第四章 3 結婚と〝刷り込み〟

「あのままブランカにとどまっていたとしたら、けっしてかなわなかった願いよ」

 カナリエルは、自分の声にそれを口に出して言うことの喜びがこもっているのがわかった。


「わたしね、結婚することになっていたのよ、一〇日後に」

「結婚だと?」

「そうよ。結婚してしまったら、たぶんわたしは、一生〝自由〟を自分のものとして感じることはなかったと思う」

「ブランカの外に出られないというのか? しかし、アンジェリクには、スピリチュアルの夫婦がたくさん住んでいるじゃないか。女同士で連れ立って通りを歩いているのもめずらしくない。今はまだあの街だけの光景かもしれないが、スピリチュアルの女でも、そのうちあちこちの都市に行けるようになるだろう」

「そうね。母上は結婚しても生命回廊の仕事からかたときも離れることがなかったけど、わたしが望めばアンジェリクでしばらく暮らすくらいのことは許してもらえたかもしれないわ。でも、そういうことじゃないのよ」

 カナリエルはうまく説明できないのがもどかしかった。


「相手はどんなやつなんだ?」

「スピリチュアル一の美男子で、有能で、多才な人。ブランカじゅうの若い娘たちがあこがれる存在よ」

 カナリエルが真面目な声で言うのを聞いて、ゴドフロアは苦笑まじりに言った。

「そいつをふって逃げてきた当人のおまえが言うのが本当なら、よっぽど根が性悪で嫌なやつなんだな」

「たしかに気位は高いけど、わたしに対してはきっと優しくしてくれただろうし、意見や希望もちゃんと尊重してくれたと思うわ」


「じゃあ、いったいどこに不満があったんだ」

「母上にもそのことを聞かれたけど、ロッシュに満足できないということではないの。でも、はっきり言えることは、結婚するというのは、それだけでスピリチュアルの中での立場を自分で選んで固定しまうことよ。ことに、彼と結婚してしまったら、もうわたしにはけっして自由というものはありえなかったと思うわ」

「おまえを、無理やり従わせようとするというのか?」

「ロッシュの高い理想や強い野心の前には、だれもが従わざるをえなくなるでしょう」

「おまえが言った、スピリチュアルの理想を体現したような男なんだな」

「ええ。むしろ、彼の理想を甘く薄めて、ただのあこがれや単なるお題目にしたのがスピリチュアルの理想だと思えるくらい。ロッシュは自分の理想をかなえるためには何でもするだろうし、他人にも徹底していくでしょう。帝国やスピリチュアル自体でさえ、あの人の考えるように変えていくかもしれないわ」

「そんなやつが、おれたちを追っかけてくるわけか」

 カナリエルは答えなかったが、闇の中でうなずく気配があった。


「ロッシュか……」

 その男なら、ほんの一時期だったが、生命回廊の警備責任者をファロンと交替でつとめていたはずだ。

 埋葬人の仕事をするときに何度か見かけたことがあった。

 人目を引く秀麗な容貌をしていて、いかにも怜悧そうな、きわだった印象があった。

 あの男なら、たしかにカナリエルと似合いのスピリチュアルの男女と言えるかもしれない。

 敵の具体的な顔が見えることはいいことだ。

 あいつならどう出るかと、想像することが可能だからである。

 新たな闘志もわいてくる。


「結婚――というのは、どういうことなんだ?」

「どういうことって?」

「スピリチュアルは、カプセルに入って生まれてくるんだよな。だが、おまえにはちゃんと両親がいる。そして、おまえもいつか子どもを持つことになるはずだったのだろう。だったら、その……」

「ああ、どうやって子どもを作るのかってこと?」

「そうだ」


「残念ながら、わたしたちスピリチュアルには生殖能力がないの。生命回廊には、厳しい基準で精選された精子と卵子がずっと昔から保存されていて、簡単に言えば、寮母の手でそこから任意の二つが選び出されて結合されるのよ」

