第3話探し物はなんですか?

 ヒーア・ナイエヴァイトは、いつものように退屈していた。

 空は薄暗く曇り、分厚い雲が立ち込めている。せめて雨風が強ければそれはそれで楽しみもあるのだが、あいにくとその気配は無く、風もそよ風の域を出ない。

 辺りは、代わり映えのしない町並み。

 単調な石畳に、似た造りの家屋が立ち並ぶ。漆喰の塗られた白い壁は何処の家もよく似ていて、四角の上に三角を乗せた、積み木のような形からは個性を感じられない。

 無個性は、無価値だ。何かと同じものは、その何かで代用される。極論であり暴論だったが、ヒーアの人生観においてはそれは正論であった。

「個性の無いものは、周りに埋没するわ。それは詰まり、土に埋まる死体と同じでしょう?」

「暴論だな」

 ため息混じりに呟いた、ヒーアの愚痴。その返事は、彼女の背後から聞こえてきた。

「だって、そうじゃあない。唯一無二のものでなければ、二番目以下の価値しかないんだから」

 突然の返事に慌てることなく、ヒーアは持論を展開する。

 背後の声の主は小さくため息をつくと、涼やかな声で淡々と応える。

「全てが同じものだったら、結局同着一位だろう。同じように笑い、同じように泣き、同じように死ぬ」

「それは、最悪なくらいに退屈な未来ね」

 言って、ヒーアはふわりとスカートの裾を翻しながら振り返る。うふふ、などと笑いながら振り返ったその顔は、先ほどまでとは打って変わって喜色満面、猫を思わせるその瞳には、楽しくてたまらないというような歓喜の色さえ浮かんでいた。

 その表情を目の当たりにして、声の主は再びため息をついた。

 少年である。

 年齢はヒーアと同じか、或いは年下くらいの、幼さの残る顔立ち。細身の体躯に整った顔立ち、ハスキーな声も相まって、何処となく中性的な印象を受ける少年である。シャツに茶色のチョッキ、ズボンにブーツという御者の服装でなければ、少女と言っても通用するかもしれない。現に、通りを行く男性の多くが、少年の顔をちらちらと盗み見ているほどだ。

 尤も、彼に声をかけるような愚か者は、ある二つの理由からこの町には一人としていないのだが。

「ごきげんよう、マハト」

「ごきげんよう、ヒーア。合いも変わらず退屈そうで何よりだ」

 淡々とした、どうにも感情の読みにくい声。感情が感じられないその言葉に笑うべきか怒るべきかヒーアは一瞬迷い、無視することにした。

「今日は、お買い物かしら?」

 ヒーアの、彼女にしては珍しく当たり障りのない日常会話に、マハトと呼ばれた少年はしかし首を傾げた。困っているような態度にも見えるが、人形のように整った顔は人形と同じく無表情で、ふざけているのかそれとも本気の困惑なのか、判別が付かない。

 相変わらず、とらえどころのない子だわ、とヒーアは内心ため息をついた。世界のどこかで彼女の父親が我が事のように同意したようにも感じたが、それも黙殺することに決めた。

「まぁ、買い物と言えばそうなのだが。売っているものなのかどうか、分からないんだ」

 首を傾げたままのマハトの言葉に、成程とヒーアはうなずいた。

「つまり、また公爵夫人の我が儘なのね、マハト」

「あぁ。奥様の言動には、どうにも困惑させられる」

 やれやれ、と言うように肩をすくめるマハト。顔は変わらず仏頂面だが、心なしか憂鬱そうにも見える。

 これが、マハト少年がからかい交じりの、或いは本気の誘いを受けない理由の一つである。この線の細い、儚げな少年は、森の向こうの山の奥にある領主の奥方に仕える使用人なのだ。

 彼の女帝は、権力者の妻らしく、己の所有物へのちょっかいは些細なことでも罰する暴君であった。その病的なまでの苛烈さは、不思議の国の赤の女王が慈悲深く見えるほど。彼女の代理人としてしばしば町に下りてくる少年は、女帝の目であり耳であると思われており、町の者は怯えていた。自らの城の垣根に傷をつけた使用人が垣根の枝で百叩きにあった逸話を知れば、彼女の眼や耳に傷をつけたいと思うものは少ないであろう。

