第二章 6 「おまえ自身の意志」
「ハハハハハハハ、アッハッハッハ!」
フィジカルの大男が、頭上で大口を開けて笑っていた。
その哄笑は、身体の奥底から突き上げてくる抑えきれない解放のよろこびに満ちていた。
山肌を吹きわたる風に激しくはためく男のボサボサの黒髪が、誤ってとてつもなく危険な野獣を野に放ってしまったのではないかという危惧と恐怖感を、カナリエルの胸に覚えさせずにはおかなかった。
台車は障害物のない斜面を快調に滑りおりていく。
加速度がどんどん増していくために、地面から伝わる震動もただごとではなかったが、もはやそのくらいのことで台車の勢いが弱められはしなかった。
まるで墜落するような速さだ。
カナリエルは棺の中から飛び出しそうになるカプセルにしがみつきながら、顔をもたげて前方で揺れ動く大地をのぞき見た。
あたり一面に、何百もの列をなして、正方形の石板が整然と立てられている。
まだ名もない幼体から戦没した兵士まで、歴代の死者たちのほとんどが埋葬されてきた場所である。
彼らの台車は、木製の車輪がガラガラ回転するやかましい音と、岩くれを鋭くはね飛ばすピシピシいう音を背後に引き、墓地のまっただ中へ突っこもうとしている。
「バカっ。伏せてろ!」
ゴドフロアが、大きな手でカナリエルの頭をぐいっと下に押しつけた。
直後にガツンと強い衝撃が襲った。
思わず首をすくめたカナリエルが、どれほどおぞましいことが起こったかを想像してみる間もなく、またもやつぎの衝撃が来た。
見上げると、棺にまたがって前方を見すえるゴドフロアの顔があった。
歯をぎりりとくいしばり、緊張のせいでにらみつけるような恐ろしい表情になっている。
カナリエルは、こんなに乱暴で、おまけに無鉄砲な男と同道することにしてしまった自分を呪いたくなった。
しかし、激しい衝撃はまだおさまらなかった。
つぎの墓石をはね飛ばすと、台車はあらぬ方向へ大きく向きを変え、別の墓石に棺の横腹をぶつけた。
それでも勢いはおさまらず、さらに別の墓石に衝突してガクンと斜めに傾いた。
片側の車輪がどうかなったらしく、台車の鉄板張りの腹が地面とこすれて悲鳴のような金切り声をたてたと思うと、つぎにそれまででいちばんの衝撃が襲った。
ついに台車は横転し、重い棺ごとカナリエルたちを宙に放り出した。
「きゃあっ」
ずっと悲鳴を上げつづけていたカナリエルは、最後もひときわ大きな悲鳴を上げて地面にはいつくばった。
「な、なんてむちゃなことするの。心臓が止まるかと思ったわ!」
ゴドフロアはすぐ後ろにむこう向きになって倒れていた。
頭を強く打ったのか、さかんに首を横に振っている。
「それに、墓石の下には亡くなった人たちがたくさん眠っているのよ。スピリチュアルだって、あなたと同じ人間なんですからね、あなたには敬意ってものがないの!」
「わざと……ぶつけたんだ」
ゴドフロアは、抱きかかえていたカプセルをそっと地面に横たえながら、かすれた声で言った。
それを壊さないために、受け身をとれなかったのだ。
「え――」
「前を見てみろ」
ゴドフロアが、あごで横倒しになった台車のほうを示した。
カナリエルは台車を手がかりにして、やっと立ち上がった。
そのむこうはすぐに切り立った崖っぷちになっていた。
あのスピードのまま突進していれば、まちがいなく台車ごと空中に投げ出されていたことだろう。
ゴドフロアが、墓石を利用して勢いをゆるめたために、あやういところで止まったのだ。
「そ、それにしたって、もうちょっとやりようってものがあるでしょ。ほら、台車の車輪がはずれちゃってるわ。直す道具なんてどこにもないのよ」
ゴドフロアは首を振った。
「いや、それはもう使わない。これを見てみろ」
カナリエルは、ゴドフロアがポケットからつまみ出した紙片を受け取った。
「寮母から渡された手書きの地図だ。その点線をたどって行けと書いてある。おれが知っているのはこの墓地までだからな。どうだ、ここから先は崖を降りていくしかないだろ」
地図をのぞきこみ、カナリエルはうなずいた。
ゴドフロアは、カナリエルが棺の中でかぶっていた黒い布を裂き、じゃまになる鉄球と鎖をふくらはぎの横にくるみこむようにして結びつけている。