「てことは、おまえは、たまたま今の時代に生まれてきただけだってことか?」

「もしかしたら、何百年も前に生まれていたかもしれないわね」

 驚くゴドフロアに、カナリエルはおかしそうに言った。


「つまり、スピリチュアルの家族は、すべてが仮の家族というか、直接的な血のつながりがないんだな」

「そのとおりよ。でも、そうなると、スピリチュアルの間には、生まれた順番や能力、容姿というような差があるだけで、家族であれ社会であれ、全員が横並びということになるでしょ。子どもを作れなければ、男女の違いだって本質的にはさほど意味のあることではなくなってしまうのよ」

 フィジカルのゴドフロアにはあまりにも奇妙で難しい話だとわかっているから、カナリエルはゆっくりと噛んで含めるように説明した。

「わかるかしら。それは平等というのとはちがうわ。無縁の個人がバラバラに存在しているだけ。ただ数がそろっているだけでは、社会は成り立たないのよ。そこにはかならず秩序が必要なの。秩序があってこそ、初めて平等ということもありうるわけ」


 ゴドフロアはそんなふうには考えたこともなかったが、自分が生きてきたフィジカルの社会をあらためてふり返ってみれば、それはしごく当然なことだった。

「だとすると、スピリチュアルは秩序の問題をどうやって解決しているんだ?」

「そこよ。いい? 秩序のいちばん小さな単位は、家族よね。親がいて、子どもがいること。親は自分の分身である子どもを何を犠牲にしてでも守ろうとし、子どもはそういう親を無条件に信じ、頼ろうとするものよ。それを逆にしたの」

「逆だって?」

「スピリチュアルというのは、遺伝子操作というものによって、普通の人が持つ能力のある部分を飛躍的に向上させた人間なのよ。その代償として生殖能力が失われたんだと思うけど、そこで代わりにつけ加えられたのが、〝刷り込み〟というものなの」


「何だ、それは?」

「生まれて最初に目撃した、生きて動いているものを親と思いこむ、という特殊な性質のことよ。スピリチュアルの結婚式とは、子どもが誕生した瞬間――つまり、カプセルから出て眼を開いた瞬間に、その前で、親となる男女が誓いの言葉を交わすことなの」

「驚いたな。結婚と子どもの誕生が、同時ってことか」

「そう。子どもはその男女を一生自分の親と思いこむことになるわ。いわば、子どもによって親子が結びつけられ、家族が形作られるわけよ」

「まったく信じがたい話だな」

 ゴドフロアは言い、深々とため息をついた。

 そして、ふと、あることに思い当たった。


「そうすると……じゃ、こういうことにならないか」

「何?」

「このカプセルの中の子は、もしかしたら、一〇日後におまえの娘になるはずだった、とか」

「あっ」

 カナリエルは驚きの声を上げた。

 カプセルの上部を急いで手探りし、震える指先でスイッチを入れる。

「そうかも……いえ、きっとそうだわ」

 布を下にずらすと幼い女の子の顔が見え、漏れ出した神秘的な青白い光がカナリエルの美しい顔を浮かび上がらせた。

 そこに現れた驚きの表情が、たちまち感激となんとも言えない慈愛に満ちた笑みに変わっていった。


「わたしったら、なんて馬鹿だったの……」

 カナリエルの両眼に、みるみる大粒の涙が盛り上がった。

「フィジカルの中で暮らすことになれば、わたしはずっとひとりぼっちかもしれない。母上はそこまで心配してくれていたんだわ。なのに、わたしはこの子を、ブランカから脱出するための隠れ蓑とか、大きなお荷物くらいにしか考えていなかったなんて……」


