第一章 Deep in the Dark 地底回廊にて

第一章 1 螺旋都市ブランカの娘

 夜が明けていく。


 もう、無理に眠ろうとしてもしかたがない。

 今のうちに着替えてしまおうと、カナリエルはベッドを抜け出してカーテンを開け放った。


 窓はドーム型の天井近くに取り付けられている。

 地中都市であるブランカの構造上、明かり取りはそこに設けるしかないのだ。

 曙光が射しそめているようだった。

 大きな窓の端にきれいな青黒さが残っているということは、めったにない晴天になる証拠だった。


(そうだ、あれが見えるかもしれない……)


 そう思いつくやいなや、カナリエルは、ためらいもなく高い天井にむかって跳躍した。


 カーテンレールをつかんで身体をささえ、窓のかけ金のひもを引く。

 はね上げ式の窓は、天候の急変でも雨や雪が吹きこまないようわずかしか開かない構造になっている。

 逆上がりの要領でくるりと身体を回転させると、その勢いのまま狭いすき間をすり抜けた。

 流れるような一連の優美な動作は、それが彼女には慣れた手順であるからだ。


 窓のわきに立ち上がったカナリエルは、都市を囲む岩壁にむかって延びているワイヤーに足をかけた。

 球形の個室はそのような何本かのワイヤーで宙空に固定されている。

 数歩踏み出しただけで、眼のくらむような深さの奈落の上に出た。


(だいじょうぶ。みんなまだ眠っているわ)


 カナリエルの足下に広がっているのは、地中に深く垂直にくり抜かれた巨大な縦穴だった。

 直径のいちばん短いところでも差し渡し一〇〇メートル以上の幅があり、深さはさらにその一〇倍ほどもある。

 その空洞に浮かぶ泡のように、球形の無数の人工物が螺旋状に組み合わさりながら地底へむかって延々とつづいている。

 カナリエルの部屋はそのひとつだ。


 ずっと最上層で暮らしてきたために、成人するまでカナリエルが気づかなかったことだが、朝の気配を感じられるのは最上部のこのあたりだけで、下の階層になるほど日が射すのは昼近くになるし、それもたちまち翳ってしまうのだ。


 聞いたところでは、下層の部屋には夜間のものとは別の、窓を模した照明が設置されていて、自然光をシミュレートしてくれる仕組みになっているという。

 最下層ともなれば、一日中そのにせものの光で暮らさなければならないのだろう。


 ワイヤーの端までたどり着くとすぐ、素手と裸足のまま岩壁にとりついて登りはじめた。

 最初にどの突起をつかみ、つぎにどこに足を乗せればいいか、すべて知りつくしている。

 数十メートルをいくらも時間をかけずに登りきり、崖の上に立った。


 どこまでも広がる雲海が眼下に見下ろせる。

 周囲は三、四〇〇〇メートル級の山々が連なる山岳地帯だ。

 ブランカはそうした高峰のひとつに建設されている。

 つまり、今カナリエルが立っているのはその山頂付近なのである。


(やっぱり――!)