 もっとも、実際のところ、この少年に課せられる主な役目は、公爵夫人の暇つぶしなのだが。

「貴方も苦労するわね。誰かに仕えるというのはどれだけのお金を貰っても割に合わないと思うわ」

「その割りに、楽しそうに見える」

 淡々としたマハトの指摘に、ヒーアは笑みをこぼす。常に退屈しのぎを求める彼女にとって、マハトの主人の暇つぶしに付き合うのは自らの暇つぶしにもなるので好都合なのだ。他人の我が儘に付き合うのはごめんだが、首を突っ込むのは望むところである。

 だから今回も、ヒーアはその猫のような瞳を大きく見開き、獲物を見るようにマハトを見ていた。

 マハトは、諦めたようにため息をついた。パパみたいだわ、とヒーアはこっそりと思った。



「探しているのは、なに?」

「………薬だ」

 待ちくたびれたとばかりにヒーアは問いかける。その眼に爛々と光る好奇の色にため息をつきつつ、短くマハトは答えた。

「ただの薬ではないけどね。『人の生死を操る薬』だ」

「どういうこと?」

「奥様が言うには、『人を生かし、また殺しもする薬』だそうだ」

 マハトの言葉に、ヒーアは首を傾げた。

「薬って、大体そういうものなのじゃあないの?病気を治すためにあるんじゃなくて?」

「そうかもしれない。だが、あの奥様だ。普通の薬とは思えない」

「確かに………」

 失礼かもしれないが、無理難題を言うのが件の”奥様”の仕事だとヒーアは思っていた。それがどんな内容にしろ、彼女の要求に共通するのは大体ろくでもないことである。それが、『ただの薬を買ってこい』だとはどうしても思えない。

「じゃあ、どうするの?」

 尋ねながら、ヒーアは楽しそうに笑っていた。この少年が何の答えも持たずにいるわけがない。”奥様”の仕事が無理難題を言うことなら、それを解決するのがマハトの仕事である。

 案の定、さして迷った様子もなくマハトは、「ヒーアの力を借りたい」と申し出た。

「構わないけれど、けど、何をするの?一緒に怒られるのはイヤよ?」

「………『闇市』に行きたい」



 闇市。

 共同体であれば、その大小の差こそあれ、必ずと言っていいほど存在するシステム。非合法な物が売られていたり、非合法な値段で売られていたりする場所、というのが一般的な認識だろう。それはもちろんこの町にもあった。ただし。

「あそこは、町の人じゃないとは入れないわよ?」

 この町の闇市は、規模と言うより深さが深い場所であり、先の前者の方面、非合法な代物が多く蠢く場所であった。人を売買する闇市が世の中にはあるというが、この町ではもっと、えげつないものも売っている。そのため、入場資格はひどくせまい。単純に言うのなら、町の住人以外は入ることさえ許可されないのだ。

「知っている。そのために、ヒーアにお願いしたい。一緒なら入れるんじゃないか?」

「どうかしらね。私と一緒とかそれ以前に、貴方は入れないかもね、マハト」

「なぜだろう?」

「だって、領主の使用人でしょう?そういう非合法な集まりに呼びたいとは思わないんじゃないかしら」

 ヒーアの言葉に、マハトは考え込むような動作をする。この少年には、そういう、人の後ろ暗さとかそういった心理を把握する能力に欠けるようなところがある。恐らく、内緒にするくらいならやらなければいいのに、とか思っているのだろう。