「おまえも支度しろ。そこの袋に服が入っているはずだ」
「ここで着替えろというの!」
「あたりまえだ。そんなちゃらちゃらした服のまんまで、切り立った崖をはい降りていけると思うのか」
薄笑いを浮かべて言うゴドフロアに、カナリエルは憤然として言い返した。
「女だと思ってばかにしないで。スピリチュアルは、たとえ女だって身の軽さはフィジカルの比じゃないわ。それに、わたしの得意は崖登りよ」
「ほう、それは頼もしいことだな。だが、いくら身軽なおまえでも、おれが上から落ちていって巻きぞえを食えばひとたまりもない。けっきょく、おれが先に降りることになる。そうなったらスカートの中がまる見えだぞ。それでもいいのか?」
カナリエルは顔を赤らめ、フンと鼻を鳴らして横を向いたが、じきにあきらめてのろのろと服を脱ぎはじめた。
「あっち向いててよ」
「わかった」
ゴドフロアはまぶしそうに眼を細め、むきだしのカナリエルの肩をちらりと見やったが、すぐに彼女の着替えが入っていた袋を引き寄せて背を向けた。
袋の中には、ほかにいくらかの食糧と水を入れた革袋などが入っていた。
寮母が自分の手で娘のためにつめたものだろう。
きれいな色のついたアメや焼き菓子の小袋など、いかにも若い娘の好みそうなものもあった。
「食わないか?」
着替えを終えたカナリエルに、チーズをはさんだパンをちぎって差し出した。
カナリエルは、ごつい指にはさまれたパンを、まるで不潔なものでも見るように横眼で見て首を振った。
「そんな気分じゃないの」
「無理にでも腹に入れておいたほうがいい。こんどいつ、こんな時間がとれるかわからない。腹が減ってるとがんばりもきかん。戦場の基本的な心得だ」
そう言われて、カナリエルはしぶしぶ受け取ってかじりはじめた。
「おお、なかなか似合うじゃないか」
ゴドフロアは、フィジカルの作業着姿になったカナリエルをじろじろと眺めた。
洗いざらしの生地は、ゴドフロアの胴衣と同じで質素このうえないものだが、カナリエルの白い肌の色をよけいに引き立てていた。
ほっそりしたカナリエルにはすこし大きめらしく、えりの合わせ目から胸の深い谷間がくっきりとのぞけた。
「いやらしい眼で見ないで」
カナリエルににらみつけられても、ゴドフロアは平気な顔でカナリエルの身体の線を眼でなぞっていく。
「どこでこんな服を見つけたんだろう」
「母上はお優しい方だから、フィジカルの使用人たちにもたいそう慕われているの。たいがいのものは、頼みさえすればだれかが都合してくれるわ。あなたがわたしを送り届けてくれることになっているのも、わたしが小さい頃に乳母をしていたフィジカルの元よ。今は報恩金をもらって、ルヴィエという村でひっそり暮らしているはずよ」
「ルヴィエか……遠いな。南部にそういう名前の村があったはずだ。いくつも山を越えて、いろんな街や村をたどったさらにずっと先だ」
「しかたないわ。遠ければそれだけ、追跡の手も伸びにくくなるはずだもの」
簡単な食事をすませると、ゴドフロアはまた出発の準備に取りかかった。
赤ん坊の入ったカプセルを余りの布でくるみ、しっかりロープで結わえていく。
それを背中にしょってみて、うまく安定するか左右に振ってみたり、腕を回して自由に動けるかどうかたしかめ、また地面に降ろしてはロープの掛け方を工夫したりしている。
「ねえ。わたし、不思議に思ったんだけど――」
「何だ?」
「さっきの兵士は、生命回廊の男子禁制を破ったことを気にしていたでしょ。あれは、あなたが回廊から棺を運び出してくるところを見られたからよね。そのことを追及されれば、彼が手引きしてあなたを回廊に入れたことが露見しそうだから」
「そうだな」
「もし、わたしと母上が二人ですべての準備をととのえて、いつものように出入口の外であなたに棺を手渡すようにしていたら、何の問題もなかったんじゃないかしら。すくなくとも、埋葬に行ったあなたたちがもどるのが遅いと不審に思われだすまでは、かなりの時間が稼げたはずじゃないの?」
「じゃあ、おまえは、真っ暗な棺の中に入って、だれともわからない相手に自分の身柄が預けられても平気だったわけか?」
