」

「そうですか………………」

 誰もいないのに、声だけが返ってくる。幾人もの人間が同時に喋っているような、不協和音の塊のような声が。

 そんな異常をマハトは無表情のまま受け流すと、改めて視線を正面に向けた。何処を見ても同じなら、別に何処も向かなくともよいだろうと思ったのだろう。

「兄さん方、お聞きしたいことがあります」

 居住まいを正して、マハトは声を上げる。その生真面目な様子に声が応える。

「「「なんだ、と言いたいところだが、わかっている。逃げた兎のことだろう?」」」

「はい」

「「「奥様にも、困ったものだ。玩具で遊ぶのはいいが、片づけまでして欲しいものだ」」」

 ため息をつきながら、声たちがぼやく。何もかも把握するようなその調子に、しかしマハトは驚かない。

 代わりに、わずかに低い声で「兄さん方」と呼びかける。

「奥様への、不満ですか?」

「「「ま、さかだ、そうい、う意味では、な、い」」」

 先刻までの無感情とは異なる、感情を故意に押し殺したような調子のその声に、声たちは動揺するような雰囲気を見せた。曲がりなりにも揃っていた声たちが、わずかにそのタイミングを乱し、代わりにざわつくような意味の通らない単語が混ざる。

「そうですか」

 声たちの返答に、マハトは大人しく引いた。主人である公爵夫人への反意ならばとも思ったが、今はそれどころではない。

「それで、兄さん方。兎の行方ですが」

「「「あ、あぁ」」」

 マハトからの重圧が消えたことを確認して、声たちもホッと息をついた。落ち着かせるように一拍置いて、声たちは再びその発声を揃えて答えた。

「「「………兎は、もうここにはいないな。外に出て行った。森からも、出て行ったようだ」」」

「では、町に?」

「「「恐らくは。森の向こうまで、僕らは見てない。ここから出て行ったのなら、それでいい」」」

「そうですか………」

 声たちの返答に、マハトは何事か考え込むような仕草を見せる。

 確かに、”兄さん方”の言うことも一理ある。自分たちは奥様に仕える使用人であって、その居城付近から居なくなった獲物にまでかかずらう必要は、ないといえばない。ないが、しかし、あの町もまた、公爵夫人の管理下といえば管理下だ。直接の統治権は無いものの、彼らが此処に税を治めているのは事実である。

「「「………弟、不安ならば、例の『イヌ』でも離したらどうだ?」」」

「それはできません」

 考え込むマハトに、声たちが気遣うような声をかけた。その心遣いに感謝しつつも、マハトはきっぱりと首を振る。

「まだ、完全に首輪がついたとは言い難いです。しばらく時間が要るでしょう」

「「「そうか」」」

「やはり現在、打つ手はありませんね」

 現状と予測される被害をあわせて、マハトは結論付けた。すでに森から出たのなら、今は奥様を抑えておく方が肝要だ。”玩具”に逃げられたと不満なようだし、また新しい”玩具”でも持ち出されたら二度手間である。

「一応、森の監視をお願いします。万が一戻ってきたら、僕が捕縛します」

「「「わかった」」」

 響く声の群。その残響が遠ざかるのを確認して、マハトは踵を返す。

 ひとまず、監視はこれで大丈夫だ。この城付近において”兄さん方”の眼を逃れる術はないのだから。

「………………………………」

 一瞬、友人の少女の顔が脳裏に浮かんだ。あの不思議好きの少女なら、間違いなく”兎”を惹きつけるだろう。危険ではあるが、仕方がない――どちらにとっての危険かは、判断が難しいところであるが。



 その日の朝、ヒーア・ナイエヴァイトの表情は、明るかった。朝一番、誰にも出会っていない彼女の表情が明るいというのは、非常に珍しい。彼女と会った住人たちは皆驚き、そして一様にこう思った。

 これは、ろくでもないことの幕開けだ。



「ずいぶんご機嫌だね、ヒーアちゃん」

「あら、ヴェヒターさん。おはよう」

 上機嫌で歩くヒーアに声をかけたのは、一人の青年。厚手のロングコートに帽子を深く被り、常に背筋を伸ばして立っている彼の手元には、ヒーアの背丈ほどもある長い銃が握られている。

 彼の仕事は、門番なのだ。今日も今日とて、彼は町を囲う壁の入り口で、しゃんと立っている。

「どうしたんだい、こんなところに。危ないから、町の外へはいかれないよ?」

「もちろん。それより、そろそろだと思うのよ、ヴェヒターさん」

 猫を思わせる瞳を輝かせるヒーアの様子に、ヴェヒターは何事かを考え込み、そして「あぁ」と手を打った。

「そうか、もうすぐ行商隊の来るころだね」

「えぇ」

 町が退屈から解き放たれるとき。それは、外部の人間の来訪だ。

 この町には港もあり、海上からも荷が入るのだが、それとは別に行商隊がくることもある。幾頭もの馬車が連なるその行商隊の来訪は、町に大きな活気を呼び込む一大イベントだ。船の荷はただ下ろされ、そして新たな荷を積み込むだけだが、行商隊は町の住人たちが直接売り買いする分、楽しめるのだ。

