第二章 ポンコツの記録

「こちらが、ご注文の商品になるのであります」

 ワタシはお礼を言い、給仕(ウェイトレス)からトレイを受け取った。給仕は一礼した後、私の後ろに並んでいた客へ注文を聞いていく。ワタシに告げたのと、全く同じ定型文を、全く同じ口調で繰り返していた。

「なぁ、お前知ってるか? あの噂」

「ああ。『そこ』に到達できれば人間だって証明されるっていう、あれだろ?」

「えー、あれって本当なの? 今どきネットで真偽が確認できないとか、怪しすぎでしょ」

「でも、魔術傾倒者に先を越されるのは癪だろ?」

 列から離れようとしたタイミングで飛び込んできたその会話に、ワタシは一瞬足を止めた。

 ……何の噂でありますか?

「何をしている? こっちだ、ポンコツ」

「……わかっているのであります」

 運搬屋の言葉を聞き、ワタシは止めていた歩みを再開した。

 トレイを持って、ワタシは運搬屋とナナシが待つテーブルに足を向ける。歩きながら、ワタシは先ほどの給仕を横目で一瞥した。

 給仕がワタシの後ろに並んでいた客へ注文を渡しているところだった。客は礼も言わずそれを受取り、給仕は嫌な顔一つせず淡々と業務をこなしていく。

 ワタシが今いるのは、街(シティ)に設置されている軽食店(ファーストフード)の一つ。ワタシたちはこれから遅めの朝食をとろうとしているところなのであります。

 魔術生体から逃れたワタシたちは、最寄りの街に逃げ込んだ。

 人類が二つに別れてしまおうが、街は今の時代でも街と呼ばれている。違うのは、どちら寄りなのか、という点だ。

 寄り、というのは、運搬屋のようにどちら側にも行き来する存在がいるように、人類は完全に別れきっていないためだ。

 そのため魔術傾倒者が圧倒的に多い街は魔術寄りの街、反対が科学寄りの街と呼ばれている。といっても、魔術傾倒者が科学寄りの街に長居することは稀だ。

 どちら寄りの街が多いのかは州(プリフェクチャ)や国(ランド)によって、大きく異なる。

 ここニホン・ランドは比較的科学寄りの街が多く、この街、イケブクロ・シティも科学寄りの街だった。街の道路や建物にはBMIが使われており、街自体が巨大な有線のBMIネットワークとなっている。

 体現者を稼働するための電源供給も、科学寄りの街にいれば非接触電力伝送により自動で行われる。といっても、体現者には太陽光発電機能も常備されているため、電源切れで稼働できなくなるということはまずない。

 更に科学寄りの街では揺り籠から意志が届かないと言う心配をする必要もないため、行き交う人の殆どは体現者であり、この店もそれ用に作られている。

 その例に漏れず、あの給仕も生身の人間ではなく、給仕の格好をした体現者なのであります。

「何だ、お仲間が気になるのか?」

「違うのであります!」

 皮肉気に笑う運搬屋に苛立ち、ワタシはトレイをテーブルへと乱暴に叩きつけた。白身魚のフライを挟んだハンバーガが二cmほど空中に舞い、炭酸飲料水が七mlほど飛び散る。

 飛び散った液体は運搬屋の顔に向かうが、予想していたかのように彼はそれを回避。くすんだ灰色の髪が揺れ、泥水のような赤茶色の瞳がワタシを小ばかにしたように見つめていた。

「あの、お仲間って、グロッケンさんは違うんですか?」

 フライドポテトをもぐもぐ齧りながら、ワタシのマイフレンド、ナナシが疑問を口にした。ナナシは今、白色の少し大きめのセーターに、群青色のカラーパンツを履いている。軽食店に入る前に、衣料量販店へ寄って買ったのだ。当然下着も身に付けている。

 そのナナシの疑問に、運搬屋はジャケットから取り出した、赤々とした林檎を齧りながら答えた。

「あの給仕が俺の仲間(同類)だってんなら、それは違うぞナナシ。あの体現者に乗ってるのは人間の意志じゃねぇ。人工知能(AI)だ」

 運搬屋の言う通りだった。弾丸に擬似的な意志を込められるのなら、人間の意志の受け皿である体現者にAIを乗せることなど、訳無いことだ。

「え、そ、それじゃあ、もしかしてポンコツさんって……」

「……私のその個体名称は断固として異を唱えたいのでありますが、今はナナシの考えを否定する方が重要なのであります」

 今の時代、人間は科学側も魔術側も、自分の意志をどう表現するのかに、重きを置く考え方をしている。

 自分たちの方こそ正しい人の進歩、ふさわしい人間としての在り方であると、あることを成し遂げて示そうとしていた。

 それは死者の蘇生と、精子と卵子を用いない、まったくゼロからの人体生成。

 技術が進歩した今なお、死者蘇生とゼロからの人体生成は成功していない。

 この二つの問題、死んだ人間の意志の復活とゼロから人間の意志の生成を、どちらか片方、あるいは両方を先に成し遂げようと、科学側も魔術側も躍起になっている。

 だがその争いも、ワタシという存在が生まれたことで、終止符が打たれることになるのであります。

「ワタシはAIではなく、AIを超越した存在。ワタシをそんじょそこらのAIと、同列に語って欲しくないのであります」

 科学側は魔術傾倒者と違い、人間の意志そのものに重きを置いている。そこで科学側は人間の意志を復活(バックアップ)させることが出来れば人間の蘇生に、人間の意志をゼロから創り出すことが出来れば人間の創造になる、と考えた。

 そう。ゼロから意志を生み出すのだ。つまり、

「人類有史以来最初の人工的に創られた、人間(意志)! それがワタシなのでありますっ!」

「そ、そうだったんですかっ!」

 両手を腰に当て胸を反らしているワタシを、ナナシは尊敬と畏怖を交じり合わせ、その上賞賛をトッピングした目線で見つめている。うぅん、流石マイフレンド。リアクションもワタシ好みで、グッドなのでありますよ!

