第三章 Battle on the Cliff 絶壁の死闘

第三章 1 〝気〟と〝気〟の格闘

 ドア口の薄暗がりからあらわれたのがロッシュだとわかったとき、ミランディアは驚きに身体がすくんだ。

 あわてて手にした小ビンを身体の反対側に隠そうとする。


「何ですかそれは?」


 ロッシュは、ためらいのない足どりでつかつかと部屋の中に踏みこんできた。


 ふだんなら、毅然としてただちに非礼をとがめるところだが、ミランディアはすっかり気持ちが動転してしまっていた。

 握りしめた手を背中に隠し、ベッドの上を後ずさった。


「見せてください、マザー・ミランディア」


 ロッシュが眼の前に手のひらを差し出す。

 ミランディアは、とっさに空いているほうの手でロッシュの手首を取った。

 払いのけられるものとばかり思っていたロッシュは、一瞬身動きを封じられた。


 そしてつぎの瞬間、ロッシュの全身に電撃に触れたような衝撃が走った。


「ぐわっ」

 思わずのどから苦痛のうめき声がもれた。


 衝撃はしびれとなり、握られた手首からじんじんと広がっていく。

 マザー・ミランディアがその手首をひねるようにすると、ロッシュはまったく抵抗することができず、がくりとひざを折った。

 部屋がぐるりと回転したように見えたが、それはロッシュの身体のほうが転倒していったのだった。


 女性の身体がその上を跳び越えていく。

 ロッシュはとっさになんとか動かせる脚を伸ばし、床に着地したマザー・ミランディアの足を払った。


「あっ」

 ミランディアは、つんのめって前に倒れる。

 その手から、小ビンが飛んで転がった。

 あわてて手ではうようにして追いかけ、テーブルの下でそれをつかんだ。


 だが、こんどは、ロッシュがマザー・ミランディアの腕を捕らえていた。


「あううっ」

 ミランディアがうめいた。


 ロッシュの手はかるく触れているにすぎない。

 手のひらから、強烈な〝気〟をこめた波動が放たれているのだ。


「ああん」

 若い娘のような鼻にかかったやるせない声がマザー・ミランディアの口から漏れ、身体が固くこわばって弓のように反りかえる。


 そのすきに、ロッシュはテーブルの下に左手を伸ばし、ミランディアがとり落とした小ビンを拾い上げた。


 しかし、ロッシュの頭が下がったところに、ミランディアの反対の手がひたいをぴしゃりと叩いた。


 たいした一撃ではなかったにもかかわらず、ロッシュの身体は、ベッドの足元までふっ飛んだ。

 サイドの板に背中をしたたか打ちつけ、ベッドを床に固定している金具がガキンと音をたててはずれた。

 息がつまり、頭がぐらぐらして、起き上がろうとしても力が入らない。


 ミランディアのほうも同じだった。

 床にはいつくばったまま、荒い息を吐くたびに大きく肩を上下させるばかりだ。


「これが……寮母の……お力なんですか」

 ロッシュがやっと言った。


 何かの体術の応酬を見るような光景だったが、展開されたのは壮絶な精神戦だった。

 攻撃を受けたダメージに加えて、短時間にパワーを凝縮して用いた疲労感が、双方の体力をすっかり奪い去っていた。


「こんなに強い気をくらったのは……初めてです……信じられないお力だ」

 ロッシュはベッドサイドに頭をもたせかけ、胸を大きくはずませながらくり返した。


「いいえ……あなたのほうこそ。わたくしの……力を受けながら……あんなにすばやく反撃して……しかも……あんなに強く押さえつけてくるなんて」

「とんでもない……これが実戦だったら……最後の一撃で私の負けです。失礼ですが……マザーのお力をあなどっていました……」


 力を出し切って戦った者同士の率直な言葉だったが、それ以上はどちらも荒い息づかいのまま重い沈黙がつづいた。


「マザー・ミランディア」

 床に手をついてうつむいているミランディアにむかって、ロッシュが呼びかけた。

「生命回廊で何があったのです?」


 ミランディアは黙りこくっている。


「マザー――」

 ロッシュが再度呼びかけると、ミランディアはようやく顔を上げた。


「いいえ、何もありません」

 首を横に振って、きっぱりと言った。


「しかし、生命回廊にはけっして男子が足を踏み入れてはならぬという、禁断の掟が踏みにじられたのですよ。これはブランカの一大事です」