 そして、そんなイベントを見逃すヒーアではない。

「待ちきれなくて、出迎えに来たのよ、私」

 そう言って、ヒーアはうふふと笑った。明るい栗色の巻き毛が揺れ、エプロンドレスの裾がひらめく。

 言葉通り、待ちきれない、という少女の態度に、門番も微笑む。あまり門を離れない彼にとって、ヒーアの悪癖、『非日常の渇望』は十二分に理解できるものだ。かく言う彼にとっても、来訪者は待ち遠しい。

「そうかい、確かにそろそろだと思うけれど………ん?」

 応えながら、ヴェヒターは遠くを見る。流石にまだ、彼らの姿は見えないだろうと思っていたのだが、その視界に何者かの人影が映った。

「おや、誰か来るね」

「え?それは珍しいわね。マハトかしら?」

 森の向こうの山の上、公爵夫人の居城に住むヒーアの友人は、その職務のため町に来ることも多い。その際にこの門をくぐるので、ヴェヒターも彼のことは知っていたが、その記憶と人影とを照らし合わせ、首を振った。

「いや、マハト君じゃないね。もっと大きいな」

「ふうん?」

 わくわくする、という態度のヒーアに苦笑しつつ、ヴェヒターは門へと向かった。開いたままのこの門が閉まることは、滅多にない。出入りは基本的に自由だ。入りたい者は入るし、出たい者は出る。もっとも、ふらりと出て行ける者は元から入れないが。

 人影は、まっすぐこちらへ向かってくる。どうやら、本当に旅人らしい。めずらしいと思いつつ、ヴェヒターはその顔に笑みを浮かべた。

「ようこそ、この町へ」



「ようこそ、この町へ」

 掛けられた声に、私は伏せていた顔を上げた。

 開かれた門の真ん中に、一人の青年が立っていた。厚手のコートに毛皮の帽子。冗談みたいに長い銃を手に持っている。狩人さんではないだろうから、恐らくは門番さんだ。

 私は、ため息をついた。まだ、出られはしないらしい。



入ってきた人影に、ヒーアは眼を見開いた。スカートにブーツ、シャツといった身体に身に付けたものは何処ででも見たことがあるものなのに、その頭に被っている物が全く異質なものだったからだ。

 色褪せてもとの色もわからなくなった、布の頭巾。ケープと合わさっているそれは目深で、人影の顔全体を覆い隠している。

 服装と体型から辛うじて女性とわかる人影は、ヴェヒターの呼びかけにため息を返して、門をのそのそとくぐった。

「………………?」

 その反応に、ヴェヒターは首を傾げる。なにしろ彼女のやってきた方向は森である。どんな理由があって何処から来たにしろ、あの昼でも暗い森を抜けたのなら、少しは嬉しそうな態度をするものだが。

「こんにちは、お姉さん」

 門番の不審と裏腹に、ヒーアは快活に声を上げた。その声には嬉しそうな楽しそうな、”お楽しみ”を目前にした子供特有の期待感が溢れている。

 その様子に、ヴェヒターは舌を巻く。彼女の悪癖は、自分の趣味どころの話ではない。面白そうだと思ったら、危険でもなんでも関係ないのだ、彼女は。

「………………こんにちは」

 ヒーアの呼びかけに、ぼそぼそと頭巾の少女は応えた。てっきり無視するのではと思っていたので、ヴェヒターは少し驚く。

「この町にようこそ、私はヒーア・ナイエヴァイト。貴女はどなた?」

「私は、ロート。ロート・ツィノバ」

「素敵な名前ね、ロートさん。この町には何をしに?」

 それは私の台詞だ、とヴェヒターは思ったが、苦笑するだけに留めた。最初の挨拶が無視されていることだし、会話はヒーアに任せた方がいいと思ったのだ。

 ヒーアの問いかけに、ロートと名乗った少女は少し考える仕草を見せた。そして、言葉を選びながら、短く応えた。その様子は、自分でもよくわからないものをなるべく解りやすくしようというような態度ではあったが、その内容はヴェヒターにはよくわからなかった。

 それは。

「私は………出るために来た。この、世界から」

 困惑は、ヒーアも同様だったようだ。そして、青年と違い彼女は正直だった。

「よくわからないわね、どういう意味?」

「聞いちゃうか、それ」

 ヴェヒターは驚き、思わず声を上げた。いやもちろん、聞かないことには話は進まないが。

 不躾とも思えるヒーアの問いかけに、しかしロートは気分を害する様子もなく「それは」と続けた。

「私は、元の世界に帰りたい。だって」

 言葉の途中で、風が吹いた。思った以上に強い風がロートの頭巾を跳ね上げ、その顔を露わにする。長い金色の髪が風に広がり、今までヒーアが見たこともない美しく澄んだ青い瞳がまっすぐに少女を見つめる。