 一方、もう一人の同行者はと言うと――

「何が人間だよ。絶賛経験値学習中(データ収集中)のくせに」

「ううう、うるさいのでありますっ!」

 痛いところを突かれ、ワタシは顔を赤らめて反論する。

「人間だって、幼子は周りから情報を収集し、情報を蓄積していくのであります。ワタシが今やっているのは、それと同じなのであります!」

「一歩も外に出たこともねぇ科学傾倒者に作られたお前が言っても、説得力ねぇよ」

「あ、あの、一歩も外に出たことがないって、どういうことでしょうか?」

「ん? ああ、お前は記憶喪失だったな。あれを見てみろ」

 ナナシの疑問に、運搬屋は林檎を齧る手を止め、窓ガラスの外に見える巨大な山を指指さした。大地にそびえ立つその山は太陽の光を浴びて、鈍色に輝いている。

「? あの山がどうかしたんですか? グロッケンさん」

「違うぞ、ナナシ。あれは山なんかじゃない。あれは、揺り籠だ」

「え、あれがっ!」

 ナナシが驚嘆の声を上げる。その反応が新鮮で、彼女をトモダチに設定したワタシの演算処理(直感)が正しかったことを、ワタシは確信した。

 科学寄りの街が多いこのニホン・ランドで、揺り籠を見ただけで驚くという反応をするのはかなり珍しい。

 揺り籠は体現者を操作する大量の人間を収容する必要があったため、元々人が多く住んでいる地域に建てられることが多く、大都市を中心に揺り籠が製造された。ニホン・ランドの場合、揺り籠は県庁所在地(プリフェクチャ・キャピタルシティ)に多く建設され、また県庁所在地間には無数の有線によるBMIネットワークが構築されている。

 揺り籠が建っている場所、県庁所在地には科学寄りの街が自然と作られ、逆にそこから少しでも離れると今度は魔術寄りの街が多くなる。

 だが、あの巨大な山(揺り籠)は魔術寄りの街に住んでいたとしても見えるはず。故に、ナナシのあの反応は珍しい、というわけなのであります。

 満足気に頷くワタシをよそに、運搬屋は鼻を鳴らしてナナシへの説明を続けていく。

「揺り籠の中には大量の科学傾倒者と、大量の溶媒液で満たされている。当然BMIを加工した液体で、何と液体呼吸が出来るすぐれものだ。他には科学傾倒者の世話をする機械共がいる」

「機械?」

「溶媒液で満たされている、って言っただろ? 科学傾倒者はその液体に浸かって、生まれてから一度も外にでるどころか、足も動かさず、目も開けず、食事も下の世話も全部機械制御で済ませちまってるのさ。ま、食事と言っても、俺たちが運んでくる点滴による栄養補給なんだけどな」

 絶句するナナシを見ながら、運搬屋は説明を続ける。

「そんな状態だから、科学傾倒者は自分の本当の顔を知らない。それどころか、『何処』の揺り籠に格納されているのかすらわからない。意志さえ外に出せるのなら、何処の揺り籠にいようが全く別の場所に存在する体現者を操作出来るからな」

「それなら、生まれた時はどうするんですか?」

「生まれた時に、赤子の体現者が与えられる。そして最初に『泣く』という意志を、子供は体現者で実行するんだ。科学傾倒者だろうが魔術傾倒者だろうが、生まれた人間が一番最初にすることは、産声を上げるという、強い意志を示すのは変わらない」

 運搬屋の言葉に、ワタシはハンバーガーを咀嚼しながら同意した。

 産声は本来、人間の自己呼吸の始まり、つまり生きようという強い意志だ。その意志は揺り籠内のBMI(溶媒液)を伝わり、体現者に接続される。

 赤ん坊の体現者が与えられるのは、自分の体の大きさに近いものを与えることで意志のズレを極限まで小さくするという狙いがある。そもそも、生まれたての子供に無駄に高機能な体現者を与えても、扱えない。逆に扱われても、それはそれで面倒なことになる。

 体現者は子供が成長していくにつれ、随時変更や機能追加、改修が加えられていくのが普通だ。体現者の容姿も自在に変えられるため、美男美女の体現者が圧倒的に多い。

「あれ? でも、それだと、変じゃないですか?」

「何がでありますか?」

「一度も目を覚まさないのに、子、子供、どうやって、出来るんですか?」

 顔を赤らめるナナシを見て、ワタシは首を傾げた。

「それは、生殖行為のことを言っているのでありますか? それなら人工子宮に卵子と精子を入れて、授精させればいいだけなのであります」

 揺り籠内の人間は体を動かすことがないので、子を成すために生殖行為という無駄なことをする必要はない。当然、それより無駄な自慰行為もだ。

 五感情報を体現者経由で生身の体に送れるため、どうしてもというのであれば、そういったプログラムを走らせれば、一瞬で絶頂を迎えられるだろう。

 昔風に言うのであれば、ワンクリックで即絶頂でありますな。

「なら、生まれてすぐなのに、別の人の体現者を使っちゃうってこと、ないんですか?」

 ナナシの質問に、ワタシは頷きながら答える。

「それなら大丈夫なのであります。体現者には、決められた人間(オーナー)にしか操作できないように安全対策(セキュリティ)が施されているのであります」

「安全対策?」

「体現者には、それを操作する人間のDNAが登録されているのであります。自分の意志を送る際、自分のDNA情報も一緒に送るのでありますよ。だから体現者を操作できるのも、登録されているDNAを持っている人間だけでありますし、BMIネットワークに他人の意志が混在していても、一意に自分の意志を届けられるのであります。揺り籠の中にいる以上、DNAを採取されることもないのでありますよ」