 人はパンのみで生きるにあらず。必要な物が揃ってさえいれば生活はつつがなく続く、という考えは、やはり少年の周囲が支配者側だから生じる考え方なのだろうか。

 少しの後、少年は「分かった」とうなずいた。

「であれば、僕が変装してはどうだろう。僕と分からなければ、ヒーアと一緒なら入れるんじゃないか?」

「ふうん………」

 変装か。確かに、悪くない案かもしれない。ヒーアはうなずき、マハトの全身を舐めるように眺める。その視線に、マハトは思わず身を引いた。

「じゃあ、どういう女装にしましょうか?」

「なぜ女装が出てきた」

「その方が面白いじゃない。きっともてるわ」

 マハトはため息をつくと首を振った。

「そこまでする必要はないだろう。顔が隠れればいいんだ。外套か何かを被ればいい」

 マハトの言葉に、今度はヒーアが大きなため息をついた。

「それだけじゃあ、つまらないわ。あぁいえ、足りないんじゃないかしら」

「せめて本音を隠せ」

 呆れたようなマハトの言葉に、ヒーアは不思議そうに首を傾げた。

「人生は、楽しければそれでいいじゃない。つまらないことなんて、してもつまらないわ」

「ヒーアのは、自分が楽しければいい、だろう」

「?えぇ。当たり前じゃない、私の人生なんだから」

「………そうか、もういい」

 ため息をつきながら、マハトは会話を打ち切ると、周囲から適当な布を見繕い始める。その様子を見ながら、ヒーアは更に首を傾げた。相変わらず、よくわからない子だ。



 結局、マハトは路地に放置されていたぼろ布を剥ぎ取ると、子供のよくやる幽霊の仮装のように、頭からすっぽりと被った。眼の部分に穴を開け前を見ているようだが、視界が悪いらしくふらふらと歩いていて、どう見ても不審者である。

 先ほどとは別な意味合いの視線を周囲から感じながら、ヒーアたちは街の外れへと歩いていった。警察にでも声を掛けられたらどうしようか、とも思ったが、最悪の場合はマハトの正体を明かせばいいだろうとヒーアは決心した。そしてその場合、自分の名前だけは隠そうとも決心した。

「さて、ここよ、マハト」

「………?どこだ」

 ヒーアが指し示したのは、家と家の間の、細い路地である。体一つ分入るかどうかのその道は、知らない人間なら絶対に気が付かないような道である。現にマハトは、まぁ不明瞭な視界のせいもあるだろうが、ヒーアが指で示しても気が付いていないようである。

「ほら、こっちよ」

「………!!」

 笑みを浮かべながら、ヒーアはマハトの手を引いて、その道に踏み込んだ。入ってようやく気が付いたのか、マハトが息を呑むような気配が伝わってきた。少年の反応に、ヒーアの笑みが深くなる。

「ここに誰かを連れてくると、皆そう。凄く驚くの。それが凄く楽しいのよ?」

「………それはそうだろうな。こんなところ、行ける人間しか気が付くことはできないだろう」

 どうにか気を取り直したのか、マハトの声に冷静な調子が戻る――先ほどまでの興奮も、まぁ微々たるものでもあったが。

 ヒーアの先導で、ドンドン歩く。何が楽しいのか、ヒーアは上機嫌で鼻歌まで歌っている。繋がれた手が時に強く引かれ、マハトは何となく、自分が犬にでもなった気がしてきた。

 そういえば、とマハトは思い出した。

「兄さん達が、犬が逃げたと言ってたな」

「犬?あら、お城で飼っているの?」

 呟くようなマハトの声を聞きとがめて、ヒーアは細い路地で器用に振り返った。慣れているのだろう、後ろ向きのままでも歩く速度は緩めないままだ。

 危ういその様子にマハトは布の中で眉をひそめたが、もちろんヒーアには見えなかった――見えたとして、この少女は改善などしないのだろうが。

「………狩猟犬だ。茶色い毛が綺麗で、奥様が気に入っていた」

「あら、それが逃げたの?侯爵夫人閣下は、さぞやガッカリなされたでしょうね?」

「嬉しそうに言うな。………奥様は、それはそれは落ち込んでいらした。何が悪かったのか………餌か、寝床か、大いに悩まれ、寝込まれてしまったのだ、その日の午前中は」

「………長い方かしら」

「午後には白い犬を手に入れてこられた」

「短かったわね」

 そうでもない、とマハトは首を振った。彼の主人が半日も落ち込む様なんて、今まで一度も見たことがなかったのだ。

「そう言われたら、そうなのかも知れないけれど………」

「今は、その犬が逃げないよう工夫を凝らしていらっしゃるそうだ。絶対に、逃げられないように」

「なぜかしら、失礼かもしれないけれど、ろくな考えじゃない気がするわ」

 引きつった笑みを浮かべるヒーアに、マハトは首を傾げた。不思議そうな少年になんでもないと首を振ると、ヒーアは前へと向き直る。向き直りながら、考える。

 鳥を飼うとき、羽の一部を切り取ると言う。飛んで逃げないようにするためだとか。

 では、犬を飼うときは?



