第一章 2 マザー・ミランディア

 しかし、着替えには思ったより時間がかかった。


 活動的なものを着ようと選びはじめたが、軍装はスピリチュアルの成人全員に支給されているものの、女性では特別な場合にしか着用しないものだし、かといって今日は生命回廊の仕事着ではまずいのだった。

 途中でだれと顔を合わせるかわからないことを考えると、けっきょく何気ない普段着に落ち着いた。

 はきものだけは、後で取り替えられるように戸外用のブーツを袋に入れていくことにする。


 見つかってしまった相手が婚約者のロッシュだったのは、はたしてよかったのだろうか?

 と、カナリエルは自問した。


 騒ぎにならなかったのはたしかに幸運だったが、ロッシュにはこの後きっとひどい恨みをかうにちがいないのだ。

 それに、何か感づかれてはいないだろうか。すっきりとした気分でいたかったのに……。


 身も心も清めるつもりで、シャワーを浴びた。

 鏡に映った裸体は、自分でも惚れ惚れするほど美しく、みごとに均整がとれている。

 抜けるように白いつややかな肌と、手入れの行き届いた長い髪。ロッシュと並んでもけっして見劣りしない、魅力的な容姿の娘がそこに立っていた。

 ロッシュがスピリチュアル男性の新しい理想像なら、カナリエルはスピリチュアルの伝統である完璧な女性美をほめそやされてきたのだ。


(いいえ、もう今日限り、そういうわたしは捨てるのよ)


 心の中でつぶやくと、ふと思い立って髪を上げてまとめることにした。

 すこしきつめにしてひたいの上に髪留めをさすと、見た目だけでも活動的になった。

 それよりも、気持ちがしゃんとして引き締まったような気がする。

 これで準備はできた。


 部屋のドアをロックし、急ぎ足でブリッジを渡った。

 ブランカをささえる幹にあたる巨大な円柱の中を、六機の昇降機が通っている。

 大支柱の開口部に入り、迎えに来る昇降機を指定するボタンを叩きつけるように押した。

 カナリエルが選んだのは、最上位階級の専用機だ。


(どうか知った人が乗っていませんように……)

 と祈ると、自分がひどく緊張しているのがわかった。


「まあ、カナリエルではありませんか」


 背後から呼びかけられて、カナリエルは跳び上がりそうになった。


「結婚式はいつ? ……そう、一〇日後ね……衣装はどんな? ……ああ、それはいいわね。あなたにはきっとお似合いよ。ところで……」


 相手に適当に何かを受け応えしている自分の声は、まるで他人のもののようだった。


 近くの部屋に住む元大臣の妻は、先に到着した別の昇降機に乗り、カナリエルはやっとのことで解放された。


 専用機は使う者の数がかぎられていると考えたのだが、もし乗り合わせる人がいたら、また顔見知りにきまっている。

 自分も別の昇降機を呼ぼうかと迷いはじめたとき、やっと専用機の接近を示すランプが点滅した。


 さいわいなことに、到着した昇降機は無人だった。

 急いで乗りこみ、階数ではなく特別なコードを手ばやくキーパネルに打ちこむ。

 ドアが閉じてしまうと、思わずホーッと長いため息が出た。

 これで昇降機は途中のどの階にも止まらず、ノンストップで目的地までカナリエルを連れていってくれることになる。


 ドアの反対側が外に面していてガラス張りになっているため、通過していく階層の変化がはっきりと見てとれる。

 ポッドと呼ばれる球体の構造物が螺旋状に並んでいる光景は同じだが、むき出しの岩壁に取りつけられた照明が徐々にきつく輝きだすのは、下層にいくにつれて自然光が届きにくくなるのをおぎなうためだろう。


 完全なる都市――


 ブランカはそう呼ばれている。

 いや、ずっとそう呼ばれていた。

 たしかに、今やスピリチュアルの帝国が制圧しつつある広大な版図のどこよりも、ここは素晴らしい設備と理性的な文化を維持している場所であるにちがいない。

 しかし、それは、今よりはるか以前の時代に作り上げられたものだ。


 そして、理想といい、伝統といい、使命と呼んでいるが、だれがそれを唱え、作り上げたものなのか。


 ここブランカは、数か月前から、ついに達成されようとしている征覇と理想の実現に高揚した気分に満たされている。

 政治と軍事の中心として確固たる地位を築きつつある帝都アンジェリクでは、もっと眼に見える形で沸き立っていることだろう。


 その中で、カナリエルはたぶん、ただひとり違和感を感じてきた。

 帝国をささえる理念を否定するような理論があるわけでもないし、理想の実現に邁進するスピリチュアルの同胞たちにあえて異を唱えるつもりもない。

 しかし、その一員であることが、しだいに耐えられなくなってきたのだ。


 こんなところにはもう住みたくない――そう思うのは自分の思い上がりだろうか、とカナリエルは自問した。


 結婚すれば、カナリエルはロッシュとともに、今降りてきたばかりの部屋からいくつも離れていない家族用のポッドへ入居することになっていた。

 そこはたしかに快適だけれども、裏返せば、自然光の届かないような場所に住む多くの人々の犠牲の上に確保された快適さである。

 ロッシュが育ち、今でも住んでいるのはそういう場所だった。


(いいえ。どんな階層だろうと、わたしはもうここにいたくないわ)