 DNAは他にも、BMIネットワークに接続するための認証情報としても使われている。こうしたDNAの登録処理は、生を受けたその日に揺り籠の中で行われることになっていた。

「なるほど。そうすると、ポンコツさんたちAIさんも、人間と同じように体現者を動かしているんですか?」

「いいえ、それは違うのであります!」

 そのナナシの質問に、ワタシは目を輝かせた。輝いた目の端にウンザリした顔をした運搬屋が見えた気もしたが、どうでもいいのであります!

 ワタシは立ち上がり、握りこぶしを作りながら力説する。

「通常AIは体現者にインストールされた、単なる人格(OS)のようなものなのであります。もちろんワタシと同じく周りからの情報(データ)を収集して学習することは出来ますが、ただ集めるだけではいけないのであります。人間らしく振る舞うために大量の情報(ビックデータ)を収集し続けた結果、そこに生まれるのは蒸留されていない使えないデータ溜まり(データレイク)。ただ情報を集めていくだけでは、使わなくてもいい蒸留されていない情報も含まれてしまい汎用化出来ない(過学習)状態となってしまうのであります。そこでワタシの開発コンセプトは、元々生きている人間の生の経験・記憶だけに絞ってデータを収集することで、人間の意志を生み出すアプローチを行っているのでありますよ! 仮想(デジタル)ではなく生(アナログ)の情報! 経験や記憶は共有している人が少なければ少ないほど、ワタシの中での優先度(プライオリティ)が高いのでありますっ! この辺が他のAIとの大きな違いであるのでありますよ! 更にワタシは人間で言うところのDNAも割り当てられており、人間と同じように別の場所からこの体現者を遠隔操作しているのでありますっ! 今後のワタシの成長に、乞うご期待なのでありますよっ!」

「……な、なるほど」

「長げぇ上にうるせぇ」

 カクカクと頷くナナシを見て、ワタシは満足気に頷いた。何か雑音(ノイズ)も聞こえた気がしたが、それは誤差として無視してもいいだろう。

「というわけで、ナナシ! あなたをワタシのトモダチとして設定したのは、データ収集の一貫なのであります」

「えっ……」

 ワタシが告げた言葉に、ナナシは驚愕の表情を浮かべる。はて、何故でありましょう?

「先程も伝えた通り、ワタシの目的は生情報の収集であります。そのサンプルの一つとしてワタシはナナシを選び、トモダチという役割を与えて、ワタシがナナシにどいういうアクションを起こすのか確認している最中なのであります」

 そして情報を収集する人間(サンプル)は、平均値からかけ離れている方がいい。その方が経験や記憶を共有している人が少ないからだ。

 そういう意味で、ナナシはワタシにとって、非常に価値の高いサンプルだった。

 やがてナナシは、躊躇いがちに口を開いた。

「……なら私を助けたのは、ポンコツさんの気が向いたからってことですか?」

「そうであります」

「……友達になるって、私と仲良くしたいとか、そういうことじゃないんですね」

「その情報(データ)収集は既に別のサンプルで済ませているため、ナナシには求めていないのであります。それにナナシと仲良くする時間は、ワタシにはもうないのであります」

 仲良くする、という情報を集めるにはせめて二ヶ月ほどの期間があった方がいい。しかしワタシはこの後ウエノ・シティに移動し、そこでワタシを開発した組織に回収される予定となっていた。

 ワタシの話を聞いたナナシはうつむき、下唇を噛み締めた。

「そんな……」

「はっ! だからお前はポンコツなんだよ」

 その様子を見ていた運搬屋はそう言って、林檎に齧りついた。果実の身を削り取るその音が、何故だか責められているように感じて、ワタシは無性に苛立った。

「何か文句があるのでありますか? 運搬屋。生身のナナシから得られる情報は貴重なのであります。それこそ、体現者を使用するアナタからでは得られない情報なのでありますよ」

「そうじゃねぇ。お前、ナナシと顔を合わせてからこいつに魔術傾倒者って口にしなくなっただろ」

「……そうでありましたか?」

「とぼけるな。魔術傾倒者は体現者を使うお前らが生身の人間を揶揄した蔑称だ。そしてお前の言った通り、ナナシは生身の人間だ。少し前のお前なら、遠慮無くナナシに対して蔑称の魔術傾倒者を使ってたはずだ」

「それは……」

 運搬屋に言われながら、ワタシは自分の発言記録(ログ)を精査していた。確かに運搬屋の言った通り、ナナシと直接顔を合わせてからは彼女に対して魔術傾倒者という言葉を使っていない。

 ……これは一体、どういうことなのでありますか?