 異国の美しさに眼を見張るヒーアに、ロートの言葉が飛び込んでくる。それは鋭い切っ先のナイフのように、呆然としたヒーアの心に突き刺さった。

「ここは、私の夢だから」



「かまわん」

 優雅にソファーで寝転ぶ、妙齢の美女。観る者を必ず虜にするような美貌には、今、明らかな不満が宿っていた。

 苛立ちを孕んだその声に、マハトは眉をひそめる。

「しかし、まだあれは」

「構わないと言ってるんだ、マハト」

 彼女の忠実なる僕の反駁を遮ると、彼女、公爵夫人は強い声を出した。

「『イヌ』を出せ。逃げた兎を狩らせろ」

「………………承知しました」

 それ以上の反論をせず、一礼して部屋を出るマハト。その背を見送ってから、夫人は口汚い罵り声を上げた。

「逃がしはしない、この箱庭から」

 短く呟く彼女は、ソファーのそばの机から一枚の写真を取り出した。古びたその写真には、三人の男女と一匹の黒い犬が映っている。微笑む大人の男女と、無邪気に笑う一人の少女と、何処となく嫌そうな貌の黒い犬が。

 その、巻き毛の少女を軽く撫でて、夫人は小さく笑い、そして。

「誰も。誰も出しはしない」

 決意をこめて、小さく呟いた。



「「「やれやれ」」」

 ぼやくような声が幾重にも響く。それがこの場所によるものなのか、それとも彼ら、”兄さん方”の特徴ゆえなのかは、少年、マハトには解らなかった。

 解らないことに、マハトは悩まない。

 ランプを片手に、躊躇う様子もなくそこを進む。そこ、薄暗く湿った地下道を。

 かつん、かつん、という足音が、反響して響く。自分が出した音が遅れて聞こえ、まるで誰かが後を付いてくるような錯覚に陥る。

 不気味な、その道。常人ならば多少なり表情が引き攣るであろう地下道を、マハトは表情を帰ることもなく進んでいく。青白いその顔は、この不気味さにマッチしているとも言えるし、事実、彼にとっては慣れ親しんだ道だ。

「「「やはりこうなったな、弟」」」

「………………そうですね、兄さん方」

 まるで数人が一斉に声を出しているような、不協和音のような声。確かに響くその声に頷きつつ、マハトは前を見たまま、声の在りかを探ろうともしない。それが無駄だとマハトは知っているし、事実、その地下道にはマハト以外の人影はない。

 ”兄さん方”の姿は見えない。彼らは「ここだ」と言うが、そこにあるのは壁や調度品や虫や動物という、およそ人の言葉を解すとは思えないものばかりである。それは、マハトが生まれたときからそうだし、そういうものだと納得している。

 道を行くマハトの足取りは、軽い。目的地までの道筋はもちろん把握しているし、たかが暗闇に臆するような感覚はこの少年には無い。何かが潜んでいるような暗闇も、その何かに負けるビジョンが無ければ恐怖の対象ではない。

 何の問題も無く、目的の場所に着いた。

「………………」

 無言で立ち止まるマハトの目の前には、鉄格子がある。牢の中は暗く、ランプをかざしても暗闇がわだかまるばかりだ。

 と、その闇が、わずかに動いた。そこに潜む何者かが、身を軽くよじらせたようだ。

 警戒か、或いは攻撃態勢か。いずれにせよ、牢の中のものは、マハトを認識したようだった。そして、それに対して反応を示した。

「………………」

 それに頓着することなく、マハトは無言のままに牢の鍵を開けた。軽く押した鉄格子が、牢の中へ吸い込まれるように開く。

 それが完全に開き切るよりも早く、何者かが牢から飛び出した。

 弾丸のような勢いで、”それ”は少年へと突撃し。

「………………ふん」

 軽く振るったマハトの腕に跳ね飛ばされ、牢の中へと逆戻りした。

 轟音とともに、甲高い、耳障りな絶叫が響く。奥の壁に激突したらしい”それ”を追うように、マハトは牢の中へと入った。

 やはり、激突したのだろう。壁際にぐったりと崩れ落ちている”それ”に無造作に歩み寄ると、マハトは片手で軽々と持ち上げた。

「………………理解したか?お前の従うべき相手は、僕だ」

 力が抜け、されるがままのそいつの眼に理解の色が浮かぶのを見て取り、マハトは手を離した。”それ”は力なく床にへたり込みながらも、服従するように身を伏せた。

 『力』の名を冠する少年の、その由縁。その在り方に、姿の無い”兄さん方”の気配が身を震わせる。その理不尽な暴虐は、彼らにも向き得るものなのだ。

「では、行け。お前の追うべき相手を追え」

 淡々とした少年の命令に、それ、『イヌ』は一声鳴くと、牢から飛び出していく。それを見ながら、マハトは感情の篭らない声で「兄さん方」と呼んだ。

「あれの監視をお願いします。余計なことをしそうなら、鞭を」

「「「………………あぁ、わかった」」」

 声が、遠ざかる。

 一人きりになって、マハトは少しの間立ち尽くした。正しいとか、間違っているとか、そんなことは気にならないが、しかし。

 この、胸のムカつきはなんだろう。

 例えるなら、”奥様”が用意した中身の分からないスープを飲み干したときのような、吐き出したくなるような不快感。

 それが何だかわからないまま、マハトはそれを押しつぶした。わからないものに悩んでも、結局わからないだけだ。

 振り返り、少年執事は歩き出す。主の元へと戻るその足取りは、重い。



 『イヌ』の速度は速かった。

 迷路のように入り組んだ地下道をあっさりと走破すると、そのまま森の中へと飛び込んでいく。

 追うのを諦め、”視点を切り替える”。

 『イヌ』は、四つんばいの姿勢で森を疾駆する。地面に生えた木の根や、自然に出来たおうとつ、それらを認識しづらくする薄暗さ、そういった悪条件を無視するかのように、その速度は緩まない。