「さて、着いたわ」

 迷路のように入り組んだ路地をぬけると、ヒーアは大きく伸びをした。子供の矮躯であっても、少々窮屈な道のりだった。

 背後から、マハトが出てくる。そうして、驚いたように辺りを見回している。

「こんな場所があるなんて………」

「驚いた?」

 ヒーアの言葉に、マハトは言葉もなくうなずいた。目の前の光景が、信じられないらしい。

 二人の目の前には、幾つもの商店が立ち並ぶ、活気に溢れた通りであった。路地裏とは思えないような規模で、別な町に迷い込んだような錯覚を受ける。家々の建て方が独特なのか、広い通りの割りに、頭上を見上げると屋根で覆われて、歪んだ家に覆いかぶさられているような気分になる、不思議な閉塞感があった。

 各家の前には見せの売り子らしき人影が、道行く人に声を掛けている。看板などは掲げられておらず、売り子に話を聞く以外には何の店かわからないようになっているようだ。困らないのだろうかとマハトは思ったが、どうやら買いに来た者は何処に目的のものがあるか、わかっているようだった。たまにきょろきょろとしている者もいるが、それらも吸い込まれるように店の中へと消えていった。

 ヒーアとマハトも、品定めをするようにゆっくりと通りに入っていった。まずは売り子の話を聞こうと手近な店に近づく。と、店の奥から人影が姿を現した。

「すみません、探し物をしているのだが………」

「はいよー」

 声を掛けた途端に、マハトが凍りついた様に固まった――店主も、同様に固まっている。ヒーアは、その様子を見ながらくすくすと笑っている。

「………馬?」

 現れたのは、馬人間だった。

 首から下は一般的な青年のそれなのだが、顔には何故か、馬の頭を被っていた。皮を剥いだ物なのか、ずいぶんと生々しい。ありえないことだが、馬の顔をした人間と言うよりは、人間の身体をした馬と言われた方が納得できるような気さえする。

「驚いた?」

 笑みを含んだヒーアの声に、マハトは呆然とうなずいた。

「この闇市はね、店の人が皆、こういう服装なのよ」

 ヒーアの言葉に、マハトが首を巡らす。言われてみると、見える範囲の売り子達は皆一様に動物の顔のマスクを被っている。猫や犬ばかりか、遠くには虎の顔さえ見えた。

「どうしてまた、こんな変な格好を………」

「あの」

 力なく呟くマハトに、店主の馬人間が恐る恐る尋ねてきた。つぶらなその瞳は、マハトの頭の辺りを見つめている。

「どうして、そんな格好を?」

「あんたに言われたくはない」



「いやあ、ヒーアちゃんの知り合いですか、いやあ、ビックリしたなぁ」

「………それで、ここは何屋なんだ」

 胡散臭い相手に胡散臭がられたからなのか、それともヒーアが大爆笑したからなのか、何処となく憤然とした様子でマハトは尋ねる。オドオドしていた馬人間も、幽霊仮装の背後にヒーアの姿を見つけ、ホッとしたようだった。