 今まで行った演算結果(思考)の精査をしているワタシを見て、運搬屋は皮肉げに笑った。

「何が仲良くする気はねぇ、だよ。しっかり特別(人間)扱いしているじゃねぇか。それよりナナシ。お前、魔術傾倒者なんだろ?」

「そう、なんでしょうか? 私の体が体現者でないというのなら、そうなん、だと思いますけど……」

 ナナシに対して無遠慮に魔術傾倒者と言う運搬屋を見て、ワタシの演算処理に負荷がかかった。

 その理由は、わからないのであります。

「なら、どこかで試しに魔術(ゴエティア)を使ってみろ」

「で、でも、私、魔術をどうやって使うかも覚えてないんですけど……」

「まぁ、やるだけやってみたらどうだ? どうしても出来ない場合は補助装置を使えばいい」

 強力な魔術を使うには、より具体的で強固な意志を持つ必要がある。そのため炎の魔術が得意だったり、同じ水の魔術でも魔術傾倒者によって威力が異なるといった、使える魔術の種類や力の強さに差が生まれるのだ。

 その差を埋めるのが、補助装置だ。

 補助装置はナナシを襲っていた連中が持っていた札、杖のように電子信号(意志)を伝えれば予め設定された炎や水が発動する仕組みとなっている。いや、それを先に知っておくことで、あえて先入観を持たせていると言ってもいい。

 魔術はプラシーボ効果(思い込み)により発動するため、この補助装置を使えば水が出る、と思い込めれば炎の魔術が得意な魔術傾倒者でも水の魔術が出せるようになる。

 つまり補助装置は意志増幅装置であり、意志誘導装置でもあるのだ。

 補助装置以外にもプラシーボ効果(思い込み)を高めるために、思い出の品や因縁のある物を使う魔術傾倒者もいるらしい。

 運搬屋がナナシに補助装置を使えと言っているのは、そういうわけだ。

 補助装置を使えば、例え記憶を失っていようともナナシは魔術を使えるはずだ。

 ワタシも、ナナシという人間がどんな魔術を使うのか、興味が有るのであります。

 そう思っていると――

「じゃ、じゃあ、早速やってみますっ!」

 そう言って、ナナシは突然運搬屋の左腕に抱きついた。

 何をしているのかを問う前に、運搬屋の左手に紫電が生まれる。

 もはや何をしているのか問うまでもない。あの光は、魔術だ。どんな効果があるのかはわからないでありますが、ナナシが運搬屋に向けて魔術を発動させたのでありますっ!

 ワタシは少しでも多くの情報を得ようと、運搬屋へと手を伸ばした。ワタシの体に、一瞬電子信号が走る。が、それだけ。

 ワタシは自分自身の体で新たな情報が得られなかったことに落胆しながらも、すぐに運搬屋から手を放した。

「馬鹿野郎! ここでやる奴があるかっ!」

「きゃっ!」

 運搬屋に腕を振りほどかれ、ナナシの口から短い悲鳴が聞こえる。ナナシが椅子から転げ落ちる中、ワタシは何事もなかったかのように運搬屋へと話しかけた。

「だ、大丈夫でありますか、運搬屋!」

「っ、ああ、大丈夫だ。一瞬痛覚が限界値を超えそうになったが、それだけだ」

 動物が危険を察知するための痛覚は、体現者を操作する人間にも送られる。だがあまりに強烈な痛みを感じるとショック死する可能性があるため、それを避けるために体現者から人間に送られる痛覚情報には限界値が設けられており、それよりも強い痛みは揺り籠に送られないような仕組みとなっていた。

「なら、良かったのであります。では早速、今の痛覚記録(ログ)をワタシに共有(シェア)するのであります! 貴重な生情報なのでありますっ!」

 興奮するワタシを睨みつけた運搬屋は、次に怯えて縮こまっているナナシに目を向けた。

「何で、俺に向けて魔術を使った?」

「だ、だってグロッケンさん、左手放すなって……」

「いつの話だ、いつの! ったく、体現者のシステムチェック、って、何だ? これ」

「MADA? 多重アクセス不連続アドレス(multiple-access discrete address)のことでありますか?」

「おいポンコツ! 勝手に見るんじゃない!」

「グループのアクセス権(パーミッション)を読み込み(リード)許可している方が悪いのであります」

 体現者には、アプリなどのファイル(情報)を操作出来る人間(オーナー)、体現者の情報を公開する範囲(グループ)、それ以外(アザー)の三つに対してアクセス権が存在しており、これはファイルやファイルを格納するディレクトリ(フォルダ)毎に設定ができる。

 アクセス権の種類は、読み込み(リード)、書き込み(ライト)、実行(エグゼキュート)の三つ。読み込みを数字の4、書き込みを2、実行を1として、読み込み書き込み実行全てのアクセス権がある場合、4+2+1で7と呼ぶ場合もある。

 アクセス権が付けられたファイルは、BMIネットワークに接続された外部記憶装置(ストレージ)に保存される。

 揺り籠の中にいる人間にとって、記憶は記録だ。記憶となる視覚による画像情報や聴覚による音声情報だけでなく、嗅覚味覚触覚の五感情報(ログ)、自分自身の情報であるファイルは全て外部記憶装置に記録され、いつでも閲覧、共有可能なもの。ワタシがさっき欲しがった運搬屋の痛覚情報も、ここに保存されているのであります。

