ヒーアと退屈な町
レライエ
第1話死人の書
「あぁ、退屈だわ」
ぼやくように呟いて、ヒーア・ナイエヴァイトは歩いていた。
年のころは、十四五歳といったところか。明るい茶色の巻き毛を片手で軽く弄りながら、ぼんやりとした目つきで空を見上げる。空の模様は、少女の気分に即するかのように重苦しい曇天である。
せめて晴れていればよいものを。
視界いっぱいに広がる分厚い雲を親の敵でも見るように睨みつける。しかし直ぐにそれにも飽き、ヒーアは大きくあくびをする――彼女の父親が見ていれば、その淑女らしからぬ行為に大いに嘆いただろう。
「あぁ、まったく退屈だわ、この町は。どうしてこうも、何事もない町なのかしらここは」
「退屈そうだね、ヒーア嬢」
ヒーアのぼやき声が届いたのか、或いは彼女にとって不名誉な先の態度を見られたのか。いずれにせよ退屈さが伝わったのだろう、店先の整理をしていた小物店の主人が話しかけてきた。
「あらこんにちは、カオフマンさん」
「こんにちは、ヒーア嬢。買い物かね、それとも散歩かな?」
そろそろ初老に差し掛かった店主の快活な声。その響きの中に何か、誘うような調子を読み取ると、ヒーアはその猫のように軽く釣りあがった眼を細める。
社交的な微笑を浮かべていた唇はまるで三日月のように裂け、今にも舌なめずりさえしそうなほどだ。
「散歩よ、カオフマンさん。時間はもちろん有り余っているわ」
「いつものようにだね、ヒーア嬢」
「いつものようによ、カオフマンさん」
「では、少し話を聞いていかないかね? 君好みのよい話があるのだ」
そう言うと、店主は店先に椅子を二つ置いた。その背もたれについていた値札を剥がすと、ビア樽の様な身体を揺らしてそこに腰掛ける。
木製の古びた椅子は微かな軋みを上げたが、それ以上の文句は思い留まったようだった。その忠臣ぶりに、ヒーアは内心で拍手を送った。もっとも、文句を言わない者ほど不意に崩れるものなのだが。
「もちろんよ、カオフマンさん。どんな話でも、今のこの天気よりは晴れやかだわ」
椅子の安全性が証明されたところで、ヒーアは待ちかねたとばかりに椅子に駆け寄ると腰を下ろした。軋み声を上げたその椅子を軽く蹴飛ばすと、その顔を喜色で満面に染める。
彼女の表情に浮かぶ期待の量に満足げにうなずき、店主はその豊かな髭をしごきながら、口を開いた。
「あれは、先週の土曜のことだった………」
………………………
………………
………
その日の朝。
カオフマンはいつものように商品を並べながら過ごしていた。頭の中では並べた商品の値段をいくらにするか、いくらで仕入れたものだったかを思い出しながら吟味していた。
そんな風に、脳裏を数字が埋め尽くしていたものだから、それに気が付くのが少し遅れたのは寧ろ自然のことと言えた。
「………あの、もしもし?」
「うおっと?」
背後から突然聞こえたその声に、カオフマンは飛び上がるほど驚いた――もちろん比喩的表現である――そして、彼に出来る限りの俊敏さを以て振り返った。
そこには、一人の青年が立っていた。
その顔を見て、カオフマンは再度驚いた。その肌は透けるほどに青白く、頬はこけ、うつむきがちな瞳からは生気の欠片も感じられなかった。骸骨に肌を張った後で肉を入れ忘れたような、幽鬼の如き印象を与える男である。
とは言え、その内心をカオフマンは表に出さなかった。どんな相手でも、客は客である。そう言い聞かせ、どうにか微笑さえ浮かべて見せた。
「これは、どうも。この辺りでは見かけぬ顔ですが、何かご入用ですかな?」
カオフマンの言葉に、男はその口元を歪ませた。その様にカオフマンの肝は更に冷えたが、それもどうにか、頬が引きつるぐらいで済ませた。客は客、客は客と、心の中で幾度となく唱えつつ、カオフマンは男を店内へと招き入れる。
「それで、お探し物は何でしょうな」
「………………」
その問いかけに男は応えず、きょろきょろと店内を見回していた。何かを探しているようにも、何を探しているのか自体を探しているようにも見える、無軌道な探索を数分行うと、深いため息を吐いた。
