第2話明日からさよなら

 トイフェル・ナイエヴァイトはその、様々な人間と会い、その多様性を理解していた。

 そのため、彼の一人娘ヒーア・ナイエヴァイトが深夜の零時を越えても帰宅していないことに対しても、コーヒーカップを傾けながら軽いため息を吐くだけで済ますことが出来た。


「ただいま、パパ」


 とは言え、彼もひとりの父親である。娘が午前二時近くになってようやく帰宅してきたときには、何か小言の一つでも言ってやらねばと、持っていた新聞から顔を上げ、しかし、ヒーアの姿に何も言えずにあんぐりと口を開いた。

 軽く癖のついた栗色の巻き毛に、猫のように軽く吊りあがった眼。瑞々しい唇にはなにやら上機嫌な笑みが浮かんでいる。それはいい。娘のそうした表情はいつものことだ。

 異常なのは、


「………どうかして? パパ」

「お前、その格好はどうしたのだね?」


 父親のそんな顔が意外だったのか、不審げに尋ねるヒーアに、トイフェルは聞き返した。

 ヒーアは、言われて初めて気がついた、というように自分の服装を見下ろし、見せびらかすようにその場でくるりと回った。


「似合うかしら?」

「似合うというか、そういう問題ではないというか………」


 悪戯っぽく微笑むヒーアの全身を、改めてトイフェルは見る。

 いつもなら裾の長いエプロンドレスを好んで着ている彼女であり、今日もそれは身につけている、ようだ。曖昧な表現になってしまう理由は簡単で、からである。

 ヒーアはその全身を、恐らくカーテンか何かだろう黒い大きな布で隠していた。まるでマントのように身体をすっぽりと覆った様子は、真っ黒な筒のようでもある。


 一体どうしたのか。問いただそうとして、ふと、トイフェルは娘の顔に浮かぶ表情に気がついた。仕事の帰り我が家に戻ると娘が見せる、いつもの、まるで酔いが回ったかのような上機嫌さ。

 何か、彼女の気に入る良いことがあったらしい。問題は、それが一般的な『良いこと』とは乖離する傾向にあるということだ。

 そして、ヒーアは自分のそうした楽しみを、唯一の肉親である父親と共有したがる。たとえ、深夜であろうとも、だ。


「実は、とても面白いことがあったのよ。お聞きになりたいでしょう、パパ?」


 案の定そんなことを言い始めるヒーアに、トイフェルは深いため息を吐いた。それは、降参の合図でもある。

 嬉しそうにテーブルにつく娘の姿を見ずに、トイフェルは手元のカップに視線を向けた。幸運なことに、そこにはまだ半分ほどのコーヒーが残っていた。

 もう一度、深くため息を吐いてから、トイフェルは娘に話を促した。


 ………………………


 ………………


 ………


 ヒーア・ナイエヴァイトはいつものように、退屈を噛み殺しながら町を歩いていた。敷き詰められた石畳の道は綺麗ではあるが単調で、歩くたびに少女の神経を逆撫でている。

 だから、乗合馬車の前で起こったその喧騒にヒーアが嬉々として首を突っ込んだのは、寧ろ当然の成り行きと言えた。


「………だからね、それは無理だよ、御嬢さん」

「そこを、なんとかお願いします。私は今日中に、町を離れなくてはならないのです」


 ヒーアが近づいていくと、すでに幾人かの野次馬が集まり、ちょっとした人だかりを作っていた。背の低いヒーアはその周りで背伸びをしてみたが、無理なことにすぐ気がついて、野次馬の足元を掻き分けるようにして前へと向かった。

 どうやら、乗合馬車の御者と一人の妙齢の婦人がもめているようだ。と言うよりは、婦人のほうが御者に一方的に詰め寄っているようにも見える。


「しかしなぁ、順番は順番なんだよ。今回は、伯爵夫人の荷物を運ぶと決まってるんだ」

「そこを、どうかお願いします。荷台の荷物の、ほんの隙間でも構わないのです。港か駅か、そのどちらかまででも………」

「そのどっちにも行かないんだよ、この馬車は。こいつはあの森を抜けて、伯爵夫人のお城へ行くだけなんだ。二、三日には戻るから、それまで待ってくれ」

「それでは遅いのです。お願いします、どうか、どうか」

「あらあら、どうかしたの、ヴェークさん?」


 いよいよひれ伏さんばかりの低姿勢になった婦人。公衆の眼前でそんな目に合う御者の男性を不憫に思い、ヒーアは思わず声を掛けた。

 中年の御者、ヴェークは安堵の色、婦人の方は怪訝そうな色を浮かべて、二人はヒーアを見た。その視線を受け止め、さらには野次馬たちからの視線を全身に感じつつ、ヒーアはオペラを演じる役者のように前へと進み出た。


「もめているようね、珍しい」

「あぁ、ちょっとね、ヒーアちゃん。ほら、御嬢さん、何か事情がおありなら、そちらのヒーア嬢にお喋りなさい。何だかわからないが、彼女に話せば

「え、あ、あの………」


 早口でヴェークはそう言うと、今が好期チャンスとばかりに馬車に乗り込み、鞭を入れた。時は金なり、というのは彼らのような商売人の鉄則であり、金が絡んだときの商売人の決断力と行動力は、虚を衝かれた婦人には反応さえ出来ないほどだった。


「あぁ………」


 結局、その婦人に出来たのは、去り行く馬車を恨みがましい目つきで見送ることだけだった――否、もう一つだけ、残されていた。その原因となった、お節介な少女を同じような目で睨みつけることである。