「埋葬人のことを言っているの?」

「もちろんです。しかも、こともあろうに、禁制を破ったのがフィジカルの奴隷ふぜいだったとは。スピリチュアルとして、とても看過できることではありません」


「おおげさね。それこそ、当の殿方自身が騒ぎたてるようなことではないのです」

「どういう意味でしょうか?」

「いつのまにか〝不文律〟などと呼ばれて、重大な禁忌のようになってしまっているというだけのことなのです。そもそも、何のためにそのようなものが存在しているかといえば、あくまでも、生命回廊を守る立場の者――すなわちわたくしたち女の側の都合で、長い間そう要求してきたというのにすぎません。今回は、たまたまちょっとした事情があって、埋葬人を入れざるをえなかった――それだけのことですよ」

「ですが、たとえ事実はそうであったとしても、生命回廊は、スピリチュアル全体にとって象徴的な意味を持つ場所です。男子禁制はそれと一体のもの、というのがブランカに居住するわれわれの共通の認識になっています。さらに、保安上の意味でも、どうしても問題視せざるをえないのです」


「これは、尋問ですか?」

「……いいえ。ですが、ほどなく保安部から正式な要請が上申されます。マザーのお立場は、微妙なものになるかもしれません。その前に、お話をうかがっておきたいのです」

「では、その要請とやらを待つことにしましょう。そうなったところで、わたくしの立場や考えがそんなに変わるとは思えませんが」

 ミランディアは、やんわりとロッシュの質問に答えることを拒否した。


「マザー・ミランディア」

「何ですか? 保安管理官のあなたに答えることは、これ以上ありませんよ。生命回廊はいつもと変わりなく、正常に機能しています。わたくしも大丈夫。それはただの鎮痛剤です。夜勤の疲れからか、ちょっと頭が痛かったから使おうとしていたのだけれど、今の運動がいい刺激になって吹き飛んでしまったようです。あなたの手をわずらわせるようなことはもうありませんから」

「では、カナリエルの婚約者として、母上にお尋ねします」

 ミランディアの目尻が、ぴくりと震えた。


「カナリエルは、どこにいるのです?」

「あの子は、生命回廊でわたくしが命じた大切な仕事についています。どのような仕事かは、それこそ生命回廊をつかさどるわたくしと、シスターたちにしか関係のない秘密。そのことについては、いくら問いつめられても、もう答えることはありませんよ」


 ミランディアの答えは、とりつく島もないものだった。

 木で鼻をくくったような応え方をしたきり、あらぬ方向へ顔をそむけた。


 ロッシュはベッドの上に身体を引き上げ、あらためてそこに腰かけると、慎重に言葉を選びながら言った。


「今朝ほど、カナリエルと頂上の岩場で出くわしました。裸足に薄衣をまとっただけの姿で、ぼんやりどこかを眺めているところでした」

「まあ、はしたないことを」

「日の出直後のことですから、ほかにだれの眼にも触れてはいないでしょうが。私が部屋まで送り届けました。鍵も持ってなくて、私が解錠してやりましたが、どこか心ここにあらずという風情でした」

「いったい、どこから抜け出したのかしら」

「おそらく、窓から出て、ワイヤーをつたい、岩壁をよじ登ったのでしょう」

「あの子ったら、まだそんなあぶないことを。わたくしといっしょに暮らしていた頃からそうなのですよ。ふと気がつくと、姿が見えなくなっていて、窓わくに腰かけてのんびり外を眺めていたりしたものです」

 ミランディアは、とりたてて騒ぎ立てるようなことではないというふうに、口の端に微笑を浮かべて言った。


「私の眼には、何か心に期することがあるようにも映りました。そうでなくても、近頃の彼女には不自然なところがいくつも見受けられます」

「あなた、それくらいのことは大目に見てあげないと。結婚を間近に控えた若い娘にはありがちなことですよ」

「そうでしょうか……」


 これ以上寮母と話していてもらちが開きそうにない、とロッシュは思った。

 ロッシュが踏みこんだときの寮母の異常なうろたえぶりは、いかにも怪しいものだったが、ロッシュとの格闘が一段落した後は、まるで憑き物でも落ちたかのように、すっかり本来の落ち着きを取りもどしている。

