第二章 ナナシの記憶
全身に、衝撃が走った。平衡感覚が崩れ、地面が落ちていくかのような錯覚。
パニックを起こしかけた私がそれでも正気を保てたのは、自分が今これを抱いているからだろう。
……グロッケンさんの、左腕。
液状のBMIまみれになりながら、私は初めてBMIに触れたんだなと、そんなことを考えていた。何故これがここにあるのかは、考えたくもない。
竜の攻撃は、見えなかった。何で攻撃されたのかもわからない。グロッケンさんは、大丈夫でしょうか?
痛みにこらえつつ顔を上げると、そこには絶望がいた。
何故だか歯を一本欠いたその絶望は、私をただ見下ろしている。本当に、ただ見下ろすだけだ。黒檀色の瞳には、もはや意志の光はない。あれはもはや牢獄だった。魔術生体に自由はない。ただ科学生体を住まわせるためだけの、牢獄。
その牢獄は私から目をそらし、別の一点に目を向けていた。
その動きだけで、牢獄が、その牢獄の住人たちが何処に向かおうとしているのかが理解できた。グロッケンさんのところだ。
同じだった。『定期便』の時と、全く同じ。
私は放っておいても問題ないから、眼中にないのだ。
問題無いというのは私が機械の体ではないということと、竜にとって私が障害になりえないということ。それは全てにおいて後回しにしてもいいということだ。
竜が、一歩踏み出した。一歩、グロッケンさんとの距離が縮まる。
怖い。
何もしなければ、今度は私も確実に死ぬ。私の体にかかったBMIは、確実に竜の、竜の中にいる科学生体たちの回収対象になっているだろう。
そしてこのままでは、グロッケンさんも死ぬ。いや、『運搬屋』のあの人のことだ。どこかで打開策を見つけているに違いない。そう思い、抱いた腕の中に彼の左腕があることに絶望する。
「私、なの?」
あえて呟いて、言葉にしてみる。
ここは、私が何かしないといけない場面だ。
でも、私に何が出来るの?
自分はどうやら、魔術傾倒者らしい。だがしかし、魔術すらろくに使ったことがない。使えたかもしれないが、その記憶が今はない。
都合よく記憶を思い出せればいいが、そんな夢物語なんて、ここには存在しない。
存在するのは、なにも出来ない、出来損ないの私だけだ。
そう、私は何も出来ない。
なら。
なら、何故私はまだ、彼の左腕を抱いているのだろうか?
「言って、たから」
少しでもこんがらがった思考をまとめようとして、更に私は言葉を紡いだ。
「あの人が、言ってたから……」
私は魔術を使えない。
でも、それは本当に?
あの人は、こうも言ったじゃないか。
「補助装置を、使ってやってみればいい、って」
補助装置は、BMIを加工したものだ。
では今、自分がつかんでいるこれは、一体何?
「あの人の、腕」
今の私は体中BMIだらけで。
あの人の体はBMIで出来ていて、操作が難しい無線であっても竜をも退けた。
「あの人なら、きっと竜に勝てる」
それはきっと、妄執だったのだと思う。
私はただ単に、あの人なら大丈夫だと狂信していただけなのだろう。
それでも、私は必死に、必死に走って、そしたら転けそうになって、それでも足を進めて、竜の足元に縋り付いて。
私は握りしめたそれを、竜に叩きつけた。竜は、こちらを見向きもしない。
私はもう一度、あの人の腕を振り上げ、竜に向かって振り下ろした。
竜からすれば、こすりつけられたぐらいの感覚しかないのかもしれない。
実際、竜が移動する度に起こる振動で、私の平衡感覚はおかしくなっていた。まともに竜へ攻撃出来ているとは思えなかった。
それでも。
それでも、必死だった
ただただ、必死だった。
どうにかしようと、生きようともがいた末、この行動に至ったのかもしれない。
だが、そんなことは二の次だ。
そんなことよりも。
そんなことよりも、私の心に残っていたのはっ……!
「あの人が、放すなって言ったからっ」
最初に竜と遭遇した時に言われた。
「馬鹿野郎って、言われたけどっ」
軽食店で魔術を発動させた時、怒られた。
それでもまた、言われたから。
いなくなった後で。
別れた後で。
それでもまた私を救ってくれて、言ってくれたからっ!