 舌打ちし、次々と視点切り替えを繰り返す。しかし、時折立ち止まり、周囲の匂いを嗅ぐような姿勢をとった時以外、全く追いつけなかった。どこの”視点”を使っても、通り過ぎる『イヌ』の姿が見えるだけだ。

 さて、どうするか。

 ”思考”達は話し合い、結論する。

 『イヌ』は、今のところまっすぐ町へと向かっている。ならば、追うよりいっそ待ち伏せた方がいい。”思考”達はその案に全会一致を見せた。

 ”兄さん方”と呼ばれる存在は、町へと”視点”を飛ばした。あとはただ、待つばかりだ。



 少女は、森が怖い。

 生まれたのは、田舎の村だった。牛を飼い、豚を飼い、それらを売って野菜を買う。麦を育ててパンを作り、木の実を拾ってクッキーを作る。田舎と聞いて思い描くであろう、牧歌的な日々。

 少女の村は、森に囲まれていた。うっそうと茂る森が、幼い少女の世界の端だった。木を切って広げた空き地に切った木で立てた家に住み、そこから、木を切っては広がっていく世界。少女の、というよりも村の住人たち全ての生活にとって、森は境界線であった。”外”と”内”とを分ける、掘っても掘っても尽きない果てのない壁。

 もっとも、少女は昔から、森を恐れていたわけではない。

 少女の父は木こりであり、森によって生かされていたし、少女の母もよく森に出向き、薬草を拾い集めてきていた。

 父は真面目な男であり、森をよく愛し、そのため森に愛されていた。父の切る木は質がよく、丈夫で加工しやすいと評判だった。

 母は器用な女性であり、薬草をよく知り、村の人に重宝がられていた。母の作る薬は効き目がよく、間違いも無いと評判だった。

 少女の家は、森とともにあった。森の恵みで生き、森を傷つけすぎないよう慎ましやかに暮らしていた。少女自身も森にはよく行き、花を摘んできた。珍しい蝶や、美しい泉を見つけ、家族に褒められたりもした。

 少女は、森が好きだった。森のおかげで少女の家族は生きていけたし、何より、木々のフィルターに越された日差しは柔らかく、優しくて心地がよかった。何もなくとも、少女はただ森の中を歩いて、その生命力に触れているのが好きだったのだ。

 ………………あの日までは。

 森を愛した父が、森に愛された父が。

 森に、連れ去られるまでは。



 カーン、という空虚な鐘の音。

 正午を告げる鐘の音に、一人の少女が上機嫌に笑う。

 彼女の名はヒーア・ナイエヴァイト。明るい栗色の巻き毛が愛らしい、エプロンドレスを着こなしたお転婆そうな少女は、代名詞とも言えるその猫のような瞳に輝くような歓喜を滲ませ、両手を広げて歩いている。

「………………」

 彼女と連れ立って歩くもう一人の少女は、鐘の音を聞いて顔を上げた。スカートにブーツ、シャツといった見慣れた衣服の上から、見慣れぬ頭巾を被っている。古びて色褪せたその頭巾は大きく、少女の頭部から二の腕の辺りまでをすっぽり覆い隠している。

 彼女の名前は、ロート・ツィノバ。此処ではない何処かから来た、旅人というか、漂流者である。

「ロートさん?」

 きょろきょろと辺りを見回すロートに、ヒーアが声をかける。

「どうかして?」

「………………何処からの音かと思って」

 ロートの応えに、ヒーアは得心したとばかりに頷いた。そうして、自分たちの進行方向、町の中央を指差した。ロートがそれを眼で追うと、成程高い塔が見える。大きな時計も付いているようだ。

「………………時計台?」

「そうよ。この町で一番高くて、一番古い大時計。皆、あの時計の時間に従うのよ」

 ヒーアの不思議な言い回しに、ロートは軽く首を傾げるに留まった。出会って間もないが、この少女の言動が何処か回りくどいことを、ロートはよく理解していた。

 二人は、門番ヴェヒターと別れて町の中を歩いていた。何処へ行こうという当ては部外者たるロートにはなかったが、ヒーアは迷いなく彼女を連れて歩き出したのだ。ロートの目的を聴いた上でそうしているのだから、どこか目的があるのだろうと、ロートは納得し、文句もなくついてきている。その目的地が自分の目的にそぐうかどうかは、期待半分諦め半分といったところではあるが。