 果てしない雲海の水平線にそれを見つけ、カナリエルはにっこりとほほ笑んだ。


 その山は連なる山々のまたはるかむこう側にあり、小さな突起のようにしか見えない。

 つねに万年雪をいただいており、すぐに白い雲にまぎれてしまうし、晴れ渡った日だからといって姿を現すとはかぎらなかった。

 いくつもの特殊な気象条件がそろう必要があるのだろう。

 飛空艦の搭乗員でさえ目撃したことのある者は少ないという。


 それだけ遠いところにあるということだった。

 隔てているのは距離だけではない。

 森や、大河や、もしかしたら〝砂漠〟とか〝海〟などという古い物語でしか聞いたことのない障壁が、いくつもいくつも横たわっているかもしれない。

 しかもそれらは、命あるものをおびやかす猛毒のガスにぶあつくおおわれている。


 だれも越えていくことのできないガスのむこうへ遠く思いをはせるほど無意味なことはないと、人々はとうの昔にあきらめてしまっていた。

 あの山を見たことがあったとしても、カナリエルのような思いをいだく者がほかにあるとは思えなかった。


 遠くの山は今、東に昇ったばかりの太陽の光を受け、熟れた蜜果の色に輝いていた。

 それと同じ色がカナリエルの全身を染め上げているはずだ。

 山はけっして幻影でないばかりか、カナリエルと同じ世界に存在しているのだ。

 今日という日にそれを目撃することができたことに心から感謝した。


「そのような格好で散歩ですか」


 からかうような声がしたとたん、ハッとして、カナリエルは反射的に駆け出していた。


 裸足であるばかりか、まとっているのは就寝用の薄衣ひとつだ。

 こんな姿を男に見られた恥ずかしさもあるし、相手に妙な気を起こされたらという身の危険も感じた。


 それより何より、今日こそは絶対騒ぎを起こしたりしてはいけないという危機感が、カナリエルをすっかり動転させていた。


「お待ちなさい」


 兵士は後からゆっくり歩み寄ってくる。

 崖から飛び降りるのでもなければ山頂に逃げ場などないし、カナリエルが見さかいのない行動に出ないように、できるだけ刺激すまいという男なりの配慮なのかもしれなかったが、彼女にはその態度がかえって追いつめる側の余裕に見えた。


 あせっているために、揺れる胸を隠そうとすればかえってふくらみの豊かさを強調することになったし、相手の視線をさけようと身をくねらせれば、それも艶めいたしぐさになってしまう。