「それは……でも、そういうことならしかたないじゃない」
「まあ、おまえのほうは、その相手を選んだ母親を信じていればいいのだからな。だが、おれはそうじゃない」
「あなただって、逃げられさえすればいいんじゃないの?」
ゴドフロアは作業をつづけながら首を振った。
「どんな人間を連れて逃げることになるのか、何も知らないまま引き受けるのはいやだったんだ。こっちだって命がかかってる」
「どういうこと?」
カナリエルは、警戒するような眼でゴドフロアを見た。
「おまえの母親も、そんなことを言っていたじゃないか。いざとなったら売りとばせるような娘かどうか、いくらくらい儲かりそうか、前もって値踏みしとかなきゃならない。それに、道中のお楽しみにできそうかどうか、なんてこともある」
「ゴドフロア!」
カナリエルは、さっと身を引くように立ち上がった。
「冗談だよ」
ゴドフロアは、にやりと皮肉っぽく笑った。
「いや、まんざら、冗談じゃないかもしれないぞ。フィジカルの男など、おまえには信じられないだろうし、おれも無理に信じてほしいとは思わんが」
「じゃあ、あなたの本心はいったい何だっていうのよ」
カナリエルは、怒鳴りつけるように尋ねた。
「言ったはずだ。おれは、生き残るにはどうするのがいちばんいいかと考える男だってな。どんな女といっしょに逃げることになるのか、それがわからなければ、こんな無謀な依頼を引き受けるべきかどうか、判断のしようがない。もちろん寮母は、おれを生命回廊に入れることをしぶった。男子禁制が単なる形式の問題じゃないのは、寮母自身がいちばんそう感じているだろう。だが、おれはゆずらなかった」
「そうまでして……」
ゴドフロアはうなずいた。
「おれだってばかじゃない。時間の余裕がなくなればなくなるほど後々苦しくなることは、百も承知だ。おまえの母親にとっても重大事だ。さらに男子禁制違反の責任も追及されることになるのだろうしな」
「それでも、わたしと顔を合わせなければいけなかったの?」
「そういうことだ。おれは傭兵だ。兵士は一人で戦うわけじゃない。どんな敵と、どんな指揮官の下で、どんな相棒と組んで戦うことになるのか、つねに知っとかなければ存分な戦いなどできるわけがない。わかるか?」
「それはそうかもしれないけど……」
「おれは寮母に言った。捕虜で奴隷の身分の者が、支配者に取り引きを申し出るなんておこがましいが、これはそうじゃない。傭兵と雇い主の対等な契約なのだ、とな。おれは、納得のいかない契約はしない。おまえの娘が、単なる気まぐれでブランカを飛び出そうなどと考えているのでなく、どうやっても生き延びて、〝自由〟とやらを何がなんでもつかもうとする決死の覚悟がほんとうにあるのかどうか。そして、それをただのあこがれや妄想に終わらせずに実現するだけの素質が、あるのかどうか、とな」
「じゃあ、あそこであなたが依頼を拒否しなかったってことは、貴重な時間を犠牲にしただけの見こみが、わたしにはあったということなの?」
不安そうに見上げるカナリエルの眼を、ゴドフロアは初めてまともに見つめ返した。
「どうかな……とりあえず賭けてみることにした、というだけのことさ」
ゴドフロアは、あえてはっきりと言おうとはしなかった。
「わたしに――」
「おれの勘なんかに、何の根拠も保証もない。いいか、おれをあてにするな。あくまでも、おまえ自身の意志で逃げるんだ。おまえがくじけかけたりすれば、すぐにおれは見捨てて行く。それでもよければ、ついて来るがいい」
「わかった……わかったわ。ついて行く」
カナリエルは唇を強く引き結んだ。
ゴドフロアは、その答えに無愛想にうなずいた。
そして、食糧が入った袋と寒さしのぎになりそうな羽布団や掛け布をひとまとめに荷造りしたものをカナリエルの背中にくくりつけ、自分はあらためてカプセルを背負い直した。
太陽は中天を過ぎていたが、夏の一日はまだ長い。二人の旅は、ようやく始まったばかりだった。
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