「………どうやら、無いようですね」
「ほう、何をお探しでしたかな?」
「他に、この町に小物屋はありませんか?」
男の言葉に、カオフマンは少々ムッとした。この町の他のどんな店よりも、自分の店は品揃えが整っているという自信が、他の店主と同じく彼の中にもあった。
「ありませんな。この店以上の店など、町中駆け回っても見つけられんでしょう」
「左様ですか………」
カオフマンの言葉に、男はしばし、悩むようにその口を閉じた。やがて、その懐から一枚の紙切れを取り出し、何かを書き始めながら「………もし」と躊躇いがちに口を開いた。
「もし、私の望む物が手に入ったとすれば、ご連絡をいただけませんか?」
「ふむ、構いませんが、品はなんです?」
男の差し出した紙切れを受け取ると、そこには男の住所らしき単語と数字が殴り書きで書かれていた。どこかわからなかったが、番地としてはそう遠いところではない。品物によっては、運んでやっても良いくらいだ。
「それは………」
………………………
………………
………
「それは、本だったんだよ」
そう言うとカオフマンは立ち上がり、ドスドスと音を立てながら店の中へと消えていく。椅子はホッとしたようにも見えたが、あいにく彼の重責は直ぐに甦った。彼の主人がその巨体に似合わぬ鋭敏さで戻り、勢いそのまま元の椅子に腰掛けたからである。
「そら、これだよ」
椅子からの抗議、ないしは断末魔を聞き届けることも無く、カオフマンはその手に持った一冊の本をヒーアに差し出した。
心のうちで勇敢な椅子殿に十字を切ると、ヒーアは本を受け取り、眺める。それは、ヒーアのごとき年若い少女の手には余る、分厚い本だった。
「『赤い表紙に黒い薔薇の刺繍。金のインクでタイトルと執筆者のサイン』………」
カオフマンは、恐らく男の真似なのだろう、陰気そうな、ポツポツと区切るような口調で言う。その特徴は、確かにヒーアの手の中の本と一致している。
「タイトルは………『Was nicht ist, kann novh werden(無くても在るようになる)』? 聞いたこと無いけれど」
「私も無かったよ、昨日まではね」
そう言うと、カオフマンはニヤニヤと笑った。その顔を、ヒーアは思い切り睨みつけた。
「もったいぶらないで、カオフマンさん。どういうことなの?」
「すまなかった、ヒーア嬢。そう怒らんでくれ」
降参、というように両手を挙げると、カオフマンはおどけて笑う。その表情を見ながら、ヒーアは考えながら口を開いた。
「昨日、つまり、月曜日、誰かがこの本を売りに来たのね?」
「その通りだよ、ヒーア嬢。いやはや驚いたね。あの骸骨の如き青年の言っていた特徴とピタリ一致する本が、突然舞い込んできたのだからね」
………………………
………………
………
当然ながら、男の求める商品の入荷は絶望的といえた。単なる小物やら衣服やらであれば、条件に合う物を作り出すことは難しくも無い。だが、本とは。
装丁はどうとでもなるとは言え、その作者がそのタイトルでその内容を書かなければ、この世に存在さえしないのだ。どこで聞き及んだかは知らないが、これまで見たことも聞いたことも無い本なんて、手に入れる術などあるわけがない。
カオフマンはため息を吐いた。自らの店に対する彼の信頼はいささかも揺るがないが、しかし客の求めに応じることのできなかったという事実は、澱のように彼の心に積もっていた。
日曜も、ミサの後市場を巡り、馴染みの商人たちと話してはみたが、その成果たるや。彼の考えるとおり、この町一番の小物店は自分の店だと彼自身確信するだけだった。
暗澹たる気持ちのまま、カオフマンは月曜を迎えた。いつものように店先の商品を整理していたが、その脳裏には一つの数字も浮かばなかった。男の言った特徴を、幾度と無く諳んじていたからだ。数字の変わりに踊る文字列が、カオフマンを支配していた。
だから今日もまた、カオフマンはその声に驚かされた。
「もし、店主さん」
「うおぉ?」
心、或いは心臓だけ飛び上がらせ、カオフマンは振り返った。二日前の出来事が鮮やかに甦り、そこにあの陰気な男が立っているのではと思ったのだ。