 もっとも、得てしてそうした被害者(であると自分が信じている者)の怨み辛みは、加害者には通じぬものである。まして、相手はあいにく、町の人間が老若男女口を揃えて、『あの』ヒーア・ナイエヴァイト、と指を指す様な少女である。


「はじめまして、私はヒーア。貴女はどなた?」


 婦人のじっとりとした眼差しを上機嫌な笑みで蹴散らして、ヒーアはいけしゃあしゃあと尋ねた。

 婦人の方は何か言いたげに口を開いたが、何を言えばいいのかわからなかったのだろう、諦めたようにため息を吐き、名乗った。


「………アムルー」

「素敵な名前、不思議な響きね。見たことないし、何処かから来たのね。ようこそ、この町へ」

「えぇ、旅行に来たの」


 ある種の諦観を伴う疲れたような微笑を浮かべ、アムルーと名乗った年若い婦人は答えた。目の前の少女には、何を言っても無駄だと気がついたのだろう。

 ………中々聡いご婦人である。


 ………………………


 ………………


 ………


「あら、失礼な感想じゃないかしら」

「お前の図々しさは伝わるのだ」


 ………


 ………………


 ………………………


「………何があったのか、お聞きしてもいい? アムルーさん」


 未だにうろうろとたむろする野次馬たちから逃れるように、ヒーアとアムルーは町外れの公園へと移動してきた。並木道に沿って置かれたベンチに腰掛けるとおもむろに、ヒーアは口火を切った。

 不躾だな、とアムルーは感じたが、その好奇心の塊のような両目を見ると、寧ろここまで我慢したことを褒めるべきかもしれない、とさえ思えてきた。


「………今日中に、私はこの町を出なければならなかったのです」

「あら、どうして?」


 アムールの答えに、ヒーアは目を丸くして驚いた。


「確かに退屈で、有り触れていて、面白みに欠ける町だけど、そんな急に出ないといけないような何かがあったの? 気になるわ」

「あ、いえ、この町や住人の皆さんに不満があるわけではないのです」


 見開いたままの瞳に爛々とした輝きが生まれるのを見て取り、慌ててアムルーは首を振った。よくはわからないが、自分の話以外でこの少女を刺激するのはまずい気がする。

 ヒーアの興味が移らないうちにと、アムルーは自分の事情を語り始めた。


「実は、個人的な事情なのですが、危険があるので、ある男性から離れたいのです」

「あら、もしかして、変質者か何かかしら? それなら警察に行ったほうがいいわ。ここの警察は、それはもう優秀だから」

「あ、いえ、そうではないのです。もう、私は安全なのです。

「………? 『番』?」


 話の流れにそぐわない単語に、ヒーアは眉をひそめた。どういうことだろう、てっきり、悪質な男に言い寄られていて、そのアプローチが常軌を逸しているのかと思ったのに。


「そんなことはありません。危険なのは、あの人の方なのです。私は、愛したあの人を守りたいのです」


 うつむきがちにぼそぼそと、アムールは話し始めた。その、奇妙な恋の始まりと終わりを。


 ………………………


 ………………


 ………


 アムールは、異国からやってきた移民の子だった。彼女の両親は祖国の雰囲気を嫌い、発展を見込んでこの国へとやってきたのだ。

 それで、それなりに成功を収めた。中流階級の中でも上等な暮らしぶりが出来るような稼ぎを得ることが出来た彼らは、その次に、更に先の将来を見据えることにした。即ち、娘の結婚である。


「おぉ、私のかわいいアムール、お前もそろそろ、男性を迎える時だ」


 父の言葉に、アムールは大人しく従った。もとより、いずれは家のため嫁ぐか婿を迎えるかしか道は無いと、彼女は理解していた。不服は無かった。無かったが、不安ではあった。

 どんな相手を、父は選ぶのだろうかと。

 両親のことをアムールは愛していたし、両親とて娘を愛していた。父も母も、一人娘が苦労の無いようにと、相手選びには骨を折るつもりだった。そのことを、アムール自身も理解していた。


 だからこそ、不安だった。


 父が選ぶ『自分に合う』男性。それを吟味すること自体が、アムールの不安の種だった。なぜか――アムールは、これまで一度も、恋をしたことが無かったのだ。

 慣れない異国で懸命に生きる両親。その苦労を助けるために家事に勉学にと打ち込んできたアムールにとって、他人との関係性というのは得手不得手どころか想像の埒外でさえあった。


 自分の理想を、自分が理解できていない。


 アムールの悩みはすぐ、優しい父の知るところとなった。その悩みに、父はある決断をした。


『外を巡り、己の心の形を知るがいい』


 ある日、父はアムールにそう告げた。見聞を広げつつ、自分自身を知るために、諸国を巡れ、と。その顔に苦悩の色を滲ませながら、娘の幸せを願う父は苦渋の決断をしたのだった。


 ………………………


 ………………


 ………


「………辛かった、と思います」


 当時を思い出し、目じりに光るものを溜めながら、アムールが言う。その顔から目を逸らし、ヒーアは、彼女にしては珍しい歯切れの悪さで口を開いた。


「そう、なのね」


 その反応に、寧ろ初対面のはずのアムールが驚いた。短い付き合いしかなかったが、目の前の少女の人となりはおぼろげながら掴めている。この世の誰よりも、歯切れの悪さとは縁遠い人物だと思っていたのだが。