 さらに悪いことに、ちょうど山肌を吹き上げてきた風に軽い薄衣がまくり上げられ、太ももまですっかりあらわになった。


 カナリエルはとうとう大岩に行く手をはばまれ、薄衣のすそをおさえてその場にしゃがみこんでしまった。

 急激な運動と内心の動揺のために、荒い息づかいを抑えられない。

 あえぐその表情や、放心したような眼と半開きになった肉感的な唇までもが男の欲望をかきたててしまうかもしれないとは、まったく気づく余裕もなかった。


 濃紺の軍装の男が眼の前に立ちはだかると、カナリエルの心臓は山岳にとどろく雷鳴のように激しく打った。


「いきなり声をかけて驚かせてしまったようだね。ただ、そんな格好で寒くないのかと言いたかっただけなのだよ」


 面頬のせいでくぐもっていたが、カナリエルには、声の主がこんどはすぐに分かった。


 兵士は軍装とそろいの青い面頬を上げ、カナリエルを安心させようとするように、唇の端をわずかに持ち上げる見慣れた笑みを浮かべた。


「ロッシュさま」

 カナリエルは、相手の名をつぶやいた。


「婚礼の近い御身ですからね。すこしはつつしんでもらわないと。見つけたのが婚約者の私でなかったら、どんな言われようをすることか」


 声は包みこむようなやわらかさだったが、有無を言わせない響きがあった。


 ロッシュがカナリエルの乱れた髪を手ぐしでなでつけ、むきだしになった肩に乱れた薄衣を引き上げてやると、カナリエルはわずかに身震いした。

 ロッシュはそれが、彼女の恥じらいか、さもなければ安心してあらためて寒さを感じたためだろうと思った。


「はい……」


 うなずきはしたものの、カナリエルの表情は固いままだった。


「何を見ていたのですか?」

 ロッシュは、背中からマントをはずしながら問いかけた。


「いえ、べつに――」


 ふり返ってみると、蜜果の色はまだみごとに雲海を染めていたが、雲がさえぎったわけでもないのに、山のあったあたりにはもう何も見えなかった。


「気持ちのよい朝なので、ついふらふらと……ただそれだけですわ」


 マントを肩に着せかけようとするロッシュを制して立ち上がり、カナリエルは岩場に取り付けられた階段のほうへ歩き出した。

 そこから降りるには、縦穴の周囲をぐるりと回りこんでいかなければならない。


 カナリエルは、ごつごつした狭い岩場を身軽に跳びつたっていく。

 マントを手にしたロッシュは、まるで平地を行くような悠然たる足取りでその後につづいた。両者とも有能なスピリチュアルならではの動きだ。

 岩を削った踏み段は半周も降りないうちに尽き、鉄製の階段に変わった。


 日常生活の移動では、通常、二重の螺旋状に配置された居住用ポッド群の中央を貫通している昇降機と、ポッドの間をゆるやかにぬって通る歩廊のウォークを使う。

 昇降機とウォークは放射状に延びるブリッジで接続されている。

 壁面に沿った階段を歩くのは、スピリチュアルに奉仕するために召しかかえられたフィジカルの使用人たちや、ロッシュのような警備にあたる兵士くらいのものだろう。

 手すりはさびだらけで触れる気にならないし、踏み板はがたついている。

 木の板で応急的に補強されている場所さえあった。


 かつては人智の粋を集めて建設された最先端都市だったはずのブランカも、もう十分に古いのだ。

 もっとも安定した形状である球形に成型されたポッドは、今でも心地よく住むことができるが、外装をペイントする塗料は一〇〇年以上前に底をついてしまったという。

 涙が流れた跡のような筋が無数に走り、元は一個一個が鮮やかに色分けされていたことがかろうじて見分けられるていどだ。


 カナリエルがそちらを見ているのに気づいたのか、ロッシュが背後から言った。

「ブランカが螺旋構造をしているいわれを知っていますか?」

「え……いいえ」


 途中の踊り場のひとつに足を止めると、カナリエルのすぐ横にロッシュが立った。


 並ぶと、背丈はカナリエルより楽々頭ひとつ分高い。

 同じくらいの身長があるスピリチュアルの男性はめずらしくないが、もっと筋肉質のごつい体格をしているのがふつうである。

 それがスピリチュアルの理想像だからだ。誕生に際して彼に対する評価がひどく低かったのは、第一にはそのためだろう。


 かといって、ロッシュはひょろっとして頼りないわけではない。

 成長するにつれて均整のとれた身体つきになり、剣技はもちろん、体技においても、すばやい身のこなしと抜群の運動神経が、体力的な不利をおぎなって余りあった。

 入隊前の幼年学校最終学年では、競技会の総合順位を最上位グループまで届かせていた。


 スピリチュアルの長年の価値観を変えるかもしれないとまで評された身体能力に、同世代では並ぶ者のない知性と精神力を同時にそなえている。

 それに加えて、優れた頭脳を容れる器である容貌は、スピリチュアルの娘たちばかりか、ブランカに仕えるフィジカルの女たちにもひと目であこがれの的になるほどだった。


 切れ長の眼、長いまつげ、高く秀でた鼻、つねに薄く笑みを浮かべたような唇。


 ブランカの頂上から射しこむ自然光を浴びてシルエットになっていてさえ、ロッシュの秀麗な特長は、カナリエルにはいくつでも数え上げることができた。


「このデザインは〝DNA〟というものを模したものだそうです。それは、生命の形を決める因子のことらしい。人の顔かたちから、身体能力、あるいは精神の在りようまで、この球体ひとつひとつの組み合わせによって決まるのだと」

「ええ」


 カナリエルはうっとりと聞き入った。

 知的な興味を語るときのロッシュの声の魅力を知る者は、おそらく同世代の女性の中には、カナリエル以外にいないだろう。


「おっと。こんな話なら、あなたのほうが詳しいにきまっていますね。なにしろわれわれの誕生をつかさどっている方々のお一人だ」

「いいえ――」

 そう言ってカナリエルは首を振り、ひと呼吸おいて言葉をついだ。


「わたしも、その程度のことしか知りません。歴代の寮母から寮母へと、精妙な技術は注意深く精確に伝承されてはいますが、その仕組み――理論というのでしょうか、そういうものはとっくの昔に忘れ去られているのですわ。伝承の技術も完璧なものではありません。その証拠に、あなたのように優秀な方の力をちゃんと見抜くこともできなかった。でも、理論が失われた今では、もうこれ以上の改良も進歩も不可能なのです」

「そうだったのですか。いや、それ以上はあなたの大切なお役目にかかわることだ。何も聞かなかったことにしておきましょう」


 ロッシュは話題を打ち切って、ふたたび歩き出そうとした。


「でも……わたしたちは、何をするために生まれてきたのかしら?」

 カナリエルはその場を動かず、さびた手すりを握りしめながら問いかけた。


「え? スピリチュアルの使命のことですか」

「そうかもしれません。だけど、スピリチュアルも人間です。あのへんと、あのへんと、たぶんほんのいくつかの構造を組み替えたにすぎないのよ」


 カナリエルは、眼の前に浮かぶ球体のいくつかを指さした。


 それらがもともとどのような者のDNAの形をどれだけ正確に模したものであれ、建造物としてのポッドのいくつかは、壊れ方がひどくてもう使われていない。

 補修が行き届かなくなったそうした空室の中には、たまにワイヤーが切れて落下してしまうものさえある。


「しかし、その技術のおかげで、われわれは優れた能力と感性を付与されたわけです。それを一人ひとりが活かすことこそ、われわれの生き方でしょう。あなたにしても、私にしても」

 ロッシュは自信にみちた声で言った。


 カナリエルには、ロッシュの言いたいことがわかる。


 ロッシュは、スピリチュアルとしては下位に属する家族から出発して、ここまではい上がってきた。

 しかも悠然と。

 その自信と胸に秘めた理想が、まもなく妻となる皇帝の娘にむかって言わせているのだ。


「そのとおりですね。あなたのおっしゃるとおりだわ」


 カナリエルは、なぜか急に晴れ晴れとした笑みを浮かべ、ロッシュのわきをすり抜けて階段を駆け下りていった。

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