第二章 Escape for Freedom 自由への逃亡
第二章 1 『男子禁制』の不文律
ゴドフロアが押す台車は、とっくに裏ゲートを通過してしまった。
今は、小麦の袋を背に載せた四、五頭のロバを引いた農民たちが検閲を受けているのが下方に見える。
ファロンは、ゴドフロアと同行の警備兵たちを行かせてからすぐ、寮母に問いただそうとこころみたが、扉はすでに中から施錠されており、呼び鈴にも何の反応もなかった。
生命回廊の男子禁制の不文律を犯したのは、直接にはゴドフロアということになるが、奴隷が勝手に押し入ることなどできるはずがない。
埋葬人の仕事をその後もおとなしくこなしていることからしても、その男を回廊に導き入れた者はだれなのかが問題になる。
「ファロンどの」
いきなり後ろから声をかけられて、跳び上がりそうになった。
部下の一人ラムドだった。
「何だ?」
「不文律をご存知でしょうか。生命回廊は男子禁制であるというものですが」
「それがどうした。いやしくも警備隊長を拝命しているのだ、もちろん知っているとも」
「奴隷は、回廊から直接台車を押して出てきました。あれは、不文律に対する違反にあたるのではありませんか?」
「寮母がごいっしょだったではないか。シスターたちの姿がなかったところをみると、何か都合があったのだろうさ。不文律というのも、単に前例がないというだけのことだろう。回廊の責任者はマザー・ミランディアご自身なのだからな」
ことさら問題にすることではない、と強調するようにファロンは答えたが、そう言っている自分の言葉自体が、口をついて出る先から信じられなくなってきた。
『ファロンの名は出すな』
と寮母はゴドフロアに命じたという。
当然、どうやって回廊に入ったのかと尋問されたらということだろう。
寮母が全責任をとる、という意味だろうか?
だが、いくら寮母でも、牢獄まで出向いて奴隷を勝手に連れ出す、などということは不可能だ。
ファロンがゴドフロアといっしょに回廊に足を踏み入れたことは否定してくれるにしても、まったくかかわっていないことにはできない。
ファロンも、何らかの形で尋問を受けるにちがいない。
自分の失態が問題にされるとしたら、ゴドフロアを寮母が中に引き入れるのを黙認したという点になるのだろうか?
時間がたつにつれ、ファロンはますます不安になってきた。
「おい、おまえたち。おれがもどるまで、回廊の出入口から眼をはなすなよ」
部下たちに命じておいて、急ぎ足でゲートへ向かった。
禁制違反がどのていどの罪になるのわからないが、尋問でへたな言い逃れをして寮母やゴドフロアの証言との食い違いをつっこまれたりしたら、かえって悪い結果をまねきかねない。
寮母と相談することができないなら、すくなくとも今のうちにゴドフロアとは口裏を合わせておく必要があった。
ほどなくゲートに着いた。
そこの担当は、同じ警備責任者仲間のエルンファードである。
手を上げて軽く合図するだけで通過することができた。
ただし、あせっているような様子だけは見せないように、足をゆるめてできるだけ悠然と歩いた。
墓地につづく道は、表の街道に通じる道とはすぐに分かれ、反対側にむかってしばらくゆるやかな上り坂になる。
登りきってゲートを警護している兵士たちの視界から消えるまでは、急ぐわけにはいかない。
太陽が高くなってきていた。
高地にあるブランカでも、出入口は頂上から一〇〇〇メートル近く下ったところに位置し、夏の盛りには気温はかなり上昇する。
気持ちのあせりも手伝ってか、汗がひたいをつたい落ちる。
ファロンの心にはさまざまな思いが交錯していた。
(尋問されるとしたら、きっと相手はロッシュのやつだ)
元の同僚から尋問されるのが気まずい、というだけではない。
あの男の生意気そうな顔を思い浮かべるだけで、腹が立った。
しかも、ロッシュは頭が切れるうえに弁もたつ。
こちらがちょっとでもあいまいな答え方をしたり言いよどんだりすれば、まるで刃物で突くように容赦なく追及してくるだろう。
ロッシュは、幼年学校でファロンの二学年下だった。
ひょろりとしていかにもひ弱そうに見え、出身もずっと下の階層のくせに、その頃からやけに目立つ存在だった。
卒業と同時に男子は帝国軍に編入され、ブランカを出ていきなり前線に配属される。
ロッシュはファロンが所属する大隊にやって来た。
新任の兵士は、現場でいくつかの任務をこなすうちに能力と適性を判断されていくことになる。
たいがいは小隊をひとつまかされ、フィジカルの兵士たちを自らの力で統率して戦わなければならない。
緒戦が思いもかけない大敗となった中で、ロッシュは、潰乱した最前線から部下を一兵も失わずに生還した。