 そのときふと、アムールはある仮説が脳裏にひらめいた。


「貴女、ヒーアちゃん? えっと、ご家族は?」

「パパだけよ。ママは、私が生まれる前に死んでしまったわ」


 成程、とアムールはうなずいた。母を知らないこの少女にとって、両親の心というのは並の人の半分しかわからないのだろう。

 どこか寂しそうに感じる少女。その心に何かを言おうとして、結局アムールは思いとどまった。

 それは、自分の役目ではない。それはいずれ、少女が自分自身で気付くべきことだ。

 代わりにアムールは、自分の体験を話し続けることにした。まるで、子守歌のように。


 ………………………


 ………………


 ………


 アムールがその男性に出会ったのは、一月ほど前の話だった。

 鉄道を降り、とある田舎の町に向かう乗合馬車を待っていたときのことだ。


「あれ、貴女は!」


 突然、背後から声を掛けられたのだ。

 当然、振り返る。その明朗な声に聞き覚えは無かったが、馬車を待っていたのはアムールだけだ。その声の主が誰にしろ、自分に言っていると思って間違いないからだ。


 振り返った先には、一人の若い紳士が立っていた。


 グレーのズボンにジャケット。外套を羽織り、両手にステッキと鞄とをそれぞれ抱えて、小走りにこちらに向かってくる。

 誰だろう、とアムールは先ず思った。声に聞き覚えどころか、顔に見覚えさえもなかったのだ。

 とはいえ、これは彼女にとって不審を感じるような出来事ではなった。彼女の見聞を広げる旅は、すでに一年近くに及んでいる。いろいろな町を巡るうち、見知らぬ知り合いが生じることも一度ならずあった。そうした場合、何故か向こうはこちらを知っているのだ。


「申し訳ありません、どなた様でしたか?」


 だから、慌てずにアムールは答えた。これまで何度かこなしたやり取りである、彼女にとっては慣れたものだ。

 その言葉に慌てたのは、他の多くの場合と同じように紳士の方だった。


「え、あれ、覚えてらっしゃらないのですか?」

「えぇ、すみません」


 アムールの言葉に紳士は目を大きく見開き、見ているほうが哀れになるほど狼狽した。

 その時点で、アムールの興味は九割方失せていた。何の知り合いだったかは知らないが、この程度のことで右往左往するような男性なんて、興味も無ければ自分の趣味でもない。

 しかし、その紳士の「おかしいなぁ」というぼやきの後の言葉に、彼女の興味は半分近くが復活することになった。


「昨日、お会いしたばかりだと思うのですが………」

「………え?」

「この馬車に乗られるのでしょう? その先の町で、昨日会ってお話を。覚えておいででは?」


 そんな馬鹿な、とアムールはまず思った。

 昨日は、まだ鉄道の中である。馬車に乗ってもいなければ、町には到着さえしていない。


「そんな馬鹿な、確かに、貴女と会ったのですよ? 貴女の方からなにやら、使がどうとか話してこられて」

「そう言われても………」


 困惑した様子の紳士の言葉に、困惑しているのはこっちだ、とアムールは心のうちで叫んだ。会って話をした? しかも、私の方から?

 ありえない、と彼女は思った。この紳士は、きっと誰かと思い違いをしているのだろうと。

 そんなこと無いと思うのだけどなぁ、などと紳士はぼやいていたが、アムールの方も譲れるような話ではない。


「まぁ、しかし、覚えが無いのであればそうなのでしょう。お引止めして申し訳ありませんでした」


 ちょうど馬車が来たこともあって、紳士は丁重に頭を下げた。思ったよりも礼儀正しい態度に、アムールも内心を整理しつつこちらこそ、とよくわからない挨拶を返した。


「あの」


 さて、と馬車に乗り込もうとしたアムールに、紳士は声を掛けた。


「私の思いすごしであると、私自身にわかには信じられません。ツークンフトという名に心当たりは?」


 アムールは記憶を一通り探り、首を振った。紳士、ツークンフトは肩を落とすと、「そうですか、それでは」と言い残し、駅の方へと歩いていった。アムールは首を傾げつつ、馬車へと乗り込んだ。


 ………………………


 ………………


 ………


「妙というほど妙ではないな、その紳士、ツークンフト氏は、そのご婦人に興味が合った、ということだろう」

「それは早計だわ、パパ」

「そうかね、なら続けなさい」


 ………


 ………………


 ………………………


 町に到着し、ホテルで身体を落ち着かせ、次の日、アムールは早速町中へと繰り出した。見聞を広げる、というお題目もそうだが、見慣れぬ町並みには少なからず心が躍った。

 先ずはどこへ行こうか、と思いつつ、石畳の道を歩き始めた、その時であった。


「………あら?」


 真向かいから、見覚えのある若い紳士が歩いてきたのだ。昨日とは異なり、手にはステッキ一本持っているのみである。

 無視するのも無礼であろうと、アムールは上品に微笑み、声を掛けた。


「お早うございます、ツークンフトさん。奇遇ですわね」

「………?」


 妙なことに、ツークンフト氏は答えなかった。訝しげな目つきで、彼女を見返すばかりである。

 てっきり「あぁ昨日はどうも、偶然ですな」などありふれた挨拶を言われると思っていたアムールは、少々慌てた。なにせ一度会ったきりの相手だ。顔を覚えていたつもりが間違えたのかもしれない。


