第六章 5 悲劇の誕生

 ゴドフロアとカナリエルの馬は、折り重なるように草の上に倒れこんでいった。


 勢いで行き過ぎてしまったステファンとフィオナは、あわてて馬首を返して二人のところへ駆けもどった。

 カナリエルの馬はひと声いなないて立ち上がったが、投げ出されたゴドフロアとカナリエルはそのまま動かず、横倒しになったゴドフロアの馬は力なくあがくだけだった。


「どうしたんだ!」

 ステファンは、馬の上から怒鳴るようにゴドフロアに呼びかけた。

 立ち上がれないゴドフロアの馬は、後ろ脚に弾丸を受けていた。


 フィオナは馬から飛び降りてカナリエルを助け起こしたが、カナリエルはフィオナの手を振り払い、ゴドフロアのほうへとはい進んでいく。

「カプセルを……」

 かすれた声で言い、震える手を差しのばした。


 ゴドフロアは、ううんとうめいて身体を起こそうとした。

 そこで、落馬したときに背中から斜めにずれたカプセルの上部にあるランプが、赤く点滅していることに初めて気づいた。

 ゆっくり起き上がると、壊れものをあつかうように慎重にロープをほどき、カプセルをそっと草の上に横たえた。


「何が起こったんだい?」

 ステファンがつぶやいたが、カナリエルはもどかしそうにカプセルを包んだ布をはずそうとしているし、ゴドフロアは一歩下がって呆然と立ちつくしているばかりだ。


 ステファンは、ハッと息をのんだ。

 カナリエルがまとったフィジカルの作業着の背中に、徐々に黒いしみが広がっていっていた。

 地味な色の生地であることと、草の上に倒れたときに朝つゆに濡れたせいでわかりにくかったが、そこに広がりつつあるものは、カナリエルの身体からしみ出してきたものだった。