どうせ戦場を逃げ回っていたかずっとどこかに隠れていたかしたのだろうと、ファロンたち同僚はあざ笑ったものだが、ロッシュが率いる小隊は二戦めではなんと敵将の首を上げ、三戦めには敵陣に一番乗りして大勝のきっかけをつくった。
その間にも小隊から一人の犠牲も出さなかった。
ロッシュのたくみな用兵ぶりは、たちまち大隊じゅうに驚きをもたらした。
「なに、死にたくなければおれの言うとおりに戦えと、部下たちをいつもおどしているだけのことです」
生意気にも、唇の端をわずかに持ち上げながら、ロッシュは同僚たちにうそぶいたものだ。
最初の兵役では、いくら手柄を立てても小隊長から上への昇進はない。
そのかわり、一定以上の戦功を積み上げると、ブランカへの少なくとも一五か月の帰還が許される。
休暇というわけではなく、スピリチュアルにとってもっとも安全で安らぐことのできる故郷ブランカにいったんもどり、しばらく警護や補給事務といった後衛の仕事をこなしながら、結婚相手を見つけるのである。
ブランカの防衛と都市機能の運営は、こうした若い帰還兵が主体となって担っていた。
ファロンがようやく基準に達してブランカへの転属を命じられたのと、ロッシュが史上最短の従軍期間で輝かしい帰還を勝ち取ったのが同時だった。
けっしてファロンが長くかかったわけではない。
それどころか、平均より半年以上早かったにもかかわらず、ロッシュはそれをさらに二年も短縮してしまったのだ。
戦場で挙げた手柄の価値は、ブランカであたえられる仕事の種類や地位にすくなからず反映される。
ファロンは何人もいる警備責任者の末席――つまり門番頭の一人に、かろうじて名を連ねることができた。
最年少のロッシュは、いったん同じ生命回廊の警備責任者に任ぜられたものの、すぐにブランカ全体を統轄する保安部の本部付きに引き上げられた。
しかも、ブランカでは寮母に次ぐ地位にある保安部長官にたちまち気に入られ、数か月前に側近の保安管理官の地位を得た。
正式な位階に差はないが、ファロンとの間に決定的な開きができたことは明白だった。
ロッシュのめざましい栄達ぶりは同僚全員の嫉妬をかったものだが、さらにブランカ全体を驚かせたのは、皇帝の娘との婚約だった。
(あんなやつにあの娘が……)
こんどは、生命回廊で見たカナリエルの姿が浮かんだ。
いかにも勝ち気で、はっきりものを言う性格なのはあきらかだが、上流階級の子女にありがちな、人を見下したりお高くとまったところは、不思議となかった。
むしろ、一本気で率直な性格は育ちのよさから来ているように思えたし、気取りのない身についた上品さが美しい容姿をさらにきわだたせていた。
(あの娘が、ロッシュのようなやつのものになってしまうのか)
ロッシュに対する対抗心や恐怖に嫉妬や悔しさまでが加わって、ファロンは、全身をぎりぎりとしめあげられ、心臓を火であぶられてでもいるような気分になる。
ひょっとして、あれは、あの娘ではなかったのか……
その考えは、いくつもの思いが大波のように荒れ騒ぐファロンの心の水面に、どこからともなくポッカリ浮かび上がってきた。
(そうか、カナリエルか――!)
ファロンの足は、いつのまにか止まっていた。
棺に横たえられたカプセルの下で、手に触れたもの――羽布団にしては固く、しかし妙に心地よい弾力と温かみを感じさせたもの。
あれは、つい数刻前、回廊の中でファロンが手をのばせば簡単に触れられそうなほどの至近距離にあった、ほかならぬカナリエルの身体だったのではないか?
そんなばかなことが、と疑う気持ちとは裏腹に、数日前からの出来事がつぎつぎその考えの周りに吸い寄せられてくる。
屈強な奴隷を見つけてくれという寮母の依頼。
男子禁制の不文律に違反してまで、ゴドフロアを生命回廊に入れたこと。
棺の見送りが寮母ただ一人で、いっしょにいたはずのカナリエルの姿がなかったこと――。
そこから導き出される結論は、ひとつしかない。
それが事実だとすれば、事態は形ばかりの不文律に対する違反どころではなかった。
皇帝の娘のブランカ脱走という、前代未聞の重大事が起こりつつあるのだ。
ファロンは、たった今眼がさめたかのようにいきなりその場に跳び上がると、つぎの瞬間には全速力で坂を駆け上りはじめた。
(そうだ。寮母を密かに手引きしたり、結果的に禁制を破ってしまったことなど、この際まったく取るに足らないことだ。あの娘をみすみす逃がしてしまうことのほうが、よっぽど大きな失態になる――いや、カナリエルの脱走を阻止したとなれば、そんなものはすべて帳消しだ。おお、それどころか、とんでもない大手柄だぞ!)
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