「し、失礼しました、人違いでしたかしら?」

「あぁ、いえ、たしかに私はツークンフトですが。………なぜ、私の名を? 何処かでお会いしましたか?」


 間違いというのは間違いだったが、その後の言葉に、アムールは更に混乱した。混乱しながら、昨日駅で起こったことを説明する。が、ツークンフトは訝しげなままである。


「天使がどうとか、言っておいででしたが………」


 昨日聞いた話の中の一番覚えやすいキーワードを、アムールは口にした。しかし、ツークンフトは途端に顔をしかめた。


「天使? なるほど、教会か何かの関係者ですか? あいにく、私は信仰を金で買おうとは思いません。寄付の話ならご遠慮願おう」

「そ、そんな………」


 ツークンフトの言葉に、アムールは打ちのめされたように後ずさった。その心に沸々と怒りと羞恥が湧いてくる。それではまるで物乞いに対するような扱いだった。


 そんな彼女には目もくれず、ツークンフトはさっさと歩いていった。

 その背中が曲がり角の先に消えたときにようやく、アムールはその後を追い始めた。


 こんな無礼を許せはしない。自分の、そして何より自分の父の名誉のため、先の不届きな発言は訂正してもらわなければ。

 鼻息も荒く、アムールはツークンフトの曲がった曲がり角へ差し掛かり、


「うわ!」

「きゃあ!」


 そうして、そこから出てきた人影と大いにぶつかった。

 思わずよろけ、差し出した手は、柔らかい手に掴まれた。そのまま、力強く引き戻され、アムールは難を逃れた。


 礼と謝罪をするべきだ。アムールは顔を上げ、そして驚いた。


 そこにいたのは、同じように驚いた顔のツークンフトであった。

 彼女の動揺は一瞬であった。

 すぐに先刻のやり取りが脳裏に浮かび、アムールは決然と口を開きかけた。しかし、それよりも早く、ツークンフトが口を開き、驚くようなことを言い出した。


「これは、昨日のご婦人ではないですか。昨日は不躾な話を失礼しました」


 ………………………


 ………………


 ………


「妙な流れになってきたね」

「そうでしょう?」

「双子かな?」

「ご兄弟は、だいぶ年が離れているそうよ」

「ふむ」


 ………


 ………………


 ………………………


「貴方………どういうおつもり?」


 つい先刻のやり取りを忘れたかのような、それどころか、友愛の情さえ浮かべて接してくるツークンフトに、アムールは戸惑いながら尋ねる。彼の紳士の思うところがなんなのか、さっぱり理解できなかったのだ。

 戸惑いはしかし、ツークンフトのほうも同様であったようだった。アムールの言葉に不思議そうに首を傾げると、戸惑いもあらわに口を開いた。


「どういう、と言われましても………意図せぬ再会ですし、お話を、と思ったまでで………」


 しどろもどろに語る彼の口ぶりには、嘘を吐いているような様子は無い。あくまでも、予期しなかった再会に心躍らせていた、という純粋な心持だったように見受けられる。

 しかし………。


「では、先ほどのは………?」

「先ほど、と言いますと?」


 不思議そうに尋ねるツークンフトに、アムールは手短に、先ほどの不愉快な出来事、特にツークンフトの無礼な物言いについて説明した。

 当然のように、ツークンフトは狼狽し、否定した。


「わ、私がですか?そんな馬鹿な、そんなこと、言うわけもない!」

「しかし、私は聞きました」

「それに、この道を誰も来なかったし、そんな馬鹿なこと………ん?」


 興奮し、反論しようとして、ふと何かに気がついたようにツークンフトは言葉を切り、眉根を寄せた。片手を顎に当て、うつむきがちに視線を伏せる。

 記憶を探るような姿勢に、やっぱり、とアムールは思った。思い当たる節があったのだろう。


「いや、そうではなく。その、貴女はその私に似た男に、なんと言ったと?」


 アムールの指摘に首を振ると、ツークンフトは尋ねる。訝しがりながらも、隠す理由も無い、覚えている限りのことを彼に話してやった。

 すると、ツークンフトは手を打って笑った。


「その言葉、確かに私は聞きましたよ」

「ほら、やっぱり、貴方ではないですか」

「えぇ、確かに。しかし、それは今ではありません」

「え?」


 煙に巻くような不思議な物言いに目を瞬かせるアムールに、若い紳士はくすくすと笑いながら、そのことを告げた。


「それは、一昨日、つまり、昨日貴女に会う前日に、この町で貴女から聞いたのです」


 ………………………


 ………………


 ………


「…………………」

「どうかして、パパ?」

「いや、ふむ………続けてくれ」

「えぇ、わかるわ、嘘だと思ったのでしょう?」


 ………


 ………………


 ………………………


 当然、ヒーアもそう思った。下らない男の方便だろうと。

 その指摘に、アムールは片手を口に当て、くすくす笑った。パパの好きそうな上品な笑い方だわ、とヒーアは思いながら、不思議そうに彼女の言葉を待った。


「私も、もちろんそう思ったの。嘘だと思ったわ。でも………」

「でも?」


 ヒーアの疑問に答えず、アムールは視線を目の前の少女から外し、何処か遠くを眺めた。何かあるのかと思いヒーアもそちらを眺めたが、レンガ造りの見慣れた町並みが続いているだけだ。

 視線をアムールに戻すと、彼女の方もヒーアに視線を戻していた。


「ねぇ、貴女、恋をしたことはあるかしら?」


 話の流れを無視するようなアムールの質問に、ヒーアは首を振った。


「無いわ。愛も恋も、私はぜんぜんしたことが無いの」


 そう、と短く答えると、アムールは微笑んだ。何処か陰のある、儚げな笑みだった。


「私は、あったわ。一度だけ」

「それが、今の話の人?」

「えぇ」


 ………………………


 ………………


 ………


 ツークンフトはアムールに、自分の仮説を語って聞かせた。

 ツークンフトが出会ったのは、二日後、つまり今日のアムールだったのではないかと。なぜなら、彼が出会い、聞いたのは、そのままアムールが今日語ったことだったからだ。それを聞かされた一昨日も、ツークンフトは同じように彼女を無視したという。彼曰く、もっと紳士的な言葉で、だそうだが。

