第三章 5 虚空からの援軍

 いや、カナリエルを抱きとめたというより、彼女の身体にすがりつくようにして、ゴドフロアはやっと一息つくことができたのだった。


「ゴドフロア!」

 その疲労困憊の表情を見て、カナリエルは狭い足場をゴドフロアのために半分空けた。

 命綱は切り離されてしまっていたが、比較的楽に立てる場所に移されていたのだ。

 カナリエルは立っているのもやっとの状態のゴドフロアの身体を抱きしめ、そうすることで懸命にささえた。


 しかし、最悪の事態はすぐにやって来た。

 残された唯一の命綱となったゴドフロアが握っているコードが、とうとう無情にも根元から切られ、二人の頭の上にぱらりと落ちてきたのだ。

 とっさに岩にすがって墜落をまぬがれたが、これで完全に身動きがとれなくなった。

 しかも、どこからか不気味な鳴動が起こり、空気をビリビリと震わせはじめた。


「何?」

 カナリエルが、不安なおももちでゴドフロアの顔を見上げる。

「援軍……かもしれんぞ」

 ゴドフロアは、わけのわからないことを言った。


 だが、カナリエルの眼に映ったのは、崖の高いところを蹴って怪鳥のように空中に飛び出した隊長の姿だった。

 ほぼ同時に、ゴドフロアは崖下を回りこんで急上昇してくる兵士を発見していた。

 敵は挟み撃ちする作戦に出たのだ。


「しっかりしがみついてろ」

 ゴドフロアに言われるまでもなく、カナリエルにできることはそれしかなかった。

 敵のねらいはあきらかだった。

 支えを失った二人を、まず隊長が一撃で追い落とす。

 兵士は、下で待ちかまえていてカナリエルを受けとめる役だ。

 隊長は今までのだれよりも遠く高く舞い上がって勢いをつけ、レイピアを高々とかかげてまっすぐ二人めがけて飛翔してきた。


 眼もくらむような閃光が走ったのは、そのときだ。

 光の帯が一筋、はるか上空から降りてきて、空中に突き出されたレイピアを青白い炎のようにまぶしく発光させた。

「ぎゃああああっ!」

 絶叫までもが、まさに怪鳥のようだった。

 隊長の身体は人間とは思えないほど奇妙な形にねじ曲がり、たちまちあちこちから煙を吹き出した。

 そして、血なまぐさい惨劇にふさわしい背景を急いで用意しようとするかのように、不穏な色をした雲がもうもうと逆巻きながら上空を閉ざしつつあった。


 墓地のある崖の上にわずかにその気配を感じとったときから、ゴドフロアがずっと待ちつづけていたのが、この雷雲の襲来だった。

 空中でレイピアを振りかざして打ち合いをしていれば、稲妻のひらめきがどこかで戦況を一変させるきっかけになるだろうとは予感していた。

 それが、最後の最後で強力な救いとなってくれたのだった。


 しかし、一瞬にして見るも無惨な黒こげの塊になったというのに、あろうことか、惰性のついた焼死体は、虚空に煙の帯を引いたまま二人めがけて突進してくる。

 どこにも逃げ道はない。

 そうかといってこのまま動かずにいれば、死体がぶつかった衝撃で谷底へ叩き落とされてしまうことだろう。


「きゃーっ」

 カナリエルが、この日何度めかの悲鳴を上げた。

 死体が衝突する寸前、ゴドフロアは崖を蹴った。

 その瞬間が、まさに最後に一人残った兵士が真下に来たところだったのである。


 ゴドフロアはカナリエルを抱きかかえ、そのコードに飛びついて一気に滑り降りた。

 思いもよらない展開に、兵士は完全に動転していた。

 とっさに武器を抜くこともできず、頭上から急接近する二人を呆然と見上げるばかりだ。

 ゴドフロアのレイピアの突きをまともにのど元に受け、あっけなく即死した。


「待って。コードを切ってはだめ!」

 カナリエルの声に、ゴドフロアはレイピアを振りかぶった手を寸前で止めた。

 そうか――

 瞬時に納得した。

 疲れきったゴドフロアには、カナリエルまで抱えた状態でこれ以上コードにぶら下がりつづける力は残っていない。

 カナリエルは、兵士の死体がしばらく身体を休めておける足場になることを指摘したのだ。


 しかも、直後に激しい雨が降り出した。

 墓地のあたり一帯に降る雨を集めた濁流が、滝のように襲いかかってきた。

 岩が濡れて滑るどころではない。

 空中に吊り下がっているのでなければ、あっという間に押し流されてしまったことだろう。


 雷の標的になりそうなレイピアは、ためらいもなく捨てた。

 足かせの鉄球やカプセルの金属部分はどうにもならない。