「ここの店主さんはね、あまり歯を磨かないの」

「………?それで?」

「剥製屋(歯くせえ屋)」

「うるさい」

 ニヤニヤ笑うヒーアをはたきつつ、マハトは馬人間へと向き直った。突き出た口に手を当てて笑っていた馬人間が答えた。

「ウチは、これ。これを売ってます」

「………時計?」

 馬人間が差し出したのは、古びた懐中時計だった。所々に赤錆が浮いていて、秒針がない、ばかりか、竜頭も無くなっている。

 アンティークだろうか、とマハトは、ゴミにしか見えないその時計を眺める。そんなマハトに馬人間は「違う違う」と片手を振る。

「ここはね、ゴミ屋」

「………え?」

「ゴミ屋」

「………………」

 振り返り、ヒーアに視線を向ける。しかしヒーアの方も、何かおかしいのか、と言うように不思議そうに見返すだけだ。

 もう一度、馬人間の方へと向き直る。

「………ゴミ?」

「ゴミ」

「………なんで?」

 マハトの言葉に、ヒーアと馬人間が揃って首を傾げる。

「何でって?」

「欲しい人がいるんだから、売るのは当たり前じゃない?」

 二人の言葉に、マハトはため息をついた。人の考え方というものは、当人以外にはわからないものである。

「………『人を生かし、また殺しもする薬』を探している」

「へぇ、薬?」

 マハトの言葉の大仰な部分には一切触れず、薬という部分にのみ反応する馬人間。その態度に、マハトは、もしかして薬じゃなくてゴミならあったのか?と思ったほどである。

 少し悩んで、馬人間は首を振った。

「薬の扱いは、ここではないねぇ」

「だろうな」

 何となく予想していた答えに、マハトはさして落胆もなくうなずいた。ヒーアの方も予見していたらしく、間髪入れずに口を挟む。

「どこで扱っているか、心当たりはないかしら」

「うーん………他に何か、情報はないのかい?」

 馬人間の言葉にマハトは腕を組んで考え込む――無論それは布の中でなので、傍から見ると幽霊が立ち止まっているようにしか見えない。

「………そういえば奥さ………いや、依頼主が、何処だか東洋の方で、『百の薬の最も優れた物』と言われていると、聞いたことがある」

「ふうん?東洋だと、外れにある爺様の薬屋かな?この通りをまっすぐ行った、大きな木の根元にある」

「そうか、ありがとう」

 マハトはどういたしまして、と愛想よく答える馬人間の店を出る。と、入ってきた人影とぶつかりかけた。

「おっと」

「うわっ」

 小柄なマハトよりも更に小柄な人影を辛うじてかわす。人影の方もどうにか飛びのいてかわした。謝罪をしようとマハトは人影に視線を向ける。

「すまな………?!」

 言いかけて、マハトは息を呑んだ。

「どうしたの………あら?」

 急に立ち止まったマハトの後ろから、ヒーアが顔を覗かせた。そして固まるマハトの前で同じように固まっている人影を見る。

 そこで固まっていたのは、少年のようだった。恐らくは、マハトよりも年下だろう、小柄な体つきに………顔には、犬の皮を被っている。

 茶色い毛並みの見事な、愛らしい子犬の顔。

「………お前は」

 その犬の皮に見覚えでもあるのだろうか、マハトは短く声を漏らした。ヒーアは不審げに眉を寄せるが、そこで、犬少年の方の様子にも気がついた。少年の方も、口を大きく開けて呆然とした様子で固まっていたのだ。

「その、声………」

 その犬少年が、絞り出すような声を出す。つぶらな瞳には、驚きと恐怖の色がありありと浮かんでいる。

「ぼ、ボクを追って………?」

 震えながら、犬少年は呟いた。何のことだかわからずヒーアはマハトのほうを見る。しかし、布に隠されたマハトの表情は当然ながら分からなかった。

「………お前は、奥様のお気に入りだったろう」

「えぇ、だけど、奥様はボクの毛皮が好きだったんだろ?」

 犬少年は、引きつったような笑い声を漏らした。

「ボクは、剥がされたりしたくない」

「………主人の命令でも?主人に従うのが、従者の務めだろう」

「あんたなら、そう言うんだろうね………」

 疲れたような息を吐き、犬少年はうなだれた。諦めを多分に含んだ声である。

「ボクを、連れ戻すのかい?」

「そんな命令は受けていない。すでに奥様は、代わりの犬を見つけてきた。お前の居場所はもう、あそこにはない」

 マハトの言葉に、犬少年は驚いたような顔を浮かべ、やがて、うなずいた。

「………そうか、じゃあ、ボクは行くよ。ここで働けるらしいんだ。何しろ、ここは捨てられたものが集う場所だからね」

「好きにしろ」

 素っ気無いマハトの言葉に、犬少年は立ち上がり、店の奥のほうへと消えて行った。すれ違いざまにわずかに頭を垂れたようだが、誰へ何のために頭を下げたのか、ヒーアには分からなかった。

