第四章 Fellows of the Journey もう一人の道連れ

第四章 1 風に揺れるコード

 地底の厩舎で馬を調達すると、ロッシュはその場でただちに鞍に跳び乗って駆け出した。

 軍装に着替える手間も惜しんだ。

 単独行動には、むしろ身軽なほうがよかった。

 レイピアを腰に帯びただけである。


 馬の世話をしていたフィジカルの男たちがあわてて左右に跳びのく。

 出口の警備兵は長い隧道に轟きわたるひずめの音に驚き、急いで重い大扉を左右に押し開こうとした。


 わずかにできたばかりのすき間を、ロッシュはひらりとかわすようにすり抜けた。


 裏ゲートに達したところですこし速度をゆるめ、見張り台にいる警備責任者のエルンファードにむかって手を上げた。


 同期の帰還兵ではロッシュにつぐ若さだった男だ。

 有能さは互いに認め合っている。

 先刻、棺の中に女がいたという情報に関して箝口令を敷いたが、警備兵たちに対しては、ロッシュが何も言わなくても彼が徹底させてくれるはずだった。

 女の正体がカナリエルであることはもちろん教えてないが、ロッシュが急いでいるのがその件に対処するためだということはうすうす察していることだろう。

 ロッシュは、馬を止められることも用件を問われることもなくゲートを通過した。


「気をつけて行け。雷雲が近づいている。墓地に通じる道筋には、雨が降るとひどいぬかるみになる場所がいくつもあるからな」


 頭上から怒鳴るエルンファードの声に首を軽くうなずかせただけで、ロッシュはすぐに全力疾走に移った。


 端がくっきりとしたいかにも夏らしい雲のかたまりが、南東の方角からブランカのある山塊をつたい昇ってきている。

 もくもくと見る間に頭を越えたと思うと、白い輝きはたちまち失せ、灰色の天幕となって頭上に厚く垂れこめた。


 雷鳴におびえる馬をなだめながらも、速度は落とさなかった。難渋しはじめたのは、やはり雨が降りだしてからだった。


 ちょろちょろと道を横切る細い流れが幾筋もできはじめたと思うと、それらはまたたく間にまとまって小川のようになり、場所によっては道全体が濁流と化してきた。

 大きな水溜まりを迂回していったら、いつのまにか道をとんでもなくはずれてしまっていることもあった。


 ロッシュは思わず舌打ちしたが、立ち止まるわけにはいかない。

 この激しい雷雨のせいで、逃走にせよ、追跡にせよ、前方で進行中の出来事は一時的に中断をしいられているにちがいない。

 雨が上がるまでにすこしでも距離を縮めておきたかった。


 晴れているときならいちばんつらいはずの急坂が、今はいちばん思い切りとばせる場所になっていた。

 そこに、文字どおり落とし穴があった。

 坂を駆け上がったばかりのところに、崖から流れ落ちてきた泥がたっぷり溜まったくぼみがあったのだ。

 馬は思わず立ち止まろうとしかけたのに、ロッシュはくぼみを避けるために馬を跳躍させようとした。

 その間合いが悪かった。

 馬は前脚を両方同時に深いぬかるみに突っこみ、駆け上がった勢いのままドウッと前方へ倒れこんだ。

 ロッシュは空中に投げ出されたが、すばやく身体を回転させて着地した。


 馬は弱々しくあがくだけで起き上がれそうもない。

 もう使いものにならないと判断すると、ロッシュは一瞬のためらいもなく豪雨の中を歩きだした。

 

 雲の中を歩いているような濃いもやがたちこめ、方角の見当はおろか、これが正しい道かどうかも判然としない。

 唯一の手がかりは泥の中にところどころ残っている車輪の跡だった。

 先に出発した救護隊の台車がつけていったものだ。


 しばらくしてもやの前方に人の声が聞こえると思ったら、その救護隊の者たちだった。

 車輪が泥の深みにはまりこみ、動けなくなっていた。


「ひどい天候のときに出動させてしまったな」

 ロッシュは内心のあせりを押し隠し、にこやかに声をかけた。

「ロッシュどの!」

「無理をするな。雨はまもなく上がるだろう。水が引くまでここでしばらく休め」

「しかし、ファロンどのが……」

「あいつは少々の傷くらいでくたばるような男じゃない。日暮れまでにブランカに運びこめればいい。私が先に行って様子を見ておこう。すまんが、馬を一頭貸してくれないか。私の馬は脚を折ってしまったのだ」