 つまり、アムールがであったのは、二日前の彼だった、というわけか。


「そんなことが、あるわけ無いじゃないですか」

「どうして?」

「どうして、って………」


 常識的にどう考えたって、おかしい。時間は一方にのみ流れるもので、逆流したり、流れなかったりするようなものではない。


「ふふ、まるで大人びた学徒のような物言いだね」


 嘲るような言葉に、アムールは眉根を寄せる。「冗談、冗談」と笑いながらツークンフトは手を振り、「しかし」と、不意に真面目な調子で続けた。


「しかし、君は時間の流れなんてものを見たことがあるわけではないだろう。

 確かに私もそう信じているし、現実的に時計の針が逆に流れることなど見たことも無い。だが、それは我々がそうとしか感じられないだけかもしれない。

 未開の地の者が神を感じず、それゆえ信仰を持たぬように、一方の流れしか感じられぬ我々には、その逆の流れを信じることが出来ない。ただ、それだけなのではないのかな」


 ツークンフトの言葉に、アムールは押し黙った。夢物語だとは思ったが、それを論破するだけの主張を彼女は持ち合わせていなかった。

 寧ろ、この若い紳士を多少なりとも見直した程だ。少なくとも彼は、アムールの持たない自分の主張を持ち合わせており、それを人に語って恥ずかしくないと思っているのだから。

 アムールの好意的な沈黙を、しかしツークンフトは別な意味と捉えたようだ。慌てて、取り繕うようにギクシャクとした笑みを浮かべる。


「す、すまない、変なことを言ってしまった。ただ、なんと言うか、その、信じたくなったのです」

「何をですか?」

「それは、その………貴女との、運命を、ですかね」


 そう言い、ツークンフトは照れくさそうに笑った。その顔が何か尊いものに見え、アムールも、上品に笑った。


 ………………………


 ………………


 ………


「そう、私は恋をしたの、そのときに。生まれて初めて、胸のときめきを感じたわ」

「彼の言葉を信じたの?」

「いいえ。………運命を、信じたのよ」


 二人は喫茶店に行き、話しながらお茶を飲んだ。

 意気投合し、明日も会おうと約束した。明日の二人が上手く会えるといいなと冗談のように笑った。

 次の日も、その次の日も会った。

 どちらからともなく手を繋ぎ、愛を誓い合った。


「時間は、あっという間だったわ」


 夢見るように語るアムール。その微笑を見ながら、ヒーアはあることに気がついていた。

 彼女の瞳は何処か遠くを見ている――もう手の届かない過去を、懐かしむように。

 彼女の言葉は全て過去形で語られている――愛も恋も、全ては遠い昔の話。


 終わったのだ、とヒーアは悟っていた。目の前の彼女の初めての恋の火は、他の誰でもない、彼女自身によって、すでに消されているのだ、と。


「幸せだった。流れるような時間の中で、時が止まればいいと何度も思ったわ。時々、まるで明日の私にあったように、話の通じないときがあったけれど」


 ヒーアの悟りに気が付いているのかいないのか、アムールは過去形で自らの恋を語り続ける。


「けど」

「終わったのね、突然に」


 言葉を切り、目を伏せたアムールの言葉を、ヒーアは引き取り続けた。彼女は小さく頷くと力の無い笑みを浮かべた。


 別れは、唐突だった。

 待ち合わせ場所に、ツークンフトが現れなかったのだ。

 最初は、遅れているのかと思い、アムールは待った。

 十分待ち、一時間待ち、二時間待ったところで、彼女はツークンフトの自宅を訪ねることにした。止むに止まれぬ事情か、或いは、何か彼の身にあったのではないかと思ったのだ。


「ツークンフト、ツークンフト?」


 自宅に行き、呼び鈴を鳴らしながらその名を呼んだ。しかし、誰も出ては来ない。ドアに耳を当ててみるが、人の気配もしなかった。

 どうしようか、と迷った。もしかしたら何事と言うわけでもなくただの遅れで、もう彼の方は待ち合わせの場所にいるのかもしれない。普通に考えれば可能性の高いその想像は、しかし心に生まれた不安にいともたやすく塗りつぶされてしまった。


 もしかしたら、彼はこの中にいるのではないか。


 病気か、或いは物盗りにでもあって、身動きもとれず、声も出せないのではないか。

 だとすれば、放ってはおけない。

 彼女の迷いは、そう長い時間ではなった。


「ツークンフト、開けるわね」


 出来る限りの大声で宣言し、彼女はドアノブを捻った。もちろんドアは開かなかったが、アムールは鞄に手を突っ込み、そこから鍵を取り出した。二、三日前に彼から渡された、合鍵である。