しかし、そこに立っていたのは、別の男だった。
似ても似つかない、と言ってもいいほどだ。血色のよい肌の下には適当な肉がつき、分厚いレンズの眼鏡の奥の瞳は、知性の輝きが滲んでいた。身形も整っていて、山高帽にステッキを持った、いかにもな紳士であった。
「失礼ながら、ここは小物店かね?この町で一番の店を探しておるのだが」
その言葉に、カオフマンは勢いをつけてうなずいた。彼の大きなお腹が、追従するように震える。
「いかにもいかにも。お眼が高いですな、紳士殿」
「それは結構」
うなずくと、紳士は身振りで店内へ入りたい、という意思を示した。金持ちというやつは自分の希望を自分から言わないものらしい。カオフマンは内心で呆れつつも、にこやかに店内へ紳士を招きいれた。
客の態度は少しくらいなら眼を瞑る。それが上客らしいとすれば、尚更だ。
「それで、お探しのものはなんですかな?」
カオフマンの言葉に、しかし紳士は首を振った。
「私は探していないのだ、店主さん」
「はあ……・・・?」
その言葉に、カオフマンは首を傾げた。どうしてこう、上流階級の人間は回りくどいのだろう。誰も彼もが自分よりも愚かであると証明したがっているかのようである。そんな風に思いつつも、とりあえず、紳士の言葉を待つことにした。
「探しているのは、そちらではないかと思ってね、店主さん」
何を言っているのだ、と言いかけ、カオフマンは口を開いた。しかし、その口からは別の言葉が出ることになった。
「この本をね」
「あっ!!」
紳士が懐から取り出したのは、本だった。
赤い表紙に、黒い薔薇の刺繍。金色のタイトルにサイン。まさしく、あの男の言っていた通りの品物だ。
「どどどど、どうしてこれを?」
「何、私が懇意にしている商人が、君が探していると言っていてね。恐らく我が手にあるものが、この世で唯一のものであろうと思ったのだ」
いかがかな、という紳士に許可を貰い、カオフマンは本を手に取った。震える指で項をめくると、流れるような書体で物語が書かれている。
「て、手書きのようですが………」
「うむ。そこに書かれてる作家が手ずから書いたものだ。名を変え、売り出す前の自費出版だな。今では名も売れ、かつての名を顧みることもないようだが」
紳士の言葉に、成程とうなずいた。印刷され、出版されているわけではなかったらしい。
タイプライターの普及以来手書きの文書など数えるほどしかない。名が売れたのなら、なおのこと手書きの書物など記すことはあるまい。
「こうして見つかったのは、ある種奇跡ですな………」
カオフマンの言葉に、紳士は大きくうなずいた。そして、厳かに口を開いた。
「それで?貴君としては、この奇跡にいくら支払うおつもりかな?」
「………………え?」
紳士の突然の言葉に、カオフマンはハッとした。それはそうだ、この紳士はタダでこれを渡すためにわざわざ現れたわけではないのだから。
しかし、カオフマンは思わず口を閉ざした。
もちろん、金を払うつもりはある。自分はこれを、あの不健康そうな男に売るつもりなのだ。商品として仕入れる以上、金は支払う。ただ………。
「これは、おいくらでしょうな………」
男がいくら払うつもりなのかわからないし、そもそも、こういった自費出版の本の相場など、カオフマンにはさっぱりわからなかったのだ。
「ふむ………」
どうやらそれは、紳士のほうも同様だったらしい。悩むように顎に手を当て、目を閉じる。
やがて、紳士は口と眼を開いた。
「であれば、どうでしょうな。先ずその男に声を掛けては。男の払った金額があれば、貴君も価値をつけやすいのでは?」
「なるほど、それはありがたい申し出です、紳士殿」
「では、よろしく頼むよ。また来週にでも、こちらに来るつもりだから」
そう言って、紳士は立ち去った。その、世界で唯一の本を残して。
………………………
………………
………
「………で、今日それを届けに行こうというわけだ」
「ふうん、確かに妙な話ね、カオフマンさん」
そう言うと、ヒーアは微かにその眉を顰めた。しかし、直ぐにそれを振り払うように笑みを浮かべると、「ねぇ、カオフマンさん」と呼びかけた。