 ………………ロートの目的は、ここから出ることだ。ここ――”この世界”から。

 ロートは異邦人だ。それどころか、この世界の住人でさえないのだという。ヒーアたちの暮らすこの世界は、ロートの見ている夢なのであり、夢であるから、目を覚ましたい。たどたどしく語ったロートの言葉を、猫のような少女は否定するでも困惑するでもなく、ただ笑った。嬉しそうに、楽しそうに、あぁそれは素敵ですねと言いたげに。

「………………高い、ところ」

 ロートの言葉には、いちいち考えるような、言葉を選ぶような間が入る。”この世界”の言葉に不慣れなのだろう。

 この世界が夢かどうかはともかく、ロートが異国の者だということは、ヒーアは疑っていない。言葉のアクセントや使い方もそうだが、何より、その瞳。頭巾の奥から見えた、あの宝石のような真っ青な瞳を、少女は今まで見たことがない。

「………………うふふ」

 考え込むロートを見ながら、ヒーアは笑う。

 此処が夢ならば。

 彼女が目を覚ますのならば。

 きっと、面白いことになる。すばらしく、面白いことに。

「ヒーアさん。私は、そこに行きたい」

 こぼれたヒーアの笑いに気付く様子もなく、ロートはたどたどしく口を開いた。

「あら。気になるのかしら?」

「高いなら、見える。この世界の………………端まで、きっと」

「えぇ、いいわよ」

 言葉を選びながらも懸命に話すロートに、ヒーアは大きく頷いた。それから、悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「………………”あの”時計塔に登るのも、楽しそうだわ」

「………………?」

「あぁ、こちらの話よ」

 不思議そうな雰囲気で見返すロートに、ヒーアは首を振り、くすくすと笑った。

「それじゃあ、行きましょうか。………………お化け時計の鐘の塔に」

「………………え?」

 今何か、塔という単語の前に、物騒な単語を言ったような気がする。そう思ったロートが聞き返すより早く、ヒーアは歩き出した。聞き間違いだろうか。悩むロートの前からさっさと歩き出した彼女に置いていかれそうで、慌ててロートはその後を追った。

 おかげで、聞きそびれた。その、不穏な空気を滲ませる名前を。



 お化け時計の鐘の塔。

 その歴史は古く、町が出来たときから在ったらしい。というよりも、時計塔を中心に町が出来ていった、というべきか。もはやその成り立ちを見ていた人物は居ないが、建物の構造物を調べるとそういった結論になるのだと言う。

 そのため、その外観は、よく言えば由緒のある、悪く言えば廃墟のような代物であった。間を取るのなら、『曰くつき』とでも言えばいいだろうか。

「………………登る、の?」

「えぇ、もちろん」

 頬を引きつらせ、尋ねるロートに、ヒーアは事も無げに頷いた。口笛でも吹き出しそうな、変わらぬ軽い足取りで塔に近づいていく。その後を慌てて追いかけて、ロートも塔の間近に迫った。

 そして、見上げる。

「うわぁ………………」

 高い。

 真下に来て見上げるとよくわかるのだが、兎に角高い。塔の高さは周囲の家々の3倍程度はあり、古びて見えた外観も、思ったよりもしっかりしているようだった。少なくとも、五年十年で崩れそうな崩壊具合は感じない。

 呆然と見上げるロートを尻目に、ヒーアは更に塔へと近づいた。彼女の行く手には赤茶色に錆びた鉄格子があり、そこから塔の中へと入れるようだ。

 ロートも追いかけ、ヒーアの肩越しに格子戸を見た。元の材質が分からないくらい錆び付いてはいるが、取っ手の辺りには鍵穴がある。

「あ、鍵?」

「えぇ、必要だけれど、大丈夫」

 自信満々に頷くヒーアに、ロートは安堵の息を漏らした。この少女は少々性格に難はあるが、抜け目の無い細かさも併せ持っている。恐らく鍵を持っているのだろう、見守るロートの前でヒーアは鉄格子に近づいていき、

「せーの、えい」

 ………………蹴っ飛ばした。

 しかも、その蹴り一発で格子は外れ、内側に倒れこんでいく。唖然とするロートの目の前で、鉄格子は重々しい響きとともに地面に倒れ伏した。エプロンドレスの裾を翻して放たれた前蹴りは、勢いが非常に弱かったように見えたのだが。

「え、えぇ?」

 いろいろな意味で呆然とするロートに、ヒーアは振り返り、笑顔のままに手招きする。『抜け目の無さ』と天秤に掛けられた『難のある性格』は、どうやら『難のある性格』のほうに傾くようだった。

「………………鍵を持ってるのかと思った」

 ため息をつきながら呟くロートに、ヒーアは笑う。

「あれが正しい開け方なのよ。前にマハトがこじ開けたから、簡単に開けられるの」

「………………そうは思えないんだけど」

 戸が外れた入り口をくぐりつつ、ロートは壁と格子の接続部分に眼をやる。なるほどそこには格子のパーツが一部壁に埋まっていて、その根元にはどうやったのか、無理矢理捻じ切ったような跡があった。

 何となく、何となくだが、人が鉄を飴細工のように容易く曲げたりする様が目に浮かび、ロートは首を振った。馬鹿げた想像だと思ったのではない、この世界なら在り得る、と思ったからだ。我が夢ながら、とんでもない世界である。もしかしたら、筋骨隆々としたゴリラが追いかけてくるかもしれない。

