第三章 2 カナリエルの気づかい
「ねえ、いったい、あとどれくらいこんな状態がつづくの?」
頭上から、いらだたしそうな声が降ってくる。
「知るか。がまんできないなら、おまえひとりで勝手に飛び降りるがいい」
「冗談言わないで。鳥じゃあるまいし」
こんなやりとりが、もう何度もくり返されていた。
ゴドフロアは、足かせの鉄球を結びつけていないほうの足をそろそろと伸ばし、足場になりそうな岩の出っぱりを探っていく。
つぎに手を片方ずつ下ろして、新たな手がかりにする場所をつかむ。
そこでいったん身体を安定させ、最後に不自由なもう片方の足を慎重に下ろす。
その一連の動作を一回くり返すだけでも、じれったくなるほどの時間と労力がかかった。
「もういい? わたしも降りていくわよ」
カナリエルは、万が一ゴドフロアが足を踏みはずしたりしたときにそなえ、命綱の一方を上方の岩に巻きつけて、ささえておく役割を引き受けていた。
命綱が伸びきるところまでゴドフロアが降りてしまうと、彼女は岩からロープをはずし、ゴドフロアのすぐ近くまではい降りてきて、また手ごろな岩を見つけてロープを巻きつけるのだ。
ゴドフロアが長い時間かかってやっと稼いだ一〇メートルほどの高さを、カナリエルは何のためらいも見せず、わずか一分ほどで滑るように降りてきた。
「強がりで言ってるんだとばかり思ったが、ほんとうに驚くほどの身軽さだな。スピリチュアルは、女でもみんなそうなのか?」
となりに並んだゴドフロアが、素直に感心した。
「ほかの子も身軽だけど、わたしは特別よ。小さい頃からしょっちゅうブランカの壁面を登ったり、頂上近くの険しい岩場でこっそり遊んだりしてたからね。こういうことは、慣れと思い切りだもの」
「たしかに、慣れてるし度胸もある。立派なものだ」
「だけど、残念なことに力はないの。わたしがカプセルを背負ってあげられれば、ちょうど半分こずつになるんだけど」
カナリエルは、ゴドフロアが、カプセルだけでなく、足かせの重みまで抱えていることを言ったのだ。
スピリチュアルほどの身軽さはなくても、完全に自由な身のゴドフロアなら、崖を降りる作業ももっとずっとはかどることだろう。
カナリエルは、両手を岩から離せないゴドフロアに革袋の吸い口をくわえさせて水を飲ませ、ついでに着替えのポケットからハンカチを出して顔の汗をぬぐってやった。
「すまん。だが、他人の心配はいい。おたがいが自分のやるべきことを果たせば、かならず二人とも生き延びられる」
「それも傭兵の心得なのね」
「まあ、そういうことだ」
カナリエルは、命綱につかまって身体を弓のようにそらせ、怖がる様子もなく崖の下をのぞきこんだ。
下方ではえぐれるほどに切り立っているために、谷底までの経路を見通すことはできないが、針葉樹の密集したややなだらかな斜面につづいていることはわかる。
その森がいちおう今日の目標地点ということになるだろう。
「まだ、らくらく半分以上あるわね。この調子だと、夜までかかっても崖を下りきれないかもしれないわ」
ゴドフロアは頭上を見上げてうなずいた。
太陽は山々のほうへと傾きつつあった。
「命綱にぶら下がって眠るはめになるのだけは、ごめんだな。途中に洞穴か岩のくぼみでもあるといいのだが……」
その後も、力と気を抜くことのできない崖下りがえんえんとつづいた。
一度など、ゴドフロアが体重を預けた岩が抜け落ち、たまらず数メートル下まで滑り落ちてしまったことがあった。
「きゃあっ!」
悲鳴を上げたのはカナリエルのほうだった。
「どうした、大丈夫か!」
「人のこと心配するなら、さっさと何かにつかまってよ!」
カナリエルが、苦しそうな声で怒鳴った。
宙づり状態のゴドフロアは、もがくように手を伸ばしてやっと岩に取りついた。
ピンと張りきっていた命綱がゆるむと、とたんに上のほうでカナリエルがゲホゲホと激しく咳きこむのが聞こえた。
「そうか、おまえ……」
ゴドフロアは、自分のうかつさを呪った。
しばらく前から、なんだか身体が軽くなったような、妙に楽な状態がつづいていた。
戦闘や逃走で極限状態になると、まったく疲れを感じなくなって、いくらでも全力で戦ったり走りつづけたりできそうな気分になることがある。
傭兵仲間で言うところの『狂戦士状態』というやつだ。
それなら、今のうちにどんどん距離を稼いでおこうと意気ごみ、調子に乗りすぎたのが滑落の原因だった。
だが、よくよく思い返してみれば、胸の前で結んだ命綱がずっと、つねにピンと張っていた。
つまり、カナリエルが、ゴドフロアの身体にかかる負担をすこしでも減らそうと、命綱を岩の出っぱりに引っかけただけにしておき、自分の体重と力で反対側に引っぱりながら、徐々にロープをくり出すようにしてくれていたのだ。
ゴドフロアが滑落したために命綱が一気に引っぱられ、その反動で、反対側に結びつけられているカナリエルの身体が出っぱりに打ちつけられる格好になったのだろう。
「おい――」
呼びかけたが、すぐには返事がない。
「怪我したのか?」
「ああ……胸がつぶれるかと思った。もうわたしは売り物になんかならないわよ」
「冗談言ってる場合か」
「冗談よ。けど、どうせ『よけいな気づかいは共倒れのもとだ』とか言うんでしょ」
「いや……助け合わないのは戦友じゃない。ありがとう。おまえがそうしてくれるなら、おれも助かる」
カナリエルの工夫のおかげで、ゴドフロアはたしかにすこし楽になり、それ以上に崖下りがはかどった。
やがて黒々とした針葉樹の梢がひとつひとつ見分けられるようになってきた。
じれったいほど遅々とした進み方だが、確実に終着点は近づいている。
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