「それ、私も行ってもいいかしら?きっと、面白いものが見られると思うの」
………………………
………………
………
「このあたりのはずだが………」
紙切れを手に呟くカオフマン。きょろきょろと辺りを見回す彼の少し後ろを歩きながら、ヒーアはとても上機嫌だった。なんなら一つ歌でも歌いだしそうな陽気さである。
「上機嫌だね、ヒーア嬢」
「あら、あそこじゃないかしら、カオフマンさん」
ふうふうと荒い息をつくカオフマンの言葉に応えず、ヒーアは後ろから彼の手元を覗き込み、ある一角を指した。そこと手元の紙に書かれた番地とを見比べて、カオフマンはうなずいた。
「どうやら、そのようだね………ん?」
「あら?」
小走りに近づいて、二人は同時に声を上げた。そして、同時に互いの顔を見合わせた。
そこには人の気配は無かった。建物さえなく、ある物が規則的に並んでいるだけの平地だった。誰かが住んでいるとはこの世の何処よりも信じられない場所。少なくとも、生きている人間は。
そこは………
「墓地だなぁ」
「墓地ねぇ」
そこは、いわゆる共用墓地だった。
先祖伝来の墓も金もないような者、つまり、町人の大部分がいずれそこに埋められることになる、簡素な墓地である。盛り上がった土の上に木で作った十字架が立てられているだけの墓もどきが並んでいる場所だ。
「いくらなんでも、その人が住んでそうな気配は無いわよね、カオフマンさん?」
「こ、怖いことを言わんでくれ、ヒーア嬢」
骸骨のようではあったが、という言葉をつばとともに飲み込んで、カオフマンは手元の紙切れと、墓地の入り口に書かれた番地とをひっきりなしに見比べている。
その様子を眺めながら、ヒーアはニヤニヤと、意地の悪そうな笑みを浮かべている。
「おかしいな、確かにここなのだが………」
「ねぇ、カオフマンさん? ちょっと聞いてもいいかしら? その本、作者は誰?」
「え?えっと、ゲリペさんだね」
「綴りは?」
「えっと……G、e、r、i、p、p、e」
「そう。………ねぇ、カオフマンさん?」
ヒーアの声。その響きにどこか不穏なものを感じ、カオフマンは視線を彼女のほうへと向ける。彼女はちょうど首だけで振り返り、その特徴的な、獲物をいたぶる猫のような笑みをカオフマンへと向けているところだった。
「な、なにかね、ヒーア嬢?」
恐る恐る尋ねるカオフマンに、ヒーアはその笑みを更に深めて、彼を手招きする。
私は食べても美味しくないぞ、と心の中で叫びつつ、カオフマンは少女の下へと歩み寄った。何を言われるのか、と思っていたが、その予想に反して、ヒーアは何も言わなかった。
ただ、一点を指し示すばかりだ――彼女が身体で隠していた、真新しい十字架を。
いやな予感がする。そう思いつつ、カオフマンはその十字架へ顔を近づけた。その真ん中に書かれた、アルファベットを読むために。
そこには、予想通りの名が書かれていた。
甲高い悲鳴を上げ、へなへなとへたり込むカオフマン。両手足が無ければ樽そのもののような外見にくすくす笑いながら、ヒーアは畏まった声を出した。
「こちらが、お探しのゲリペさんのご自宅のようよ、カオフマンさん?」
………………………
………………
………
「そうかね、それはまた、彼には災難だったねぇ」
見た目どおりのんびりとした口調で、トイフェル・ナイエヴァイトは締めくくり、コーヒーカップを口に運んだ。中肉中背、特徴らしい特徴のない彼は、人の良さそうな笑みを浮かべながら、新聞片手に娘の話を聞いている。
「それで? 結局、カオフマンさんはどうしたのかね?」
興味があるというよりは、娘が話したそうだから聞いた、というような気の無い調子で、トイフェルは尋ねた。ヒーアのほうもそれに慣れているのか、特に気にした様子もなく口を開く。
「それが、そこからが面白いのよ、パパ」
「楽しみだね」
「本当?」
「あぁ。………コーヒーのお代わりがね」
………………………
………………
………
「なるほど、それはまた、奇妙な体験でしたな、店主さん」
次の週の月曜日。