 だれよりも賢明なマザー・ミランディアが、これ以上馬鹿なまねをするとは考えられなかった。


 クレギオンから言われたように、この一〇日間にブランカじゅうの耳目を集めるような事件が持ち上がらないことを優先するなら、起こってしまったことは起こったこととして、それをいかに穏便な形におさめるかだった。

 さもなければ、詳細は不明としたまま、よからぬ噂が広まるのを食い止めることに極力つとめ、その期間だけはなんとかしのぎきることだ。


「では、マザー・ミランディア、私はこれで失礼いたします。このビンは……」


 ロッシュは手のひらを開いて、あらためてそこにあるものを見つめた。

 寮母のあわてぶりから考えれば、いざとなったとき、ロッシュがこれを握っていることが彼女に対する強みになるかもしれなかった。


「……私がお預かりします。もし、まだご気分がすぐれないようでしたら、医師をこの部屋に寄越しましょう」

「それは何ですか? わたくしは、そのようなものは見たことも触れたこともありませんよ。あなたがどこかで拾ったものなら、ご随意になさい」


 寮母はしたたかだった。

 寮母と格闘したなどということはけっして表沙汰にできないのだから、手に入れたいきさつをあきらかにできない以上、寮母に否定されてしまったら、どんなものであれ何の証拠にもなるはずがない。

 ロッシュは、黙って小ビンを内ポケットに入れて立ち上がった。


「お待ちなさい、ロッシュ」

 ドアまであと数歩というところで、寮母が呼び止めた。


「何でしょうか?」

「あなたは、本当にカナリエルを愛していますか?」


 ふり返ると、寮母はまっすぐロッシュの顔を見つめていた。


 見まがいようのない母親のまなざしが、そこにあった。

 彼女が発したのは、もしかすると、結婚の承諾を得るためにロッシュが寮母と面会して以来、表面的な愛想も、微妙な含みも、ほのめかしもない、初めての言葉かもしれなかった。


「愛しています。心から」

「皇帝の娘だから、とか、寮母の未来の後継者だから、というような理由は、あなたの心のどこにもないと言えますか?」

「まったくないと言えば、うそになるかもしれません。ですが、私は、ひと目見たときに、もうカナリエルに恋していました。結婚する相手はこの娘しかいない、とその瞬間に感じたのです。そのときには、まだ名前すら知りませんでした」

「では、皇帝と寮母の娘であると知った今は、どうなのですか?」


「誤解をまねかないように私の心の中をご説明するのはむずかしいのですが、それは、むしろ逆なのです」

「逆?」

「たしかに私は下層階級の出身ですし、引け目というか、その裏返しである強い野心や、他人には負けたくないという対抗心、そして過剰な自負心をずっと抱えて生きてきました。しかし、カナリエルと親しくなり、彼女の人柄や魅力に触れるにつけ、私は、そういう卑小でねじ曲がった自分の感性が、すっかり洗い直されていくような気持ちがしました。カナリエルの底抜けの明るさや自由闊達な精神が、私にもっと広くものを見る眼と、世界を大きくとらえる心をあたえてくれたのです」

「あの子には、人を感化する力のようなものが、たしかにあるかもしれませんね」

「そうなのです。おかげで私には、自分の理想とか使命といったものが、よりはっきりとした形をとって見えてきました。そして、そういうカナリエルが育ってきた境遇をあらためて考えてみたときに、皇帝である父親と寮母の母親がいて、ずっと上流の社会で成長してきたことが、きっと彼女の豊かで自由な感性を形作ったのだなと、納得できたということなのです。皇帝陛下やマザー・ミランディアには、カナリエルを育てていただいたことに対して感謝する気持ち以外、私にはよけいな感情はありません」

「本当ですか?」

「誓って。私がカナリエルに抱いている気持ちは、ぼんやりとした記憶しかない父親に対してのものより、ずっと強いものです」


「お父上のことを憶えていないの?」

「いや……もちろん、それは言葉のあやです。それくらい、カナリエルを大切に思っているということなのです」

「そうですか。では、カナリエルの夫という立場を利用しようというような気持ちは、まったくないと――」

「ありません」

 ロッシュは、まぶしいほどの自信にあふれた表情をして言い切った。

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