「カナリエル……」

 ステファンは馬を降り、よろめくような足どりでカナリエルの後ろに立った。

 フィオナはステファンのただならぬ様子に気おされ、場所をゆずった。


 だが、カナリエルは、自分に起こった異変になどまったく気づいてもいないように、夢中でカプセルの上部に仕込まれた装置を操作している。

 すると、どういう仕掛けになっているのか、赤い点滅が消えると同時に、カプセルの左右に直線の白い亀裂が現れた。

 カナリエルが手を触れると、透明な上半分がふたのようにスッと持ち上がり、中に満たされていた液体が、カプセルの両端に開いた小さな穴からゴボゴボとこぼれ出した。


「目を……さまして」

 カナリエルは、中に横たわった女の子に顔を寄せ、液体で濡れた髪を震える手でなでつけてやりながら、そっとささやきかけた。

「どうか、眼をあけてちょうだい。わたしの……娘よ」


 深い闇の底から、ゆっくりとその意識は浮かび上がってきた。

 光の中に現れ出たいという根源的な衝動と、自らの存在を外にさらすことの不安をともに抱えながら、それはずっと昇りつづけた。


 覚醒する以前の意識は――眠りから目覚める前のあらゆる意識がそうであるように――眼を開いた瞬間にどんな光景が広がるかということに、心構えができていないものだ。

 驚きとともに眼にしたはずの最初の光景がいかに鮮烈なものだったか、ふつうの人間で憶えている者はまずいない。

 だが、今現れ出ようとしているこの意識には、それを記憶する能力と、いわば〝受け入れる心構え〟がそなわっていた。

 腕をいっぱいに広げるようにして、意識は光の中へと飛び出していった。

 花びらがほころんでいくように開いた小さな眼に、世界は雨上がりのくっきりとして広大な空間として現れた。


「……わたしの、娘よ」

 初めて眼にする動くものは、必死に何かを訴えようとするように、声をしぼった。

 ぼさぼさに乱れた長い髪が眼とひたいにかかり、風になぶられてはためていた。

 苦しそうに顔をしかめる瞬間もあったが、こちらをのぞきこむ碧い瞳は、またもうひとつ別の世界への入口のような神秘をたたえていた。


 生まれたばかりの意識は、それを〝美しい〟と認識した。

 もちろん、記憶に焼きついた光景を、後になって思い浮かべながら言葉に置き換えたものだが、その瞬間に感じたのはまさにそう言い表すしかない感覚だった。


「あなたの名は、マチウ……わたしは、あなたの母親です」

 美しいものが、つづけてそう口にしたことを憶えている。

〝母親〟はそこでついに力つき、カプセルの上にがっくりと顔を伏せてしまった。


 しかし、そのむこうにふたたび開けた光景の中に、まだほかに動くものが見えた。


 驚くほど巨大なたくましい体躯をしたものと、長い黒髪にくるくるよく動く眼をしたものが、呆然と立ちつくしていた。

 そして、その二人の間に、ずっとむこうから歩いてくる、いかめしい装備に身を固めた長身のものが見えた。


 自分を〝マチウ〟だと了解したその意識は、三つの動くものの姿を視界にとらえ、それらもまた美しいものと同様に自分の〝親〟だ、と認識したのだった。


 ゴドフロアは、カプセルにすがりつくようにして倒れているカナリエルをそっと仰向けにし、のど元に指を当てて脈をみた。そして、力なく首を横に振った。

「そ、そんな……」

 ステファンはがっくりとひざを折ってしゃがみこんだ。

 ゴドフロアは胸の奥からこみ上げてくるものを懸命に抑えながら、カプセルを包んでいた布を二つに裂き、大きなほうでカナリエルをおおった。


 そして、カプセルの中をのぞきこんだ。

 そこには、澄んだ眼をはっきりと開いた裸の女の子が横たわっていた。

 ゴドフロアを見てわずかに身じろぎしたが、ゴドフロアが予想していたとおり、泣きもしなければ、まったくおびえた様子も見せなかった。

 すくい上げるように抱き上げ、もう一枚の布でくるみこんだ。


 そのとき、背後から人の影が射した。

「カナリエルは……」

 ロッシュの声だった。


 ゴドフロアは子どもを腕にかかえ、ロッシュをふり返ってゆっくりと首を振った。

「おまえが、殺した」

 カナリエルの遺体を巨体の後ろにかばうようにして立ち上がり、ロッシュが構えている銃を軽蔑のまなざしでにらみつけた。


「私では……ない」

 ロッシュは唇を噛みしめ、信じられないといったおももちで首を振った。


 カナリエルがロッシュの照準器の中にいきなり飛びこんできたわけが、ようやくわかった。

 カプセルの中の子どもが、ちょうど誕生の瞬間を迎えてしまったのだ。

 ブランカにいるのなら、結婚の日に合わせてうまくそれを調整することもできるのだろうが、さまざまな装置から切り離されてからもう何日も過ぎている。

 男のロッシュにくわしいことはわからないが、フィジカルの赤ん坊が月が満ちて生まれ出てくるのと同じように、自然にその瞬間が訪れ、カプセルから出してやらなければならなくなったのだろうと推察できた。


 しかし、あまりにもめぐってきた時期が悪かった。

 一刻を争って逃走する最中だったのだ。

 それにもかかわらず、ただちに処置をほどこさなければ、子どもの命が危険にさらされることになったということだ。


 だが、ロッシュは断じて、自分がカナリエルを射ったとは信じられなかった。


「何と言い訳しようが、おまえはカナリエルを殺した。そのうえこんどは、この子の命まで奪うつもりか」

 ゴドフロアが宣告するように言うと、ロッシュはまた力なく首を振って言った。

「その子は、カナリエルの顔を見たのか?」

 ゴドフロアは黙ってうなずいた。

「そうか……」


 ロッシュは突きつけていた銃口を下げると、ゴドフロアとステファンの間を強引にすり抜けて、カナリエルの遺体の横にひざまずいた。

 ただでさえ抜けるように白いカナリエルのきれいな顔が、今は血の気を失って冷たい雪を思わせる白さをたたえていた。

 ロッシュは、スピリチュアルの流儀に従ってカナリエルの手を両手で包みこむようにして、祈りとともにせいいっぱいの気を送ったが、もはや命を呼びもどすことはできず、それは惜別のしぐさにしかならなかった。


「その子は……このカナリエルを母親と信じて育っていく」

 背中を向けたその姿勢のまま、ロッシュはゴドフロアに言った。

「わかるか? 二度と抱いてくれないカナリエルの幻だけを母親の面影として、これからずっと生きていくことになるのだ」

「……知ってる。その仕組みのことは聞いた」

 ゴドフロアは、ボソッとぶっきらぼうに答えた。


「そうか。なら……行くがいい」

 ロッシュがつぶやくように言った。

「何だと?」

「ブランカに連れ帰ったところで、その子を待っているのは、どこを探しても親の姿がないという孤独の境涯だ。……その子の心には、生きているカナリエルの姿が宿ったのだ。代わりに、カナリエルの願いをかなえてやってくれ」

「ロッシュ――」

 ゴドフロアは驚いて、後につづける言葉が見つからなかった。


「さっさと行け。すぐにも追跡隊や盗賊どもがやって来る。けっしてだれにも渡すな」

 ロッシュは言うと、いきなり銃を頭上にむけ、呆然とするゴドフロアたちを威嚇するように発砲した。


 ズキュウウウウウウン――


 至近距離の破裂音が鼓膜と皮膚をチリチリ震わせ、沈鬱な空気を一掃した。

 ステファンが弾かれたように立ち上がり、フィオナの手を取って前方に立ちつくしている馬たちのほうへむかって駆け出した。


 ゴドフロアは子どもを抱え直すと、ロッシュをもう一度ふり返り、そして吊り橋に向かったステファンたちを追った。

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