 薄ら寒い想像に、ロートは身を震わせ、急いで塔の中へと踏み込んだ。

ここがどんな雰囲気の夢であれ、なるべく早く、目覚めた方がよいだろう。



 『イヌ』の経過は順調だった。

 よほど匂いが残っているのか、迷うことなく森を抜け、町にたどり着いたのだ。門番には話をつけてあったので、そのまま町に侵入する。

 民家の並びを通るときは少々気を揉んだが、幸い『イヌ』は目的を忘れなかった。匂いを追い、まっすぐ町の中央へと向かっていく。謙遜してはいたが、”弟”の躾の効果は覿面だったようだ。

 目指す先は、時計塔。

 町の中心にして中枢の、秩序の塔だ。

「「「………壊れないといいが」」」

 すでに”弟”によって扉が破られていることは知らず、”兄さん方”は呟いた。その視界の中で、『イヌ』は速度を上げ、塔へと迫っていく。



「はぁ、はぁ、はぁ………………」

 塔の中は、螺旋の階段だった。

 外と同じく古びた壁に沿うように、同じく古びた板状の石が螺旋状に飛び出していた。

 当たり前のように、手すりは無し。落ちそうになったら中央にある、塔の最上階から吊るされた、長くて太いロープに飛びつくより道は無い。

 階段の壁のところどころで開いている、ロートの顔よりやや小さい程度の隙間。その窓のような正方形の隙間から差し込む日光のおかげで暗くは無いが、それでも登るにつれ高さへの恐怖は増し、体力と精神力とを同時に削っていく。

 荒い呼吸と早鐘を打つ心臓。『落ちたら危ない』という高さから『落ちたら死ぬ』くらいの高さに達したとき、前を行くヒーアが口を開いた。

「ここには、いろいろな謂れがあるのよ」

「はぁ、はぁ、はぁ、え?」

 息が上がり、深くものを考えられない状態のロートは、その言葉に疑問符のみを返した。その気の無い返事にめげる様子もなく、ヒーアは更に口を開く。

「お化けが出たとか、誰も入れないはずの塔の窓から手が出ていたとかね?」

「え………………だって、戸は開いてるん、だから、はぁ、誰か、入れるんじゃ、ないの?」

「階段の段数が夜な夜な変わるとか」

「………………絶対、数え、間違いでしょ」

「叫び声が響いたりとか」

「風が、ぜぇ、吹き抜ける、はぁ、音でしょう?」

「………………詰まらない反応ね」

 すねたような口ぶりのヒーアを、ロートは信じられない者を見る眼で見る。なんで息とか上がらないのこの娘。

 肩で息をし、膝を震わせ、ようやくロートは塔の最上階に到着した。最上階はテラスのように外壁に足場が飛び出しているだけの簡素なものだった。幸い、手すりは付いていた。

「………………」

 ロートは手すりに近づき、無言のまま景色を眺めた。息を整えたかったのもあるが、それ以上に、目の前の景色に息を呑んだからだ。

 見渡す限りに広がる屋根また屋根。似たような形で異なる色の屋根が並んでいるため、絨毯か何かのような模様を描いている。その端には外壁があり、町を囲む深い森との境になっているようだ。その森の向こうには高い岩山があり、大きな城が見えた。見覚えのある、城だ。

「どうかしら?反対側なら、港も見れるわよ」

 ヒーアの言葉に、ロートは首を振った。ここからでも、目的は十分に果たせた。

 果ては、無かった。町の周囲には森があり、その向こうは薄靄のような雲に覆われていて、見えなかったのだ。

 天候の関係かもしれなかったが、何となく、ロートはそうではないと思った。

 この森は越えられないし、越えても来れない。だから、見えないのだ、きっと。

「………………降りよう」

「あら、もういいの?」

 笑みを含んだヒーアの言葉に、頷く。物理的な脱出は不可能なのだろう、他の手段を探さなければ。

「それならついでだし、あそこを見てくれないかしら?あそこが目的の………………あら?」

 塔の中へと入りかけたロートにヒーアは声をかけて、その途中で妙な声を出した。小さな声で「なにかしらあれ」と呟いている。

 その響きに、ロートは猛烈に嫌な予感を感じた。少女の声には、驚きと不審と、そして何より、それらを押し流すほどの濃厚な歓喜が滲んでいたからだ。

 彼女が喜ぶのは、ろくでもないものだ。直感し、恐る恐る、ロートは手すりへと近づく。ヒーアの方は手すりから身を乗り出し、塔の真下を眺めているようだった。その横に並び、意を決して、ロートは手すりの真下を覗き込んだ。

「………………え?」

 怪物が、そこにいた。



「………………!」

 塔の真下、うずくまる黒い塊。遠すぎて細かくは分からないが、四本の足と頭が見える。周囲の地面に顔をこすり付け、匂いを嗅いでいるその様子は、犬のようにも見える。あんな大きく、不気味な犬は、現実には見たこと無いが。