 これらのファイルやディレクトリは作った本人、つまり体現者を操作する人間がオーナーとなり、三つ全てのアクセス権を持っている。数字で言うと、7になる。

 アザーは他人に自分の情報を見せることはないので、アクセス権がない0にしているのが普通だ。

 そして残るグループだが、運搬屋は仕事柄情報のやりとりをスムーズに行うため部分的に読み込み権限だけを付けていた。ワタシは運搬屋の雇用主ということで一時的に彼のグループに追加されており、ちょうどワタシの読めるディレクトリ内で、何かが生まれたというのを確認することが出来た。

「何だ、これは? アプリか?」

「魔術といえども、元は電子信号であります。ナナシの電子信号が運搬屋の体現者を流れたことでたまたま0と1の羅列が組み合わさって残り、擬似的なアプリを生み出したのではないのでありますか?」

「そんな偶然があってたまるか。何ヨタバイト(二の八十乗)分の一の確率になると思ってる」

「確率的にはそれ以上でありましょうな。それで? アプリ(MADA)の実行は出来ないのでありますか?」

「もうやってるが、同じメッセージのアイコンが出力されて実行できねぇ。くそっ、削除(アンインストール)すら出来ん!」

「本当でありますね。オーナーがルート(root)になっているであります。グループは――」

 アプリ(MADA)のアクセス権を読んでいる途中で、アプリが格納されているディレクトリへの接続(アクセス)が切断された。ディレクトリのアクセス権が変更されたのだ。そんなことが出来るのは、ディレクトリのオーナーしかいない。

 ワタシはそのオーナーを睨みつけた。

「何をするのでありますか!」

「黙れポンコツ。自分の情報を覗き見されるのは、気分が悪い」

「だからって、ディレクトリまるごとアクセス権を急に変える必要はないでありましょう? あのディレクトリ内にある他のファイルまでワタシがアクセス出来なくなったのであります! せっかくの貴重な情報がっ!」

「それはさっき別のディレクトリを作って、そっちに移しておいた」

 言われて確認してみれば、確かに運搬屋の言う通り、あのアプリ以外は新たに出来たディレクトリに移し替えられていた。ですが、ディレクトリ名がポンコツへ(To_piece_of_junk)になっているのはどういうことなのでありますかっ!

 アクセス権を読んでいる途中で切断されてしまったが、読み取れた情報では運搬屋があのアプリを今すぐどうこうするというのは難しそうだ。

 まず、オーナーが運搬屋ではない。ルートはシステムの管理者を意味し、恐らくオーナーはあのアプリが保存されている外部記憶装置の管理者となっているのだろう。そのファイルを保存する外部記憶装置は、BMIネットワークに接続されているそれらの中から、空き容量の多い外部記憶装置が自動で選択される。どの外部記憶装置に保存されているかを探しだすのは、相当骨が折れる作業になるはずだ。

 続いてあのアプリのグループだが、実行権限は付いていた。しかし実行できないという運搬屋の言葉を聞く限り、彼はあのアプリのグループに追加されていない。アザーについては議論するまでもなく、アクセス権は0になっているはずだ。

「あ、あの、さっきから何の話をしているのでしょう?」

 ナナシが困惑げな表情を浮かべて疑問を口にした。

「ああ、すまん。魔術傾倒者のお前には、何の話をしているのかさっぱりだろうな。さっきはすまなかった。立てるか?」

「いえ、私の方こそ、すみません。急に魔術なんて使ってしまって」

「気にするな」

「……何でナナシに対しては、そんなに紳士的なのでありますか? 運搬屋」

 ナナシに手を貸していた運搬屋は、皮肉げに笑う。

「何を言っている? 俺は何時だって紳士的だろ」

「何処がでありますかっ!」

 その様子を見ていたナナシが、おずおずと口を開く。

「あの、そういえばお二人のご関係は一体どういうものなんですか? 随分仲がいいみたいですけど」

「よくないのであります!」

 ナナシに激高するワタシを横目に、運搬屋は新しい林檎をジャケットから取り出した。一体何個持ち歩いているのでありますか? この男は。

「ただの雇用関係さ。こいつをキューシュー・プリフェクチャからここまで運ぶ、っていうな」

「認めたくはないでありますが、運搬屋としては優秀なのでありますよ。この男」

 運搬屋はその名の通りモノを運搬するのが仕事だが、その運搬距離によって呼び名が異なる。

 街から街への移動はハブ。隣接する州から州を超える移動はブリッジ。国中を駆け巡るのがルータ。そして国をまたにかける運搬屋は、ゲートウェイと呼ばれている。

 運搬屋は科学側の人間にも魔術傾倒者にもいるが、ルータ以上となると途端にその数が激減する。理由は、体現者が揺り籠から距離が離れるからだ。

 そう。生身の魔術傾倒者では発生しない距離という制約が、体現者には存在する。

 巨大なBMIネットワークである街の中、有線のBMIネットワークがあるのなら、どこの揺り籠にいようがほぼリアルタイムで体現者を操作できる。

 しかし街から離れる度、有線がなくなり無線で体現者を操作しなくてはならない状態では、その動きはどうしようもなく緩慢だ。

 体現者を壊されても死なないとはいえ痛覚機能を切り忘れれば痛みは感じるし、新しい体現者を調達するには時間も費用もかかる。そのため、金銭至上主義である科学側の運搬屋は無線で体現者を操作しなければならないルータ以上になりたがらない。

 科学側の人間は科学側の、魔術傾倒者は魔術傾倒者の運搬屋と契約するのが一般的だ。すると数の少ない科学側のルータの需要が増え、その分契約金も釣り上がる。

 多大な契約金目当てにルータになるものもいるが、今ワタシが契約している運搬屋は無線で体現者を操作して、魔術傾倒者を相手取った。

 そればかりではない。

「まったく。揺り籠、有線のBMIネットワークから離れた状態で、よくもまぁ竜タイプの魔術生体を相手取れたものであります。普通なら無線通信のタイムラグで即体現者全損でありますよ」