 男たちはロッシュの気づかいに感謝し、すぐに最後尾の馬を台車からはずした。


 新しい馬を得られたことで、道はふたたびはかどるようになった。

 気まぐれな山の天候も急速に回復に向かった。

 雨に洗われて澄みわたった空気のむこう、小高い丘の上に、いくつかの黒い点が見えてきた。

 派遣した一個小隊がとっくにここを通り過ぎていったはずだが、案のじょう死体もファロンも放置されたままだった。


(しぶといやつめ)


 激しい雨に叩かれて、顔の血はあらかた流されていた。まだ生きていることは、ほかの死体と顔色をくらべれば一目瞭然だった。


 そのまま行き過ぎようとしたロッシュだったが、後から来る救護隊の手前も考え、馬を降りて肩にはおっていたマントをむぞうさにファロンの身体に投げかけた。


「カナ……エル」

 だらしなくゆがんだ唇から、何かにうなされているようなうめき声とともに、その名がもれ出した。


(こいつが――!)


 その瞬間、ロッシュの脳裏には、ことがここに至った過程の全体像が、天啓のようにありありと浮かび上がった。


 埋葬人の奴隷を生命回廊に入れたのは、ファロンのしわざだったのだ。

 なぜなら、寮母がそう依頼したからだ。

 では、何のためにそんなことをする必要があったのかといえば、カナリエルを密かに生命回廊から――いや、ブランカから脱出させるためだ。


 そう考えてみれば、秘密や謎の断片や、何かのほのめかしのように見えていたものが、その一筋の流れの中にいちいちすんなりと吸いこまれていく。


 生命回廊のシスターたちが臨時の休暇をあたえられたこと。

 一体だけの遺体の埋葬は予定どおりに行われたこと。

 見送りに出たのが寮母一人だけだったこと……。


 さらに、ロッシュとカナリエルの新居に入りこんだり、何かの薬をあおろうとした寮母の怪しい振る舞い。

 もっと挙げれば、今朝のカナリエルの奇妙な行動や不可解な言動。


 だが、カナリエルは、何のためにブランカから脱出しようとしたのか?


 その問いに達すると、ロッシュの頭脳はとたんに口ごもり、沈黙してしまう。


 理由はわかっている。

 ロッシュ自身と不可分に結びついている部分があまりにも大きすぎるのだ。

 自分自身の内部に、もっと深く問いの先端を届かせないとわからない部分があり、その問いを受け入れたくないという思いが、また同時に存在している。


 しかし、それ以外のことは明瞭に理解できる。

 ファロンは、男子禁制を犯した責任の一端を問われることを怖れ、埋葬人の奴隷と口裏を合わせるか、さもなければ口をふさぐために追ってきたのだ。

 いや、いかにも下衆な想像力が働きそうなファロンなら、カナリエルが棺に身をひそめていることにも、どこかで気がついていたかもしれない。


 自分の保身とカナリエルに対する欲望、そしておそらくロッシュへの対抗心や嫉妬といったものが複雑にない混ざり、ファロンをここまで衝き動かしてきたのだろう。

 そのあげくがこのざまだった。


 クレギオンに告げたように、棺の中の女がカナリエルだったという事実を隠蔽するしかなくなれば、ファロンの存在は当然じゃまになる。

 計算高い男だからまるめこむことは十分可能だろうが、後々そのつけは高くつくかもしれない。


(殺ってしまうか――)


 ロッシュは、自分の心に明確な殺意が兆すのを感じた。


 だが、冷静に判断すれば、今ここでファロンを手にかけることはいかにもまずかった。

 激しい雨は、ファロンの傷はもちろん、どの死体からもきれいに流血の痕跡を洗い流してしまっている。

 新たな傷を残したりすれば、ロッシュのしわざだと刻印するようなものだった。


「運のいいやつめ」

 ロッシュは、いつのまにか無意識のうちに抜いていたレイピアをさやに収めた。


 思わぬことで時間をくってしまったが、これもファロンのせいだという気がした。

 ふたたび馬を駆けさせながら、ロッシュは、あの男はいつか自分の手で抹殺するしかなくなるかもしれないという予感がした。


 墓地が果てる断崖の近くに、三つの人影があった。

 おもに帰還兵で構成されるブランカの軍制は、スピリチュアルの聖地を自らの手で守るという建前から、帝国軍とはちがって一小隊がスピリチュアル七名に補助のフィジカル兵三名となっている。

 彼らは遠目にも小隊付きのフィジカルの歩兵だとわかった。


 彼らは所在なさげに崖のあたりをうろついたり、無礼にも倒れた墓石に腰を下ろしたりしている。

 スピリチュアル兵たちが乗ってきた馬がその周りの墓石につながれていた。

 馬影の接近に気づき、最初はとまどった様子だったが、それが出動を命じたロッシュだとわかると救われたように駆け寄ってきた。


「隊長たちはどこだ?」

「それが、断崖を下っていったまま、だれ一人おもどりにならないのです」

「逃亡した奴隷を追っていったのだな」

「はい。戦いが始まるのを目撃しました。リールを使って何人も飛んでいる姿が見えましたから。その最中にいきなり雷雨が襲ってきて、厚いもやにおおわれて……それからいったいどうなったのか、ぜんぜんわからないのです」