「おれにとっては、あいかわらず大きなお荷物だがな」

 ゴドフロアが、まぜ返すように言った。

「ごめんなさい、ゴドフロア。あらためてお願いするわ。わたしといっしょに、この子もかならず無事に送り届けてほしいの」

「だが、この子はスピリチュアルだ。この子を抱えつづけるってことは、それだけスピリチュアルとのつながりを断ち切れないってことだぞ。おまえがやっと手にした自由を縛ることになるとは思わないか?」

「でも……そう、自由って、そういうものかもしれないわ。何もかも捨ててしまってはいけないのよ。自分にとって大切なものを持って、それを守りつづけようとするのでなければ、ただ何かから逃げていることにしかならないんだと思う。この子はきっと、わたしの新しい希望になってくれるにちがいないわ」


 ゴドフロアは眉根をよせて、低い天井を見上げた。

「……まあ、どういうことであれ、戦場でも、生きがいというか、積極的な気持ちになれるものがあることはいいことだ。しかし、時にはそれが足かせになることもある。重荷になるというだけじゃない。それに気を取られるあまり、決断力が鈍ったり、ためらいが生じたりもしかねないものなんだ」

「覚悟しているわ」

「じゃあ、その大切なものを失ってしまうようなことになったらどうする? 生き延びようという気力さえ喪失してしまうかもしれない。強すぎる思い入れは危険だぞ。この子を捨てていけとは言わない。だが、今はまだ逃げ切ることに集中するんだ。いざとなったらひとりででも逃げてやる、というくらいの気持ちでいることだ」

 ゴドフロアの意外なほど強い語気に気おされ、カナリエルは思わずうなずいていた。

 これまで無数の死線をくぐり抜けてきた傭兵の覚悟と、そして孤独を見せつけられた思いだった。


「あなたには、大切なものはないの?」

「ない」

 ゴドフロアは間髪入れずに答えた。

「ご両親は?」

「父親はいない。母親は酒場女だった。住みこみで働いていたんだが、赤ん坊のおれはいつもガヤガヤとうるさい店の片隅で遊ばされていた。部屋は客の男たちを引っぱりこむために必要だったんだ。親父はやっぱり傭兵だと言ってた。だが、どんな男だったか、だれに聞いても知らなかった。母親も流れ者だったし、おれがだれの子なのかなんて、本当のところ自分でもよくわからなかったんだろう」

「想像もつかない生い立ちね」

「おたがいさまさ」

 ゴドフロアは、苦笑しながらつづけた。


「母親はおれをある村の酒場に置き去りにして、行きずりの男とどこかへ逃げた。引き取ったのは、鐘楼守と見張り番をかねていた身寄りのないじいさんだった。じいさん自身も、村人からお情けで寝ぐらと食い物をあたえられていたんだがな」

「じゃ、その人が育ててくれたわけね」

「親切心で引き取ったわけじゃない。夜中になると自分は眠いもんだから、おれを鐘楼に上らせて見張りをさせた。そのためだったんだ。だから、おれのほうは昼間は眠くて、番人部屋の隅でごろごろしているか、使いで出かけたりしても頭がぼんやりしてふらふらしている。悪ガキどもの格好のいじめの的だったよ。やつらには、おれが夜中にしてる仕事の大変さや重要さなんて理解できるわけがないからな。『怠け者』とか『ただ飯食い』となじられて、小さなガキにまで石を投げつけられたもんだ」


「どうして、あなたは傭兵になったの?」

「何年かそうやって暮らすうちに、親父に似たのか、歳の割にはでかい身体になっていた。反対にじいさんは、呆けて鐘楼に上がることもできなくなった。そんなある日、歳かさのガキどもが裏通りで待ち伏せして、おれを袋叩きにしやがった。頭にきて夜中に鐘をめちゃくちゃに打ち鳴らしてやった」

「そんなことしたら大騒ぎになるでしょ」

「火事だ、敵襲だって、いい歳こいた大人たちが右往左往してたよ。胸はすっとしたが、倍以上の袋叩きにあった。さらに悪いことに、その三日後の夜に野盗の群れが襲ってきた。こんどこそ本当なのに、いくら鐘を叩いてもだれも本気にしない。おれはじいさんの錆びた剣をひっつかんで、村の門を守ろうと必死で戦ったよ」

