第一章 ???の記憶
時刻はちょうど、日が昇り始めた頃。冬の凛と澄んだ空気が、森全体を包んでいた。冬場でも葉を落とさない常緑樹の葉から、朝露がゆっくりと零れ落ちる。
その木々の涙が地面につくよりも速く、私は森の中を必死になって走り続けていた。
「っ!」
足裏から、刺すような痛みが走る。激痛に歯を食いしばって耐え、私は目尻に滲んだ涙を振り切るように、懸命に両足を動かしていく。
今の私は、裸足だ。走れば今のように尖った小石を踏んでしまうのも仕方がないし、踏み出した足の数だけ痛みを感じるのも道理というもの。
けれどもその痛みを飲み込み、走らなければならない理由が、私にはあった。
その理由は――
「待て!」
怒号と共に私の背後から放たれたのは、紅蓮の炎。全てを飲み込んでしまいそうな灼熱が、私に嬉々として襲いかかる。私の足よりも、炎の方が圧倒的に速い。どう考えても逃げ切れませんっ!
「きゃっ!」
短い悲鳴を上げながら、私は無様にも地面に這いつくばった。うつ伏せで倒れ込んだ私を見下すように、灼熱の炎が頭上を通過していく。諦めずに足を動かしたのが幸いしたのか、私の足が木の根に引っかかり、転んだのだ。
炎が通りすぎるのと同時に、有機物を燃やした際発生する特有の臭いが、辺りに一瞬だけ漂う。逃げきれなかった私の髪が、何本か焼かれたのだろう。その事実と感じた異臭に、私は顔を歪ませた。
その異臭を発生させた炎は、私という目標に辿りつけずそのまま愚直に直進。進行方向に生えていた大樹に激突した。ぶつかった衝撃と騒音を置き去りにするかのように、炎は瞬く間に大樹を飲み込み、一瞬にして炎上させる。
「馬鹿野郎! この森を燃やす気か! 俺たちまで巻き込まれるぞっ!」
叫び声が聞こえた方に体を起こすと、そこにあったのは大量の水。危機を感じた私は反射的に再度身を伏せるも、その心配は杞憂に終わった。その水は私を避けるように通り過ぎると、まるで巨大な蛇のような動きで燃え盛る大樹に絡みつく。
水が大樹を締め上げる音と炎が鎮火される音が交じりあい、森中に不協和音が響き渡った。それを怨嗟の声としながら、大樹は煙を上げ、ゆっくりと崩れ落ちる。
瞬時に炭へと変えられた大樹を見て、恐怖と混乱が私の頭を支配した。
何なんですか? あの炎、あの水。まるで、自分の意志を持っているみたい!
そう思いながらも、私は自分の疑問を否定する。
違います。あれは、自分の意志を持っているのではありません。誰かの意志が、あれを生んだんです!
では、あの炎と水を生んだのは、一体誰なのか?
その正体を確かめるために、私は転んだ痛みに耐えながらも、体を起こし振り向いた。
そこに居たのは、三人の男たち。三人共冴えない顔をしているという共通点はあるが、それぞれ持つもの、身に付けているものに特徴があった。
一人は、何やら大量の記号が書き込まれた札を持っている。何が書かれているのか、私には理解できない。しかしあの札から煙が出ていることから、この男が炎を出したことは想像に難くなかった。
二人目の男が手にしているのは、一本の杖。握りの部分は球体でできており、それは濁った水たまりのような色をしている。この男が、水を操っていたのだろうか?