「………”ここ”では、よく見るの?あの、犬みたいなの」

「いいえ。見たこと無いわ、聞いたこと無いわ」

 隣で、首を振る気配。その声には、当然のように嬉しそうな気配がある。

 見たことが無い――だから見たい。

 聞いたことが無い――だから聞きたい。

 少女から漏れ出ている感情に、ロートは舌打ちする。その感情自体はごく当たり前に有り触れているが、その濃度が問題だった。黒く、深く、濃密によどんだ欲望。

 知りたい、触れたい。何をどうしても、何がどうなっても。

「うふふ」

 すぐそばで笑う少女。その笑い声が聞こえたのか、怪物がのそりとその顔を上げた。真っ黒い、影の固まりみたいなその顔面。そこに爛々と輝く、赤い光がロートたちのほうへと向けられて。

 眼が、合った。

 唸り声がしたと思った瞬間に、怪物は動き出していた。伏せた姿勢から大きく飛び上がり、塔の外壁にしがみついたのだ。

 そのまま、壁を駆け上ってくる。

「降りよう!!」

 先ほどと同じ単語を叫んで、ロートは身を翻した。ヒーアも異論は無いらしく、素早く塔の中へと飛び込んでいく。

 階段を出来る限りの速さで下りる。時々壁が軋む理由には、できれば眼を背けたい。

「ほらほら、急いで、ロートさん」

 そう言うヒーアは、ロートよりもかなり先にいる。その走り方にはためらいがなく、ある種の慣れを感じさせた。危険な場所で、危険なものから逃げる、そういう状況への慣れが。

「………メールド!」

「?どういう意味の言葉?なんとなく、あまり良くない言葉のような気がするわね?」

 首をかしげながら走るヒーアを無視して、ロートは更に心の中で毒づいた。彼女も運動神経は悪くない方だが、この足場の悪さには経験が必要だ。先を行く少女は、いったい何度経験しているのだろうか。こんな視界の悪いところでの鬼ごっこを。

 ちらり、とロートは傍らの窓に眼をやり、

「ひっ!」

 覗きこむ怪物の双眸を見た。燃える火のような真っ赤な瞳が、無感情に彼女を見て居る。

 その悪魔のような顔がさっと窓から消えた瞬間、ロートはとっさに身を伏せた。その頭上を黒い腕が凄い勢いでかすめる。

 もう一度毒づいて、ロートは走り出した。落ちないように、という考えは一度捨てて、できるだけ早く下へと向かう。

 その後を追うように、窓から断続的に腕が突き込まれる。屈み、かわしながら、一気に駆け下りる。最後の数段を飛び降りて、転がるように塔から出た。

「急いで!!」

 叫ぶ声に顔を上げると、割と離れたところにヒーアが居た。その顔に浮かぶ笑みの理由については、聞きたくも無い。

 とにかく、そちらに走って合流する。背後からの遠吠えに顔をしかめながら、少女の先導で町の中を走る。複雑なこの町並みが、少しでも身を隠してくれるといいが。



「「「どうやら、『イヌ』は追いついたぞ、”弟”よ。思ったよりも従順だな」」」

 ”兄さん方”の言葉に、マハトは頷いた。今のところは順調のようだ、今のところは。

「兎はどこに向かっているでしょう」

「「「どうやら、町の外れだ」」」

 その言葉に、マハトは眉をひそめた。外れの方に、何があるのだろうか。

 少年の疑問を代弁するように、多重の声が続ける。

「「「外れには、何も無いと思うのだが。そのまま森の奥へと向かうつもりか?」」」

「………………何も?」

 その言葉に、少年の心に何かがよぎる。ある少女に連れられ向かった、己の目には見えない不思議な場所のことを。

「………………兎は一人ですか?」

「「「いや、二人だな。町の少女が一緒だ」」」

「………………そうですか」

 やっぱり、という言葉を、マハトは飲み込んだ。友人の顔が脳裏に浮かぶ。絶対彼女だろう。

「………………兄さん方、その少女は襲わせないようにしてください」

「「「ん?………………あぁ、もしかして、前に話していた友人か」」」

「恐らくは」

 頷くマハトに、少しの間声は黙り、やがて躊躇うような響きとともに声を上げた。

「「「なぁ、マハト。なら、お前も行きたいんじゃないか?」」」

「………………」

 マハトは応えない。その沈黙に答えを感じ取り、”兄さん方”は短く「「「わかった」」」と応えた。

 声が遠ざかる。窓の外から遠く町を見るように、マハトはジッと遠くを眺める。ガラス玉のようなその眼には、感情らしい感情は、やはり浮かんでいないままだった。



 家と家の隙間を縫うように、二人の少女は走る。

 遠吠えは、もう聞こえない。複雑な路地は充分追っ手を引き離したようだった。

「どうにか………………逃げ切れた?」

「多分ね」

 息を切らしながら尋ねるロートに、流石にヒーアも短く応え、息を整える。そうして周りを見回して、顔をほころばせた。

「ちょうどいい感じに、来られたわね」

「?どこに?」

 きょろきょろと辺りを見回すロートに軽く笑い、ヒーアはその袖を引いて路地に入っていく。背後でロートが驚いたような気配を見せているのが面白い。いつも、誰を連れて行ってもこうするのだ。