「何があっても、つかめってぇぇぇえええぇぇぇえええっ!」
竜の咆哮に負けないくらいの絶叫を上げて、私は自分の意志を叩き込む。叩きこむ先は、当然今胸に抱きしめている、あの人の左腕。
補助装置はプラシーボ効果(思い込み)を高めるためのもの。
妄執し、狂信した私の絶叫という名の電子信号(思い込み)は、あの人の左腕に届く。
竜が咆哮を上げ、私を見下ろした。
今やあの人の左腕は私の補助装置となり、叫んだ声はそのまま私にまとわりついているBMIを導き、紫電という波紋が空気中に拡散していく。
膨大な紫電はそれを生み出した本人、つまり私の意志の強さだ。
でも、ただ強いだけの意志は指向性を持つことはない。故にBMIは私の意志にどう答えればいいのかわからず、具体的な変化をもたらさない。
紫電がただただ虚しく、飛び散り続ける。変化をもたらさない紫電を見て、竜は、その中にいる科学生体が笑ったように見えた。
しかしそれでも、私の意志は存在する。記憶を持たない私でも、やりたいことがあるんだっ!
指向性を、具体性を持たない意志はただただそこに滞留し続け、飛び散り続けた紫電はついに、紫電そのものとなる。つまりそれは私の意志分の、ただ愚直で、ただ強大なエネルギーの固まりへと変貌を遂げていた。竜に密着した状態で発生したそれは、竜の足を飲み込むほどの、一瞬の光の剣を生み出す。剣は空気を焼き、竜の肉を焦がし、竜の骨を溶かした。この世全ての異臭が集まったのではないかと錯覚するほどの臭が、私の鼻腔を刺す。
突如発生した必殺の光剣で、竜の右後ろ足が完全消滅。左後ろ脚は形をかろうじて残しているものの、完全に炭化していた。
怨嗟の悲鳴を上げながら、竜が地面に崩れ落ちる。土煙が舞い、爆風に私は顔を伏せた。その向こうで悲鳴を上げたのは、果たして魔術生体か科学生体か。
だが地に伏せた竜は尚も懸命に進もうと大きな口を開け、自らを鼓舞するための絶叫を発しようとしていた。
その口の前で――
「悪いが、リサイタルはあの世でやってくれ」
左腕を失ったグロッケンさんの右手から、二発の弾丸が放たれる。
超超至近距離、というよりほぼゼロ距離の攻撃のため、魔術生体は動けず、科学生体もフォローできない。
科学生体が作り上げたBMIネットワークを、グロッケンさんの悪意(意志)が一瞬にして駆け抜ける。次いで現れたのは、絶対零度の極寒地獄。
口から重点的に氷が生み出され、竜の頭蓋骨と下顎を貫いてく。脳症と血液のアクセントが付いた氷柱が十本できた辺りで、今度は竜の目、鼻、耳から極太の氷柱が飛び出した。
辺りに氷による低温火傷の音と、血液が蒸発して赤い煙となったものが漂っている。なおも続く空気が凍る音で、耳が痛い。
魔術生体の脳が完全に破壊されたので、竜が動き出すことは、もう二度とないはずだ。そして宿主を失った科学生体も、同じ道をたどるだろう。
「俺の言葉は、ちゃんと守ってくれたみたいだな」
隻腕となったグロッケンさんが、私に向かってゆっくりと近づいてくる。やはり、片腕だと歩きづらいようだ。
支えようと駆け寄るも、鼻で笑われ、拒絶される。それでも私は近づくと、彼に疑問を口にした。
「グロッケンさんは、どうしてここに?」
「言っただろ? 瑕疵保証(アフターサービス)だよ」
そう言ってグロッケンさんは片腕なのにもかかわらず、器用にジャケットの内ポケットから一枚の紙を取り出した。
それは忘れもしない。ポンコツさんの似顔絵、とグロッケンさんが言い張っているものだった。
「こいつをポンコツに渡し忘れてたのに気付いて戻ってきたんだが、ドンパチやっているのが見えてな」
「それで、助けに?」
「そうだ」
迷いなく断言するグロッケンさんに、私は二の句を継げなくなる。
それを見て、グロッケンさんは、また皮肉げに笑った。
「まぁ、今朝助けたお嬢さんがその日に死ぬのは、さすがの俺も目覚めが悪いと思ったのさ」
そう言うと、グロッケンさんはまた器用に似顔絵を閉まった。
その彼の目を見つめながら、私は思った。
記憶のない私だけれど。
決して出会ってきた人の数が多いとは言えないけど。
断言する。
「……グロッケンさん」
「ん? 何だ? 改まって」
「あなたが一番、人間らしいわ」
「記憶喪失のくせに、何言ってやがんだ」
そう言ってまた、彼は皮肉げに笑った。
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