 自分たちに何か落ち度があったのではないかとびくびくしながら、フィジカル兵の一人が報告した。


 ロッシュは崖の先端に立って下を見下ろした。

 壁面はすっかり日陰になってしまっていたが、ロッシュの視力をもってすれば動く人影を見つけることは不可能ではないはずだった。


「たしかに何も見えぬな」


 小隊が携帯してきたロープが墓石に結びつけられており、その先が崖下に垂らされていた。

 リールのコードの長さには限界がある。

 小隊長たちは、これをつたってある程度の高度まで降りていき、カナリエルと奴隷を発見したところであらためてコードをセットし、攻撃に移ったにちがいなかった。

 ロープには手応えがなく、振るとゆらゆら揺れるだけだった。


「もやが晴れた後、何度も呼びかけてみたのですが、何も応えがなく……その前には剣の打ち合う音や、怒鳴り合う声は聞こえていましたから、こちらの声がむこうに届かなかったはずはありません」


 全滅か――


 ロッシュは最初から、どういう事態になっているにせよ、カナリエルの逃亡を目撃した小隊は、奴隷によって全員が殺されたように見せかけるしかないと覚悟していた。

 しかし、もうその必要もなくなったようだ。


「やりとりの内容は聞き取れなかったのか?」

 兵士たちはおずおずと首を振った。

「声は隊長どののものらしいとかはわかったのですが、何を言っているのかまでは……」

 その中に女がまじっていたとは、思ってもいないようだった。


 それ以上はあえて追及せず、ロッシュはロープを握って崖から身を躍らせた。

 まるでリールを使っているような驚くほどの速度で降りていく。

 フィジカル兵たちは、断崖のふちからその様を眼をまるくして見守った。


 二〇〇メートル近くをたちまち下りきり、ロープの端にたどり着いた。

 近くの岩の根元にコードの先端のカギが引っかかっていた。

 よく見ると、カギが引っかけられていた跡がそのあたりにいくつもある。

 ここを前線基地にして戦いが始まったのだ。

 小隊長は、ロッシュがいるまさにこの場所に立って指揮をとっていたにちがいない。


 ロッシュには、その戦いぶりが眼に見えるようだった。

 相手は足かせで自由に動けない奴隷で、しかも女連れときている。

 完全になめ切って、小動物を代わるがわるいたぶるようなやり方だったにちがいない。

 だが、気づいたときには部下の大半を失ってしまい、あせった小隊長は自らも参戦せざるをえなくなる。

 あげくの果てに、全滅の憂き目を見るはめになったというわけだ。


(しかし、いくら戦術がまずかったにせよ、リールを完全装備したスピリチュアルの一個小隊を相手取って全滅させてしまうとは、敵はなんというやつだろう。その前には、ファロンたちも倒されている。もはや、たかが奴隷とあなどるわけにはいかないぞ……)


 どういう男だったのか、早急に調べなければならない。そう考えながら、ロッシュは残された唯一のコードに手を伸ばした。

 そこで、ふと奇妙な違和感をおぼえた。


(これは、どういうことだ?)


 コードは風に揺れており、カギは簡単に岩からはずれた。

 つまり、コードの先につかまっている者はいないということだ。

 敵に切断されてしまったか、あるいはもう上の部分は不要になって切り離したということか。


(いや、おかしいのはそういうことじゃない。残ったコードがたった一本しかないことだ)


 これは何を意味するのか?


(どうしてわざわざほかのコードを取り除く必要がある? ……これは取り除いたんじゃない。持って行ったんだ)


 そうか――


 ロッシュはようやく納得した。

 コードが何本もあれば、それにすがってかなりの距離を楽にすばやく降りていけるのだ。

 それに、コードが一本尽きるたびに、別のコードのカギを新たな場所に引っかけるようにしていけば、上で切断される不安も少なくできるだろう。


 だが、リールの操作は簡単ではない。

 それなりの知識と訓練が必要である。

 コードやリールを利用することを思いついて実行したのは、いくら有能であってもフィジカルの奴隷であるはずがなかった。


(カナリエル……)


 彼女はまちがいなく、自らすすんでブランカから脱出し、そして、ロッシュ自身から逃げていこうとしているのだ。


 ロッシュが抱いていた一縷の望みが、ついえた瞬間だった。

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