第四章 2 スピリチュアルとフィジカル
ゴドフロアはふくらはぎに巻きつけてあった布を解き、がちがちにこわばっている筋肉をていねいにもみほぐした。
足の先まで十分に血が通うとずいぶん楽になり、それまでどれほど苦痛に耐えてきたのかがあらためて実感された。
すぐ先に、夕陽を浴びて炎の燃えるような色に染まっている山塊を背景にして、若い女のシルエットが見えている。
感傷にひたっているのかもしれなかった。
彼女の身には今日一日でさまざまなことが起こり、立場はがらりと変わった。
変わったというより、すべてを捨て去ってきたのだ。
新しい何かを手にしたとはまだとても言えない。
後悔や不安は、いくらあってもおかしくなかった。
「ねえ。人には、人らしい眼の高さというものがあると思わない?」
「何のことだ?」
「この素晴らしい景色よ。これが本物の人間の世界だと思うわ。見上げるほどに山々がそびえていて、見下ろせば深い谷間に神秘的な静けさをたたえた森があって、その間に空を映している鏡のような、不思議な部分も見える」
「それは湖だ。でかい……つまり、水溜まりだな」
「そう、あれが湖なのね。なんてきれいなのかしら」
カナリエルはため息まじりのうっとりした声で言った。
山々を見上げるような視点から眺めたことがなかったり、森や湖を身近に感じたことがないなどということは、山岳地帯に住むふつうの人間では考えられない。
スピリチュアルとはそういうものなのか、それとも上流階級の娘だからなのか、ゴドフロアには想像するよしもなかった。
ブランカから逃げ出そうとする動機は、そのあたりにもあるのかもしれない。
だが、どうやら感傷的になっているのではないらしいとわかっただけ、ゴドフロアはとりあえずすこし気が楽になった。
カナリエルは景色に見入ったまま、結い上げていた髪を下ろした。
長くてくせのない髪がファサッとこぼれるように広がる。
頭をこころもち傾け、手ぐしであざやかにとかしていく。
シルエットになっているせいで、ゴドフロアには、その流れるようなしぐさがまるでリズミカルで優雅な踊りでも見ているように感じられた。
「人らしい眼の高さというには、まだここは高すぎるな。集落はもうすこし下らないとない。低すぎれば、こんどは毒のガスの中に突っこんでしまう。聞いた話だと、ガスの厚さは、三〇〇メートルほどもあるらしい。つまり、もう長い間人間は海だとか平野だとかいうものを見たことがないってことだ」
「ガスって、どんな感じ?」
「紫色の気体だ。遠目には雲海を見下ろす感じだな。光線の具合によっては、きれいだったり神秘的に見えないわけでもないが、毒だと聞かされればやっぱり不気味だ。たぶん、雲や霧とは濃さがまるでちがうからだろう。えらくゆっくり波打ちながら、大地が移動するように流れていくんだ」
「人を襲ったりしないの?」
「強風が吹きつける冬には、そういうこともある。何年か前、ひどい嵐でガスが山を越えてきて、盆地の村がひとつすっぽり浸されたと聞いた。逃げ遅れた人や家畜はみんな死んだらしい。そこには、あと何年かは近づけないだろうな」
「人間が住めるところは限られているのね」
「そういうことさ。安全に住める土地や作物が穫れる豊かな土地は、さらに限られている。だから、昔から争いが絶えたためしはないし、そのおかげでおれのような傭兵稼業も成り立っているってわけだ」
ゴドフロアは、皮肉っぽく笑った。
カナリエルがゴドフロアのほうへはいこんできた。
ここは、大きな岩と岩の間にできたすき間のような穴ぐらだ。
奥行きは十分だが、天井はひどく低い。
ゴドフロアは突き当たりの壁に羽布団を背もたれにして身体をあずけ、胸から上をやっと持ち上げていた。
横幅も狭い。カナリエルが入る空間を作るためには、側面に背中を押しつけて横たわり、カプセルを抱き寄せるようにしなければならなかった。
「ありがとう」
カナリエルはにっこりほほ笑み、反対側の壁との間にできたすき間に身体をはさみこむようにして横たわった。
髪はゆったりとまとめてあり、肩のあたりで結んで優雅に胸の前に垂らしている。
つい数刻前まで戦いのまっただ中にいたのと同じ娘とは、とても思えなかった。
ゴドフロアはすぐ横に来たカナリエルから眼をそらし、外を見た。
高地の夕暮れはまるで夜が落ちてくるかのようだ。
さきほどカナリエルの背景を彩っていた炎の色はもう黒い稜線の形だけとなり、暮れなずむ紺碧の空がそれをふちどっていた。
まもなくその空間は無数の星に埋めつくされることだろう。
「そこに、スピリチュアルが攻めこんできたのね」
「え?」
「あなたたちフィジカルが、貴重な土地を奪い合っているところに、スピリチュアルがいきなり現れたんでしょ」
「ああ。……今とはずいぶん、勢力図も国々の版図も違っていた頃のことだ。スピリチュアルは、兵力は少ないにもかかわらず、見たこともない強力な武器を所持していて、個々の兵士の能力もはるかに高く、みごとに統率されていた。街を遠くから破壊し、兵士も女子どもも区別なく殺戮するような恐ろしい戦いぶりで圧倒したと伝えられている。スピリチュアルの出現で、毒のガスに取り巻かれたこの大陸の様相は一変したんだ」