 差込み、捻る。鍵は驚くほど簡単に開いた。職務の怠慢ではなく、予定された職務の遂行と言える。錠前は鍵で開くものだ。ドアは、鍵を持つ者を拒むためにあるのではない。

 来訪者を拒むのは、いつの世も同じ、家主の人間だ。


「ツークンフト?」

「………………」


 果たして、彼はドアの向こうにいた。いつものように一分の隙もない身形で、ドアの前で息を潜めて待っていたのだ――何を? もちろん、彼女を、である。


「あぁ、いたのね、ツークンフト。何か事故にでもあったのではと心配したわ」


 ホッと胸をなでおろしながら、アムールは家の中へと踏み込んだ。ツークンフトに駆け寄り、抱きつこうとして、ふと、違和感が脳裏をよぎった。

 違和感の正体がなんなのか、思いつくよりも早く、ツークンフトは動いていた。

 手にしたステッキを大きく振りかぶると、玄関に一歩踏み込んだアムールに振り下ろしたのだ。


「あっ!!」


 違和感に立ち止まっていなければ、その一撃は彼女の脳天に炸裂していただろう。立ち止まった彼女の目の前の空間を、ステッキは空を切る。

 明らかな、敵対行為。それを目の前にして、しかしアムールは動けなった。脳は警鐘を鳴らしているが、体がそれに反応できない。


 いや、そうではない。


 脳は、身体に逃げろと命じている。目の前の男は、自分に攻撃をしてきた。このままでは二度目が来る、と。

 しかし、心はそうではない。目の前の男は、自分が愛し、自分を愛してくれた男だ。今のは何かの間違いだ、駆け寄れば、すぐにいつもの笑顔を見せてくれる。

 二つの相反する命令は、同等の権限を以て彼女の身体に相反する行動を要求した。右へ行きながら左へ行くことなどできないように、身体は混乱し、そのどちらの行動も取れなかった。


 そして、彼の側の司令塔は、仲違いなど起こしてはいないようだった。


「がっ!!」


 もう一度ステッキを振り上げ、今度は踏み込みながらツークンフトは振り下ろした。避けることもできず、その硬い石突はアムールの肩を直撃した。火を噴くような痛みが右肩の内側で炸裂して、彼女はその場にうずくまった。


 男は、容赦も躊躇もしなかった。


 手にしたステッキを振り上げ、振り下ろし、もう一度振り上げ、もう一度振り下ろし、さらにもう一度、もう一度と繰り返した。

 アムールは、反射的に両腕で頭をかばっていた。数回の殴打で両腕は感覚も無くなっていたが、そうしなければとっくに彼女は死んでいた。


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ………」


 その繰り返しに疲れたのか、ツークンフトは殴打を止め、荒い呼吸を繰り返した。その責め苦の隙間に、アムールはよろよろと顔を上げ、彼のことを見上げた。


 そして、息を呑んだ。


 そこにいたのは、ツークンフトではなかった。

 もちろん外見的にはツークンフトその人であるし、尋ねてみれば彼もそう名乗るであろう。しかし、アムールは、どうしてもその人物を彼女が愛したツークンフトだとは思えなかった。肩で大きく息をつき、修羅の如き形相でアムールを見下ろすその男は、寧ろ人間どころか悪鬼に近しい者だと思えた。


 なにより、その目だ。


 血走った目は、いつもの涼やかな知性を湛えた彼の紳士のそれとは異なり、憤怒と焦り、そして恐怖で満ちていた。

 獣の眼だ、とアムールは思った。旅行の折に稀に見かける、自分自身の想像に追い詰められた切羽詰ったものの目つきである。


「つ、ツークン、フト………」


 それでも、彼の家で彼の服を着た彼の姿をした男を彼以外とは呼べず、アムールは呼びかけた。少しの声を出すだけでも体が痛み、咳き込んでしまう。


 呼びかけながら、アムールは、答えて欲しいような欲しくないような複雑な気分になった。これで彼が答えたら、目の前の男はツークンフトになってしまう。彼女の愛した知性と気品に溢れた紳士は煙の如く消え、代わりに、野獣の如き男がその名を冠することになる。

 いっそ、名も知らぬ強盗であって欲しいとまで、彼女は祈った。

 その祈りは、空しい結果を招いた。


「………何だ、アムール」


 幾分か落ち着きを取り戻した声で、男は答えた。あぁ、ツークンフトだ、と、アムールは絶望の中で確信した。

 だが、続く言葉が、彼女の心を更に抉る結果となった。


「今更なんなのだ、アムール。この裏切り者め」

「………え?」

「私の愛を裏切り、心を傷つけ、名誉を奪ったばかりでなく、こうして命まで獲りに着たのか」


 淡々とした調子で紡がれる単語の群に、アムールの頭の中は真っ白になった。


 裏切り? 誰が、誰を?


 混乱する、アムール。その彼女に、ツークンフトは更に追い討ちを掛けてきた。左の袖をまくり、腕をあらわにしてアムールの前へと突きつけたのだ。

 そこには、大きな傷があった。

 左手の肘の辺りから手のひらへと向けて、長く細い切り傷が残っている。そう古い傷ではない、ところどころで乾きかけの血が小さな泡になっていた。

 一体どうしたのだ、と聞こうとして、アムールは口元を引きつらせた。


 やったのは、私だ。さっきから、愛しいツークンフトはそう言っている。


「この傷は、わが生涯の不名誉になるだろう」


 袖を戻し、憎憎しげに吐き捨てながら、ツークンフトは改めてステッキを握り締めた。


「だが、タダではやられない。私を裏切った罪を、その体に刻んで逝くがいい」


 ゆっくりと、振り上げられるステッキ。その先を見ながら、今度は、アムールは動けなかった。

 ツークンフトは、一切容赦をしなかった。


 ………………………


 ………………


 ………


「………い、おい、アムール!!」

「………!!」


 叫ぶような声とともに肩を揺すられ、アムールは跳ね起きた。その動きで、全身のあちこちが悲鳴を上げた。


「どうしたんだ、アムール?」


 心配そうに覗き込んできたのは、ツークンフトだ。

 アムールは反射的に全身をこわばらせ、震えだした。

 その様子に、ツークンフトは慌てふためいてアムールの体の傷を調べたり、助けを呼ぼうと右往左往している。そういうところが残念なのだが、しかし、アムールはそれを見ていなかった。