 兵士の鉄製の面頬などもそうだ。

 落雷しないことを、ひたすら祈るしかなかった。


 雷鳴はじきに間遠になっていったが、かわりに雨の勢いが強くなった。

 濁流はさらに激しさを増して落ちかかり、周囲は不気味な黒雲にすっぽり包まれた。

 激流に翻弄され、強風に揺られつづけた。

 とても女と抱き合っているような気分にはなれなかった。

 頼りない小枝に、必死にすがりついているのと変わらない。

 死体を足場にしていることなど、完全に頭から消えていた。

「たまらんな」

「まったくだわ」

 思わず口をついて出た短い言葉が、二人がかわした唯一の会話だった。


 どれくらい時間が経過したのかわからないが、ふと気がつくとほのかに明るさがもどっていた。

 いったんそうなると、上下左右さえわからないほど濃く閉ざされていた視界がどんどん開けていき、風もなくなってきた。

 雨がやんだ後も岩肌の流れはしばらくつづいていたが、それもついに断続的にしたたるしずくにすぎなくなった。


「わたしたち、生き延びたのね」

 カナリエルが、小さくほほ笑んだ。

 血なまぐさい戦場は、雨できれいに洗われていた。

 すくなくとも夏の熱気はさわやかな空気にすっかり入れ替わり、気分を一新してくれた。


 ゴドフロアはうなずき返したが、まだ安堵の表情にはほど遠かった。

 夕立の去った山岳は、日没が近づきつつあった。

 温度も急速に下がっていくだろう。

 ずぶ濡れの身体でいつまでもここに留まっているわけにはいかないのだ。


 すると、カナリエルがゴドフロアの腕をほどき、足元の死体のほうへはい降りていった。

「何をするんだ?」

「何って、これのために、あなたにコードを切らないでって言ったのよ」

 兵士の短剣を抜き取り、軍装のあちこちを切断しはじめた。

 最後に眼をかたくつむって顔をそむけると、何かをブツリと切り離した。


 死体があっという間に落下していき、カナリエルは唯一残された肩当てのようなものにぶら下がっていた。

 衣服を掛けるハンガーのような形で、コードはその上端から延びている。

「これがリールよ。わたし、小さい頃からどうしてもこれが欲しかったの」

 あきれたことに、おもちゃを手に入れた子どものように満面の笑みを浮かべた。


 ゴドフロアを安定した足場に残すと、カナリエルは、水を得た魚のようなみごとな身のこなしで虚空に飛び出していった。

 身体に装着する革ベルトを死体といっしょに切断してしまったために、両手で肩当ての部分につかまるようにして操縦している。

 それでもなんの不自由もないようだった。

 崖をポーンポーンと蹴りながら、どんどん上に登っていく。


 もどって来たとき、カナリエルの手には何本かのコードの束が握られていた。

 ゴドフロアが倒した兵士たちのものだ。

「これを結び合わせてリールに装填すれば、ずっと速く楽に降りられるわ」

 カナリエルは得意そうに言った。


 たしかにかなり役に立ちそうだった。

 コードの先端には三つ股になったカギがついていて、ちょっとした岩の出っぱりでもあればしっかり固定することができる。

 使い方しだいでは武器にも使えそうだ。


 しかし、コードを全部をつないでも、残った高さのせいぜい三分の一ほどにしかならないことがわかった。

 一度使ったものは回収できないわけだから、長さが足りなくなった分は、けっきょくまた地道に交替ではい降りていくしかなくなる。

 いずれにせよ、今日中に断崖を降りきることは不可能だった。


「じゃ、こうしましょう」

 カナリエルが提案した。

「わたしが夜露をしのげそうな場所を探すわ。そんなところが降りていく途中に都合よくあるとはかぎらないでしょ。リールを使って広く振り子運動しながら探せば、きっとどこかに見つかると思う」

 ゴドフロアに異論はなかった。


「しかし……」

「何か問題ある?」

「いいや、そうじゃない。おれはおまえを守るようにと雇われたはずなのに、あべこべにだいぶ助けられている。これでは傭兵失格だな」

 ゴドフロアは、苦笑いを浮かべて言った。


「あなたを傭兵として雇ったのは母上。わたしにとってはちがうわ」

「何だというんだ?」

「大切な仲間よ」


 さわやかな表情でそう言い残し、カナリエルはふたたび勢いよく虚空に身をおどらせた。

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