序 章 3 おやじ? お父さん? 父上?

 こんな場合だというのに、ゴドフロアはにっこりといかつい顔をゆるめた。


「おまえは逃げなかったな、マチウ。それでこそおれの娘だ」


 マチウは、そんなことはどうでもいいというふうに首を横に振り、頭上を指さした。


 かがり火に照らされて、真上に飛空艦に吊られたゴンドラの腹が見えている。

 さかんに硝煙が吹き出しているのは、側面に並んだ窓からだ。

 真下にいる二人に気づいている者はほとんどいない。あわてて逃げないほうがむしろ安全だったのだ。


「なるほどな」

 ゴドフロアは、マチウの冷静さに舌を巻いた。


「ちがうよ。あそこに、ロープが見えるだろ?」


 マチウが指さしたのは、ゴンドラの腹にぶら下がっているロープのことだった。


 着陸の際に艦体を地上の固定物に引っかけるためのものか、さもなければ、スピリチュアルの兵士たちがそれをつたって戦場につぎつぎ降下するためのものかもしれない。

 二本のロープが平行して水平に架け渡されている。


「まさか――」


「行くよ。あたしの身の軽さは知ってるよね」


 ゴドフロアがしぶしぶうなずき返すやいなや、マチウは助走をつけてゴドフロアの巨体めがけて跳躍した。


 ゴドフロアはその身体を受けとめ、ひしっと抱きしめると、思わずいかつい顔がゆるんで父親らしい表情になった。


「ばか、感激の対面をやってる場合じゃないんだよ」

「わかってるさ。だが、ちょっとくらいいいだろ。おまえ、しばらく会わない間にずいぶん大きくなったんだな」


 マチウは、無理やり頬ずりしようとするゴドフロアの厚い胸板を突き飛ばし、スタッと地上に降り立った。

 すねたように口をとがらせたその顔が、横からのかがり火に照らされてちょっと赤らんで見えた。


「もう一回」


 ふたたび助走に入ると、こんどはゴドフロアも腰をかがめ、足を踏んばってマチウを待つ体勢をとった。


 マチウは跳躍し、両手の指をしっかり組んだゴドフロアの手のひらを足がかりにして、さらに高く跳び上がる。

 ゴドフロアは絶妙なタイミングで両腕を振り上げ、マチウの身体を投げ上げた。


 マチウはゆっくりと優美に回転しながら宙を舞い、頂点に達したところでみごとにロープの一本に片手でぶら下がった。


 付近の岩陰に避難してとどまっていた兵士たちが、それを見てドッとわき返る。


「おい、こっちもロープだ」


 マチウを投げ上げるとすぐ、ゴドフロアは叫びながら一直線に岩陰の兵士たちのもとへ駆け寄った。

 ゴンドラの真下から跳び出してきたゴドフロアにむかってつぎつぎ弾丸が飛来し、間一髪のところで後方の地面をビシビシとうがった。


「もっと長くつなげ。そして、端っこをそこの大岩にくくりつけるんだ!」


 どういうことかわからずにのろのろとロープの束を取り出した兵士に、怒鳴りつけるように命令する。


「マチウ、いくぞ」


 銃撃の間隙をぬってゴドフロアが投げ上げたロープの束は、スルスルとほどけながら飛び、マチウはうまくその端をつかんだ。


「おやじ、もう一本」

「無理するな」

「いいから!」


 言い合いをするゴドフロアの後ろに、別のロープを延ばしながら兵士が駆け寄ってきた。

 飛空艦を巨岩につなぎ留めてしまおうというゴドフロア父娘のとんでもないもくろみに、ほかの者もようやく気がついたのだ。


 マチウは、ぶらさがったままで手ばやく最初のロープをゴンドラのものに結びつけ、二本めを受け取る体勢をとった。


 そのときだった。


「ほう。若い娘ではないか」


 まるで耳元でささやきかけるような落ち着きはらったその声に、マチウは思わずビクッと身を震わせてふりあおいだ。


 頭上に人影があった。

 ゴンドラの下に架け渡されたロープの上に立っている。

 しかも、何のささえもなしに。


「その勇気、ほめてやりたいところだが、いたずらはいけないな」


 からかうような口調は若い男のものだった。

 身体にぴったりした白づくめの軍服を着こみ、背中には、地位の高さを象徴するような、こちらも白いマントをはおっている。


 男がスラリと細身の剣を抜き放ったと思うと、つぎの瞬間、マチウがこしらえたばかりのロープの結び目がきれいにはじけ飛んでいた。


 切られたロープがむなしく地面に落ちてくると、地上軍の中から腹立ちまぎれにゴンドラにむけていくつもの発砲音が上がった。


「やめろ。あの子に当たっちまうぞ!」


 だれかが叫び、銃撃はたちまち止んだ。

 いつのまにか飛空艦のゴンドラからの銃声も絶えている。


「ほら、みなが心配しているぞ。私も無用な恨みはかいたくない。おとなしく飛び降りて、だれかに受けとめてもらうがいい」


 言い聞かせるようにそう言い放つと、男は優美なしぐさで剣をおさめ、くるりと身をひるがえしてすべるような軽い足取りでロープの上を歩きだした。


「待て!」


 若い娘の澄んだ高い声が響きわたった。


 それにつづいて、地上の全軍からさきほどに倍する驚愕の声がドッと上がった。


 男は、自分の身軽さに対する驚きだろうと苦笑を浮かべたが、背後にふと奇妙な気配を感じてふり返った。


 数歩離れたロープの上に、なんと、若い娘が立っていたのだ。

 ささえがないのも、やっとバランスをとっているのでないのも、まったく男と同じだった。


 少女はさらに、背中に背負っていた短めの剣を抜き、その切っ先をまっすぐ男にむかって突きつけた。


「むちゃだ、マチウ。そいつは、おまえがかなうような相手じゃないよ!」


 下から叫んだのは、ゴドフロアではなかった。

 岩陰から飛び出してきた、商人風の服装のひょろりとした長髪の若者だ。


 深いつば広の革帽子をむしりとるように脱ぎ、マチウの注意を引こうとそれを夢中でうち振りながら、飛空艦の真下へ走り寄った。

 彼女と連れ立って崖を登ってきた男だ。

 自分がゴンドラから狙い撃ちされる危険性に気をまわすような余裕はまるでなく、ひたすら少女のことだけを気づかっておろおろしている。


「うるさい。お父さんは引っこんでて。そっちこそあぶないよ!」

 マチウが、その声にむかって言い返した。


 さきほどからかがり火の近くにいた者たちは、二人のやり取りに当惑して、若者とゴドフロアを交互に見やった。


 ――おやじ? お父さん?


 ゴドフロアの顔にも当惑の表情が浮かんでいる。


 少女はさらに、驚くべき言葉を発した。

「あなたのことは憶えてるわ」


 その大きな眼は、スピリチュアルの男をひたと見すえていた。


「母の仇よ。そうよね、〝父上〟――」

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