「魔物の襲来のように恐れられたんでしょうね」
「たぶん、そうだろう。一〇〇〇年以上昔には、人間は平地を埋めつくすほどに繁栄して、今よりずっと豊かで便利に暮らしていたという。まるで、そんな時代から時間を超えてやって来た侵略者であるかのように、異様な者たちに思われたことだろう。だが、その出現を歓迎する者もいたらしい」
「どういうこと?」
「おもに勢力争いや集団の中で虐げられていた者たちだ。スピリチュアルはだれかれ容赦なかったが、結果的に大きな勢力や古い支配の構図をつぎつぎぶち壊すことになった。スピリチュアルは、欲望と混乱と貧困が渦巻くこの世界に、理性的で平等な支配をもたらしてくれると信じられたのだ」
「それと平和ね。今でもそれが、スピリチュアルの理想よ」
「理想をかかげたり信奉するのと、それを実現するためにどんなことをし、他人にどう受け取られるかは、また別な問題だがな。すくなくともスピリチュアルの軍団は、一時期、神のようにあがめられ、恐れられもしたのだ」
「〝かみ〟って何?」
「おまえたちには〝神〟って言葉はないのか。そうだな……うまく説明できないんだが、『造物主』とか、『救世主』とか呼ばれる特別な者のことさ」
「造物主というのはありえないことだけど、救世主ということなら、スピリチュアルがめざす理想は、まさにそういう存在になることだわ。いいえ、そういう存在だと信じているのよ」
「おまえは信じているのか?」
ゴドフロアはカナリエルのほうを見た。
穴ぐらの奥はもうほとんど光が届いておらず、カナリエルの大きな瞳がキラリと光るのだけが見えた。
「わからない……自分がスピリチュアルであるという誇りは、まちがいなくあるわ。でもそれは、素晴らしい素質を持って生まれてきたという喜びであって、だれか人と比べて優れているから見下していいとか、他人を意のままに従える権利があるなどと思ったことはないわ」
「おまえは寮母の娘で、皇帝の娘だ。それは、最初から争う相手がいない、恵まれた身分が言わせている言葉だとは思わないか」
「そう……そうかもしれない。でも――」
「ブランカの外に出たこともなかったのだろう」
「ええ、たしかにあなたの言うとおりよ。そのブランカだって、すべて知りつくしているわけではないわ。しょせん、世間知らずの箱入り娘のたわごと、きれいごとかもしれない……」
カナリエルが暗闇の中で深くため息をつくのがわかった。
ついカナリエルを責めるような言い方になってしまった。
ゴドフロアにそんなつもりはなかったが、スピリチュアル的なものの見方にこだわったり、特権階級意識を持ちつづけることは、この先カナリエルにとって百害あって一利もない、ということだけは肝に銘じておいてもらいたかった。
「……スピリチュアルを歓迎する空気は、しかし、たちまち冷えきってしまったんだ」
短い沈黙があったあと、ゴドフロアはつづけた。
「なぜだかわかるか? 『スピリチュアル』と自称し、自分たち以外の者を『フィジカル』と呼んで区別したからなのさ。人々は、そこに差別的な匂いを敏感に感じ取ったんだろうな。今なら、スピリチュアルがおれたちとはちがう生い立ちをしていて、その事実にもとづく区分にすぎないらしいことはある程度常識化しているが、当時はそうじゃなかった。きれいな顔をして、笑みを浮かべながら平気で人を動物のように殺すとか、その肉を喰らうらしいとかいうとんでもない噂までが、まことしやかに言い立てられたのだ」
暗闇の中で、カナリエルが身を固くして聞いているのがわかった。
「そういう感じ方は、スピリチュアルと直接触れ合う機会の少ない者たちの中には、いまだに根強く残っている。おれは、今ではむしろスピリチュアルのほうが、その裏返しの優越感や差別意識を持ちすぎていると思うがな」
できるだけ公平な言い方に聞こえるように話を結んだつもりだが、カナリエルの反応はわからなかった。ゴドフロアはそのまま黙りこんだ。
今日一日の疲れは尋常なものではないはずだった。
しかし、ひさびさの闘いは激しい心のたかぶりも同時にもたらし、すぐには眠れそうになかった。
ゴドフロアは、ブランカの追跡態勢がまだろくに整っていない今夜が、これから長いものになるはずの逃避行の中で、おそらくいちばん安全な時間ということになるだろうと推測していた。
先々の不安を考えてもきりがない。今はただ、解放された喜びを素直にこころゆくまで味わうべきなのだ。
予想したとおり、穴ぐらの入口の形に星々が輝きだした。
ブランカに連行されて来て以来、およそ二年ぶりに見る夜空だった。
その期間の大半を、奴隷を閉じこめる地底の洞窟牢で過ごした。
牢にはつねにすえたような臭気がこもり、一筋の光も届かなかった。
ゴドフロアは、胸いっぱいに清澄な夜気を吸いこんだ。
(自由だ――)
「自由になれたんだわ」
自分の頭に浮かんだばかりの言葉を、もう眠ってしまったものとばかり思っていたカナリエルがつぶやいた。
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