約束どおり現れた紳士に、カオフマンは恐る恐る、しどろもどろに説明した。どう話していいかわからなかったわけではない。寧ろあの日以来、酒場やら食堂で会う人会う人にこの奇妙な話をしている分、話の筋は洗練されたといっても言い。
ただ、果たしてこの紳士が、自分の話を信じてくれるかどうか。そこが恐ろしかったのだ。
嘘を吐くな、金を払え、そう言われるかもしれない。そう思うと自然と体が震えてくる。
「そういうわけでして、この本は、その、お返ししたいのですが………」
「いや、それには及ばぬよ、店主さん」
恐る恐る差し出した本を、紳士はあっさりと押し返した。
「約束どおりだ。その本は、その男の墓にでもささげてくれたまえ」
「しかし、それでは………」
「いいのだ。私は君に、男の払う額に応じて私への金を払って欲しい、と言った。男の払える額はゼロであろう? であれば、私への報酬は同じくゼロであるのが道理だ」
それに、と紳士は続けた。そうしながら、懐から一冊の本を取り出す。赤い表紙に黒い薔薇の刺繍が施された、分厚い本を。
「その本は、私にとってさして価値のあるものではないのだ」
「こ、これは?」
「うむ。これも何かの縁と思ってね。私が刷って出版させたのだよ」
だから、そこまでの価値は無いのだ、と言い、紳士は立ち去っていった。カオフマンはその後姿を呆然と見送ると、手元の本を見て、大きくうなずいた。
今夜もまた、酒場で事の顛末を語るだろう。その際の小道具にはもってこいだ。
これは得をした、と、カオフマンは腹を抱えて笑い出した。男に納品するのは、もう少し先になりそうだ。
………………………
………………
………
「というわけ。今では、カオフマンさんのお店では死人が書いた本として売れてるみたいよ?」
そう言うと、ヒーアは椅子に深く腰掛けた。さあどうだ、とばかりに両手を広げる彼女に、トイフェルは笑みを向けた。
「確かに、面白いな。なかなか、面白いことを考えるものだ、人間というのは」
そう言うと、トイフェルはコーヒーカップを傾ける。その中が空である事に気がつくと、お代わりを注ぐために立ち上がり、口を開く。
「その紳士と、ゲリペ君はグルなのだろう。いや、紳士というのも嘘なのだろうな」
「………続けて? パパ」
「単純な話だ、彼らは本を売りたかった。そのために、本が話題になるよう一芝居打ったのだ。その十字架とやらも、後から差し込んだのだろう。墓の下に死体があるとは限らぬ、死体の上に墓があるとは限らぬように、だ」
そう言うと、トイフェルはテーブルに戻った。ヒーアはその様子を見ながら、くすくす笑っている。
「夢が無いわ、パパ」
「では、お前はどう思うのかね?」
「決まってるわ」
新聞を広げ、コーヒーを飲みながら読み始めるトイフェル。父のそんな気の無い態度を咎めることも無く、ヒーアはそれはそれは嬉しそうに告げた。
「死人が書いたのよ」
………………………
………………
………
水曜日。
市場にお使いに行くために、ヒーアは道を歩いていた。
空は、相変わらずの曇天。どうやら、天気と彼女の機嫌とは一致しているわけではないらしい。それを気に留めることもなく、上機嫌で市場へと向かっている。
市場は好きだ。
馬車を引いた行商隊の話は、いくら聞いても飽きないものだ。
スキップしそうなほどの上機嫌さで歩いていたせいだろうか。ヒーアは、路地からふらりと出てきた男にぶつかりそうになった。
「あら、ごめんなさい」
「………いえ、大丈夫です」
見るからに不健康そうな男だった。肌という肌は青白く、頬はこけ、骸骨に肌を張ったときに肉を入れ忘れたような男だった。着ている服もぼろぼろで、何故か全身に土がついていた。
「どちらへ行かれるのかしら?」
「小物屋へ。注文したものが、届かないものですから」
ぼそぼそと呟くと、男は全身を引きずるようにして歩み去った。その背中を眼で追いながら、ヒーアは、猫のような笑みを浮かべ、呟いた。
「ほら、やっぱりね」
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