 昇降機はさらに下降をつづけ、最下層部へ近づいていく。


 眼下には、高さも形もふぞろいな、密集した高層バラックが見えてきた。

 それらは、本来のブランカのデザインにはなかったもので、増えつづけるフィジカルの奉公人たちが、自らの手で必要に応じて建て増ししてきたものだという。

 ここで生まれた彼らの子どもたちが迷路のような狭い路地で遊んでいたり、洗濯物があちこちの窓から無数にひるがえっていたりした。


 高層バラックが建つ土台にあたる都市の基盤を過ぎても、昇降機は下りつづける。


 暗いトンネル状の地下には、さまざまな収蔵庫、フィジカルたちの作業場、飛空艦の格納庫などが、まだ何層も連なっている。

 そういったもののさらに下、本当の最下層には地熱発電所があり、ブランカの生活のすべてを文字どおりささえている。

 カナリエルの目的地は、そのひとつ上にあった。


(この昇降機を出た瞬間、わたしは、今見てきたものをすべて捨て去って、そして……自由の身になるのよ!)


 昇降機が止まった。

 扉はゆっくりと開いたが、そこは、カナリエルのたかぶる期待とは裏腹に、やはり地底の漆黒の闇に閉ざされていた。


「カナリエルね。今明かりをつけるわ」


 その声が言った明かりというのは、手提げの小さな発光器のことだった。

 厚いフードを目深に下ろした人物が、青白い光の中に浮かび上がった。


「母上……」

「ここでは寮母と呼びなさい」

「すみません、マザー・ミランディア」

「このところ、あなたは謝ってばかりですね。もうその言葉はいいわ。あなたの足が前に進まなくなりますよ」

「すみません」


 寮母はホホホとさもおかしそうに笑い、カナリエルについて来るようにうながした。


 地上部分とはちがい、昇降機前のホールには重厚な大扉が立ちはだかっている。

 腹にひびくような重いきしみ音をたてて扉が開き、また別の暗さをたたえた広い空間に出た。


 照明をすべて点灯しているときでさえ、どこか寒々しさの残る場所だが、揺れる発光器のたよりない光のもとでは、またちがった冷たさと静寂の印象があった。

 生命の誕生を予感させるような気配は、みじんも感じられない。


 カナリエルの日常は、スピリチュアルの若い世代から選ばれた数人の女性たちとともに、寮母の指示に従ってここでさまざまな仕事をこなすことだった。


 器具や道具類を運び、大小さまざまな容器を洗浄し、計器の数値を読み、時間を測り、何種類もの薬品を調合し、あるいは投与し……環境をととのえる基本的な作業から、精妙な操作、的確な判断にいたるまで、そうしたことを丹念にくり返すことによって、生命を生み出す神秘的な行為をつかさどる技術を学んでいく。


 カナリエルにとって、ここはブランカの中でもっともなじみ深く、充実した時間を送ってきた場所なのだった。


 しかし、今日という日に見るこの場所は、ふだんとはまったく異質なもののように思える。

 照明が落とされているとか、同僚のシスターたちの声や作業の物音がいっさい途絶えているということもあるが、おそらくいちばんの原因がカナリエル自身の気持ちであることはまちがいなかった。


 コツ、コツ、コツ――


 横手から軍靴のものらしい硬い足音が近づいてくる。

 カナリエルは、ギクリとしてそちらのほうをふり返った。


「――寮母さま。例の者を連れてまいりました」


 青い軍装であることから、その男がスピリチュアルの兵士であることがわかった。


 しかし、寮母がかかげた発光器の淡い光の輪に入ってきたのは、兵士一人ではなかった。

 それなりに背丈のある兵士よりさらに頭ひとつ上回る、小山のような巨体の男が、後方にのっそりとつき従っていた。


「マザー・ミランディア。いいのですか、このような者を生命回廊の中に入れて!」

 カナリエルは思わず大きな声を上げてしまった。


 髪はぼさぼさに乱れたまま、荒縄のようなものでひたいの上で縛ってあるだけ。

 顔はいちおう剃った形跡はあるが、すでに青黒い無精ひげにおおわれかかっている。


 体毛の濃くないスピリチュアルの男性しか見慣れていないカナリエルの眼には、まるで化け物か野獣のように映った。

 日焼けしたむきだしの腕や脚の色も、白くてなめらかな肌をしたスピリチュアルとはかけはなれたものだった。


「ですが、ご指示のとおり、この者には、昨夜のうちに沐浴させ、洗いたての服を着せてまいりました。入口の汚染度測定器の数値も問題ありませんが……」

 兵士はひどく恐縮して、カナリエルのほうを横眼でおずおずと盗み見しながら弁解するように寮母に告げた。


「そういうことじゃありません。ここはブランカの神聖な、いわば胎内にあたるところ。男子禁制の場所ではありませんか」

 カナリエルが言いつのると、兵士はますます困惑の表情になった。


「よいのです、カナリエル。わたくしがそう指示しました。でも、スピリチュアルの男子が出入り禁止なのはたしかね。ファロン、あなたはもう下がってよろしい」

 寮母の声だけは落ち着きはらっていた。


 こんどは、兵士が驚いて眼をむく番だった。

「この者を置いてですか? そ、そのような危険なことは――」

「かまいませぬ。何か異常が起これば呼びます。出口の外で待機していなさい」


 兵士は、ひと呼吸おいてからためらいがちにうなずき、フィジカルの大男の背後に隠れようとでもするかのように後ずさり、足早に闇のむこうに姿を消した。


「寮母さま。もしかして、この男がわたしの……?」


 カナリエルは眼を丸くして大男を見上げた。


「そのとおり。あなたを連れて逃げてくれる者。ゴドフロアという名です」

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