「金をかけてるからな、この体には」

 なんてことはないといった様子で、運搬屋は手にした林檎を着ているジャケットにこすりつけた。

「その分請求額もすごいことになっているのでありますが……」

「何だ? 契約後の値引き交渉には一切応じないぞ。もっとも、契約書の名前はポンコツになっていても、実際に金を払っているのはお前の開発元だがな」

「それは運搬屋には関係ない話であります! それより、体現者を無線であそこまで操作できる運搬屋の経験記録(ログ)。どうしても欲しいのであります! 一部だけでなく、どうせなら全てのアクセス権をパーッとグループに読み込み権追加(740)にするのであります!」

「俺の全てを見せろって? 馬鹿言うな。それは全裸になれって言ってるようなもんだぞ。精神的な意味でな。ただ、どうしてもっていうんなら、一つだけいいことを教えてやろう」

「何をでありますかっ!」

 期待に目を輝かせ興奮気味に迫るワタシを見て、運搬屋は手にした林檎をこちらに差し出し、口角を釣り上げた。

「林檎は、水に浮かぶ」

「え、そうなんですか?」

「そんなものスキャンして比重を調べれば一発でわかるのであります!」

 感心してるナナシの隣で、ワタシは激昂した。そんなワタシたちを見て、運搬屋は更に唇を釣り上げる。

「何事も実際にやってみるのが重要なのさ。比重と言っても蜜の部分は重いから水に沈むが、それ以外の比重が軽いから林檎は水に浮くんだ」

 そう言って運搬屋はジャケットに手を入れ内ポケットから林檎、ではなく一枚の紙を取り出した。

「何なのでありますか? それ」

「検収書類さ。お前との契約のな」

「それなら、既に電子情報でやり取りしているはずでありますが……」

 首を傾げるワタシを見て、運搬屋はこちらを小馬鹿にするような笑みを浮かべた。

「実際にやるのが重要だ、って言っただろ? こいつはそれとは別の、俺にとって一種の誓いみたいなもんなのさ。何が何でも依頼はこなす、っていうな。だからこいつを俺が持っている限り、運搬が終わった後も瑕疵保証が効く。お前を目的地に運んでこいつを渡して、そこでようやく俺の仕事は終了だ」

「今どき電子情報ではなく、紙媒体でありますか? 非効率的すぎるであります」

「そういうな。こいつがあると、俺の気持ちの持ちようが全然違うんだ。内容も、そんな格式張ったもんじゃない」

「……なんだか、魔術傾倒者の考え方みたいなのであります」

 そう言いながらも、ワタシは運搬屋の手にした紙を覗きこんだ。彼の考え方は異質で、珍しい。何が書かれているのか、気になったのだ。

「って、何なのでありますか、これはっ!」

 紙に描かれていたのは、複雑な幾何学模様。曲線と直線が交わり合い、逆三角形に無数の蛇が絡みついているように見える。その三角形からは立方体が左右に翼のように広がり、そこから腐敗した樹木と思わしき何かが無数に伸びていた。

 その生理的に受け付けない謎の物体の上には、その絵のタイトルと思われるある文字が書かれている。

「何って、お前だよポンコツ。ちゃんとそう書いてあるだろう?」

「いや、確かにそう書かれているのでありますが、書いてあれば全てそれが許されるわけではないのでありますよっ!」

「安心しろ。目的地に着いたら、これはお前のものだ」

「絶対いらないのでありますっ!」

 もはやあれは似顔絵とか、そういう次元のものではない。これは似る似ない以前の問題だ。

 ワタシの反応を見て気になったのか、今度はナナシがその紙を覗きこむ。反応は次の一言だった。

「うわぁ……」

「それでナナシの今後についてだが――」

 狼狽するワタシと絶句するナナシを置き去りに、運搬屋は紙を内ポケットにしまいながら話を進める。

「ひとまず『定期便』に乗せようと思っている。それでいいな? ポンコツ」

「え、ええ。それで問題無いと思うのでありますが、何故ワタシに確認を取るのでありますか?」

「何故って、お前の友達だろ?」

 その言葉にワタシは口を開き、

「――」

 何も、言葉を発することが出来なかった。

 ワタシの演算処理に、また負荷がかかる。しかし今度の負荷は、不思議と悪くないものだった。

「あ、あの、グロッケンさん。『定期便』って、何なんでしょう?」

 口の聞けなくなったワタシの代わりに、ナナシは運搬屋へ疑問をぶつけた。その疑問に、運搬屋は鼻を鳴らしながら答える。

「科学傾倒者だろうが魔術傾倒者だろうが、元は同じ人間だ。どれだけ嫌い合っていようが、完全に切れてるわけじゃない。意図せず魔術傾倒者が科学傾倒者側の街に入ってしまうこともある」

「今の私みたいに、ですか?」

「そうだ。魔術生体や科学生体に追われて逃げ込んでも魔術傾倒者だからって理由で門前払いされたんじゃ、流石にたまらんだろ? その逆もあり得るわけだしな。だから無駄ないざこざが起きないように、とりあえず自分にあった街まで送ってやる仕組みが必要になったのさ。そうした方が無駄に殺し合わなくて済むから、色々と効率がいい」