 分からないというのなら、今の会話の全てが、ヒーアには分からなかったが。

「行こう、ヒーア。外れの木の根元だったな」

「知り合い?」

「いや。顔も見えなかった」

「そう………」

 首をかしげながら、ヒーアは、歩き出したマハトを追いかける。

 そう言う彼の表情もまた、分からなかった。



「ここか」

「今度は何かしらね」

 少し歩いた先に、その店はあった。大きな一本の木の根元、というか、家を突き破るようにして大木が生えていた。

 軒先には、木の板に大きく、太い黒いインクで、なにやら文字が書かれていた。異国の文字らしく、ヒーアとマハトは揃って首を傾げた。

「………薬屋というのは、ここか?」

 軒先でひとまず声を上げる。

「ん?おや、お客さんかのう?」

 年老いた男性の声とともに、店主らしき人物が現れた。

「亀だ………」

「亀ね………」

 出てきたのは、腰の曲がった老人の身体をした、亀だった。長い口ひげを蓄えている。

「何かようかの、若者たち」

「あぁ、ここは………」

「ここか?実は、わしゃあまり歯を磨かんでな、それで」

「薬屋で間違いないな?」

 あっさりと割り込むと、なんじゃつまらん、と亀はぼやいた。それを無視して、マハトは店の中へと踏み込む。踏み込みながら、マハトは、もしかして流行ってるのか今のは、という恐ろしい想像に身を震わせた。背後でくすくす笑っているヒーアが驚くほど苛々する。

「それで?何を探しとるんじゃ?」

「『人を生かし、また殺しもする薬』だ」

 ほう、と亀は驚いたような声を上げた。眼を見開いた、様にも見えるが、なにぶん亀の顔なので分からない。

「ここにあるんだろうか?」

「あるぞ」

「まぁ、そうよね、そう簡単には………え?」

「まぁ、伝説のような代物だしな………ん?」

「うん、あるぞ」

 そう言うと、亀は店の奥に引っ込み、すぐに小さなビンを一本持って来た。

「はい、これ」

「え、えぇぇ、あるの?」

「………流石に、驚いたな」

 呆然としつつ、マハトは小瓶を受け取った。それから思い出したように「あ、お金」とヒーアが声を出した。マハトもハッとした様子で、布の中でもぞもぞと動いていた。と、亀が片手を振る。

「あぁ、いや、お代はいいよ。久方ぶりの客じゃし。贔屓にしておくれ」

「え、えぇぇ?そんな軽い、サービスできちゃうものなの?」

「うん、ワシの手作りじゃし。そもそもお前さんたちのような子供には売れんからの」

「逆に胡散臭いな………」

 ぼやくように呟き、そして、マハトは小瓶を布の中へと入れた。とにかく、それらしい物が手に入ればいいらしい。

「じゃあ、まぁ、ありがたく頂くけど」

「あ、それよりも、若者達。聞きたいんじゃけど」

「何かしら?」

 さっさと帰ろうとする二人を引き止める亀に、ヒーアが振り返る。マハトも、とりあえず立ち止まっている。が、その足は半分店の外に出ていて、さっさと帰りたいという態度を隠そうともしない。