 カナリエルは息をのんでゴドフロアの話に聞き入った。

「剣なんて扱い方もろくに知らないし、人を殺すのも初めての経験だ。それでも何人かは倒したが、火もかけられるし、村じゅうがどんどん地獄のようなありさまになっていく。おれは、あっと気がついた。このままここにいたら、こうなった原因はおれだということにされてしまう、とな。おれは倒した野盗から武器と防具類をはぎ取って、その場から一目散に逃げ出したんだ」


「そして、傭兵をやることになったのね」

「そういうことだ。それ以来、いつも生きるか死ぬかの瀬戸ぎわに立ってきた。おれにとって大切なものは何かなんて、考えたこともなかった。安らぐ時間があったとすれば、そうだな……母親みたいな酒場女を抱いている間くらいのものかな」

 ゴドフロアはさらりと言ったが、カナリエルはどぎまぎして、ちょっと眼をふせた。

「……じゃ、お母さんに会いたいとは思わない?」

「頭にちらりと浮かんだこともないよ。傭兵連中には、縁起をかついでお守りをやたらに拝んでいる者や、ためこんだ金の勘定ばかりしているやつ、故郷に残した女のことを想いつづけているやつとか、いろいろいたがな。おれは天涯孤独だ。それでいい」

 ゴドフロアが最後につぶやくように言うと、小さな穴ぐらは沈黙に満たされた。

「明かりを消してくれ。夜明けとともに新たな追っ手がかかるだろう。できるだけ眠っておかないとな」

 カナリエルはカプセルに布を元のようにかぶせ、スイッチを切った。


 いつのまにか月が出ていて、入口の壁が白っぽい光でふち取られ、その反射で奥のほうまでがぼうっと明るんでいる。

 カナリエルが、そのほの暗さに合わせるように声を低めてささやいた。

「ごめんなさいね。わたしは……フィジカルの女の人のようなことは、させてあげられないの」

「もちろんだ。今はそんなことをしてる場合じゃない」

「いいえ、そういう意味じゃないのよ。スピリチュアルの女にとって、あれは禁断の行為なの。もし感情にまかせてしてしまったら最後、死に至ってしまうのよ」

「本当か?」

「わたしたちのいちばんの弱点だから、絶対口外してはいけない秘密なんだけどね。だから、これからもずっとだめ……」

「そうか――」

「そして、もし、わたしがだれかに無理やりされそうになったりしたときは、どうかお願いだから、守ってちょうだい」

「……わかった」


「ありがとう。――ねえ、手を出してみて」

 カナリエルは言い、自分の手をカプセルの上のあたりにかかげた。

 ゴドフロアは、その動きに誘われるように片手を持ち上げた。

 カナリエルがそこに手のひらを合わせてきた。

 信じられないくらいやわらかくて、すべすべしている。

 カナリエルには逆に、ゴドフロアの手は岩のように固くてざらついて感じられていることだろう。


「代わりに、あなたがぐっすり眠れるようにしてあげるわ」

 そう言うと、カナリエルがそっと眼を閉じるのが、薄闇を通して見えた。唇を小さくすぼめ、顔を持ち上げるのといっしょに、ちょっと前へ突き出すようにした。

 ゴドフロアは、まるで口づけをせまってくるようなその動作に、どきりと心臓が高鳴った。


 そのとたん、手のひらがカッと熱くなり、ゴドフロアの全身を内部から炎が吹き上がるような衝撃がつらぬいた。

 身体が、どろどろに溶けて崩れていく――

 まさにそんな感覚だった。


 その熱がじわじわとしみとおっていき、隅々にまで広がりきったと思ったとき、ゴドフロアの意識は、同時に燃え尽きたかのように暗転していた。

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