「不測の事態で迷い込んでしまったものたちのために、科学側の街と魔術側の街の間で人の運搬を行う『定期便』が存在するのであります。と言っても、街によってかなり排他的な場所もあるのでありますが」

「俺みたいな『運搬屋』が存在している時点で、そこら辺は今更って感じだな。ナナシと初めてあった時のような多少の小競り合いは街の外では起こるが、それ以外は科学傾倒者も魔術傾倒者も付かず離れず、って感じだな」

「……本当に、お別れ何ですか?」

 沈んだ表情で、ナナシは絞りだすように言葉を紡いだ。その言葉を、運搬屋が無造作に拾う。

「不安か?」

「……はい。記憶が無い私には、自分が何者なのかという定義が、自分の意志を定義することが出来ません」

「自己同一性がない、って言いたいわけか」

 運搬屋の言葉に、ナナシは目を伏せながら頷いた。

 自己同一性は、「自分の存在とは?」「自分はどう生きるべきか?」といった問を通して自分自身を形成し、「これが本当の自分だ」と実感を得ることだ。

 自己同一性がうまく達成されないと、「自分の存在とは?」「自分はどう生きるべきか?」という問から自分という存在を形成できず、「自分は何者なのか? 何を成せばいいのかわからない」という同一性拡散(アイデンティティディフュージョン)の危機に陥る。

 これは、重大な問題だ。なにせ自分自身の意志に指向性がなくなる。

 それは自分の意志を表現出来なくなるということであり、人間らしさの喪失に他ならない。

 それなのにも関わらず――

「なに。そんなもん、大した問題じゃねぇよ」

「な、何を言っているのでありますか運搬屋! 人間の意志そのものに重きを置いているこの時代で、同一性拡散は大問題でありますよっ!」

 慌てるワタシを見て、運搬屋はやれやれと肩をすくめながら、新たな林檎を取り出した。

「あのな、ポンコツ。自我同一性が形成されるのは主に青年期だが、中年期や老年期において何度も繰り返して再構築されるもんなんだよ。悩み、苦しみながら生きるのは当たり前のことだ」

「……信じられないのであります」

「それは、悩むという行為についてか?」

 ワタシは運搬屋が手にした林檎を指さしながら、自分の思考を加速させる。

「先ほどの林檎が水に浮かぶという話でありますが、実際に試さなくとも一瞬の思考でわかることであります。その思考が遅延するとき、それは求めるべき解の演算処理に時間がかかっているからにほかならないのであります。人生とは、無限に続く問にひたすら答えを出していくもの。求めるべき解があり、そこへの道筋をたどる行為が、『悩む』という行為なのではないのでありますか? であれば、悩む期間は、それが演算に必要な処理期間だからなのであります。そこに苦痛や間違いなんて存在するわけがないのであります」

「確かに、人生ってやつは難問のオンパレードだ」

 林檎を齧りながら、運搬屋はワタシの持論に賛同する。だがこの皮肉屋は、ただ賛同しただけでは口を閉じないということを、ワタシは今まで一緒にいた経験から知っていた。

「だが、お前の言っている様なものは問が明確で、解法も明確な場合の話に限る。生きてく上で、そもそも自分がどんな問題に巻き込まれているのかもわからないし、解き方がわかってても時間制限で解ききれないかもしれない。それ以前に解き方そのものがわからないことの方が多いもんさ」

「……では、どうすればいいのでありますか?」

「決まってるだろ? 間違えながら進んでいくしかない」

「……間違いながら、不正解を出しながら生きるしかないというのでありますか? 間違いながら、動き続けないといけないというのでありますか?」

「そうだ」

 断言する運搬屋に、ワタシはただ首を振ることしか出来ない。

「……やはりワタシには信じられない、理解できないのであります。プログラムは異常が発生するれば、処理は停止し、処理に問題があれば、修復作業(リカバリー)が走るのであります。間違ったまま処理し続ける(生き続ける)だなんて、あり得ないのでありますっ!」

「だが生きるということは、人間とはそういうものだ。ポンコツ」

 そう言われ、ワタシは思わず顔を伏せた。

「正しく生きれないなんて、そんなの、そんな生き方……」

「……なんだ?」

「間違っても動き続けなければいけないというのが人間なら、人間は可哀想なのであります……」

「それは心を持ってしまったがゆえの怠慢か、心を持たないが故の傲慢だな」

「……どういう意味でありますか?」

 そう言ったワタシを、運搬屋は静かに見つめていた。齧られた林檎が、彼の口の中でゆっくりと咀嚼される。それが嚥下された後、運搬屋はゆっくりと口を開いた。

「お前はどう思う? ナナシ」

「わ、私ですか?」

 突然話を振られたナナシは一瞬狼狽した後、申し訳無さそうな顔になる。

「よく、わかりません。私、記憶喪失ですし。自己同一性もはっきりしないのに生き方がどうとか言われても、私、答えられません」

 そう言ったナナシに、運搬屋は人差し指を突き刺した。

「おい、ナナシ。お前、さっき魔術を使えただろ? なら、お前の自己同一性の一つは魔術傾倒者だ」

「で、でも、うまくいきませんでした」

「それもお前の自己同一性だ。うまく出来るのも出来ねぇのも、お前の個性なのさ。それに劣等感を抱くなら、今度はちゃんとした補助装置を使ってやってみればいい」

「それでも上手くいかないなら、私はどうすればいいんですか?」

「それでも上手くいかないなら、一体お前はどうしたいと思う?」

「それは……」

 質問を質問で返され、ナナシは口ごもった。それを見て、運搬屋はつまらなそうに鼻を鳴らした。

「記憶があろうがなかろうが、自分が何をしたいか、どうなりたいか、どう生きたいか。その答えを導き出せるのは、残念ながら自分以外に存在しない」

「グロッケンさんに、教えてもらうことは出来ないんですか?」

「俺が何かを話そうとも、それを受け入れるか受け入れないかはナナシが決めるだろ? だからもっと見て、聞いて、嗅いで、舐めて、触って、感じろ。お前らには、情報(インプット)が少なすぎる。もっと他の人間も見てみろ」