残る一人は、かなり厚手のローブを着ている。他の二人とは違い、私を遠巻きに見つめていた。
私は、彼らの正体を知っていた。
「……魔術傾倒者(マテリアリスト)」
人類の進んだ、一つ目の形。
「黙れ!」
「我々こそが人間だ! 人間としての、正しい在り方なのだ!」
「汚らしい科学傾倒者(バイオロジスト)のように、我々をその名で呼ぶな!」
思わずつぶやいた私に、男たちが激怒する。その怒気に身を震わせながらも、私は彼らの口にした言葉に思いを馳せていた。
科学傾倒者。人類の進んだ、もう一つの形。
科学傾倒者と魔術傾倒者。科学(ソフトウェア)と魔術(ハードウェア)。
元々一つだった人類がこうもかけ離れた存在に成り果ててしまった契機は、たった一つの技術からだったと言われている。
それは、ある電子名刺交換システム。何処にでもありそうなその技術は、他の技術と一つだけ違いがあった。
その電子名刺交換システムは互いに手を組み合わせると、つまり握手をすると腰につけた機械(デバイス)から名刺が送信され、人間の体を伝って互いの名刺を交換できるという、たったそれだけのものだった。
それが生まれた当時は、確かに珍しかったのかもしれない。
だからこそ、こう考える人が出てきてしまった。
人間の意志を体の外に送れる、と。
自分の意志を電子名刺のように体の外に出し、モノを操作することが出来るのなら、人間は動く必要がなくなる。人間の意志をソフトウェア化して、それをモノの上で動かせばいい。
人がモノと親和性を高めるという、人のモノ化。
こうして意志を体の外に切り出すことで人間の意志と肉体の在り方を変化させた、科学傾倒者が生まれた。
そしてある人は、こう思いついてしまった。
人間の体は電子回路に使える、と。
電子名刺が伝った道を延ばし、モノを自分の電子回路とすることが出来るのなら、人間は自分の体を拡張できる。ハードウェアであるモノを人間が取り込めば、意志をモノにも伝えられる。
モノが人と親和性を高めるという、モノの人化。
こうして意志が伝わる体を拡張することで人間の意志と肉体の在り方を変化させた、魔術傾倒者が生まれた。
自分の意志を『何かの媒体』を通して送るとう発想。そこは全く同じであるはずなのに、それぞれが自分たちこそが正しい人間の在り方であり、より健全な意志の在り方だと主張しあうようになった。
一方は相手のことをハードウェアに固執し過ぎている魔術傾倒者と呼び、軽視した。
一方は相手のことをソフトウェアに執着し過ぎている科学傾倒者と呼び、蔑称した。
そしてそれは、時代を重ねた今も変わらない。互いに自分たちこそ、人間の意志を正しく表現できていると信じて譲らないのだ。
だが、それはいい。ある意味これは、今の世界の常識。私が知っていても、覚えていても何も不思議じゃない。それよりも、私はもっと覚えていなければならないことを覚えていないことに気がついてしまった。
私は、何なんですか?
科学と魔術。私は一体、どっち側? そもそも、私は誰?
頭の中に記憶どころか自分の自己同一性(アイデンティティ)が全くないことに気が付き、私は愕然となった。思い出せない。何もかも。
視界が暗転し、地面の底が無くなってしまったかのような浮遊感に襲われる。それでも必死になって、私は自分の中に残った記憶をかき集めていく。
今朝は日が昇る前、私は地面を震わせるほどの咆哮に叩き起こされた。そして全身血まみれになっていることに気づいて、でも私の体には傷一つなくて、ここは危ないってとにかく逃げなきゃって、そこで自分が裸であることに気がついて慌ててその場にあった白衣を羽織って、それであそこからここまで逃げてきて――
「とうとう追い詰めたぞ! ったく、手間かけさせやがって!」
いつの間にか俯いていた顔を上げると、札を持った男が私に向かって近づいてきている。
そうでした! 私、追われてるんでしたっ!
自分の記憶が無いことに動転し過ぎて、今の状況を忘れていた。
いや、ひょっとしたら私は現実逃避をしたかっただけなのかもしれない。
魔術傾倒者たちに追われ、抵抗もできないまま無様に転がることしか出来ない自分。しかも、自分の中には何もない。空っぽの自分という存在から、ただ目を背けたかっただけなのかも知れない。
自分が存在しないという、人間としての意志が存在しないという絶望から、逃げたかっただけ。
「さぁ、こっちに来るんだ」
そんな失意に暮れる私を意に介さず、札を持った男が近づいてくる。
なんとか遠ざかろうと後ずさるが、それも無駄な抵抗。あっという間に男との距離は縮む。
本当に、自分の内にも外にも救いがない。
男が手を伸ばし、その距離が限りなくゼロに近づいたところで、それでも私はこうつぶやかざるを得なかった。
「誰か、助けて……っ!」
そうつぶやいた瞬間、その願いは突如飛来した一発の弾丸によって叶えられることになる。
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