「さぁ、行くわよ、ロートさん。貴女が何かを探しているのなら、それは絶対此処にあるわ」

「ど、どこ?」

「『闇市』よ」



 『イヌ』は、少女達のすぐ傍まで迫った。半開きの口からは、獰猛さを示すようにダラダラとよだれが滴っている。

 目的は最低限達するだろうが、これを押さえるのは、難しいのではないか。単純な事実が、”兄さん方”の脳裏に染み込み始める。あの”弟”の友人は助けてやりたいところだが、その手段が見当も付かない。せめて”腕”達があれば別だが。

 さて、どうするか。

 見つめる”視点”の先で、『イヌ』は少女達の消えていった方向へと動いていく。そして。

 不意に、その足を止めた。

「「「………………?」」」

 何事か。見つめる先で、『イヌ』の前に何かの影が見えた。

 身構える『イヌ』より遥かに小さい、黒い毛皮の犬だ。普通の、犬。

 その犬は、なにやらめんどくさそうな表情を浮かべると、ため息でもつくように口を開け、

「「「!!!???!!??」」」

 轟音が、響いた。

 犬が吼えたのだ、と気が付くまでに、しばらくかかった。その間に、黒い犬はその姿を消していた。二人の少女も。

「「「………………」」」

 あとを追おうとは、思えなかった。精神がすっかり打ちのめされていて、心の何処がへし折られているようだ。『イヌ』も同様らしく、うずくまっている。

 ”兄さん方”は、小さくため息をついた。もう、追跡は不可能だ。『イヌ』を促し、引き上げることにする。

 所詮、似合わなかったのだ。この町に、自分達は。



「眼が覚める薬?あるよー」

「………………」

 道なき道の先にあった、おかしな造りの町。住人達もよく出来たマスク(だと思いたい)を被っていて、売っているものもおかしい。

 その端にあった、東洋風の店から出てきた、亀のような老人の言葉に、ロートはもう疑問を感じる気さえ無くしていた。犬の少年やら馬の青年やらに、もう散々驚かされていたのだ。

「………………どうしてこの店に来る客は、みんな驚かんのかのう」

「慣れたんじゃないかしら」

 ため息をつく亀と面白そうに笑うヒーアに、ロートはもう何かを言う気さえ失せて、亀が差し出した薬を受け取った。

 無色透明な、ビンに入った謎の液体。怪しいと言えば怪しかったが、ロートはもう何も気にならなかった。ビンの口を開け、一息に飲み干した。

 飲み終えると同時に、視界が歪む。身体が浮き上がるような、不思議な感覚。

 眼が覚めるのだ、と直感する。安堵に浸るロート。歪むその視界の中で、ヒーアが面白そうに手を振っていた。



「………………」

 不機嫌極まるという顔で、公爵夫人はその『客人』を出迎えていた。いつものソファに腰掛け、傍らにはマハトを従えている。

「やりすぎだったろう」

 『客人』の言葉に、夫人は目を逸らした。悪戯が見つかった子供のような、気まずい気分と拗ねたような態度。その様子に、『客人』はため息をつく。

「いずれにせよ、私はもう帰る。どうやら彼女も帰ったようだしな」

「よし、帰れ帰れ」

 まるっきり子供のような態度に、『客人』はもう一度ため息をつくと、振り返って、前足で器用にドアを開けて出て行った。その様子を見ながら、マハトは安堵の息を漏らした。あの『客人』、黒い犬が吼えたら、対処は難しかっただろう。

「やれやれ、まさか動いてくるとはなぁ。まったく、律儀な暇人め」

 ふてくされたように文句をこぼす主に、マハトは疑問の眼を向ける。それに気が付いたのか、夫人はばつが悪そうに目を逸らして、枕に顔をうずめた。

「………………『悪魔』め」

 彼女は小さく呟いたようだったが、よく聞こえなかった。マハトは諦め、『イヌ』を引き取るために外へと向かった。



「ねぇ、パパ」

「なんだい、ヒーア」

 夜。

 食卓をはさんで向かい、今日の冒険譚を語り終えた娘に、トイフェル・ナイエヴァイトは眼を向けた。猫を思わせるその瞳には、興奮の余韻が漂っている。

「全ては夢なのかしら?」

「どうだろうね」

「何処かで誰かが目を覚まして、いつか私は消えるのかしら」

「どうだろうね」

「それとも私も夢を見ていて、いつか目を覚ますのかしら」

「どうだろうね」

「けれど、私は思うのよ」

「何をだい?」

「夢から目を覚ましたとしても、現実に戻るとは限らないじゃないかしら?夢から目覚めても、また次の夢が始まるだけじゃないかしら」

 ヒーアの言葉に、トイフェルは何も応えない。その必要は無いだろう、ヒーアの顔には、自分の言葉に酔うような表情が浮かんでいる。

「私達は、夢の旅人だわ。家に帰るのではなく、次の旅に出るだけよ」

 娘の言葉を聞いて、その瞳に答えを促すような輝きを見出し、トイフェルは手にしたカップを口に運んで傾け、口を開いた。

「どうだろうね」

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