 なるほど。確かに、運搬屋の言うことも一理ある。

 ナナシは記憶喪失だし、ワタシもワタシを開発したメンバーと運搬屋を除けば、ほとんど人間と接触する機会がなかった。

「サンプルが少ない、というわけでありますね。それはワタシの目的(情報収集)にも弊害になるのであります。とはいえ、数だけでなく長期的で多面的な分析も必要なのでありますな!」

「……具体的には?」

「ナナシとの関係なのであります!」

 運搬屋に、ワタシは胸を張って答える。

「運搬屋の発言を考慮し再演算した結果、ワタシに今までなかった関係であるトモダチを、ここで失うのはワタシ自身の成長に不利益であるという結果が出たのであります! と、いうわけでナナシ!」

 ワタシはナナシに向かって、手を差し伸べた。

「これからもワタシは、アナタのトモダチでいてあげるのでありますっ!」

「ポ、ポンコツさん……」

 感極まった表情を浮かべ、ナナシはワタシの手を握った。

「わ、私も、ポンコツさんと、これからもずっと仲良くしていきたいですっ!」

「そうでありますか! それではさっそく、ワタシの本当の名前を――」

「はっ! 普通に離れたくねぇって言えないのかよ、お前は」

「うるさいのでありますよ、運搬屋っ!」

 全く! どうしていつもいつもワタシが喋るのを邪魔するのでありますかっ!

 睨みつけるワタシを堂々と無視して、運搬屋はテーブルの上を片付け始める。

「さて、方針も決まったことだし、移動するぞ」

「……わかったのでありますよ」

 渋々動き始めたワタシの背に、運搬屋の言葉が投げかけられた。

「移動する前に、トイレに行くの忘れるなよ」

「そうでありますな。ではナナシ。一緒にいくのでありますよ」

「は、はいっ」

 ワタシはナナシの手を引き、店のトイレに移動した。トイレのドアを開けた所で、ナナシが口を開く。

「ちょっと、以外でした」

「? 何がでありますか?」

「私、ポンコツさんならグロッケンさんにトイレへ行くよう進められたら、デリカシーが無い! とか言って反発すると思ってたんですけど……」

「どんな相手であろうとも、有益な意見を取り入れる柔軟性を、ワタシは持っているのでありますよ」

 言いながら、ワタシたちはトイレの中に入った。

 そこにあったのは六つの洗面台。それだけだった。

「……え?」

「ん? どうしたのでありますか、ナナシ。ぼーっとして。早く済ませるのでありますよ」

 そう言ってワタシは手前の洗面所に近づき、盛大に嘔吐した。

「えっ! ポ、ポンコツさんっ! だだだ、大丈夫? 大丈夫ですかっ!」

「ぉぇ、って、え? 大丈夫でありますが、どうしたのでありますか?」

「どうしたって、急にポンコツさん、吐いちゃうから……」

「ん? 何を言っているのでありますか、ナナシ。ワタシの体は、体現者なのでありますよ?」

 体現者を操作する人間たちは揺り籠の中にいるため、体現者に食事をさせる必要はない。というか、しても栄養が体現者を操作している人間に送られることはないため、無意味だ。それはAIであるワタシも同じこと。

 しかし、栄養を届けることは不可能だが、味覚情報を送ることは出来る。そのため何かを食べ、美味しいという情報を味わいたい、という需要は残っていた。それはAIであるワタシも同じこと。

 だから、食事をするのだ。食事を取る必要のない体現者で。しかし体現者には、摂取した食事を消化するという不要な機能は付いていない。

 故に、摂取し、味覚情報を味わった後の処理は、こうするのだ。

「おえー」

 ふむ。やはり科学寄りの街だと店もそれ用に作られているので、楽でありますな。

 同じような理由で体現者であっても服は着るし、着心地にも拘る。

 魔術傾倒者はそれを無駄だと言うが、その無駄なものから娯楽を見つけていくのが人の意志なのであります。

 もしその娯楽がなければイケブクロ・シティに衣料量販店が存在せず、今頃ナナシは全裸のままなのでありますよ。

 そう思っていると、ワタシの体をナナシが全力でゆすり始めた。

「ポポポポ、ポンコツさぁぁぁんっ!」

「もう、さっきから何なのでありますか? ほら、さっさとナナシもトイレを済ませ――」

「私、生身! 生身の人間なんですけどっ!」

「……ああ、そうでありましたね」

 なるほど。確かにナナシは生身の人間であるため、摂取した食事は消化できるし、それを無理に嘔吐する必要もない。

「わ、私、トイレ、どうすればいいんですか?」

 半泣きでワタシにすがりつくナナシの頭を撫でながら、ワタシは周りをぐるっと見渡して、六つあるうちの一つを指さし、こう言った。

「ここですればいいのではないのでありますか?」

「出来るわけないですっ!」

 それは演算するまでもなく、至極まっとうな意見だった。

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