第37話 リアルネクタイ編(1)

月曜日。三日ぶりの会社へと出勤。マモルはまだ、休みの余韻が頭の中をクルクルとさまよっていた。この日は珍しく、ジュンペイは、ヤナセよりも遅く出勤してきた。



「おはようございます!」



ジュンペイは、全国の子供たちの模範となるような、元気な挨拶を済ませると、なにやら甘い密のある予感のするほうへと吸い寄せられていった。その場所へ着くと、そこには案の定、ヤナセ マモルの姿があった。彼は休日の間、よっぽろ楽しいことがあったのか、未だに意識は夢の日を見ている。



「ヤナセさん、何か良いことでもあったんですか?」



ジュンペイが嬉しそうに尋ねると、ヤナセは、子供がよだれを垂らしながら、幸せな事を妄想しているときのような、トロ~ンとした顔で後輩を見る。



「ハァクゥラァギィ~……て、おお、サクラギ、おはよう!」



ヤナセは戻って来た。



「おはようございます。ヤナセさん、幸せそうな顔していましたけど、何か良いことでもあったんですか!?」



「おう、まぁな。後で渡したいものがあるんだけど、いいか?」



「はい、楽しみにしています」



「よし、じゃあ昼休憩のときに、三階のトイレで待ってる」



「トイレに集合するんですか!?」



ジュンペイは、疑問に思いながらも午前中の業務が一段落し、昼休憩に入ることにした。オフィスにヤナセの姿は無かったので、先に待合せの場所で待っているのかと思い、急いで三階へと向かった。



ジュンペイは男子トイレの入口のドアを開けて中に入ると、そこにヤナセの姿は無かった。



(ヤナセさん、どこに行っているのかな)



ジュンペイはポケットから携帯電話を取り出すと、先輩に連絡を取ろうとした。



「待てって」



誰もいないはずのトイレから、ハッキリと聞き取れるほどの男の人の声がジュンペイの耳に届いた。



(まじかよ、こんな時間にも出るのかよ)



ジュンペイは、こういった現象を体験するのは初めてのことであったが、意外に冷静な気持ちでいることができた。



(落ちつけ、こういう時、ホラー番組だったらどういう行動をとる。逆だ、逆のことをすれば見なくて済むはずだ……そうだ、体験者たちは、声のするほうに視線を向けた後、わざわざトラブルの起こるほうへと歩き出すんだ。その逆をやれば、きっと大丈夫さ)



あの世からの声は、入口から一番奥にある個室から聞こえてきた。そして、ジュンペイは今、個室の向かいに位置する、三個あるうちの入口から一番近い場所にある、“小便器”の前に立ち、カラダを向けていた。彼は、四十五度左回りに旋回すると、足音を立てないよう、忍び足で入口のドアへと進んだ。



「待てって、こっちに来いって」



再び聞こえてきた声は、さきほどよりも大きくなり、ジュンペイはビクリとし、思わず足が止まってしまった。彼は振り向いてはいけないと頭では理解してはいるのだが、それと同時に、振り返って見てみたいという欲求も湧いてきている。



(声のある場所とは、これだけ距離が離れているんだ。大丈夫、何か出て来ても、オレなら逃げれるはず」



ジュンペイは、入口のドアまであと二メートルを切ったというところで、おのれの弱い心と決別するべく、勇気をふりしぼり後ろを振り返った。



「……」



ジュンペイが見た光景は、ドアがほんの僅かに開かれていて、薄暗い個室の中から、何かの目が黙ってこちらの様子をうかがっていた。



「サクラギ、何してるんだよ。早くこっちに来いよ」



個室のドアがさらに開くと、そこに居たのは“霊”ではなく、“生身なまみのヤナセであった。



「ヤナセさん、やめて下さいよ。怖いですって」



そう言うと、ジュンペイはヤナセの所まで移動した。



「驚かせて悪かった。とりあえず中に入れ」



「……ちょっと待って下さいって、個室の中に二人で入るんですか?」



ジュンペイは、“この人どうかしている”というような顔をしたが、ここで押し問答しても仕方ないと思い、言われるがまま中へと入った。



「ヤナセさん、誰かに見つかったら誤解されますって。ここ、会社ですよ」



ジュンペイは、声のボリュームを極力下げて、先輩にこの状況が普通ではないということを必死に訴えた。



「大丈夫だ、渡したいものがあるだけだ」



ヤナセも出来るだけ小さな声で返した。そして、スーツの内ポケットから“例の券”を取り出し、ジュンペイに手渡した。



「なんですかこれ?」



「よく見てみろ」



「……『有限会社・花閣寺コーポレーション・二泊三日の己の鍛練・体験券』、えっ、“花閣寺”って“お寺”じゃなかったんですか」



「落ち着けよ、もう少しボリュームを下げろ。おまえ、何で毎日“花閣寺のネクタイ”していて、何も知らずに着けていたのか」



「ボクはただ、妻の趣味で、縁起が良いからってことで、他のは買ってこないんですよ。“有限会社”とか“コーポレーション”ってどういうことですか」



「オレに聞かれたって困るよ」



「それより、この“券”どうしたんですか?」



「この“券”はな、昨日クジで当てたんだ」



「何等だったんですか?」



「サクラギ、オレがそんな情けない順位を当てると思うか? つまりそういうことだ」



「さすがですね。家族で行くんですか?」



「気が付かないのか。なんで二人で、こんなところに隠れるようなことしているのか考えてみろ」



「……もしかして僕とですか?」



ジュンペイの表情が引きつった。



「なんでそんな顔するんだよ。行きたくないのか?」



「行きたくないですよ。なんですか“己の鍛練”って」



「おまえ、“プロフェッショナルな夫婦”目指すためにカミさんと別々に暮らし始めたんだろ? 自分を磨くには打って付けの場だろ」



「……それはそうですけど、でもヤナセさん、ここ絶対怪しいですって、やめときましょうよ」



「サクラギ、オレとおまえは二人で一人。だろ?」



ヤナセはここぞとばかりに殺し文句で攻めた。



「便器の側で言われても響きませんよ」



「サクラギ、頼む、一緒に行こう」



ヤナセはそう言うと、その場に土下座しようとした。



「ちょ、ちょっと冷静になって下さい、ズボンに臭い付きますって、ちょっとヤナセさん」



ジュンペイは慌てて止めようと、先輩を抱き抱える形となって、バカなことは止めさせようとした。だがヤナセも、重力の力も手伝って、すごい力で落ちようとしている。



「ヤナセさん落ちついて下さい、ヤナセさん、ヤナセさん、分かりました、行きます、行きますから」



ジュンペイの腕の中は、正常な地球の重力に戻った。



「そうか、ありがとう」



「もう、やり方が強引ですよ。それで、予定はいつ頃ですか?」



「そうだな、今週は家族サービスがあるから……来週でどうだ?」



「ボクはいつでも行けますよ。家に居るのは自分一人ですし」



「よし、じゃあ来週で決まりだな。“花閣寺”で鋭気を養い、繁忙期 はんぼうきの後半も乗り切ろうぜ」



「そうですね。ところでヤナセさん、何でこんな所で誘ったんですか?」



「そりゃそうだろぅ。他の人に聞かれたら、おまえのことだけ贔屓ひいきにしていると思われるだろぅ」



「そういうことだったんですね。だけどトイレは極端すぎますよ」



その後、二人は隙を見て個室を出ると、昼食を食べ損ねて午後の業務に向かった。




















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