「あのな、うん………さっきの歯の行りなんじゃけど」

「行くぞヒーア」

「行きましょうか」



 早足で、マハトは闇市を抜け出た。ヒーアは一足早く抜け出ており、楽しそうにこちらを見ている。

 その視線を感じつつ、マハトは布を脱ぎ捨て、振り返った。その路地がどうなっているのか、改めて見たかったのだ。

「楽しかったわねぇ、マハト」

「………あぁ、そうだな。ヒーアのおかげだ。僕一人では、見つけることも出来なかった」

 背後からのヒーアの声に、マハトは振り返らずに応じた。その手に握られた小瓶に、ヒーアは眼を向ける。ガラスのビンの中には、何か赤い液体が揺れている。

「まさか、本当に在るとは思わなかったわ、そんな薬。ちょっと飲んでみたいわね」

 うふふ、と笑うヒーアの声に、マハトはため息をついて、振り返った。久しぶりに見たマハトの顔は、相変わらず無表情だ。

「飲むのは止めておいたほうがいいだろう。本物にしろ偽物にしろ、あまりよい結果にはならなそうだ」

「そんなものを、届けるの?」

「あぁ」

 試すような口ぶりのヒーアに、マハトは特に気負うことなくうなずく。

「持って来いと言われたからな」

「そう、なんだか勿体無いわね」

 何処となく不満げなヒーアに、マハトは微かに口元を歪めた。本当にわずかで、じっと見ていないと分からないような変化だったが。

 それを見てヒーアは、満足そうに微笑むと、スカートをはためかせて振り返った。そのまま歩き出すヒーアをマハトは追いかけようと一歩踏み出して、そして振り返る。

 少年の視線の先には、路地などなく。

 ただ煉瓦造りの壁が立ちふさがるだけだった。



「それで、え?これ?」

「はい」

 ヒーアの町から森を抜けて山を登った先。公爵夫人の城の夫人の私室。ふかふかのソファに寝転ぶ公爵夫人は、彼女の使用人が差し出した小瓶を眼を丸くして眺めていた。

 その手元には、真っ白い毛皮のヌイグルミが握られている。数日前、見たことのある犬の毛皮に似ている気がしたが、マハトはそれを無視した。

 代わりに、手に入れた薬の小瓶を差し出した。

「『人を生かし、また殺しもする薬』だそうです」

「うーん………」

 無表情ではあったが、それなりに自信を持って差し出したのだが、少年の主の反応はいささか芳しくないものだった。

「ご不満でしょうか」

「いや、不満っていうわけじゃないんだけどさ、うーん、そういうの、あるんだ………闇市って凄いのねぇ」

「………もしや奥様。お探しの物はこれではなかったでしょうか」

 言葉を濁す主の様子に、マハトはひらめいて、尋ねる。その言葉に、公爵夫人は笑いながら手を振った。

「いや。いやいや。可愛いお前の努力の結果だ、否定するわけないだろ。単に見つけてくるとは思わなかったんだよ。しかし、さすがだねぇ」

 微笑みながらビンを受け取ると、片手でもてあそぶ。その賛辞に、マハトは無言で頭を下げた。

「お前は、”兄達”と違って斜め上のことをするから面白いよ」

「はぁ、そうでしょうか」

 下がってよい、という主の言葉に、マハトは彼女の自室を辞した。忠実な僕の姿を見送りながら、公爵夫人は苦笑を浮かべた。

「うーん、どうしよう、これ。私が考えてたのは………」



「と言うわけで、面白い買い物をしたのよ、パパ」

 仕事から帰った瞬間に娘に捕まり、トイフェル・ナイエヴァイトは食事もコーヒーも無しに彼女の冒険譚を聞かされる羽目になった。

 とは言え、その内容にトイフェルは珍しく、くすくすという笑い声を漏らしていたが。

「そうか、相変わらず、マハト君も大変だな」

「えぇ、そうでしょう?あの子も、たまには文句くらい言えばいいのに」

「それは仕方がない。彼はそのように作られたのだからね。ところで、何を探しに行ったのだい?」

 トイフェルの言葉に、ヒーアは待ってましたとばかりに口を綻ばした。これが言いたかったのだろうと、トイフェルは再び笑みをこぼす。

「それはね、『人を生かし、また殺しもする薬』よ。東洋では『百の薬の最も優れた物』らしいわ」

 何か分かる?と問いかけるヒーア。娘の顔を見ながら、トイフェルは不思議そうに首をかしげた。その様子は、なぜそんなわかりきったことをたずねるのか、というような、教師のような態度だった。

 楽しそうな顔で答えを待つヒーア。娘のそんなもったいぶった様子に、トイフェルはやはり困惑しながら、口を開いた。

「酒だろう?」



 同じころ、何処かで誰かが呟いた。

「酒だったのよねぇ」

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