 ここは………彼の家だ。


 どうも、玄関で気絶していたらしい。彼の家の玄関で、ぐったりと倒れ付していた。

 先ほどの、記憶の通りに。


「何だ、何があったんだ? その傷、物取りか!?」


 ますます色を失い、問い詰めるツークンフト。その顔を見ながら、アムールはすでに理解していた。

 あの野獣のような男は、きっと。


 ………


 ………………


 ………………………


、ツークンフトだったのよ」

「ふうん………」


 その言葉に、わざとでもなくヒーアは眉根を寄せた。どうにも胡散臭い気がする。

 ヒーアの含むような反応は、しかしアムールには届かなかったようだ。いや、それを言うなら、彼女には何も届いていないの方がわかり易いだろう。

 アムールの眼は、いつにもまして遠くを見ていた。遠い過去を懐かしむ眼。幸せだった過去を見て、それ以外の何も視界に入れない眼だ。


 恋は盲目、というやつか。だとすれば、恐らく、彼女は未だ、彼の紳士を愛しているのだろう。


 ………


 ………………


 ………………………


 彼は、未来のツークンフトだ。町でアムールと最初にであったツークンフトのように、ツークンフトだ。

 だとすれば。

 イヤな想像が胸中に巣くっていた。明日、自分はツークンフトに会うのだ。それも、彼をこっぴどく傷つけるために。


 彼は言っていた。「裏切り者め」と。


 彼は言っていた。「自分の命を狙ってきた」と。


 あぁ、彼は言っていたのだ。自分の命を狙ったのは、他ならないアムールのことである、と。

 自分は、何か刃物を持ってツークンフトと会うのだろう。二人きりで、のんびりと。そうしているうちに口論となり、そして。

 


「………ツークンフト」

「ん!! どうしたんだ、アムール!!」

「………さよなら」

「え?」


 短くそう言って、アムールはよろける身体を叱咤しながら立ち上がり、玄関を足早に飛び出した。背後で呼ぶ声がしたが、無視した。

 振り返るわけには、行かない。

 愛する人を、守るために。ほかでもない、この私から。


 ………………………


 ………………


 ………


「それで、貴女は、町を出たがったのね?」

「………えぇ」


 それまでの傾向から言って、アムールが出会うのは次の日のツークンフトだ。とすれば、彼の言っていることをアムールがするのは、未来の彼に出会った次の日ということになる。その日さえ過ぎてしまえば、それだけでその予言は外せる。


「でも、だったら、町を出なくともいいんじゃない? その………未来の彼が襲われたのは彼の自宅でしょう? そこに近づかなければいいじゃない」

「………それは、確かに何度も考えました。ですが………」

、と」


 ヒーアの言葉に、アムールは大きくうなずいた。

 場所はもちろん、いつツークンフトが自分とであったか、その時間さえわからない。

 安全な手段は、ただ一つだけだ。


「それで、出て行くの………」

「えぇ。どうせなら、もうこうした方がいいのです」


 何処か晴れ晴れとした調子で、アムールはうなずいた。その瞳に映っているのは、諦めきった絶望だけが淀んでいる。


「まだ、好きなの?」


 ヒーアの問いかけに、アムールは少し考え、そしてうなずいた。そう、とだけ答えて、ヒーアは本来聞くべきことではなく、違うことを尋ねることにした。


「………これから、どうするの?」

「まだ決めてないのです。とにかく今は、この町を離れなければ」


 そう言うと、アムールは立ち上がった。足元のいくつかの鞄を持ち上げると、ヒーアに頭を下げた。


「どうする気?」

「とりあえず、歩きます。とにかく彼から離れておかないと」

「遠いと思うけれど………それに、町を出てどうするの?」

「そう、ですね」


 ヒーアの言葉に、アムールは悩むように首をかしげ、そして。


 ………


 ………………


 ………………………


「彼女、世俗を離れてシスターになるそうよ。本国に帰ってからか、或いは歩き疲れた何処かでかもしれないけど」


 そう言うと、ヒーアはトイフェルに視線を向けた。彼女の悪癖その二だ――彼女は、話を終えた後のトイフェルの推理を聞きたがる。

 案の定、何かを期待するような眼差しで見てくる娘の姿に、トイフェルはため息をついて、口を開いた。


「まずは、そのコートを脱ぎなさい、ヒーア………そういえばその格好の活躍の場はなかったね」

「あぁ、これはね」

「自慢も話もいい、まずは脱ぎなさい」


 ………


 ………………


 ………………………


「さて………」


 ようやくいつもの姿に戻ったヒーアに、トイフェルは首を振りながら口を開いた。本来なら、もうそろそろ眠いのだが。


「この話は面白いが、奇妙ではないだろう。………。彼、ツークンフト氏は」


 ………


 ………………


 ………………………


 その次の日。


 ツークンフトは上機嫌だった。昼間から飲んでいたのだろう、その頬はいくらか赤く、両目はふらふらと定まらず、あっちに行ったりこっちに来たりふらついている。典型的な酔っ払い状態である。


 無理も無いじゃないか、とツークンフトは心の中でのみ叫んだ。

 完全にうまく行ったのだ、全てが万事、順緒に終わったのだから。

 鼻歌交じりに、夜の道を歩く。にやける口を自重しようと思ったが、どうにもうまくいかなかった。周りに誰もいないのが、更に彼を自由にする。


 うまくいった。ツークンフトは呟き、そして笑い出した。


「ふふふ、あはは、馬鹿みたいだ」


 声を上げて、更に笑う。

 もちろん、馬鹿なのは自分ではない。寧ろ自分は賢い側だ。笑われるのは、ある女性である。


「くくく、あ、あんな、あんな話、信じるかね? おかげで驚くほどやりやすかったよ」


 そう言って、更に笑う。その粗雑な笑い声は、とある女性が見知っていた紳士的な笑みとは程遠い、欲深なものだった。


「まぁ、いろいろ稼がせてもらえたしね、おまけに、もこんなに楽とは」


 彼はアムールに、その恋心を利用して、いくらかの融資をしてもらっていた。それがかなりの額になったのを見越した上で、ツークンフトは一芝居打ったのだ――いや、芝居と言うのなら、

 駅で話しかけ、町で話しかけられ、与太話を信じ込ませる。

 適当に話を合わせ、盛り上げ、信用させて金を出させる。


 あとは、最後の別れの一幕だ。それもまた、あっけないほど簡単な結末だった。


「未来か………馬鹿馬鹿しい」


 鼻で笑いながら、ツークンフトは自身の左腕をさする。ナイフで薄く傷つけたその場所は、痛みこそ無いが不快なかゆみを持っている。

 そう、全てが嘘だったのだ。未来のツークンフトだなんて、どこにもいない。いたのは、ちょっと演技のうまい詐欺師が一人だけ。

 ガス灯もまばらな、暗い道。不気味なその道も、懐の重さと酒の深さが気楽にさせた。

 歓喜をこめながら、もう一度、ツークンフトは笑い声を上げた。


 ………………………


 ………………


 ………


「そう、それがパパの見方ね」

「何か違うかな?」


 推理した話を終え、トイフェルは淡々と尋ねた。およそ熱意というものに欠けた、覇気の無い声だった。


「違うと言うか、そうね、パパはを見落としているわね」

「見落とし?」


 少し考え、あぁ、とトイフェルは手を打った。


「お前のあの奇妙な服装だね?」

「えぇ、あれよ。あれをどう使ったのか、聞きたいでしょう?」

「いいや」

「それはね………」

「………………」


 ………


 ………………


 ………………………


 笑い声を上げながら、ツークンフトは夜の道を歩いていた。ふらふらとした千鳥足に、狭まる視野。だいぶ酒の入っている彼は、その分反応が遅れた。


「………ん?」


 少し先、ガス灯とガス灯との間に、何かがいた。

 真っ黒い、何かだ。全身が夜色の布に覆われていて、うずくまったように小さい。


「んー??」


 眼を凝らしてみるが、光源の少なさと回っている酒のおかげで、よくわからない。

 普段なら不安を感じるであろうその光景に、しかしツークンフトは鼻を鳴らして近づいていった。酒が入って気が大きくなっている上に、懐で唸る金銭が、彼を蛮勇へと駆り立てた。

 一歩、一歩と近づくうち、どうやらそれが人らしい、とわかってきた。真っ黒い筒のような服を着た、誰かが跪いている。


「………、ん? 尼さんか??」


 どうも、そうらしい。そして、シスターという言葉に、ある人物が脳裏に浮かんだ。


「………アムール?」


 そうだ、たしか、シスターになるとか言っていたじゃないか。だとすれば、最後の挨拶でもしに来たのか。訝しがりながらツークンフトはそのシスターに近づいていく。


 その距離が二歩分程度に近づいたとき、尼僧服の何者かは動いた。


 片手に握った棒状のものを、踏み込みながら振るう。低い姿勢で放たれた棒は、過たずツークンフトの足首を強打し、その身体を宙に浮かせた。

 浮遊感は、一瞬だけだ。


「グガッ!?」


 足を払われたことで、背中から地面に倒れこんでしまった。石畳に強か打ち付け、肺の中の空気が押し出される。

 無様な転倒。その隙を、シスターは逃がさない。棒状の、木製の杖を振りかざして、倒れたツークンフトを打ち据えた。

 二度の痛撃で完全に動けなくなった紳士に近づくと、シスターは、もう一度、手にした杖を振りかぶり、振り下ろした。


「うぐ、あ、アムール………」


 もう一度。


「あ、アム、アムー、ル」


 もう一度。


「………………」


 もう一度。もう一度。もう一度。幾度となく振り下ろされる杖をどこか他人事のように眺めながら、ツークンフトは考えていた。

 このアムールは、いったい、『いつの』アムールなのだろうか、と。

 その暴虐は、ツークンフトが気を失うまで続いた。


 ………………………


 ………………


 ………


「………………………」


 満足げに語られる、シスターの武勇伝。

 語り手の少女の背後の壁に立てかけられた、心なしか赤いしみのような汚れの見える木製の杖と、先ほどまでヒーアが身に纏っていた黒い布切れ。

 それらを順繰りに眺めて、それから、自信満々の少女へと向き直る。


「………暴力はよくない」


 悩んだ末に出てきた、有り触れた言葉。

 その言葉に、ヒーアは大仰に驚いて見せた。


「あら、まぁ」

「なんだね」

「似合わないと思っただけよ、パパ」

「似合う似合わないの問題ではない。暴力は他の何でもなく、お前の格を下げるだけだ。己を社会で尤も惨めな存在に貶める行為だぞ」


 ため息をつきながらトイフェルは言った。おそらく、言っても無駄だろうからだ。

 予想通り、ヒーアは面白そうに笑っていた。父の威厳を示すのは、むずかしいものである。


「けれど、私は褒めてもらえると思うわ」


 やけに自信満々に、ヒーアは言った。トイフェルは眉根を寄せて、聞き返した。


「ずいぶん確信的だな。誰が褒めるというんだ?」

「決まってるじゃない」


 父の問いかけに、少女はその猫のような目を細め、悪戯っぽく微笑んだ。


「明日の私によ」

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